August 28, 2012

社会学はなぜ胡散臭そうに見えるのか.


お題:社会学はなぜ胡散臭そうに見えるのか.

社会学がその他の社会科学と比べたときに胡散臭そうに見えるのはなぜだろう?

仮説① リベラル説
巷に出てくる社会学者は政治的にリベラル・左派的に見える
 →社会学者=左翼のレッテル貼り
胡散臭さ=学問的な作業の中に政治的言説を内包している点
具体的な場面=政策提言がしばしば左翼的

歴史的に,社会学は最初からリベラルだったと言われるから,ある意味でしょうがないとも言える.
注意すべきなのは,左翼的な主張をするために社会学がある訳ではないということ.
ただ,マイノリティの知られざる実態を社会に暴く,という単純な構図を採用している研究も少なくないので,社会学の側も反省的になった方がいいと思う.


仮説② 理論不在説
胡散臭さ=しばしば社会学は誰にでもできるように見える.
 →社会学固有の理論があるように思われない/どんな対象でも〜〜社会学と言うことで範疇に入る
具体的な場面=大学における社会学の講義は,しばしば具体的なトピックの説明に終始している.

単純に言うと,社会学は経験的な問題(対象とする世界での具体的な経緯がないと考えられない問題,要は自分の頭の中だけで解決できないような問題)を重視する.(例えば,この10年でなぜ格差は拡大したのかなど.)
※もちろん,人々の認識,ものの見方自体を問うような研究もある.

そうした経験的な問題の「なぜ?」に答えようとすると,その具体的な領域の中で観察可能な事実同士を因果関係で結びつけることになる.(政策がネオリベ化した→格差が拡大した)

しかし,この因果関係の構築自体は,専門性がなくとも,誰にでもできる.
メディアなどで日常的に接する社会学はこのレベルの記述に終わっている(と思う).もしくは,私たちにはその背後にある理論めいたものに気づく能力がないからか.

このような,観察可能な事実のみから分析するのを,社会学の統計学化と言ったりするらしいが,そうなると,あらゆる社会学者は統計学の先生になるべきだ.

社会学的な意味での理論形成の重要性は,想像力にあるとか言ったりする.結局,観察可能な事実だけを見ていても,概念は生まれない.確かに,うすうすとは感じているのだが(周りで定職に就けない若者が増えた気がする),そうした現象をニートのような概念を作ることによって顕在化させるところは,理論社会学の仕事だと思う.そして,そうした理論を効率的に作るために,学説史を追うことが必要になってくる.

ひとまずの回答としては,経験的世界を重視するが故に,それが巷のおっちゃんでも考えつくようなことしか言ってないように見える危険性を抱えている.それは,社会学の対象とする領域が政治学や経済学のように特定化されていないからとも言える.みたいなことに社会学を学ぶ者は自覚的であるべきだろう.






しばしば,社会学の理論形成は現実の社会で生じている現象と対応していないというバックラッシュを食らうのだが,こちらからすると,現実に観察可能な事実のみから因果関係を構築することはなぜできるのかと問いたいし,そうした因果関係の方がむしろ脆弱だからこそ,理論が必要なのではないかと思う.

それでもなお,社会学に理論があるのだろうかと自分も疑ってしまうので,想像力とか陳腐なこと言うな,という批判は受け付けない.(私もそう思う)
そもそも,理論とは何かという問は改めて考えなくてはいけないなあ.

August 26, 2012

日本の近代化と個人化する家族


所属している学生団体の勉強会でレジュメを作成したので載せます.一部執筆中ですが.

勉強会の資料なので,あまり引用とかに気をつけていません.講座社会学「家族」,特に山田先生の論文は参考になりました.


日本の近代化と個人化する家族

0.     構成
1.     家族の理念型と実態
1.1.         理念としての家族
戦後新憲法:当事者の男女の意思による婚姻,配偶者や居住の選択,相続,離婚などの立法の諸原則は,個人の尊厳と男女の本質的秒度に基づく.
戦後新民法:家族像には,夫婦と子どもからなる核家族以外にも直系家族と同居の親族も含む.戸籍は実質的に夫中心.
 →憲法と民法にみられる家族理念のズレ.(民法は「家」制度との妥協)
・結婚は当事者の男女の意思に基づく
 →1950年代半ばから恋愛結婚が増加,60年代半ばに見合い結婚を抜かす.
  家族は男女の情緒的な結びつきによって形成される Romantic Love Ideology

1.2.         近代日本の家族の変遷
 -家族形態
 小家族化と核家族化の同時進行
  家族規模は1955年から1975年の間に5人から3.5人へ(国勢調査)
  核家族の比率は同じ20年間に62%から74%へ(目黒,1980
  【背景】都市化と人口抑制策
  1936-40年コーホート(=60年代に成人期)
    10歳以前:1/3が都市居住→15歳まで:6割が都市居住(阿藤,1991
  昭和20-30年代:新生活運動,扶養家族成員の現象が生産コストの軽減と労働
  者の質的向上につながるという認識

1.3.         夫婦関係
 近代家族(後述)の特徴=性別役割分業×伴侶性×子ども中心主義
1.4.         親子関係(養育期)
 親子関係の背後仮説①:親子関係は血縁によって結ばれる.
 →狭義の提議,このような親子規範が優越だった時代は一時期に限られる.
親子関係の背後仮説②:養育は母親のみが当たる.
 →父親が子どもの養育場面から消えたのは,職住分離が一般化し,専業種が増えた高度成長期から.
戦後の親子関係の変遷
 1950-60年代の農家:母親=祖母,妻の主婦としての役割は主に生産労働(と家事)
 「生産労働に従事することが,<母親であること>のアイデンティティ」だった時代
 1970年代の中流家庭[1]:高度成長の中で専業主婦の一般化,家事労働時間の増加
 1980年代以降:子育て時間の増加→親をすることへアイデンティティが変化
 <親をする>主婦の揺らぎ=M字型就労の上昇,今後は?
 <母親>アイデンティティの変遷:生産労働→家事労働→養育

2.     家族の個人化論
2.1.         離婚の増加をどう考えるか.
離婚率の増加[2]/「愛情がなくなれば,離婚しても構わない」に賛成の人が増加
戦後家族の背後仮説:「家族は愛情の場である[3]」(前掲)
「マイホーム」「家族のまとまり」→家族であれば愛情がわく[4]と言う意識を支えていたのは,日常生活に向上感が担保されていたから?
「家族であれば愛が生じる」→生活水準は上昇していく→家族のために働く夫を支える
 高度経済成長の終焉→手段としての愛情から目的としての愛情へ 愛情の目的化
 →愛情の追求+家族は愛情の場であってほしい→愛情がなくなれば離婚してもよい
   →家族の個人化とは:家族の形態は変化しても,家族の愛情の追求は弱まらない

2.2.         個人化—家族の形態変化—
(執筆中)

3.     近代家族論
-近代家族の特徴[5]
 (1) 公私の分離 (2) 成員同士の情緒的関係 (3) 子ども中心主義 (4) 性別役割分業 (5) 家族の集団性の強化 (6) 社交の衰退 (7) 非親族の排除 (8) 核家族

-家父長制の連続性
 公私の分離(1)は家族の集団性の強化及び社交の衰退(5),(6)を招いた一方,夫婦の情緒的なつながり(2)を可能にした.また,市場へと個人を供給する装置であるが故に,近代家族では子ども中心主義[6](3)が本質になるが,こうした人間供給のために必要な仕組みとして成立した「男は仕事,女は家庭」の性別役割分業(4)は家父長制時代の産物として連続的に捉えられる[7]
 →近代家族は恋愛結婚による夫婦の情緒的つながりに基づく意味では「近代的」だが,家父長を頂点とする「家」制度において女性を劣位に置く秩序を引き継いでいるという点では「前近代的」である[8]
-戦後の「日本型近代家族」の誕生
 ・家族の戦後体制の3つの特徴(落合,1996
(1)   女性の主婦化 (2) 二人っ子化 (3) 人口学的移行期における核家族化
(2)→死亡率と出生率の低下により人生の予測可能性が高まり,近代家族が全域を覆っているという経験を可能にした.
(3)→子ども中心主義と結びついた良妻賢母思想は人口学的理由とは独立して存在する.なぜ再生産労働を夫婦が協力して行わなかった(なぜ女性は主婦化したのか)については,定まった回答が出ていない.[9]

-近代家族規範の下位規範(太郎丸,1999
・婚姻外性規範関係の否定
・性別役割分業
・家族重視       →それぞれの下位規範の受容は男女によって異なる.

 -企業主義に包摂される家族(目黒・柴田,1999
  ・「男は仕事,女は家庭」という性役割観→社会の全体をジェンダーによって再編成
 ・家庭と労働市場のジェンダー関係は一体化する形で日本の産業化を支える
 ・大企業:男性の労働意欲維持のため,家庭を含む賃金体系を採用
 ・政府:配偶者控除制度(1961), 男女別の中等教育プログラム(1962)
  but, 1970年代の半ば以降,家庭は社会的支援の対象から社会保障の担い手へ
     家庭基盤の充実(大平内閣)→配偶者手当の増額(専業主婦の評価を高める)
     配偶者の法定相続分の引き上げ(1980),主婦の基礎年金(1985) etc
     →女性を育児や介護の主役として位置づける「日本型福祉社会」

-変化する日本の家族政策
 ・新時代の「日本的経営」→家族賃金思想を放棄し能力主義を導入
 ・男女雇用機会均等法(1986), 育児休業制度(1992), 男女雇用機会均等法の改正(1999)
   →「男女共同参画社会」の理念的実現

4.     まとめ
  戦後の家族は,産業化/都市化の中で大家族から小家族へ,直系家族から夫婦制家族へその形態を移行してきた.
  それと並行して,憲法/民法の改正により婚姻が男女の意思に基づくものとされたことで,家族には愛情があるはずだというイデオロギーが形成された.
  大企業や政府も,生産性の効率という面から夫婦と子ども二人からなる標準世帯をモデルにした賃金体系,社会保障制度を整えることになる.
  そのような夫婦の愛情と結びついた家族は,生活水準の向上を担う夫を内助の功で支える妻という前提があってはじめて成立した.
  高度経済成長以後,家族には愛情があってほしいという理想は残る一方,それが目的化することで,「愛情がない家族は離婚してもよい」という意識が醸成された.
  家族の形態は個人化の様相を強めるが,しかし,家族に込めた理想像を我々は棄てきれないでいる.このことが家族の個人化の本質である.

(余談)
 今回の家族(社会学)という領域は研究テーマの一つである男女の性別役割規範の問題とも深く関連する.雇用機会均等法や男女共同参画社会基本法の成立を経て,日本は性別役割分業を前提としない社会モデルへの移行を測っている最中であるが,制度的な変更に従って我々の意識も変わってきている.代表例としては,男女の性別役割分業(「男は仕事,女は家庭」)という規範は,最初は女性,少し時間が経ってから男性にさえ,受容されなくなってきている.意識の上では,男女平等を望む人々が増えてきたと解釈できる.もちろん,現実は追いついていない.男女の賃金格差は依然として大きいし,夫婦の家事労働は未だに女性が大半を担っている.しかし,個人的な関心はこの規範の変化と変わらず残る家族主義イデオロギーとの関係にある.近代国民国家形成とともに形成された近代家族規範の一つである性別役割分業観は男女ともに支持されなくなってきているが,その一方で結婚して子どもを持つことで幸せな家庭を築きたい,言い換えれば結婚に愛情の場を,その対象として子どもを措定している人は少なくないだろう.問題の本質は,「女の幸せは結婚して家庭に入ることではない」(性別役割分業観の否定)を支持するにもかかわらず,「家庭を築くことで幸せになりたい(なれるはずだ)」(家族主義イデオロギーの受容)が両立してしまっている状況にあるのではないか.具体的には,「男並み」のキャリアを追求したいけれども,「女として」の幸せ(子育て)も手に入れたいと悩む高学歴女性の葛藤について,どのような解決策を提示できるか,という点にある.これは日本に限った現象ではない.(ホックシールド「セカンド・シフト」などが参考になる.)




[1] 1960年代後半から減少した女性の労働力率は75年に最低の46%を記録する.(=専業主婦化のピーク).高度経済成長の終わりとともに,共働き世帯が増加する.
[2] 1960年代半ばには,離婚が法的に認められている国では相当低い離婚率を記録していた.
[3] 例えば,戦後のよろこびの歌の象徴が「こんにちは赤ちゃん」であったことを見田宗介が分析したように,夫婦と未婚の子が核家族の集団的愛情のモデルになったことは確からしい.
[4] 山田(1999)は性別役割分業も,この戦後の近代家族イデオロギーにおいて,動機付けとしての家族愛が定着していったと述べる.この中では,家族の中の役割が「愛情ゆえの行為」として意味付けられることになり,性別役割分業の正当化につながったとする.企業戦士の夫を陰で支える妻(内助の功,良妻賢母)という構図は,しかし,企業戦士としての夫の所得が上昇している限りで有効だった.

[5] 近代家族の特徴については議論がある.(落合,1996)しかし,ここでは最も代表的な落合(19851989)で述べられた特徴を挙げる.また,落合自身は先の解釈学的アプローチを採用するため,始めから近代家族の定義をしている訳ではない.歴史資料から挙げることのできる特徴を言及している.
[6] このような愛情を注ぐ対象としての「子ども」の概念は近代の産物であったことはアリエスの記念碑的著作「<子ども>の誕生」で述べられている.(Aries, 1960=1980
[7] 不平等の源泉を男女の公私の分離のもとで,女性を家事労働に従事させたことに求めたのがマルクス主義フェミニズムであることは言うまでもない. I.イリイチの「シャドウ・ワーク」では家事労働を資本主義社会の存続に不可欠なものであり,主婦は搾取されているとされた.上野(1990)らのマルクス主義フェミニズムに引き継がれ,マルクス主義フェミニズムによる家事労働批判はフェミニズムの有力な理論の一つとなっている.
[8] この点に関して,落合(1989)では性別役割分業は産業化に伴う家族構造の変化の中で,公私の分離によって根拠を与えられたものであるという点で性別分業を「近代的」なものとしている.一方で,牟田(1996)は近代家族には明治民法によって規定されているような「家」を成員よりも優位として,その継承に重点を置き,女性を劣位に置くなどの「家」的側面が残っていたことを指摘し,一面では家族成員の自由や平等が担保されていない「前近代的」なものとしている.性別分業の根拠を何処に求めるかで論者によって違いはあるが,家父長制を「家」と近代家族を貫く連続的なものとすることで両者とも「近代的」な産物とする点では一致している.(熊原, 1996)
[9] 以上を踏まえ,本研究では「なぜ女性は主婦化」したのかという問いについては一度ペンディングすることにする.小産少死(多死?)社会は人口学的に動かしがたい事実であるが,主婦化については今後変わる余地があるという主張に沿って議論を進めたい.(落合,1996