ハーバード大学の学部入試でアジア系に対する差別があったのではないかという話を聞いた人は多いかもしれない、実際に大学を相手にとって裁判が起こっている(wiki)。試験の点数で勝負する東アジアとは異なり、アメリカの多くの大学では綺麗目に言えば「ホリスティック」、つまり試験の点数以外の部分を総合的に評価する入試制度をとっている。しかし、裏を返すとこの選抜方法はブラックボックスになりがちで(課外活動に対してSAT何点分加点、みたいなシステムではない)、大学が理想とするような人口構成になるように、恣意的に選抜が行われる側面がある(もちろん、試験がどの人間にとっても平等にできているかというとそうではないので、究極的には全ての選抜制度は選抜者の恣意性を拭えない)。アジア系が差別されているのではないか、というのは何も人種によるクオータが導入されているという話に限らず、試験よりも寄付金を見込んで親族が当該大学を卒業した場合に優遇するレガシー制度を重視すると、結果的に試験の点数が高い傾向にある一方でレガシーの恩恵を受けられないアジア系を割りを食うという可能性もある(関連のNBERペーパー)。仮にこれが事実だとすると、アイビーリーグはエリートの再生産機関といえるかもしれない。
日本だと少し考えにくいかもしれないが、アメリカではエリート大学への進学が人種の格差と相まって(特に高学歴層にとっては)社会問題になっている。レガシーを肯定するか、しないかは一種の政治的な立場にもなっている。
なぜアイビーリーグに代表されるアメリカのエリート大学がこのような問題含みの選抜制度を作るに至ったのか、その答えを提供してくれるのが、ハーバード、イェール、プリンストン、いわゆるBig3の選抜制度の歴史を丹念に紐解いたジェローム・カラベルによるThe Chosenである。
この本では、Big3に代表されるアメリカのエリート大学は、当初プロテスタントのアングロサクソン系白人男性(WASP)の子弟を教育するための機関だったこと、しかし20世期に入って学業成績に勝るユダヤ系が多く入学するいわゆる「ユダヤ人問題」に直面した大学は、WASPの子弟を優遇するためのレガシー制度を導入したこと、戦後のリベラリズムの中で、大学側も選抜制度を変えてより社会経済的背景が「多様な」学生を入学させる必要性が出てきたことなどが丁寧に書かれている。
結論部で、カラベルは現在のBig3の学生構成は(1)レガシー制度の恩恵を受けて一族代々同じ大学に進学する特権層(多くが白人)(2)学業成績などを生かしてエリート大学に新規参入する層(白人女性、アジア系)そして(3)歴史的に差別を受けてきたマイノリティ(黒人、ネイティブアメリカン)の三つに分類されるとしている。この三つの経路から入学してくる学生をバランスよく混在させるのが、現在のアイビーリーグが目指している「多様性」となる。ちなみに、(1)の層でも一応学業成績は必要なので、勉強ができない特権層が入り込む余地はない(ブッシュみたいな例外はあるかもしれない…)。したがって、いくらレガシーで有利とは言っても、特権層の子弟たちもそれなりにきちんとしたCVを作らねばならず、裕福な親たちが課外活動やサマーキャンプ、留学などに投資をすることで自分の子どもたちをエリート大学に入学させようとしているとカラベルは指摘している。この辺りは、東アジアに典型的な学校外教育投資の影が見えるところである。
以上を踏まえれば、アイビーリーグは多少生まれの不平等を考慮した入試制度へ移行しつつはあるが、総じてみれば試験制度のみで選抜する大学に比べると、まだまだエリートの再生産機関と言えるかもしれない。もちろん、試験制度のみでもエリートの再生産は生じるうるが、この辺りは割愛する。
ただし、教育格差をより広い視点で見てみると、アメリカはそこまで教育が生まれの格差を再生産する国ではないことがわかる。アメリカの教育制度は早期に生徒の進路を決めず、学校の中で成績による習熟度クラスがあるくらいで、専門を決めるのは高等教育に入ってからになる。これに対して、ドイツに代表されるような早期に生徒の進路を職業トラックなのか、アカデミックトラックなのかを決める国の方が、より親の階層の影響が強く出ることが指摘されている(Bol and van de Werfhorst 2013)。日本のような医学部がないアメリカでは、学部段階の進学先が職業に直結することもない。
このように考えると、課外教育などにお金をかけて、子どもをアイビーリーグの大学に入れたがる親の動機は何なのだろうか?という疑問が出てくる。
一番簡単な回答は、特定の職業に結びつかなくても、エリート大学に進学することが子どもの将来にとってペイするからだろう。直感的に考えても、同じ大学でもハーバードに進学するのと、地方の州立大学に進学するのとでは、将来の所得は違ってきそうである。
しかし実は、話はそこまで単純ではない。エリート大学に進学する子弟は学業成績も高く、別にエリート大学に進学しなくても将来同じような所得を得られる可能性もあるからだ。因果推論の話に入ってくるが、大学進学を操作することはできないので、多くの研究は観察データからエリート大学のペイを測定する。これに対して、同じ観察データだが大学受験記録を集めたデータセットを使って、「限りなく能力が近しい異なる個人間で、エリート大学とそうでない大学に行くことが将来の所得の違いを説明するか」を検討したのがDale and Krueger(2002)であり、この手の研究で引用されないことはない。我々の直感に反するかもしれないが、彼らの結論はエリート大学に進学することによって得られる追加的なペイはないというものだった(その後色々追試があったりして結果はまちまちだが、基本的には思っているほど利益はないという論調だと理解している)。
この結論は悩ましい。この研究結果は、なぜ親は子どもをエリート大学に進学させたがるのか(あるいは子どもが目指したがるのか)に対して答えを提示するよりも、むしろ彼らの進学行動が経済的にはあまり合理的ではない、という示唆を与えるからである。
もちろん、エリート大学へのペイは賃金に限らないかもしれない。社会的なネットワークが違ってくるのかもしれないし、結婚相手も違うだろう、もっと文化的な威信を獲得したいのかもしれない。今のところ、しっかりとした「なぜ」に対する答えは見つけられていないが、先述のカラベルはDale and Krueger(2002)の研究を引用した箇所で、やや社会学的な一言を放っている。
In recent decades, competition for entry to the Big Three and other selective colleges has become so fierce and the public's obsession with these institutions so great that it has spawned an entire industry - a sprawling complex that includes coaching companies, guidebooks, private tutors, summer camps, software packages, and private counselors who charge fees up to $29,000 per student. Beneath this industry is the belief- corroborated by a wide body of research - that attending a "prestige" college will confer important benefits later in life. (p.3 強調は筆者)
アメリカのエリートの多くはアイビーリーグ、特にBig3出身者が占めている。もしかしたらそのエリートたちは違う大学に進学しても同じような地位を得たのかもしれないが、人々はエリートに占めるこれら大学出身者を見て、「エリート大学に進学することがエリートへの近道だ」という「信念」を形成するのかもしれない。実際にペイするかどうかは別として、この信念が、進学行動を動機づけていると考えるのは飛躍があるだろうか。
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