June 18, 2012

既読論文

論文中心にシフトしています。最近感じるけど、文献後続のゼミより、発表形式のゼミをもっと増やしてほしいな。

亀田 晃一, 2007, 豪雨災害における災害情報伝達に関する社会学的考察, 地域政策科学研究

 社会調査実習で社会関係資本が市民活動のパフォーマンスにもたらす影響を聞く質問事項を作る必要があるため読んでみた。

 まず、亀田氏の経歴が面白い。地元の放送局の気象予報士から鹿児島大学の博士課程に入ったようで、この論文も気象予報士としての経験から書かれたように思われる。

 ラザーズフェルドが打ち出したコミュニケーションの二段流れの理論を応用しながら、行政やマスコミによるトップダウン型の災害情報伝達の限界性を指摘、住民レベルのボトムアップ型の情報共有の必要性を説く。その際に重要になってくるのがラザーズフェルドの主張した「オピニオンリーダー」で、筆者は災害情報を細かくチェックしている住民の存在が情報伝達の際に不可欠という仮説を立て、実例を提示している。
 ただ、そうしたオピニオンリーダーが機能するためには社会関係資本が機能していなくてはならない。そういう文脈で、SCを持ち出してきて、新鮮でした。


筒井淳也, 2007, ソーシャル・キャピタル理論の理論的位置づけ: 効率性と公平性の観点から, 立命館産業社会学論集, 42(4), pp.123-135
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/ss/sansharonshu/424pdf/02-06.pdf

 個人が持つ資本としての社会関係資本を主張したナン・リンの著作を訳したこともある立命の筒井氏によるSC理論の問題点を指摘している。
 特に、密な社会関係資本の結果である集合材としての公共財たる地域活動への参加(夜回りが例に挙げられている)については、パットナムによる肯定的な評価がなされているが、筒井氏はそうした活動には住民の中の誰かが労働力を供出することが必要になってくるため、コミュニティレベルの社会関係資本には社会的ジレンマが伴う、という指摘は面白い。
 結局、町のためになることを誰かがすれば、そりゃ住みやすくなるのだろうが、現実問題としてだれがやるかというプロセスについては捨象されているだろう。


伊藤美登里, 2008, U.ベックの個人化論, 社会学評論, 59(2), pp.316-330

 ベックの個人化概念の類型化を試みている。彼の個人化論は社会と個人の関係がいかに変容したのかという<時代診断>としての側面が強いという。
 現在、出口ゼミでグローバリゼーションと事故論の関係について論じたA.エリオットという学者の文献を購読しているが、エリオットはベックがあまり言及しなかった<規範的要請>としての個人化論を述べている。すなわち、後期近代に置けるグローバリゼーションが個人の現実認識や態度にどのような影響を与えたのか、という側面に注意を払っている。フロイトなども交え、個人の真理を社会学概念との応答によって明らかに使用としている著作なのでこのようになっているのだろう。エリオットとベックの個人化論の違いが分かったのが個人的な収穫だった。

June 17, 2012

書評

【文献】
Habermas, Jürgen, 1962=1990, Srtukturwandel der Öffentlichkeit, (=1994, 細谷貞雄・山田正行訳『公共性の構造転換 第二版』, 未來社)

【要旨】
 国家と社会の分離に基礎付けられる市民的公共性の理念型は18世紀及び19世紀のイギリス、フランス、ドイツに見ることができる。出版技術の発展に支えられ誕生した「議論する公衆」は、しかし、その後の後期資本主義の時代において、国家が市民社会を侵略する「社会の国家化」及びマス・コミュニケーションの発達によって「文化を消費する公衆」へと変貌した(公共性の構造転換!)。このような現代において公共性を実現するためには、それぞれの組織内部に所属する諸個人がコミュニケーション的自由による批判的公開性を発展させ、国家と組織の間の権力交換を制御していくことが必要になる。(第一版)
 20世紀末の中欧・東欧における「遅ればせの革命」が示した公衆の新たな可能性は、政治に活動的に関わる公衆から私生活中心主義の公衆という直線的な見方に修正を促す。政治的意思決定のための言説空間の形成を「非国家的・非経済的な結合関係」という市民社会の新たな中核が成し遂げるとき、コミュニケーション権力による新たな公共性が現れる。(第二版 序文)

【コメント】
 ハーバーマスの政治的公共性について論じたこの著作の主張は、初版から約30年経って再版された第二版序文で大きく修正されている(さはあれ、序文以降については初版のままである。)彼は当初、市民社会(Zivilgesellshaft)の国家による介入(社会国家化)によって、国家機構から距離をとって、公共圏において議論する公衆から政治が乖離し、政治的意思決定が公衆の前で繰り広げられるのみになったことから、各々の個人が所属する組織における公開性を高めていく必要を主張することで、民主主義を擁護しようとした。
 しかし、60年代以降の社会運動や中欧・東欧の民主主義革命は、彼が視野に入れていた組織からも独立する形で(すなわち、非政治的であるばかりではなく、非経済的な領域において)政治的公共性を実現していった。こうした現象に対する肯定的な評価が、批判的公開性ではなく、自発的結社(Assoziation)における公衆の討議を通じた政治的公共性の実現を主張するようになったのだろう。
 社会学が対象とする「社会」は数多く存在する。その中の一つに上記の「社会の国家化」すなわち福祉国家化の過程で生じた政策科学的な側面があるのは否めない。アメリカ社会学に見られるような問題解決型の社会学研究も同じ系譜を辿っているように思われる。しかし、それだけが社会学ではない。ともすると、社会という言葉は構造という条件に翻訳され、ポストモダンの理論家のように近代合理主義が想定した主体性を否定しかかるかもしれない。しかし、それだけが社会学ではない。
 社会的共同性という言葉に示されるように、私たちはある共同体において共に生活をしており、そこでの政治的な意思決定はコミュニケーションによってなされた。(正確には、そうした時代が、近代の一時期に、限定された地域で、一部の階級により存在した。)社会的に大きな問題を考える際に必要な公衆のコミュニケーション過程をハーバーマスが討議空間あるいは政治的公共性と呼ぶのであれば、彼が諦めなかった「近代未完のプロジェクト」の行方を、私は追ってみたいと思う。