February 28, 2015

方法としての社会学?

 休暇中ということも手伝ってか、最近は他分野の人と接する機会が多い。手段は色々あって、勉強会で一緒になるというのもあるし、共著論文を書いている、あとはヘルプでワークショップの現場を見たりというのもある。一番ラフな形は、研究会に出た後の飲み会で話すこと。

 思いつく限り、ざっとあげてみると、経済学、政治学と言った隣接分野に限らず、疫学、工学、アメリカ地域研究、哲学といった人たちと触れ合う機会に恵まれた。

 話してて感じるのは、それぞれの分野におけるカルチャーというか、考え方の方みたいなものと社会学のそれとの違いである。違いを感じた例としては、以下のようなものがある。
工学の人のワークショップを手伝った後に、今後の方針について話した時だった。間にいた第三者の人に言わせると、工学は最終的に何かを解決することに主眼があるので、仮に手法的にやや粗雑なことがあっても、目的が達成できていればよいという考えになりがちであるという。一方で、社会学では提言的な部分はそこまで重視されないので、研究者コミュニティの中でも基礎的な分析の価値が認められているという。

 この話を聴いた時に、社会学では方法が大事だという指導教官の言葉を思い出した。私の理解では、社会学では必ずしも一に解決すべき問題を特定してから調査をするということは少ない。もちろん、研究資金の獲得などの事情で、「この調査でこれが分かる」という構文をとることはあるが、それは先行研究との照らし合わせの中から分かってきた研究の方向性くらいの意味で、具体的には、「近年、非正規雇用の問題が取り沙汰されているので、この問題を階層論の枠組みで調査・分析する」くらいのものなのではないかと思う(もちろん、しっかりA→Bの関係を確かめるための調査、というのもあると思うが、社会調査は一つの命題を明らかにするだけとしてはちょっと労が多い手法かも知れない。分析的・仮説検証的な命題は、どちらかというと二次分析の時に建てられることが多いような気がする。そこでは、仮説検証に適したデータがアーカイブから求められる)。

 このように、何かのメカニズムを明らかにしたり、それを具体的な政策に落とし込むという意識から比較的自由な位置に(少なくとも、これまでの)社会学はあった(これから変わっていく可能性はある)。これに加えて、もともと知りたいことの実態視が難しいケースも、多い。具体的には、社会意識を聞くタイプの調査では、そもそもの問題として「何となくあるのは分かるけど、どう測るの?」という場合が散見される(他には、ソーシャル・キャピタルなど)。

 経済学などの人から見るとこうした「怪しい」指標を使っている場合も含めて、社会学の問題関心は、その目的変数と研究成果という点から考えると、他の学問分野よりも、割と「ふわっと」していることが多いのかも知れない、というのが最近考えていることである。経済学では賃金に着目するところを、我々は階層意識や階級と言い換えるし、疫学が色々なスコアで健康指標を測定しようとする一方で、我々は満足度や主観的健康間を用いている。そして、工学と違って、何かを解決しようとして問題を設定することもまずない。

 このように考えていくと、なんだか社会調査はためにならないようなことばかり聞いていると思われかねない。確かに、それは一理あるかもしれない。ただし、それは研究成果が即応用研究や具体的な施策に結びつくようなご利益的側面が比較的薄いという面では、そうであるというだけだ。個人的には、基礎的な調査にもそれなりにアドバンテージはあると思う。例えば、A→Bの因果関係を特定しようという潮流の中で、実はCもBに影響しているのだ、という第二・第三の作用の発見(これを、社会調査の発見的作用と言いたい)は、あえて因果関係を一から特定化しないことによって得られる利益である。もちろん、これは社会調査に限らず、歴史的な分析でもその他の質的な手法でも、同様の側面があるだろう。

 さて、回り道をしてしまったが、いわゆる「社会学では方法が大切だ」という話に戻る。若干、戯画的に描いていると言われても仕方ないが、ここではひとまず、社会学では何かを解決する志向や、はじめから確認されるべき因果関係を厳しく設定せずに、調査をすることがあるとする。この場合、重要になってくるもう一つの指標が、調査の質の担保であると考えられる。仮にオープンな問いで調査をする場合、この調査は将来的に他分野の研究成果との恊働も含めて、様々な他者に参照・応用される可能性を秘めている。こうした社会学の特定の利害から比較的自由にいられる立場では、逆に調査の質の基準として、サンプリングの代表性やモードの選択、様々なバイアスなどに注意することが重要になってくるのではないだろうか。目的が曖昧だからこそ、方法は徹底的にやる。社会学には、無意識のうちに共有されてきた、そうした姿勢があるのかも知れない。

February 22, 2015

東大近辺で卒業パーティーなどができる場所


大学の近くから文京区内までを対象にして会場を探した(価格はフリードリンク+食事をあわせた最低価格)。

まず、大学内の施設としては
  伊藤国際学術研究センター内ファカルティクラブ(5,000円〜)

  弥生キャンパス向ヶ丘ファカルティハウス レストランアブルボア(4,500円〜)

  医学部研究棟のイタリアンカポ・ペリカーノ(5,000円〜)

次に、文京区内としては、まず、伊藤センターのファカルティクラブを経営しているホテル椿山荘がシビックセンター内にレストランを構えている。

  シビックスカイレストラン椿山荘
料金・予約システムは特殊でパーティーは25階のレストランではなく26階のスカイホールを利用する。このホールは文京区の施設なので、まずあらかじめ文京区に施設の利用申請をしなくてはならない。システムとしては、その上で椿山荘のレストランが食事を運んでくるというシステムになっている。ホールを予約するのには予約サイトに登録する必要がある。

他にも以下の二つを調べた。

  ホテル機山館内のレストラン(5,000円〜)
実はここも春の歓送迎会プランということでパーティーができる。

  ルヴェソンベール本郷(5,000円〜)

February 21, 2015

名札作成などのための差し込み印刷備忘録

ツールタブから「差し込み印刷マネージャー」
文書の種類を選択し、宛先リストは「データ文書を開く」を選択
プレースホルダーで使用したい変数を選択し一枚のカードに挿入
これを他のカードにも適用するため、宛先リストの選択の右のアイコン「ラベルの設定を同じにする」を選択。

その後、差し込みの完了で「新規文書に差し込み』で完成

February 20, 2015

風立ちぬの感想

風立ちぬはマンチェスターの映画館で友達と初めて見てから数えると、4回目だろうか。最初は、何がいいのか分からなかったのだが、そして多くの批判もあるのだろうと察するのだが、私は二郎の人生に「創造的人生の持ち時間は10年」という前提を置くと、あながちこの作品に向けられる批判を真に受けることはできないのではないかと考えている。



二郎の生き方に、美しい飛行機を作るナイーブさだけ見出してしまうと、こいつは何の迷いもなく戦争に加担してるし菜穂子をないがしろにしてるしみたいな評価になってしまうのは人情だろう。しかし、二郎はカプローニに言われた「創造的人生の持ち時間は10年」を信じて愚直に生き続けたことを忘れないでいたい。

例えば仮に、ある人の「創造的人生の持ち時間」が今から10年だったとして、本当に納得がいくものを作れるのは後にも先にもこの10年だとする。その間に、心から愛する人ができてしまったとき、その人はどうするのだろう。風立ちぬは、これに追加で、愛する人の生涯がこの10年で終わることが濃厚な例である。ここでのポイントは、どちらも期限が迫っている、個人のいsはどうにもならない条件が課されているということである。

創造的人生を諦めて愛する人に身を捧げるのも一つだし、反対に愛する人を諦めるのも一つだろう。しかし、いかに前者に傾いているように見えても、この作品で二郎は両方を選んでいることに疑い用はない。これは言ってみれば、矛盾で、本庄の「本腰を据えるために所帯を持つ、これも矛盾だ」とも似ている。

合理的な人間ならどちらかを捨てることができるかも知れないが、少なくとも、風立ちぬで描かれているのは、どちらも捨てられない人間の矛盾した姿であり、なおかつこの作品は矛盾を否定しない形で美しく描いているのではないだろうか。そういう生き方もあるよと、いくら批判されようとも。私には、宮崎駿のメッセージはここにあると思う。

矛盾が否定されない形で描かれているのは、彼の理解の中では、限られた創造的人生の持ち時間をひたすらに生きることと、菜穂子を一途に愛し続けていることは矛盾していないからである(いくら私たちが矛盾さを見出そうとしても、それは彼の中では一貫している)。彼は両方を行おうとしているし、菜穂子もそれを受入れてる。菜穂子も限られた時間を生きようと、サナトリムを抜け出して、短くとはあろうとも二郎と生活をともにすることを選ぶ。二人とも限られた時間を必死に生きたのは同じなのではないか。二人の短い人生の過程を描いたこの映画は、彼らの一途さに暴力や抑圧めいたものを見出した人には批判されるかも知れないし、たしかに矛盾にも満ちているけれど、自分は人生を愚直に進んでいった二人の生き様に感銘を受ける。

恐らく何度も指摘されているとは思うが、風立ちぬを見たとき、二郎の生涯は平和主義者でありながら飛行機好きだった宮崎駿自身の矛盾さを投影しているのではないかと思った。

インタビューを見てみよう。以下は2013年に日経新聞に掲載された本人の発言である。


宮崎駿「時代が僕に追いついた」 「風立ちぬ」公開
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO57782960W3A720C1000000/?df=3

「(描くべきことは)その時代に自分の志にまっすぐ生きた人がいたということだった。堀越と堀辰雄の2人はインテリで、とんでもないところに(日本が戦争に)行くということを予感している。分かっていても一切そういうものとかかわらない生き方はできるのだろうか。僕は違うと思う。職業人というのはその職業の中で精いっぱいやるしかないんだ。...確かに僕は矛盾に満ちているかもしれない。でも仕方がない。矛盾のない人間はたぶんつまらない人だ」

インタビューから、宮崎駿が戦争の悲惨や平和の尊さをこの作品で伝えようとしたのではなく、時代に翻弄されながらも、自分の人生を精一杯に、矛盾に満ちて生きた人間の生き方を描き出そうとしたことが分かる。



この作品の中における戦争の位置づけという問題については、以下のように考えている。インタビューを解釈しようとすれば、宮崎駿は職業人としての役割を遂行した結果、戦争に加担してしまうことになっても仕方がないと言っているようにも見える。


しかし風立ちぬは零戦を描いているようで描いてない、戦争を扱っているようで扱っていない。登場人物も飛行機を作ることが戦争に加担することに気づきながら、どこか軍人たちを皮肉目で見ている。決して戦争によって人生を左右された人の姿は描かない。だからこそ、彼らの生き様に共感してしまう気がする。



とはいっても、菜穂子を蔑ろにしている二郎の姿勢はやはり批判されてしかるべきかも知れないし、一部の人は自分が菜穂子だったらこんな男にはついていかないと考えるかも知れない。それは正論で、特に現代のような形式的には自由が十分保障されているような社会では、菜穂子は間違った男性を配偶者として選んでしまったように見えたり、二郎のような人間を夫にしてしまったことへの同情もあるだろう。



私の解釈では、宮崎駿もそうした批判を織り込みずみで、二人の一生を描いている気がする。病床に伏す直子の隣で二郎が煙草を吸うシーンといい、従順な女性と仕事に没頭する夫のコントラストといい、二郎のような生き方は現代的な感覚では相容れないもののように見える。宮崎駿は、二郎のような人間のエゴイスティックさを強調することで、私たち見る側にとって理解できない人間の一生が、その本人の中では一貫していることの差異を強調して描こうとしたのではないだろうか。極端に言えば、道徳的に許されざる人間の「自分の志にまっすぐ生きた」姿を現代の私たちが許せるか・許せないかを問うているのだ。

February 16, 2015

2月16日(月)

最近、朝早く起きてもその後の調子が続かなく、今日もお腹が痛くなってお昼前まで寝込んでいた。さすがにピケティの読書会があるので、起きて、学校へ。

議論自体はそれなりに盛り上がり(というか、いつものように私が発言しすぎで反省)、個人的に勉強になる部分が多く、特に経済学部で勉強している人の話は参考になった。どれだけピケティが経済学畑の人からウケが悪いとしても、彼の歴史的な政治経済制度を重視する方法論的視点や、何よりも他の社会科学の分野の研究者との強調を訴えた部分は共感しており、これからの研究に対して少なからぬ示唆は貰えた。勉強会の機会に恵まれたことは幸いである。

終了後も経済学部の人と話し込んでしまって学部生室に戻ったのは5時前。先日下北沢で購入したほうじ茶をむぎさんとパックに詰める作業をした後、彼と少し雑談して、その後は一人で勉強。とはいっても主にM先生の執筆関係の仕事や明日の報告会の準備、アジア学生論文についてで終わる。途中、自分でも引くくらいに寝てしまって、最後にはJKさんと少し話した。いつの間にか寮の食事に間に合う時間を過ぎていたので山手で焼きにんにくラーメの大盛り650円を食べた後帰宅。参考文献の英語化作業など、諸々の作業や経済学部の彼に階層論の本を勧めたりするために文献リストを作成していた。

いくつか独り言。

今日勉強会終わった後、経済学の彼と話してて、経済学では階層下位の人は雇用が不安定などの理由で将来の賃金関数の分散が他の階層よりも大きいと想定すると言っていて、そして分散が大きい場合には子どもをたくさん産んでリスクヘッジするのが合理的と考えるらしい。これが本当にそう考えられているのかはひとまず置いておいて、一般に社会学の人は、貧困層ほど子どもを産まない(産めない)と考える(子どもには一定の教育が不可欠でそうした費用が出産へのハードルとなるみたいに)ので、割と真逆なんだなあと思った。

次にカイロ会談。蒋介石は英語ができなかったと言われており、カイロ会談の際には妻である宋美齢の通訳の助けを借りたらしい。チャーチルを加えた三者会談の前に、ルーズヴェルト(及び右腕のハリー・ホプキンス)と蒋介石(及び宋美齢)で会談し、その時の資料をもとに蒋介石が天皇制についてコメントしたとされているが、なぜかホプキンスは記録を残しておらず、代わりに中国側の記録の翻訳が先の資料として文書化されている。カイロ宣言自体の有効性も含めて、この辺りは若干の胡散臭さが漂っている気がする。資料はChinese summary record on Roosevelt-Chiang dinner meeting, Nov 23, 1943, FRUS. 322-325. で、今日ようやく見つけることができた。

February 15, 2015

2月13-15日

2月13日

珍しく7時に起きてしまったが、朝食と風呂を済ませたら2時間超の二度寝をしてしまった。再度起床後、アジア学生論文を少しいじり、ピケティを読みなおす。レジュメを改訂し、駆け足で大学へ。今日の勉強会ではソローモデルを前提にすると第二法則が導きだされるという話だった。他にも、いろいろ勉強になる点は多かった。

終了後、M先生の文献収集で奔走。その後、電車では間に合わないと見込み、自転車で学士会館まで行く。学士会では若年会員が少ないことが懸念材料として認識され、2年前に会費無料の学生会員を作るとともに、イベントの際も45歳以下の若年会員向けのものを企画したり、色々工夫しているみたいである。今回は、ホームカミングデーで学生会員に登録したところ、メールが届いて無料で招待された。あの歴史ある建物を利用できるのは悪い気分ではないし、もっと色んな層の人に利用されるようになってもいいかもしれない。最近ではロケ地にもなっているようで、花子とアンの見合いのシーンや半沢直樹のロケに使われているらしい。

終了後、ほろ酔い気分で帰宅。

2月14日

たまに寝違えることがあり、今日はその日だった。起きたらとても首が痛く、頭痛がひどかった。最初は何とかなるかと思い、待ち合わせ先の下北沢へ。しかし、電車に揺られていると急に気持ち悪くなり、浜田山で一回、永福町で一回降りて、戻してしまった。相手の電話番号も分からずwifiが使えるところを探す余裕もなかったのだが、幸いだったのは、相手と会う前に駒場図書館に先に行ってM先生に頼まれた文献をコピーしようと思ってたから1時間くらい早めに出発してたことだった。そのため、時間は時間通りに下北沢に着くことはできた。

しかし相手は(いつものように)遅れる始末で、待っている間、寒気がして死ぬかと思った。相手と会った時は結構朦朧としてて、ひどく見苦しいところを見せてしまった。中止ということで別れた後、駒場図書館で90分くらい寝たら吐き気も収まってなんとかなった。文献をコピーした後、ジャーナリストの人にそれを渡しに下北沢に行って、話し終わった後、ガイドブックを手に入れたり、お茶の大山というところで茶葉買ったり、古本見たり。結局、ほとんど勉強できずじまいであった。

2月15日

引っ越してきてから割と念願だったハモニカ横丁の朝市に、寮の友人たちと行ってみた。80店舗程度の出店があったとのことで、なかなかの盛り上がりだったのではないかと思う。解散後は、開店と同時にこちらも初トライの喫茶くぐつ草へ。評判通りの雰囲気だった。そこでは、アドルノを辿った結果として出会った、彼とポパーらが編集した『社会科学の論理』(原題:Der Positivismusstreit in der deutschen Soziologie)を読んでいた。「社会学と経験的研究」論文もあり、これは元々ドイツ実証主義論争の中で提出されたものであるようだ。

正午前まで勉強し、その後は有楽町で開かれたJAGES主催の「災害下のソーシャルキャピタルと健康」シンポでイチロー・カワチ氏の講演など拝聴。今回のシンポの背景として、JAGESという老年学研究グループが2010年に全国の約30の自治体に住む高齢者を対象に大規模調査をしていた。その内の一つに東日本大震災で被害を受けた宮城県岩沼市が含まれており、最近社会科学で流行りの「自然実験」が適用できるとして、別途追跡調査がされた。自然実験型の追跡調査のメリットの一つとして、SCが健康にポジティブな影響を与えるという議論に対する、もともと健康な人が社会参加しているのではないか、という逆因果の批判に応えることができる点がある。カワチ氏の講演は、そこを強くプッシュしたものになっていた。DVにはPTSDや震災後一年以内の死亡、IADLスコアなど、(社会学でよくある主観的健康感に比べれば)しっかりした指標が使われていた印象。ただ、肝心のSCの方も本人の認知に依拠しているという点では主観的だが、これに対しては澤田先生の実験経済学の手法が間接的に応えていたと見える。いろいろ勉強になったし、会場に来てた人もほとんど公衆衛生・経済学プロパーの人で質問のレベルも高かった(と素人目にはみえる)。近隣効果を測定するspatial durbin modelを用いた報告もあった。


しかし、お腹が減ったので←討論前に途中抜けして、有楽町ひむろで味噌ラーメン。そんな訳で、休日までにやると決めた作業をほぼほったらかしにした2日間だった。


February 12, 2015

2月12日(木)

勉強会の終了後、学部生室で予定を記入した後、丸善本を返し、アドルノの論文が掲載された本を借りて来た。論文を読みながらメールに返信し、そのあと甘いものを買いに生協へ。

論文の印刷を済ませて、その後、働いている友人の引っ越し祝いで、久しぶりに研究室界隈ではない人と外食。官僚の世界のあれこれを教えてもらう。夜中になってもマフラーが必要ない暖かさだった。寮で夕食を食べない日の方が、ゆっくり歩きながら帰ることができて、気持ちいい。まあ、外からデートにも見えたかも知れないが、自分でもよく分からない。ひとまず、最近は会いたい人に会っている。

帰宅後、日経の経済教室を読んだり、色々情報収集しているうちにこんな時間。カイロ会談について少し調べた。やはり、夜の生産性を少し上げたい。

読んだ論文

Merton, R. K. 1967, “On Sociological Theory of the Middle Range”, On Theoretical Sociology; Five Essays, Old and New. The Free Press. (=1969, 森好夫訳,「中範囲の社会学理論」,森東吾ほか訳,『社会理論と機能分析』,青木書店.4-54.)
アドルノ,「社会学と経験的研究」『ゾチオロギカ』.
Hedström, P. and Bearman, P., 2009. “What is Analytical Sociology All About? An Introductory Essay”, in Hedström, P., & Bearman, P. (Eds.). The Oxford Handbook of Analytical Sociology. Oxford University Press. 3-23. (Ch.1) and Hedström, P. and Bearman, P., 2009. “Analytical Sociology and Theories of the Middle Range” 25-47. (Ch.2)

番外編
2013年のドイツ連邦議会選挙レポート
日経経済教室、森口・阿部の論説
英単語

印刷した論文
International Review of Sociologyのソーシャルネットワーク特集
GruskyのBoston Forum記事
The Social World of Network
Sociologica最新号のアナソシ論文
Worlds, Fields, Network.



明日はCultural Sociologyの論文を少し読まないと、追いつけない



分析社会学についてあれこれ(断片的なメモ)

午前中にマートンの中範囲論文を再読し、それを反映するようレジュメを書き換え、午後1時からの勉強会へ。

中範囲の理論とは,観察されたデータに密着する形で,社会現象の限られた側面に関する,複数の想定から成り立つ仮説を検証し,これを法則として理論化・抽象化するものである,程度の理解をしていたが,この論文を読んでみると意外とメカニズムという言葉を使っていることに気づかされる.例えば,「役割群の理論は,これを中範囲の一理論としてみると,一つの構想とそれに結びつくイメージに始まり,そして,一連の理論的問題を生み出す.…すなわち,理論上は役割群の不判定が想定されているのに,一体どんな社会的メカニズムが働いて,この不安定を防止するのか.次にこれと関連して,どんな事情のもとでこれらのメカニズムが働かなくなり,その結果,非能率と混乱と葛藤が生まれるのか」(Merton 1967=1969: 11).

議論の中で,Causal Laws とCausal Mechanismsの違いとは何なのかという話があった。恐らく、Lawsというからには、それは法則、すなわちAが起こったらBが必ず生じるようなもので、物理法則なんかは数式で表せる。一方で、Mechanismsの場合、生物学で例えられているように、AによってBが生じるにしても、それはまず確実に生じる訳ではない。構造的な制約を受けながら、生じる場合と生じない場合によって原因がどのように作用したのかに対する説明は異なる。さらに、AからBが生じる過程は、よりミクロな、社会ではアクターレベルで説明される。このような説明に重きが置かれるのがメカニズム,くらいの定義でいいのではないだろうかという話だった。

私が思ったのは、結局分析社会学は他の領域と何が差異化されているのかという点だった。

一つにはRelational Sociologyとの違い。これに関しては、本文でも指摘されているが,個人の行為を動機づける目的を観察者が知ることは容易ではないはずにも関わらず,マートンはこの問題を克服できない(insurmountable)とは考えていなかった.

Ultimately the final test is this: does the juxtaposition of the overt action, our general knowledge of the actor(s) and the specific situation and the inferred or avowed purpose ‘make sense’ is there between these, as weber puts it, a 'verstänndliche Sinnzusammenhang?' If the analyst self-consciously subjects these elements to such probing, there is substantial probability that his conclusion in respect to purpose is not too far afield in the majority of instances. (Merton 1936:897)

究極的には,最後に行うテストは以下のようなものだ.すなわち,明らかになった行為,私たちのアクターに対する一般的な知識,具体的な状況,そして推論されるかあからさまに認められた目的が意味を成しているのだろうか,これらの間には,ウェーバーが言うような理解上の意味連関があるのだろうか?分析者が意識的にこれらの要素を以上のような精査にかけるとすれば,相当な確率で目的に関する結論が事例の大多数からあまりに離れていることはなくなるだろう.

構造的制約を受けた行為を採用する視点はRelational Sociologyと似ているように見えるASだが,一つには行為の目的が外から見ても観察できるかどうかという点に関して,前者よりも客観主義的な立場に立っている印象を受ける.

次に、合理的選択理論との違い。Elsterの二つのフィルターモデルは合理的選択理論とASを区別する際に必要な枠組みになってくるだろう.合理的選択理論では,初期条件において望ましいとされる行為の基準が設定されるが,ASでは選択肢に余地を残し,それらのうちからどの行為が選択されるかを,再び社会構造との関係の中から検討していくと考えられる.

February 11, 2015

この1週間

1次試験の発表(2月5日)以降、何をやっていたのか、特に記録もつけていなかったのでまとめて記すことにしておく。

2月5日
この日はNGOインターン先の人と早稲田にて昼食をとっていた。なぜ集まったかというと、現在メキシコのカンクンにある日本料理屋で働いている人が一時帰国したから。店では昇格してマネージャーをやっているそうだが、この一年で大小20くらいの武勇伝になる経験をしたらしく、ランチは終始笑い声に包まれていた。

その後、合格発表を見て、社研のバイト。あまり感慨に浸る暇もなく池ノ上に向かいバイト先のジャーナリストの人と会食。お腹いっぱいになって床につく。仕事、やらないといけない。


2月6日
翌日の6日もアルバイトで、15時まで働く。結局、その週のランチは順に、焼肉HANAのカルビランチ、NIKKIカフェのパスタ、雅ノ屋の醤油ラーメン、東京らっきょブラザーズのスープカレー、焼肉HANAのカルビランチだった。それだけ、HANAをヘビロテしている。

2月7日
金曜の夜からお腹が痛みだし、それは日曜の朝まで続いていたが、土曜は痛みを抱えつつ、午後1時からのアジアのジェンダーとリプロダクションにちょっと出た後にオープン2日目のブルーボトルコーヒーに訪れる。着いたのが午後を2時過ぎだったからか、コーヒーもフードも限られた種類のものしか残ってなかったので、どういうタイプのコーヒーがいいか選ぶ楽しみはなかった。コーヒー自体はおいしく頂けた。ここはロースターがメインで客席が大きさの割に少なく、雰囲気も落ち着いて過ごせる感じではなかった。3月にオープンする青山の方はカフェメインと聞いているのでまた違うだろう

帰りに、自分へのご褒美としてずっと欲しかったFinlaysonのマグを吉祥寺FreeDesignにて購入。ついでにポーチとペン二本も。

2月8日
午前10時から武蔵野観光機構が企画する吉祥寺ガイドツアーに参加した。終了後、3週連続の駒場図書館。日が延びてきているのを感じる。この辺りからピケティを本格的に読み出す。

2月9日
バイト終了後、翌日面接ということもあり、早めに帰宅。しかし、実家にネクタイをおいてきていたことに気づき(それが8時だったので紳士服店はおおかた閉まっていた)、結局西友の紳士服コーナーを利用することに。どたばたしていた。

2月10日
面接終了後、バイト先の人に携帯を契約してもらう(なので1年半ぶりに携帯電話番号を持つことになった)ために下北沢に赴き、その後あたりをぶらぶらしてた。店で挽いてもらったキリマンジャロとトムヤムスープの素を買って帰宅。4年ぶりにダーウィンルームに行ったけど、全然変わってなくてとても懐かしかった。

面接を振り返ると、研究室の先生全員がそろって自分の研究計画にコメントしてくれる機会なんて今後あるか分からないし、とても贅沢な時間だった。もっとリラックスして楽しむ余裕があればよかったと思う。ライティングの課題も提出。

2月11日
久しぶりに全く予定が入らず、ずっと勉強。ピケティを読了する。Stataを少しいじり、卒論の知見を改めて確認。





February 10, 2015

吉祥寺ガイドツアーで紹介されたお店

吉祥寺のジャズ喫茶群

吉祥寺 Funky
吉祥寺のジャズ喫茶ブームをつくった野口さんという方の手がけた第一号店(現在はバー)
http://www.sometime.co.jp/funky/index.html

メグ
こちらも有名な寺島さんという方が始めたジャズ喫茶
http://www.meg-jazz.com

サムタイム
こちらは野口さんがプロデュースしたジャズ喫茶(というかクラブ?)
http://www.sometime.co.jp/sometime/live.html

*名曲喫茶 バロック (番外編)
メグの隣にある喫茶店で、歴史は古く、当時から私語禁止という伝統。
http://tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13050946/




吉祥寺のアンテナショップ群

東北物産館
http://www.tohoku.or.jp

アンテナショップ麦わら帽子
安積野市、遠野市など9つの友好市町村の物産を集めたお店
http://www.city.musashino.lg.jp/shoko_nosei_rosei/shoko/003812.html

高知県アンテナショップ 高知屋 
http://www.fusing.jp/antennashop/

その他

Billboard
世界中から集めた7千のグリーティングカードが販売されている
http://www.billboard-kj.com

吉祥寺知恵蔵
食のセレクトショップというふれこみ
http://www.chiekurasan.com

金子屋
ガイドのおっちゃんが勧めていた天丼店。日本橋の姉妹店らしい。
http://tabelog.com/tokyo/A1320/A132001/13173834/

書店ルーエ
ここの書店の本を購入した時についてくるカバーは何かのコンテストで最優秀賞をとったというふれこみ

http://www.books-ruhe.co.jp

February 8, 2015

Savageによる「21世紀の資本」評

Savage, M. (2014). Piketty's challenge for sociology. The British Journal of Sociology65(4), 591-606.より。


彼によれば、21世紀の資本が社会学に与えるインプリケーションは三つある。

第一に彼がとった帰納主義的な方法論である。Savageは以下のように主張しながら、ピケティがとった方法が経済学、ひいては社会科学一般で近年多用されているものへの批判となっているとする。

Really, the equation can only be understood as an empirical generalization inductively derived from the mass of data gathered here. But this is precisely the point. Is Piketty actually ironizing economist's favoured tools in order to reassert his fundamental point about the significance of history? (p.593)

具体的には、小説からの引用、インタビューやサーベイ、エスノグラフィーといった手法ではなく、歴史的な資料を用いたこと、そして最後に記述的な方法をとっていることである(なお、記述的の反対は説明的、この論文では因果的なアプローチをとる手法に対するアンチテーゼとして描かれている)。

Savageはピケティのとった記述的な方法について深くコメントしている。曰く、記述的な方法のメリットいくつかある。その前に、我々は彼が経験的な手法をとっているとかピケティの強みは事実の積み重ねにあると考えてはいけないとする。(we need to get away from the view that this is an empiricist approach, or that Piketty's strength lies in assembling ‘facts’)。ピケティは事実が自分で語りだす訳はないと知っている。そのかわり、彼なりに数値をビジュアル化したり、絶対的な値ではなく相対的な値を用いている(こうすることで見逃すことも増えるがという注釈付き)。もちろん上述の手法の問題点はあるが、逆に批判も批判でピケティの方法のメリットを隠してしまう。例えば、(Savegeも強調しているけど)ビジュアル化によってtop 10%みたいな外れ値的な値にいる人たちの重要性を指摘できたり、彼の資本と所得の対比は社会学的には経験的に明らかにすることが難しい構造とエージェントの違いを不完全ながら示している(資本はthe power of the pastとして前者の位置づけか)。また他にも、彼の人口変動への注目や個人のミクロな動機の重要性についても明らかにしていると指摘する。

第二に、anti-epochalistとしてのピケティの時間と歴史に対する注目が評価できる。社会学者はエポック主義的、つまり新しい物好きだったりする(ポストモダンみたいな)。社会学者は近代化の影響を語りたがるが、図2-5なんかを見ると別に近代化の時期に成長率のピークを迎えた訳ではないことが分かる。社会学には、20世紀中盤の社会変動を説明する理論がなく、なんとなく「産業資本主義」の拡張でお茶を濁しているところがあるが、ピケティはこの時期の特異性を指摘する。また、近年の社会学の理論もまた現代の新規性を語るが、ピケティの主張は昔に戻っているというものである。また、現代の社会学者は移動やacceleration(どういう意味かは不明)を強調したがるが、彼の主張はフローよりもストックの重要性が昔並みに戻って来ているというものである。こうした主張は、社会学の「変化」に対する考えそのものに対する再考を促している。また、一つ一つで見れば小さい規模の家計householdの貯蓄が企業のそれを凌駕するという指摘をすることで、ピケティは我々に家計の重要性について気づかせてくれるとする。


最後に、階級分析との関連。まず、ピケティは便宜的とはいえ所得階層を用いており、これは社会学者によって批判されかねない。しかし、彼の主張のコアな部分は、資本主義の中心的な変動を搾取ではなく資本の蓄積に求めていることである。これは、集団間の差異を強調して境界線を設ける抽象化をしないで済むし、別に集団に対する意識を持っていなくとも不平等は生み出されることを示唆している。理論的には、ピケティの主張は蓄積や継承を強調する点で、ブルデューの文化資本の議論に対して経済資本からの説明を強調するものとして対置できる。また、これまでのマルクスやウェーバー主義的な階級論は労働市場に注目していたが、ピケティの研究は富の相続の重要性を指摘している。これによって、家族と不平等の生成を結びつけることが可能になる。

ピケティが所得で階級を定義したことのインプリケーションとしては、富のある階級がますます豊かになっていること、そしてそうした相続の便益を受けるエリート層を抽出したことである。しかし、ピケティは残り90%について言及しておらず、これがこの本の支持を集めることになった理由の一つともする(要するに、残り90%の人々の間の差異を強調しなかったということ)。しかし、所得下位グループの間にも大きな差異はあるはずで、この点について社会学的な階級分析はやっていく余地はあるとする。ピケティの議論は良くも悪くも、従来社会学で議論されて来た中産階級と労働者階級との差を吹っ飛ばして、富が蓄積した人を一つの階級として取り上げている点にある。

February 3, 2015

格差と不平等の用例について

今回は,あまり区別されずに用いられている格差と不平等の違いについて考えたい.結論から言えば,私は特段の必要がない限り格差という言葉を用いる必要はないと考える.(不)平等で事足りるからだ.

格差と不平等の違いについて,ある望ましさを内包する基準値からの乖離を格差、そこにより規範的な不条理さがあると不平等、という区別をしたのは白波瀬(2005)である.


諸個人の業績を正当に評価したならば、その結果としての所得の差は公平な結果であるといえる.しかし,不平等ということになると,結果を正当に評価せず個人の能力如何を超えた不条理な要因が評価に介入する。所得が正当に評価された結果ではなく不条理な要因が介在すると、所得の差は不当となって不平等ということになる。この正当でない評価こそが,格差を超えた不平等の概念に大きく関わってくる.格差そのものも格付けされたさである時点で規範が介入し,一定の序列が価値判断のもとで設定されている.その意味で格差も不平等もかなり似通った概念であるが,不平等の方が格差よりも価値判断が介入し,氷河の概念が関与する.つまり所得の差がないことが望ましいのではなく,所得がどの程度個人の業績,力量を正当に評価したものであるかが,所得の差を不平等なものとするかどうかの分かれ目となる.(白波瀬, 2005. p.6-7.)



不平等という言葉に格差にはない規範性が含まれているというのは確かだろう.例えば,帰属的地位(ascribed status*1)によって序列づけられた秩序に対して私たちは平等でないものを感じるが,学力試験の選抜の結果としての序列には,これが不平等とは言わないはずだ.ここでの格差と不平等の区別の要点は,そこに「正当な評価があるかどうか」と「結果に対して個人の努力・能力が介入する余地があるかどうか」だ.

ところで,そもそもの問題として,(不)平等には,格差が指し示すものとは違う次元も含まれている.格差というのは,端的にいってgapである.すなわち,ある二者関係における,持つものと持たざるものとの差だ.だが,平等・不平等という言葉には,社会のより広い,秩序を指す時がある.例えば,義務教育の拡大はマクロで見た時の教育機会の平等化であると言える.もちろん,個々に見ていけば,これは階層間,地域間の格差が縮小したことを指すだろう.しかし,教育機会の拡充は,機会が差別無く提供されるという「分配」の問題である.階層論でも,資源が平等に「分配」されていない状態(秩序)を不平等と定義したりするが,これも個々の階層間の差の議論ではなく,ある社会の秩序の評価である.格差と不平等の違いについて,先の不条理性があるかどうかという二項対立以外に,社会全体の分配の話をしているのか個々の差の話をしているかの例としては,以下のような文章も引用できる.

教育機会の拡大はどの階層にも生じたのであるが,高等教育に関しては,それは階層間格差を維持したままで進行した.(原・盛山, 1999.p.17.

実は,格差という言葉が頻繁に用いられるようになったのは最近の現象であると考えられる.戦後直後は,いわゆる「格差」的な議論があったが,そこで用いられた言葉は「貧困」だった.昔の教科書には「貧困」は議論されているが,「格差」という文字は管見の限り確認できない(例えば,塩原ら編「社会学の基礎知識」(1969,有斐閣)を参照.).後の研究者(橋本,2010などは,高度経済成長が始まるまでの日本では格差が拡大していたと振り返っているが,当時の文脈では,それは貧しい人が貧しいままで復興の恩恵を受けていないという語りによって問題化されている.当時の状況を「格差」と表現しているのは私たちの側の読み込みに過ぎない.そして,格差は何かと何かの「間」をとらない限り語ることができない.

しかし経済の復興とともに,経済格差は拡大を始める.経済の復興によって豊かになった人々と依然として貧しい人々の間の格差が明確になっていくのである.(橋本健二,2010, p.24)(下線は引用者による)


格差という言葉が長い間,一般的にも学術的にも用いられなかったのは,高度成長の中で,中意識の議論が盛んに行われたように,日本が平等化していく過程を社会全体で共有(という前提には議論の余地があるが)できていたのではないかと推測している.もちろん,先ほどの引用のように階層間格差は維持されたままだったのは確かだが,人々の注目は分配秩序としての平等化の方に向っていたのではないか.

格差が段々と用いられるようになって来た背景には,平等化がある程度達成される中で,それまで注目されてこなかった集団間の差異がクローズアップされたからではないかと考えられる(豊かさの中の不平等).代表的なのは男女格差だ.「賃金の男女格差のように個別の不平等を焦点として問題が論じられ」(岡本・直井 1990)などは,格差が「個別の不平等」として認識されていたことの証左にもなると同時に,このような個別的な差異が注目される中で,格差という言葉が登場して来たことを示唆しているように思える.

一般的に格差という言葉が盛んに用いられるようになったきっかけは橘木「格差社会」などの影響が考えられるが詳しい議論はフォローできていない.少なくとも,それとともに,経済不況の中で平等化(近代化)の夢が途絶え,次第に個別のグループ間の際に敏感になっていった社会情勢があるのではないかと推測している.

まとめると,確かに格差と不平等に不条理性の有無という次元がある.しかし,どちらかというと,その区分は後付け的で,日本ではなぜか格差という言葉が,近年になって集団間の差異を表現する言葉として頻繁に用いられるようになったという背景をふまえなくてはならない.

さらに言えば,具体的な事例を見ていくと,格差と不平等の差異は曖昧だ.例えば,男女格差と言われるもののほとんどは何らかの不条理を伴っているはずである.親と子どもの地位に連関が無い完全移動 *2が経験的に存在しないように,厳密に考えていくと,不条理を伴わない格差は存在しない.

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以下から余談.

だから英語のInequalityには不条理性があるかどうかで対立する格差と不平等の両方が含まれている訳だ(仮に不条理性のない格差があるとすればだが).別に,格差という言葉を使わずとも,不平等とそのまま訳せばいいと思うのだが,格差(社会)という,なぜか集団間の差異を強調するような言説が登場してしまった.そのことで,格差という言葉は巷では不平等よりも頻繁に使われる語になってきている.

ピケティの21世紀の資本を読み始めて,格差という単語が頻出していることに驚いている.辞書に格差の訳として出てくるgapは,学術論文ではほとんど出てこないことをふまえると,恐らくinequalityを格差と訳しているのだろう.それくらい,現代の日本では格差という言葉が人口に膾炙しているのだろうと推測している.


個人的には,格差という言葉を言説として用いるならまだしも,学術的な用語として使用することには以下の二点から反対している.まず,あまりに多くの人が色んな関係を指すために使用するために,何が格差で何がそうでないのかの収拾がつかないからである.一般読者を想定する場合にはなおさら格差ではなく不平等と訳すべきだと思っていたのだが,残念ながらピケティ訳本は格差が頻出しているので,今後ますます格差の用例が増えるように思う.

次に,「格差社会」には対義語が存在しないからだ.百歩譲って,個々の二者関係の間の格差という意味を認めた上で(これはおかしくない),さらに個々の格差が拡大している社会を格差社会と定義するとする.ここで重要なのは,「格差社会」とは「格差拡大社会」という意味であるという点だ.すなわち,格差社会とはあくまで,ある時点と比べて個々の格差が拡大している社会のことしか指せない.単に格差が維持されている社会を格差社会とすれば,どの社会もすべからく格差社会となってしまう.そして,現在の日本では,「格差縮小社会」を「格差」という言葉を用いて表現する方法はない.ところが,これまでの日本の歴史を振り返ると,個々の格差が縮小していく過程は「平等化」と表現されており,さしずめ「平等化する社会」とでも表現できる.そして「格差拡大社会」は「不平等化する社会」だ.仮に不条理性のない格差があるとそこに不条理性があるかどうかは問題になるのだろうか?

私は「社会」を単位として語る時には平等・不平等の二つで事足りると考えている.そして,平等・不平等は「個人」を単位にする時にも使用可能である.英語のInequalityにも社会レベルと個人レベル双方の意味が含まれる.ではなぜ,Inequalityをわざわざ格差と訳す必要があるのだろうか.仮に不条理性のない格差が存在しないとすると,格差という言葉は二者関係における差を強調する言説にしか過ぎなくなる.不条理性のない格差があるとしても,英語のInequalityには不条理性があるかどうかで対立する格差と不平等の両方が含まれている.以上より,私は学術系の論文で安易に格差という言葉を使用するのには反対の立場をとっている.

*1 本人が生まれたときないし,人生のある時期に非自発的な形で付与された地位のこと.代表的なのは身分.
*2 社会学で,親の職業や地位と子どもの関連性を見て,世代間で地位の移り変わりがどの程度生じているのかを分析する分野・ないし現象自体を社会移動と呼ぶ.完全移動とは,親と子どもの間に地位の関連が全くないことを意味する.例えば,ホワイトカラーの親のもとに生まれた子どもとブルーカラー出身の家庭の子どもとの間に,ホワイトカラー/ブルーカラーになる確率に差がなければ,完全移動が達成されているといえる.

文献

岡本英雄・直井道子編,1990.「序論」,岡本英雄・直井道子編,『現代日本の階層構造4 女性と社会階層』,1-12.
白波瀬佐和子,2005.「序 少子高齢化にひそむ格差」,白波瀬佐和子編,『変化する社会の不平等』,東京大学出版会.1-15.
橋本健二,2010.「一九六五年の日本」,橋本健二編,『家族と格差の戦後史』.青弓社.17-48.
原純輔・盛山和夫,1999.『社会階層』,東京大学出版会.

追記:格差という言葉は結局のところ出版社主導で多用されるようになったとの指摘を頂いたので、ここまで深く考え込む必要はないかも知れない。 同年2月17日

2月3日(火)世代間移動の現在地&ワークファミリーバランスの実験研究

Torche, F. (2015). Analyses of Intergenerational Mobility An Interdisciplinary Review. The ANNALS of the American Academy of Political and Social Science657(1), 37-62.

Torche, F. (2011). Is a College Degree Still the Great Equalizer? Intergenerational Mobility across Levels of Schooling in the United States1. American Journal of Sociology117(3), 763-807.


前者の論文では、社会移動と経済移動(Social MobilityとEconomic Mobility)の二つの世代間移動について議論している。前者は社会学者によって、後者は経済学者によって研究されている領域である。社会学者は、職業を移動指標として好む一方で、経済学者は所得・収入に注目している。後者の代表的な例は昨今話題のPikettyだろう(他には、Emmanuel Saez,Raj Chettyなど)。そう考えると、21世紀の資本の議論は社会学の移動研究と非常に近い距離にあることが分かる。職業を階級と地位に概念化した社会学の移動研究は60年代から盛んに行われているが、経済学における移動研究はこの20年の出来事らしい。

筆者は以下の四つの指標を用いた移動研究を紹介する。順にOccupational Status, Class, Earnings, そしてFamily Incomeである。これらの指標ごとに特徴はあるが、実利的なメリットとしては、例えばStatusの場合、収入などに比べて記憶され易く、信頼性が高い。いわゆる SESとして測定可能なものとして概念化されたStatusはアメリカの社会移動研究でよく用いられたが、地位では女性の方が男性よりも高い者につく傾向にある一方で、収入は逆を辿るという説明しにくさを克服できていないという。
Statusは階層的・連続的な指標として成立した一方で、Classは質的な変数である。これは、単一の階層的な次元に還元できないことを意味している。すなわち、Classという概念には表面的ではない水準の不平等を表現しているとされる。Statusや他の指標と異なって、Classの場合には質的な変数という条件のため、ログリニア分析などが用いられる。

Earningsは世代間の所得の移動を線形的に処理する。ここでは、回帰分析をした時に、親の所得の変化が子どもの所得の変化を部分的に説明することを指している。所得の問題点は、変動が激しいためたった一年やそこらのデータから得た所得だけを持って世代間の相関を見ても誤差が激しくなることが挙げられている。これに関しては、何年もデータを取る他ない。それ以外にも、年齢やライフサイクルにまつわるバイアスによって測定誤差が生じる危険性がある。

こうした所得の移動関係は親子の二者に注目していたが、徐々に世帯収入(Family income)と同類婚を考慮する必要が提起されて来た。Torche自身は先行研究をもとに、以下のように主張する。

Much research links analysis of women’s mobility with the question of assortative mating. Chadwick and Solon (2002) examine total family income mobility for sons and daughters and include the contribution of assortative mating to intergenerational persistence using a model introduced by Lam and Schoeni (1993). They find an income elasticity of around 0.4 for daughters and around 0.5 for sons. They also find that assortative mating based on social origins plays a crucial role for both genders, but a stronger one for women because a spouse’s contribution to household income tends to be larger for women than for men….In summary, research shows that the persistence of total family income is stronger than the persistence of individual earnings, and that assortative mating substantially contributes to intergenerational persistence for both men and women. This suggests that the family, rather than the individual, is a relevant unit of intergenerational stratification for both genders.


これら4つの指標は必ずしも同じような結果をもたらさない.Beller and Houtによれば、これらは社会経済的なadvantageの異なる側面を明らかにしている.アメリカは収入と所得の面では最も移動がないとされているが、階級移動という点ではある程度の流動性を持つ。また、イギリスでは階級移動は1958-1970年コーホートの間で変わっていないが、income mobilityは低下傾向にあるという。Blandenらの研究成果によると、この背景には階級で説明できない側面の収入の変化があるという。この例に限らず、四つの指標同士は多様で、相互の指標官の関係をめぐって議論がなされている現状を指摘する。また、世代間の指標の連関の強さは一様ではなく、例えば上層においては強く下層においては弱いなどの結果が吉良かになっている。

本人は明確に言明していないが、こうした非線形性を指摘した研究として、Torcheの後者の論文に注目できる。これによれば、階層研究が明らかにして来たことの一つに、親の資源の子どもの経済的なポジションに対する直接的な影響は大学卒業者の間でそれ以下の教育程度のものよりも低いか、全くないまでになっているというものがある。Torcheは1980年代までに明らかにされたこの結果が、教育年数の多寡という直線的な指標から同じ学歴内における差(分野別、選抜度別)という現代のトレンドをふまえてもなお通じるかを、先の上述の4つの指標を5つのデータを用いながら明らかにしている.分析結果は、これまでの知見を支持するものであるが、親の影響は学士以上の学歴を持つものの間で再び強まる傾向にあるという.親の影響力は、学士号保持者より修士号・博士号保持者にとって、選別性や分野、所得に強く影響するという。

以下、気になった文献をリストアップ。

Chadwick, Laura, and Gary Solon. 2002. Intergenerational income mobility among daughters. American Economic Review 92 (1): 335–44.

Beller, emily, and Michael Hout. 2006. Intergenerational social mobility: The United States in compara-tive perspective. The Future of Children 16:19–36.

Blanden, Jo, Paul Gregg, and Lindsey Macmillan. 2013. Intergenerational persistence in income and social class: The effect of within-group inequality. Journal of the Royal Statistical Society 176:541–63.

Björklund, Anders, and Markus Jäntti. 2000. Intergenerational mobility of socio-economic status in com-parative perspective. Nordic Journal of Political Economy 26 (1): 3–32.

Ermisch, John, Marco Francesconi, and Thomas Siedler. 2006. Intergenerational mobility and marital sorting. Economic Journal 116:659–79.


Hirvonen, Lalaina h. 2008. Intergenerational earnings mobility among daughters and sons: evidence from Sweden and a comparison with the United States. American Journal of Economics and Sociology 67 (5): 777–826.


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Pedulla, D. S., & Thébaud, S. (2013). Can we finish the revolution? Gender, work-family ideals, and institutional constraint. American Sociological Review 80(1).

この論文では、実験調査データを用いて、独身で子どもを持たない男女を対象に、就業継続以降とワーク・ファミリーバランスについての考えと企業の両立支援策の影響の関係を見ている。質的な研究から、女性の方が男性に比べて企業が両立支援を目指すサポート策を提示した時に、就労継続を希望する傾向にあることが分かっていた.この論文では、この知見を実験的な手法で検証したものである。

対象者は3段階に分けられた選択肢の中から、将来の配偶者とのワーク・ファミリーバランスについての質問をされる。
第1の段階では、選択肢は結婚せずに自立する、夫に稼得労働を依存する、妻に稼得労働を依存するの3つのタイプがある。
第2の段階では、これらの選択肢に夫婦で平等なだけ働くという選択肢が追加される。
第3の段階で、これらの選択肢に加えて、「企業の両立支援策」が提案される。

分析の結果は従来の知見を概ね支持するものであった。まず、第1の段階においては、男性において選択の階層差が見られる。低階層男性では自立よりも夫依存を選ぶ一方で、仲介そう異常になると自立を選ぶ。これは、低階層(労働者階級)の人々が未だ伝統的な家族間を保持しているからだとされている。

第2から第3の段階で、男性は平等主義を選ぶ割合に変化はないが、女性は階層差を伴わない形で、平等主義への移行が見られる。これは、女性にとっては企業の両立支援策が平等主義への移行にとって重要な鍵になることを示唆しているとする。

February 2, 2015

本郷ランチマップへの序章

・お弁当
おにぎり権兵衛 2個で300円程度
ほっともっと 300-600円程度
美味しい屋 500円弁当
インドカレー 500円
銀八(8のつく日)500-750円
棲鳳閣 常時400円
キッチンカー 気持ち高め

・外食(安め)600円前後
焼肉HANA
山手
こくわ
山上会館

・外食(まずまず)800円前後
ピグー
ココ・ゴローゾ
セサミ
Sign with me
ひろ武

・外食(高め)1000円前後
豚テジ
momo
ルオーのカレー
味噌煮込みうどん罠
牡丹苑
まるそ


あまり好みではないが知られている
いなかや
もりかわ
吉田豚汁


その他ラーメン
IZASA ☆☆
信濃神麺 烈士洵名 ☆☆☆☆
家家家 ☆☆☆
岡村屋 ☆☆☆
織恩 ☆☆☆☆

2月2日(月)2月の学術系イベント

学期が終わる2月は、学会はありませんが研究会や報告会のオンパレードです

今月開催される学術系イベントで気になったものをいくつか以下にメモしておきます。

2月7日(土)~8日(日)
アジアのジェンダーとリプロダクション
http://homepage2.nifty.com/~shirai/html/repro.html

2月20日(金)16時〜18時
Koen van Eijck 公開講演会 "Cultural Lifestyles: Resources, Boundaries and the changingmanifestations of social inequality"
http://socio.rikkyo.ac.jp/news/2015/01_000122/

2月21日(土)14時~16時
家族問題研究会例会 浅野智彦「若者の幸福の成り立ちについて」
http://jcfr.jp

2月23日(月)16時〜18時
Koen van Eijck 公開セミナー "Aesthetic dispositions:context and irony"
http://socio.rikkyo.ac.jp/news/2015/01_000122/

2015年2月23日(月)10時40分~18時15分
「『子どもの生活』『保護者の教育意識』にかかわるデー タの二次分析」
http://ssjda.iss.u-tokyo.ac.jp/secondary/briefing/2014/

2月27日(金) 13時半~17時20分
社研パネル調査プロジェクト研究成果報告会
http://ssjda.iss.u-tokyo.ac.jp/panel/sympo/

その他ソシオロゴス査読会議
http://www.l.u-tokyo.ac.jp/~slogos/sadokukaigi_annai.html

February 1, 2015

2月1日(日)

日曜社会学デビューの日でした。私は概念分析の社会学の作法に関して全く無知ですが、今日の第一報告は、シンプルに言うと、「なぜ社会調査で他の言葉ではなくAttitudeが概念として採択されたのか」という点と「見えないAttitudeをどうやって見える化していったのか」というのがRQ。

確かに、日本の調査では意識という言葉が多用されるが、英語でconciousnessなんて言葉は決して使わない。いわゆる意識調査で測られるのはSocial Attitudeだ。もしくは、階級(層)帰属意識はClass identificationである。英米圏でのClassとStratificationと日本の階級と階層が同じ区分とならない、日本でいう格差は実際には英語には訳せないなど、一見すると測定可能性という面で普遍的な社会調査にも、ある概念に規定されている部分が間違いなくあり、その違いを意識する方向性を示してくれた。報告自体はtentativeな印象でしたが、話題提供としてはよかったと思います。

第二報告に関しては、国際社会学機構という組織を全く知らなかったので、素直に勉強になったというのと、話の趣旨としてあった、この機構が20世紀初頭までに世界各地で社会学会の設立に寄与したという点に関しては、そうなのだろうと思いましたが、個人的に気になるのはその後。つまり、フランスに拠点があった機構は第1次大戦の影響でダメージを受けるのですが、そうした国際協会による収斂がうまくいかなかった過程と、各国、特にアメリカで20−30年代以降から40年代にかけて、今から見ると「アメリカ的な」社会学の基礎が築かれていった時代が重なっていた印象を受けました。今回の報告では、機構がアメリカ社会学に与えた影響について、ほとんどないという回答でしたが、個人的には戦争が無ければあり得たかも知れない影響を受けなかったことによって、アメリカ社会学はどのように差異化していったのか、と問いの形を変えると面白かったのかと思います。第一報告でも述べられましたが、亡命知識人の代表格として来たラザーズフェルドの頃には、こうしたアメリカらしい社会学は既にできていたということなので、やはり戦前から見ていく必要があるということではないでしょうか。

私たち社会学を修めるものは、さも当たり前のように社会調査を勉強するのですが、だからといって全ての社会学者が調査をしなくてはいけない訳ではない。そこで、必ず出てくる疑問は、どのような表現であれ「社会学と社会調査の関係って何?」というものです。これに対して、これまで合理的な説明を受けたことがありません。最近思っているのは、合理的な理由などないだろうということです。これは、歴史的な産物、さらに言えば、アメリカ的な社会学が生んだ産物だと、割り切った方がいいと思います。その上で、ではなぜ、徹底的にメソッドを重視する社会調査を基礎とする、アメリカ的な社会学が誕生したのか、その過程を歴史的に追うことは、意味がある訳です。

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懇親会の席も楽しかったです。今日食べた韓国料理屋はめっちゃおいしいって感じではなかった、よくある家庭的な店でしたが、ああいうゼミとか研究会のあとの懇親会会場は、単なる飯のうまさ以外の要素が大切なのだろうと思いました。たしかに妙に居心地はよかったです。いくら人の名前覚えられないからって、飲み会の席で発表者の名前聞き直してkwmrさんの失笑を買うみたいなミスは失くしたいなあと思いました。(言い訳をすると弱い眼鏡をかけてると姿形が同定できない)

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帰寮すると、オランダ人の寮生から相談。荷物が多いということで明日出発の彼が買った小さめのスーツケース、大きい方で既に重量制限オーバーとのことで私が4割引で購入した。帰省の時に小さめのが欲しいなと思ってたのでちょうどいいけど、先月断線して買いなおしたMacのアダプタやピケティだったり、ここ最近こまごまとした出費が多い。RAの仕事ではないと思うが、留学生がいらなくなった処分に手間がかかるものを譲り受けたり買い取ったりしている。これで、自転車2台とスーツケース1つ。2月の帰国ラッシュで、また何か貰うことになりそうだ。

土日双方休日充してしまったので、明日から気を引き締めていこう。