January 31, 2015

1月30-31日

金曜日にほとんど寝ないまま朝食を迎えると、外では雪が降っていた。中央線が悪天候のため遅延するかもしれないと察した私は、卒論の要約を出すべく、いつもより1時間ほど早めに学校へ向かった。雪は冷たく、目に見えるほどの粒で、群をなして地面に落ちていく。途中通った井の頭公園の池は、そこに雨が降っている時とは違って、雪の粒が音を立てずに水面に落ち、波を立てている。靴に地面から解けた雪が入るのに気をつけながら、予定時刻より3分ほど遅れた中央線快速に乗って大学へと向かう。



と、ちょっと自然主義文学ちっく?に書いてみるが、いかんせん文才が無いのでこれくらいにせざる得ない。見苦しいものを失礼しました。

ざっくりコンテンポラリーに訳すとこんな感じ。

金曜日、ほとんど寝まいまま朝食を迎えると、雪が降ってて、中央線リスクが頭をよぎった私は、卒論要約を出すべく、早めに学校に向かった。(雪の表現省略)。靴に水たまりになった雪が入るのに気をつけながら駅まで歩き、少し遅れた中央線に乗って大学へ。

その日はほとんど卒業パーティの企画で用が済んだ。

土曜日、12時に月島で腐れ縁の友人(略称:腐)と待ち合わせ。お互いいつも通り遅刻しあって、12時18分に駅の改札を出る。月島のもんじゃ麦で、2人前で3500円のセットを頼む、やや豪華な昼食。脳裏にsknrゼミのもんじゃ研修を思い出しながら、もんじゃ二つを平らげる。

食事後、清澄白河まで歩を進める。風が強い日で、橋を渡る時は自転車が吹き飛ばされそうなくらいだった。腐とは2013年3月にも清澄を訪れているのだが、今回も例に漏れず庭園へ。晴れていて、眺めは良かった。途中、休憩しながら腐の今後の人生について話す。

この5年間で、腐との関係は相談する側からいつの間にかされる側になってしまった。働きだす腐の人生は、不透明な部分が多く、人間関係を含め、この数年はとても大切になってくると思う。私は話を聴くことしかできないが、もし腐が精神的に疲れた時には、ちゃんと側にいてやろうと思った(し、鬱になったら厄介になると言われた)。5年も持ちつ持たれつの関係を続けているので、双方とも互いを親の次に理解しているくらいの仲である。親友といっても良いが、こういう友人を持てたことは、素直に幸せだったと思っている。


色んな話をして、道草で団子を食べ、ARiSEコーヒーというところで個性的な一杯を頂き、別れる。私は駒場で勉強、腐は飲み会のはしごをすることに。





January 29, 2015

1月29日(木)

久しぶりに家で作業、お昼を破産で英語論文を二つ読み、風呂に入り、部屋に戻って夕食のカレーを食べたあとに、11時前まで寝てしまい、その後に謝恩会の資料作成などで2時間、バイトのうち込みで4時間程度経過。そして、寝る。家にいても、論文をたくさん読めるとは限らないのだった。反省。

January 28, 2015

1月28日(水):韓国の同類結合、社会移動のJointアプローチ、移民出身の青年の交際

Lee, Sunhwa. 2001. “Women’s Education, Work, and Marriage in South Korea”, in Brinton, M. C. (Ed.). (2001). Women's working lives in East Asia. Stanford University Press. 204-232.

トピック:韓国の大卒層女性に注目した教育、労働、結婚の諸相
データ:ソウル14大学の卒業生の男女を対象とした調査(アタック数1000)
筆者は日本との比較から韓国社会の特徴について言及しているが、分析は韓国単独で行っている。上記データを用いた分析のうち、今回は結婚に絞ってまとめる。女性の高等教育について、筆者は日本では、Brintonの研究成果から、女性が短大に進学することは、短期のホワイトカラー職に就くという点で合理的であり、大卒に関しては必ずしもキャリア場の利点が見られないとする。一方で、韓国における大卒女性の増加の背景には、学歴の労働市場よりも結婚市場に置ける価値があるという。韓国は、特に高学歴層でのホモガミーが多い。そこで、分析では大学を3つのランクに分けてホモガミーの程度を測っている。驚くのは、435人の女性サンプルのうち、非大卒の男性と結婚していない人は皆無であるという点だ。これは、韓国における学歴がもたらす境界付けの機能の強さを物語っている。また、3つのランクそれぞれの内部でのホモガミーが確認された。筆者によれば、こうした事情の背景には、日本でいう大学を跨ぐ合コンのようなものが盛んに行われ、それは大学のランクによって秩序づけられているという。さらに、筆者は韓国社会で従来言われていた、男性は自分より地位の低い女性と結婚するというトレンドはもはや妥当ではないという。筆者は、結婚相手の学歴が持つ、女性の母親や妻としての役割にとってのシンボリックな意味を強調している。

Beller, E. (2009). Bringing intergenerational social mobility research into the twenty-first century: why mothers matter. American Sociological Review, 74(4), 507-528.

論文の主旨は、これまでの社会移動研究を振り返って、優勢だったconventional approach(出身階級に父親を採用する方法)では、アメリカの社会移動の現状を正しく把握できないというもの。Distortionを引き起こすと書いているので、かなり強気な印象。母親の階級が用いられてこなかった理由には、実際上の問題も存在する。筆者が指摘するのは、GSSでは94年まで母親の職業が聞かれていなかったという点である。筆者の社会移動の定義は流動性(fludity)すなわち、出身階級に影響される形で、個人がある到達階級に至るチャンスの程度である。社会移動には、絶対的に望ましい値が設定できないため、必然的に分析は一社会の通時的な分析か、国際比較か、その両方になる。あくまで比較をしなければ流動性があるかどうかを判断できないのだ。日本の階層研究でも知られているように、出身階層を父親のものにするのか、父と母のうち優勢な方にするのか、それとも父母両方を用いるのかは、これまで理論的、実証的に研究がされてきた。筆者によれば、これまでの議論の限界は、It focused on adults’ class position without also considering the position of children であるという。この主張は、昨日のANNALS特集論文でも指摘されている、社会移動は子どものライフチャンスに着目するのであって、出身階層それ自体に関心を持つと見誤るという点と非常に共鳴する。またこれまでの議論では両親館で階級が異なる場合が問題にされた一方で、階級が同じ場合は考慮されなかったという。この二点は、かなりクリティカルだと思った。例えば階級が、上層の専門職のカップルの場合には、子どもに伝達される資源は相当なものになると考えられる。このように、仮にJoint approachを採用する場合にはホモガミーカップルに注目する必要があるとする。その上で、筆者をこの見方を支持するような先行する実証研究を紹介して、先ほどの主張と同じようにConventional approach, however, would actually be less problematic if maariage were random with respect to class. Class-based assortative marriage patterns mean that the measurement error produced by the conventional practice is not randomと主張する。結婚がランダムに生じない以上、conventional approachはやめた方がいいと言っているのだ。その後は、ログリニア分析を用いた実証に入るので、ひとまずここで割愛する。

論文としてはとても面白いが、私の印象だと、これまでのconventionalなのかjointなのかと言った問題は、女性の階級を決める際に夫のものを借用するかどうかという議論で、従属変数に階層帰属を用いるものだと思っていたので、これを社会移動に限定する話は新鮮だった。SSM1995の論文なんかはそうだと思うが、もっと昔の論文を探ってみる必要がある。

van Zantvliet, P. I., Kalmijn, M., & Verbakel, E. (2014). Early Partner Choices of Immigrants: The Effect of Preferences, Opportunities and Parents on Dating a Native. Journal of Ethnic and Migration Studies, (ahead-of-print), 1-23.

トピック:欧州四カ国の移民の背景を持つ14歳生徒のintimate relationshipの規定要因
データ:CILS4EUから、移民の背景を持つ子ども1896人(英、独、蘭、スウェ)
分析枠組み:Kalimijn (1998)の選好、機会構造、親の影響フレーム
仮説:
・保守的な文化的志向をもつ青年はネイティブの相手を持ちにくい
・親が現居住国に統合されていれば青年はネイティブの相手を持ちやすい
・近隣・学校のネイティブ率が高ければネイティブの相手を持ちやすい
・学校のネイティブ率が高ければネイティブの相手を持ちやすい、相手が同じ学校の場合この影響はさらに強くなる

欧州を対象に分析をする理由としては、若年層のinterracialな恋愛はアメリカしかデータが無かったという事情もあるが、やはり選好も社会化の中で形作られる以上、大人期だけではなく青年期も見た方が理解が深まる、また大人の時期に置けるintermarrigeを説明する要因の大部分は、青年期に形成されている可能性(例えば、パートナーが自分が通った学校から選ばれる場合、その学校の人種構成が問題になる)を指摘している。

選好や親の影響の操作的な定義は省略するが、青年期のため、選好が家族形成に関する価値観などになっている。親の影響は、親が信じている宗教(キリスト教、イスラム教、その他、無信仰の4種類)や親がmixed unionかどうかで測られている(どちらかというと間接的)。子どものエスニシティは自信による定義となる。分析の結果は、親の宗教の効果は女性の恋人選択にだけ影響を与える、保守的な価値観を持つとネイティブと交際しない、親がmixed unionだとネイティブと交際し易い、近隣と学校のネイティブ比率はポジティブに影響する、等が分かった。

January 27, 2015

1月27日(火)

今日は教育学研究科に進む友達が、比教社ではランチ食べながらゼミをやるという話をしてくれた。ブラウンバックみたいな、インフォーマルな形式の方が、発表する方も聴く方もリラックスして、聞きづらいことも言い易くなる気がする。私の周りにも、そういうのが週1-2回あってもいい。

つらつら考えていたこと。

寮では、朝夕食のときに日本人と留学生が一緒になっても、会話が生まれない。英語で何かやる授業でも、なかなか日本人の人は発言してくれない。何か、話しにくくさせるような共通の要因があって、それをいじれば両方とも改善するような気もする(毎回自分がいなければひょっとするとみんな話しだすんじゃないかと思ったりしますが)。

海外に一度も行ったことがない、英語で外国人と話したことがないという人が、いきなり授業で英語で質問できるかというのも無理な話なのは分かる(自分もそうだった)。ではどうやったらいいのか。最近は、どうやったらじゃなくて、もはや本人のパーソナリティがでかいのかも知れないと思うように...
あんまりアドバイスとかできる人間ではないので、日本語を使える人がいない環境に一人で入ってもがくのが一番いいなと思う。隣に、すごく英語ができる日本人がいてもいいかも知れない。やっぱ日本の人って(特に男性?)周りの目気にしがちだから、そういうのを無くせばいいんじゃないかと思う。

まあでも寮の人たちは特に上達したいという訳でもないから、片言でもいいから一緒の寮に住んでいる人と分け隔てなく話せるようになって欲しいなあ。

母語干渉というのだっけ、外国語を話す時に母語で考えてしまうこと。正しい英語を話そうと思うと、頭の中で文章組み立てちゃうし、割とそれって日本語で思考しているようなもんだなと思う。あと、プレゼンで原稿読むのも、あまり本人のためにはならないような気もする。今思うと、3-4年前に京論壇で北京行った時の英語、今と比べると相当ひどかったと思うんだけど、周りは別に話せるじゃんと言ってくれたし、実際なんとかなったので、当時の自分は話せるみたいに思ってたんだろう。多分、3年後の自分とか、今の自分の英語は話にならないとか思ってるんだろうなあ。


今日は、英語のアカデミックライティングの授業で、プレゼンがあり、その際に日本人の人がほとんど質問してなかったので、こういうことを思いました。

1月27日(火)ANNALS社会移動特集&欧州のオンラインデーティングにおける人種選好

Mare, R. D. (2015). Measuring Networks beyond the Origin Family. The ANNALS of the American Academy of Political and Social Science, 657(1), 97-107.

この論文で、Mareは社会移動の研究対象を、従来の同居する親子という二世代から、子どもから見た時の祖父母のような複数の家族性印との関連から移動のパターンを見ることの必要性を説いている。
彼の定義を借りれば、社会移動研究の主要な目的は、世代内・世代間にわたって見られる個人と他の社会的な構成体の社会経済的地位とその位置づけの連続性、非連続性について検討を加える事にある。しかしながら、ほとんどすべての社会移動研究はこれまでtwo generation perspectiveという視点、つまり親と子どもの間の連関を問うていた。_Mareによれば、この視点に基づく研究は以下の様な想定を共有していたという。第一に、個人と核家族メンバーの連関にくらべて、その個人と他の家族員との関係は弱い。第二に、社会移動にとって関係のあるような家族ネットワークは事前にわかっており、時代と場所を問わず安定的に推移している。第三に、社会経済的地位の影響は個人と家族メンバーとの間の同居を必要条件としている。第四に、親の社会経済的地位の影響は、親子間の連関から十分に測定できる。
このように既存の議論を整理した上で、Mareはある条件下では、親以外の家族メンバーも移動に影響を与えると主張する。これに関して、彼は以下の二つの先行する研究潮流を紹介する。まず、家族の不安定性が増す現代においては、必ずしも親子間の紐帯が安定的に持続するとは考えにくいという立場からの研究である。例えば、従来の研究では懐古的な質問を取る場合に父親が不在の家は分析から除外されていた。次に、世代間移動に関する母親の影響力を強調する議論を紹介する。このように、必ずしも世代間移動を父親と子供のに世代に限定する理由はないとする。
その上で、Mareは自身の研究を持ち出し、こうした世代間移動の研究を拡張する流れに、複数世代を加える視点を位置づけようとする。ただし、彼自身が強調するように、祖父母の影響力は時代と場所によって異なる可能性に留意し無くてはならない。さらに、Mareは従来の研究では、定位家族、生殖家族の双方を対象とした世代間移動に関して、親子が一緒に居住しているという点を前提にしていたと考えている(その直後で、MareはDemography of social mobilityについて説明しているが、この点はよく分からない)。

以下に引用するようにMareは社会移動のメカニズムを明らかにすることよりも、家族メンバーについての豊富なデータを得る必要性を問うている(これらは対立しないが、Mareの力点はそちらにあるということだろう)。
The study of detailed mechanisms through which socioeconomic inequality in one generation are transmitted to the next generation remains an essential area of research. Given the broad goals of a new mobility study, however, I believe that the detailed study of mechanisms should be subordinate to obtaining the best possible data on continuities and discontinuities in the socioeconomic statuses and positions of families. Other types of networks and the identities and characteristics of influencers have been successfully explored using detailed longitudinal data on a more limited set of cohorts than is likely to be covered in a new national mobility study.

最後に、Mareはどのようなデータを使用できるのかについて述べる(省略)。


Hout, M. (2015). A summary of what we know about social mobility. The ANNALS of the American Academy of Political and Social Science657(1), 27-36.

Mareと並ぶ西海岸の大御所による社会移動研究の現在地の確認。
彼は始めに、「誰が上昇移動をしているのか」(moving upという会話調でもいいような言葉なので、上昇移動の四文字で表すにはちょっと仰々しいが、成り上がりとも違うので、うまく訳せない)を問うことは、魅力的なものだがあらぬ方向へと注目を向けてしまう誤ったものであるとする。なぜなら、社会移動の条件の一つに機会の平等がどれだけ分配されているかという点を求めたとしても、上昇移動はこれよりも経済成長に依存しているからだ。そのため、この問いは「どの程度、若年期の条件や環境(Social Origin)が大人になってからの成功を制約するのか?」というものに変更されるべきであるとする。彼によれば、Social Originに着目することで、以下の三つの点から私たちは機会と平等という問いを理解することができるという。まず、この考えを受入れることによって、父親や母親それ自体に関心を持たずに、その子どもの成功に対する影響という観点に集中できる。言っていることがよく分からないかも知れないが、噛み砕いて言うと、親に注目してしまうと、しばしば無駄に彼らが学位を取ったり、収入を得た期間に目がいってしまうということである。第二に、Social Originという概念を使用することで、親子間で連関するような変数という視点を超えて、出身背景が機会と平等に影響を及ぼす若年期の環境に与える影響に焦点を当てられるからである。これも当たり前なのではないかという気がするが、残念ながらまだ一つある。第三に、社会移動が上昇移動を通じて進歩をもたらすといった混乱を避けることができる。

その次にHoutは、社会移動を分析する際に、単に収入や職業カテゴリの親子間の連鎖ばかりを計算しているだけでは無意味だと言う。なぜなら、いったいどの環境要因が成功を妨げているのかを明らかにしなくてはいけないからだ。このように主張した上で、彼は何が重要な要素かを述べている。これは当たり前なものばかりだが、経済的資源、雇用環境、遺伝、過程の文化的背景、家族構造(これに関しては、複雑な影響プロセスについて言及している)、非居住の親戚の存在、居住地域、人種や国籍、そして生年(どの年に生まれたのか)、以上のすべてが影響する。そして、これらの影響は時代を通じて一定ではなく、変化を伴っている。

次のプロセスは、データ収集に関わる。以上から最低限必要なのは、親の収入や職業、そして学歴となるが、収入は他の二つに比べて、回答の信頼性が低いことが指摘されている。信頼性という観点では、tax recordsのような政府系のデータの方が信頼できるという。これに加えて、調査では家族構造について尋ねることが寛容である。モデリングと推定に関するところは省略。全体的に、割と当たり前のことで情報共有に等しい。

Tach, L. (2015). Social Mobility in an Era of Family Instability and Complexity.The ANNALS of the American Academy of Political and Social Science, 657(1), 83-96.

Houtが延べ、Mareが強調したように、家族構造や社会移動にとって非常に重要な意味を持つ。しかし同時に、アメリカ、及び多くの先進諸国における家族は、この数十年の中で大きな変化の渦の中に巻き込まれている。筆者はアメリカを事例としながら、変化として離婚、子どもを持たない家庭、そして同棲の増加をあげており、特に離婚と同棲の増加は家族の不安定性(Familuy Instability)を助長しているとする。これは、家族の形態が多様化すること及び、子どもの社会かのプロセスが複雑になることを示している。このような事態に直面した階層研究者にとって必要なことは、いかにして、複雑化・不安定化する家族構造をどのようにして出身階級と到達階級を測定するかという問題、及びどのようにして非伝統的なタイプの家族が階級と関連するような性質を次世代に移転しているかを考慮する必要があるとする。自分からすると、割と当たり前なことをいっているだけだが、家族の多様化よりは複雑化の方が客観的な表現で好ましいと思った。アメリカにおける離婚と親との非同居、離別後の家族形成(serial pertnering)、multiple-pertner fertirity(女性が異なる二人以上のパートナーとの間に生まれた子どもを持つこと)が階層形成に与える影響についてのレビューはフォローしてなかったのでとても参考になる。

Potârcă, G., & Mills, M. (2015). Racial Preferences in Online Dating across European Countries. European Sociological Review, jcu093.


eDarlingというヨーロッパを中心に展開しているオンラインデーティングサイト のデータを使用して、欧州9カ国(ドイツ、スイス、オーストリア、スウェーデン、オランダ、フランス、スペイン、イタリア、ポーランド)を対象に、オンラインデーティングにおける人種選好についてのマルチレベル分析を行った論文。特に仮説めいたものはなく、どちらかというと、これまで先行研究の多くはアメリカの事例や、ヨーロッパの各国に基づいており、研究の意義をヨーロッパ内の多国間比較に置いている。例えば、移民の増加というヨーロッパ的課題はどの国にも少なからず言えるが、9カ国を用いる積極的な意義としては、言及されていないが恐らく比較を行う最後の理由としてあげられている、国ごとの統合政策の際などに注目しているのだろう。サンプリング方法は87万超のユーザーから、分析に使用する項目を全て答えている5.8万のサンプルの中から、ヨーロッパ系はランダムで、非ヨーロッパ系(アフリカ系、アジア系、アラブ系、インド系、ヒスパニック系)はその少なさからすべてを用いて分析をしている。従属変数は、パートナーとして選好する人種で、分析では、インド系とアジア系は広義のアジア系として統合されている(まあ東アジアの人がインド系と同じraceにされるのにはちょっとなあという感じもしなくもないですが)、またその他は除外され、計5カテゴリで多項ロジットを回している。探索的な分析から分かるのは、以下のようなことがらである。まず、従来の研究が指摘するように、人々は同じ人種の人を好む、人種間でハイラーキーがあることが分かった。各国の際も見られ、例えばもっとも人種的に多様なスイスでは、異人種選好が最も多く、人種的に均質なポーランド、イタリア、スペインでは逆の結果が見られている。また、非アラブ系のマイノリティは全体の人口に占めるその人種の割合が大きい社会の場合、強いヨーロッパ系への選好を持っていることが驚きとして指摘されている。

January 26, 2015

1月26日(月)その2(政治学の事例研究)

某JK氏から昨年「市民を雇わない国家」を出版された(社会学専修出身の)前田健太郎氏の論文を読んでいる。「事例研究の発見的作用」というタイトル。



以下メモ。この論文では、KKVのIVがDVに与える効果を推定するような、事例研究の因果推論・仮説検証的な考えに対する批判を展開している。事例研究には、DVに影響を与える、これまで未知だったIVを見つけるという帰納的な、発見的作用があるとする(Skocpolの研究など)。

KKV的な枠組みへの批判は以下からなる。まず、厳密な仮説検証型の場合、新たな原因を見つけることは原則としてできない(=未知のIVを発見できない)、KKVに従うと、IVに従って事例を選択しなくてはいけないからである。

その上で筆者は、事例研究の発見的作用(未知のIVの発見)を活かすために、先行研究で言われてきた理論からは説明できない「逸脱事例」を持ってきて、本来説明されるはずだったメカニズムが逸脱事例でなぜ通用しないかを明らかにするための新たな独立変数を探す戦略を提案する。要するに、Aという事例においてXがYに与える影響が確認されているのに、Bという事例ではこれが見出されない。事例研究ではZという新しい説明変数を持ってくればよいとする。それで、この考えは厳密なKKV的な事例研究とは鋭く対立するという主張である。

その上で、筆者は何かが生起するという意味での出来事(event)と安定して存在する状態という意味の事実(fact)を区別する。統計的な分析では、事実レベルの事象(例えば自治体の女性職員の割合)は独立変数の値をいじることで、事実を出来事的に語れる。しかし、事例研究にはそれができない。反対に、事例研究で事実的な事象を選択する長所もある。それは、(計量分析の範疇では捉えられない)重要な事実を選択できる点であり、その際には事実を出来事の結果として記述しなおす戦略が有効であるとする。恐らく歴史的な事実が成立したメカニズムを明らかにするのに事例研究が役に立つという主張だろう。

個人的な印象だと、社会学ではあまり事例研究という言葉は使わず、仮に計量分析みたいなものと対置するのであれば、質的研究という。政治学は基本的に実在論的な視点に立っていると思うので、いわゆる個人の理解や意味付けに注目するような質的研究は、そもそも比較できない。歴史社会学が一番近いかもしれない。もしくは、ドーアのような比較社会学。

事例研究は逸脱事例に注目せよというのはそうだと思うが、そもそも社会学でKKV的な枠組みの事例研究がどれだけ支持されているのか分からない。やるとすると、検証したいIVによって事例を分けて(国とか地方自治体とか、あるいは労働者階級と中産階級みたいな集団カテゴリ)質的に分析するか。

KKVの教えを守ると、事例は多ければ多いほどいいということになるが、社会学的な質的調査だと、事例選択にコストがかかりすぎる印象をもつ。最近読んだものだと、親と同居する未婚者の増加を6カ国の比較で扱った「親元暮らしの戦略」とかがよい事例だと思うが、一人の研究者が6つの国に向かうのはちょっとコストが大きい。

結論としては基本的に賛同なのだが、社会学ではそもそもKKV的な枠組みに準拠した研究が少ないので、まずは質的研究も因果プロセスに注目した分析をしてみようかという段階なのではないか。なので、相対的にこの議論の効用が薄いかもしれない。

1月26日(月)Writing for Social Scientists

H.S. ベッカーの上記タイトルの本の一部の要約。

Ch. 2 Persona and Authority

第二章で、ベッカーは指導学生の論文に手を入れてその学生に返したというエピソードから始める。ベッカーは論文を簡潔かつ明確にするよう手を施したのだが、学生曰くそこに法則性があるのかがわからないという。これについては、ベッカーも同様の意見を持ち、学生と議論をした所、彼女は自分の文章の書き方の方はClassierだと述べた。後に、彼女がベッカーに送った手紙の中に、以下のような事が書いてあった。彼女は、カレッジにいた時に、哲学の先生を非常に利発だと感じていたのだが、その理由は先生が「むつかしい言葉」を使っていたからだという。彼女にとって先生が利口そうに見えたのは、彼女が彼の言っていることを理解できなかったからなのだ。

ここからベッカーは自分の議論を始める。教育機関という組織の中では、教授は学生よりも知識があり、彼等を指導する立場にあると考えられる。したがって、学生たちは先生の言っていることを真似ようとする(社会化)。教授達のこむつかしい文章は彼等を集団から境界づけるエリート主義に思われることもあるが、将来自らも研究者になろうとする学生にとっては、模倣の対象となってしまう。知識人として生きようとすることは、人に自分をスマートに見せようとさせてしまう。

学術に携わるもの以外にも、このようにある特定の文章表現をすることを通じて、自分たちがどのグループに属しているかを示す仮面(ペルソナ)をかぶり、時に権威を発現する。ある分野に詳しい者は、さも物知り顔でしゃべることで、その領域に対する優位さを他の人に確認させているのだ。ベッカーが述べているのは、私達が文章でとるスタイルは、読者を意識したものであり、言い換えればどう読み手に見られたいかという期待を反映したものであるということである。また、ベッカーは最後に、時として研究者の文章は権威を示そうとするだけではなく、自分がどの学派に所属しているかをシグナルとして送ることも述べている。

Ch. 9 Terrorizd by the Literature


第9章はタイトル通り文献(先行研究)とどのように取り組むのかについて書かれている。ベッカーははじめに、ゴフマンが授業である文献について触れた時に、シカゴの大物だったワースが「それはどの版のだい?」と尋ねたエピソードを紹介し、先行研究に触れる際には注意深くなければならないとする一方で、自身の研究のオリジナリティを示すときには、社会学の伝統に自らの考えを脈絡づけ、その伝統の中で問題が検討されていないことを示す方法を勧める。ベッカーは、Stinchcombeという人物による、6種類の先行研究の用い方を紹介するが、これらはどれもどのようにしてリサーチトピックに関連する文献を「使うか」については答えていないとする。

ここからがベッカーの主張だが、まず始めに彼は、学術研究とはたった一人の研究によって革新が起こるわけではなく、それまでにはいくつも研究の蓄積が必要だとする。これは先行研究の蓄積を用いる必要性についての部分だが、肝心のうまい使い方には以下のように述べる。まず、論文で新たな主張をしたい場合には、新しければ新しいほど人びとの興味は失われしまう。人びとはこれまで議論されてきた問題に関心があるからだ。その上で、彼は木工を例にしながら、先行研究の用い方について述べる。ある木工物を作りたい時に、いちから作るのでは時間がかかるし、そもそも全てのものを自分で作る必要はない。なぜなら、部品の一部はすでに誰かによって作られているからだ。

彼曰く、論文である主張をしたい場合にもこれは通じる。もともと議論され、構成された概念や理論はパッチワーク的に自分の論文に使っていけば良いとする。このように、既存の文献を用いる利点は、新しく仰々しい専門用語を作らなくて良いことにあるというベッカーは、次に文献の悪い面について述べる。それは、余りに過去の研究を真剣に考慮しすぎてしまうと、自分の主張を曲げてしまうという本末転倒な事態を招くかもしれないからだ。ベッカーは、文献を用いつつ、あくまで自らの主張を内的に一貫させる必要性を説く。

及び、先行研究は往々にして論文を書く人よりもイデオロギー的なヘゲモニーを持っている。すなわち、先行研究で用いられているようなアプローチのほうがリーズナブルだと考えられるのだ。そのため、先行研究の概念を、異なるアプローチで応用する場合には、何故先行研究に純粋に従わないかをきちんと述べる必要があるとする。

January 25, 2015

1月25日(日)その2 家族研究の分類について

院試の勉強会で、家族の分析視角として制度的に見る見方と実態を見るものの二つがあると言ったことがあったが、ひとまずこのような区切りは日本では戸田貞三くらいまで遡れるらしい。以下メモ。


戸田の「家族構成」は昭和12年の出版だが、彼によればそれまでの家族生活に関する研究をしている人は、「家族生活と家族外に存する社会的諸生活形式との関係」(具体的には、「主として家族の成立存続または分解に関する外部的社会制度の研究であるか、然らざれば家族生活上の機能と国民の生活上の要求との関係の研究である」(以上 17)に限定されていたという。しかし、家族員を非打算的に集団を構成するものと考え、「人類の強い欲求」にもとづいて現れると考えた戸田は、家族集団の外部にある制度をこれを一定の方に組み込むための手段であり、したがって家族がそれ自体としてどのような内部に見られる集団的特質を持ち、いかなる機能を持つかを分析する必要を訴えている。これは、家族間の相互作用もあるだろうし、純粋に核家族などの形態も含むだろう。

要するに、制度と実態という区分が二項対立的に見えない場合は、一つずらしてこれを家族から見て外部なのか内部なのかという違いから理解するとよいということになる。

1月25日(日)

研究の方向性をまた考え直している最中だが、自分の問題意識は、配偶者選択のパターンとそれが世代間の不平等にどう影響するかという点にある。それをすっきりと書いているのが、Gøsta Esping-AndersenのThe Incomplete Revolutionの一節だ。以下に、該当箇所を引用しておきたい。


"Ongoing change in family structure may also contribute to polarization. ... A second trend is the increase in marital selection, particularly with regard to educational homogamy. This is especially pronounced at the top and the bottom of the social ladder so that, at one end, we see a concentration of two parents with strong human capital and, at the other hand, a concentration of parents with little education. This should widen inequalities, not only because of the gap in earnings power, but also due to employment patterns. As I discussed in chapter 1, in most countries the revolution of women's role remains incomplete in the sense that the lifetime career commitment that higher educated women now embrace has not extended to the less educated. When we add to this the far greater probability of male unemployment at the bottom, we see here a major source of polarization. The key lies in the degree to which women's participation is socially skewed. Where, as in Scandinavia, virtually all women work, polarization is muted; where, as in most countries, female employment is concentrated at the top, the gap becomes large....Marital homogamy is also likely to polarize parental dedication to their children. As mentioned earlier, there is clear evidence that highly educated mothers and fathers dedicate much more time to their children, in particular with regard to what we might call development time, that is, active stimulation."

Quotes from Gøsta Esping-Andersen, 2010. The Incomplete Revolution: Adapting to Women's New Roles. Polity. 119-120.

Esping-Andersenの考えだと、ホモガミーの不平等への影響は各国の女性の就労率によって異なる。スウェーデンやデンマークといった北欧諸国では、どの学歴の人でも働くような社会であるため、世帯感の格差はそこまで大きくならない。一方で、多くの国々(この中に日本は入らないと思うが)では、高学歴女性のみが就労する傾向にある(未完の革命)。そのため、同類婚は世帯間格差を拡大する。
これに加えて、高学歴層では女性に加えて男性も子育てに対するdedicationを行うため、発達期の(もしくは子どもの教育が最も私事化されている時期の)子どもの教育にも影響がある可能性が指摘されている。

将来的には、これをきちんと確かめるための国際比較をしていきたい。

January 22, 2015

1月22日(木)その2

珍しく本日二つ目。

今日の授業はアジア学生調査のワークショップのプレゼン練習で、英語での議論だった。

ひとまず内容は省略するとして、毎回この手のディスカッション主体の授業になると、自分の議論のスタイルについて、終わった後に反省してしまう。

自分の議論の良い点は、アグレッシブさだと思う。ひとまず、思いついたらすぐ発言する。頭の回転は遅くはないから、何かありますか?と言われた瞬間に、いつも手を上げていることが多い。この習性は、駒場の時の高山ゼミで、すごい緊張感の中、全く発言できなかった時の辛さや、その中でも勇気を持って論理的に喋ろうとした経験をすると、緊張感が無い場ではすぐ発言できるようになってしまったことが原因である。

議論に積極的に関わろうとする姿勢は,個人的には肯定的に見ている。なぜならば、議論の口火を切ることができる人は、なかなかおらず、自分にはそういう役割もあると思っている。また、自分自身が話しながら考える性格のため、発言しないことにはうまく前に進めない。ただ、最初に思ったことが間違っていた時に、なかなか修正しようとしない癖がある。

その癖の原因は、私は他の人に比べて、質疑応答の時間を異なる意見を持った人が互いの意見をぶつける場だと思っている節があるからかもしれない。もちろん、相互に交流のない議論は意味がないと思っているから,自分なりに建設的な意見を述べようとしている。しかし、どうしても相手の発表の良い点をただ誉めるよりも,批判的に議論できる点に注目がいってしまうし、先のように,自分のなかなか主張を曲げない性格である。

しかし、相手の言うことに素直に納得して、ああそうですねといってしまうと、会話がそこで終わってしまう。特に英語になると、時に攻撃的になってしまうのは、議論のリードを渡してしまうと,他のネイティブの人が参加して,後手に回ってしまうからだ。他の質問者の意見を聞くことも必要だが、それでも、ややもするとがめつい感情が無ければ、多くの参加者が発言しまくる欧米っぽいスタイルの議論には対応できないと思っている。なので、自分で言いすぎだなと思いつつ、意識としては隙があればすぐ発言をする意識を常に持っていなくてはいけないと考えている。


議論がうまくかみ合えば、相手もそこまで不満には思わないが、問題は議論が噛み合なくなった時に、それを調停してくれるような第三者がいないと、議論が平行線を辿ってしまうことが多いからである。自分自身も、どこかでブレーキをかけなくてはと、反省している。

1月22日(木)

帰り道で今日の4限で今学期の授業が全て終わったのだということに気づいた後にすぐ、5年間の大学生活の授業も終わったのだと気づいた(ただし、まだ英語のプレゼンと卒論報告会が2つずつ残っているし、レポートもある)。

振り返ってみると、やはり一生懸命勉強した授業は思い出に残っている。駒場の時は、1年半続けた高ゼミと2年の夏学期に社研講座として開かれた、宇野・五百旗両先生による「災害復興の政治学」、どちらも予習の量がとても多く、前者では議論する力、後者では資料(史料)の読み方を培えた。それと、山本泰先生のHaralambos & HolbornのSociologyを読む授業は、当時としては常に英語文献なのは辛かったけど、今でもたまに読み返して、日本の社会学の教科書との違いを見る時に使っている。

本郷に来た後は、基本的に社会学専修の授業をとっていて、良くも悪くも今まで自分が面白いと思っていたスタイルとは違っていて、戸惑う期間は長かった。一番の思い出は教育学部の授業で、川本隆史先生のロールズ正議論を読むゼミだった。駒場の時にサンデルの講義を聴きに行ったり、本郷のゼミで政治哲学の教科書の文献購読をした後で、当時気になっていたAdam Swiftという人の家族内の不平等形成に対する政治哲学の議論について報告したら、とても面白いといってくださって、それが本当に記憶に残っている。

マンチェスターでは、Nick Crossleyの院の授業を聴講させてもらって、そこでは社会学における認識論と存在論を、彼なりに正面切って扱っていて、本当に勉強になった。ちなみに、なぜか大学のカフェで毎回議論していて、この経験は初めてで新鮮だった。

それ以外にもたくさん面白い授業はあったし、これらは必ずしも今やっていること、これからやることにダイレクトには結びつかないけど、自分の中では、今の自分にとり役に立つというのと、後から振り返って強く記憶に残るものは独立だと思う。さらにいえば、当時役に立つと算段して選んだものは、振り返ると実はあまり思い出に残らない。前者で学んだことをものにしているから変なノスタルジーを感じないだけかも知れないけど、大きいのは、授業に参加しながら自分の考えが段々と相対化されていく経験が、ありありと残っているからだと思う。

January 20, 2015

1月20日(先行研究にまつわる諸表現)

「先行研究」をどうやくすかと、手前味噌に始めてしまったので、それにまつわる表現(どちらかというと口語)のメモなど。こないだの授業で取ったノートから。日本語の「〜〜についての研究領域」というのはliteratureだけではなくbodyという言葉が使われているのが印象的である。growing body of literatureなんてのは、なかなか日本人では言えない表現かも知れない。こうやって徐々に増やしていきます。

先行研究の紹介
There is rapidly growing literature on...
Some (of) common findings in... are
Another body of literature (for ...ing)... is ...
There is an evidence that shows...
There is growing body of literature


使用するデータの紹介
This is the best data available (because...)
What we are actually looking at is ....

研究の意義
The novel contribution of this paper is ....

勉強勉強。


January 18, 2015

1月18日(日)

家で篭って勉強、先週日曜に引き続き、夕食はトムヤムスープを使った麺料理。今日は食べきりサイズのスモークタンを具材に入れたのだが、結構おいしかった。

2、3月は研究会、ワークショップ、同窓会月間であるらしく、この日時点で既に、院試が終わった日の翌日から、数十-百人規模の同窓会が4つ、研究会が2つ、ワークショップが2つ、シンポジウムが2つ、調査報告会が2つ入っている。これに、ゼミの卒論報告が計3日間あり、すでに4分の1程度は予定が入っているので少し驚いた。予定が入っていること自体はこれまでもあったが、個人的には2-3月というのはのんびり過ごす期間だったはずなので、自分が発表する機会は少なくとも、色々下準備をしなくてはいけない。これと並行して、(筆記に受かれば)面接の対策が待っている。

January 17, 2015

1月17日(土)

きょうは、みんなでおすしをたべにいきました。
とてもおいしかったです、またいきたいです。

あー、院試勉強...

January 16, 2015

1月16日(金)過去・現在・未来

ドイツ語の単語を一通りまとめて少し気が楽になった。残り1週間。卒論が終わって、帰国以来ずばっと駆け抜けてきた過去(Vergangenheit)を振り返ることも少なくない。同時に、この先の未来(Zukunft)を想像しながら、自分は何をしていこうか、考えることもある。しかし、残りの6日間は、現在(Gengenwart)に向かって集中しなくてはいけない。このブログを見ている人がどれだけいるのか、分かりませんが、この1週間こいつ頑張ってるんだなと、陰ながら応援してくださると嬉しいです。

水に流せないような、ひどいことをしてしまった人には、何も弁解することもできないのですが、せめて、そういう過去もあったよねと、忘れられないけど、今はひとまず棚に上げとくねと、将来また仲良くなれたらねと、そうなれたらと思っているこのごろです。

January 14, 2015

「先行研究」はどう訳す?

英語のライティングは難しい。とりわけ、文法的には間違っていなくとも、この文脈ではこの表現が好まれるとか、もっと素朴に名詞の可算/不可算などはいくら英語を読める人でも、なかなか掴めていないのが実状ではないだろうか。
このあたりは、学習時間に比してあるレベルを設定できるというものでもない。例えば、おおよそ社会科学を勉強している人ならば、economicalが「経済学的な」という意味を表さないことは知っていると思う。つい、politicalと同じ調子でeconomicalと書きたくなるが、これはお金の価値に関連した経済的という意味、さらには「節約的」という意味の経済的という意味であり、economicsに関連する形容詞はeconomicだ。こうした似たような言葉の意味の違いなどは、英語教育を何時間受けると(もちろん勉強しただけ知っている可能性は増すだろうが)確実にマスターできるというものではなく、どちらかというとその単語が用いられる分野に親しんでいるかに依存する。したがって、第二言語として英語を学ぶものは特に、ある分野で用いられる単語に関しては詳細な知識を持っているが、異なる分野に関しては不得手、といった事情は少なくないように思われる。以上より、ライティングのコツを知ろうとしても、万人にとって必要とされるものは、限られてくると予想される。ここで想定するのも、社会学やそれに隣接する諸分野を修め、第二言語として英語論文をある程度スムーズに読めるような層という限定をつけた上で、有益となりうる情報かも知れない。
という前置きをした上で、社会科学の人がどう(うまく)英語で論文を書くかというトピックは、自分の関心ではある。同時に、偉そうなことを言える立場ではなく,自分も間違いを繰り返しながらライティングをしている人間である。
日本語の教科書としては、お茶の水大学のジェンダー研究者、石井クンツ先生の書いた「社会科学系のための英語研究論文の書き方がおすすめ。石井先生は、高校まで日本で、そこから当時としては(今でもそうかも知れないが)珍しく、直接アメリカの大学に進学、そこで社会学のPhDをとり、長くアメリカで指導されてきた。そのため、日本人の犯し易いミスについても詳しい。
また、現在、英語のライティングで使用している教材はWriting Academic English 4th editionで、本当に基本的な文法の説明をしている箇所もある一方、一通りargumentativeやcomparativeなエッセイの書き方を説明した後に、多くの練習問題を載せていたりと、comprehensiveな内容。できるだけ多くの分野の学生をカバーできるようにという配慮も感じられる。
前置きが長くなってしまったけれど、これから、英語のライティングに関して気になった点を、少しずつまとめていこうと思う。
そこで、今日は、「先行研究」について。
まず、先行研究という単語は、どう訳せばいいだろう。自分の中では、決まってこれを使うというのはあるが、今日後輩がpreceding studiesという単語を使っていた。個人としては、多分理解はされるし語法的にも間違っていないが、あまりみかけないという印象。そこで、google scholarで検索してみた。私がよく使うのは、previous researchなので、各単語を組み合わせて、どれが一番よく使われるかを見てみよう。ちなみに、researchは不可算名詞だが、日本人の英語論文にはresearchesが散見されるので、そちらも合わせて検索してみる。

検索結果
"preceding studies" 27,300件
"previous studies" 2,150,000件
"previous researches" 49,500件
"previous research" 978,000件
"preceding research" 7,060件
(2015年1月14日現在)
一応ヒットはするので厳密に間違いであるとはいえないが、precedingよりもprevious、researchesではなくresearchがよく用いられることがわかる。

最もヒットしているのはprevious studiesで、これを使うのが一番無難のようだ。個人的には、見出しにはprevious researchを使用する論文が多い気がする。この二つを互換的に用いるといいのではないだろうか。もっとも、アメリカ社会学会のフルペーパーにprevious researchesと書いて提出している日本人の研究者の論文も散見されるので(あえてリンクは貼らない)、ネイティブにとっては「不自然だが理解はできる」レベルのものなのかも知れない。ただ、researchesは英語のライティングを添削してもらうと確実に直される箇所ではある、経験上。

なので、結論としては、previous research or previous studiesを用いていけばいいのではないかということになる。もちろん、他にもよく使われるこれに類した表現はあると思うので、ダブルクォーテーションをつけてその単語を検索して、よく使われるかどうかという参考基準を便りに、判断していった方がよいだろう。

追記:この記事、それなりに読まれているようで恐縮です、誤記を直しておきました。なんかこのころのほうが異性いいこと言っている気がします、そちらにも恐縮(2016/2/1)

January 11, 2015

3月になったら読みたい本

一緒に読んでくれる人募集中です。

Rosenfeld. 2009. The Age of Independence: Interracial Unions, Same-Sex Unions, and the Changing American Family

Brighouse and Swift. 2014. Family Values: The Ethics of Parent-Child Relationships

Blau and Schwarz. 1983. Crosscutting Social Circles: Testing a Macrostructural Theory of Intergroup Relations

Hedstrom and Bearman (ed). 2011. The Oxford Handbook of Analytical Sociology.

Streib. 2015. The Power of the Past: Understanding Cross-class Marriages

January 10, 2015

日本と東アジアの国際結婚についての先行研究

Burgess, C. 2004. “(Re) Constructing Identities: International Marriage Migrants as Potential Agents of Social Change in a Globalising Japan1 1.” Asian studies review.
Chen, Y. H. 2008. “The Significance of Cross-Border Marriage in a Low Fertility Society: Evidence From Taiwan.” JOURNAL OF COMPARATIVE FAMILY STUDIES.
Davin, D. 2007. “Marriage Migration in China and East Asia.” Journal of Contemporary China.
Kamiya, H., and L. C. Woo. 2009. “International Marriage Migrants to Rural Areas in South Korea and Japan: a Comparative Analysis.” Geographical review of Japan series.
Jones, G., and H. Shen. 2008. “International Marriage in East and Southeast Asia: Trends and Research Emphases.” Citizenship studies.
Kim, H. H. 2013. “Transnational Ethnic Networks and the Creation of Immigrant Social Capital: a Multilevel Analysis.” The Social Science Journal.
Lee, J. H. et al. n.d. “원저: 임상 : 한국에서 다문화가족의 혼인, 출생, 자녀의 추이에 대한 통계적 고찰 및 주산기 정책 전망.” The Korean Society of Perinatology.
Lee, Y. J., D. H. Seol, and S. N. Cho. 2006. “International Marriages in South Korea: the Significance of Nationality and Ethnicity.” Journal of population research.
Liu-Farrer, G. 2011. “Making Careers in the Occupational Niche: Chinese Students in Corporate Japan's Transnational Business.” Journal of Ethnic and Migration Studies.
Nakamatsu, T. 2002. “Marriage, Migration and the International Marriage Business in Japan.” Murdoch University. Retrieved (http://researchrepository.murdoch.edu.au/220/2/02Whole.pdf).
Oishi, N. 2012. “The Limits of Immigration Policies: the Challenges of Highly Skilled Migration in Japan.” American Behavioral Scientist.
Oishi, N. n.d. “Multiple Migrations: the Conceptual Framework and Future Research Agenda.”

Piper, N. 2004. “Rights of Foreign Workers and the Politics of Migration in South‐East and East Asia.” International Migration.

January 9, 2015

1月9日(金)

木曜金曜とも、英語を使った授業があった。確実に、留学前に比べれば喋れるようにはなっている。大学入ってから留学するまでの経験値と、留学中のそれを比べると,やはり後者の方が圧倒的に多いという認識が揺らぐことはない。

たしかに、測れないものも含めて諸経費はかかったが、得たものを振り返ると、交換留学の一年は英語力をつけるということに関しては悪くなかったと思う。

相手の話を聞くだけではなくて、適切な文脈で自分の言いたいことを伝えたり、言外のニュアンスやその言葉を選択した意図とかを把握しながらコミュニケーションを取ることも含めて、実際に現地で留学した方が格段に修得し易いと言える。こういうのは、普段日本語を使っている環境では一朝一夕に身に付くものではないと思う。これが、どういう人にとっては必要なもので,どういう人には必ずしも必要ではないのかはよく分からないけど、英語が使えることの意味は、象徴的なものも含めて、現代では小さくない。

一学期の間はほとんど上達した気がしなかった。早口の英語は聞き取れなかったし、自分の言いたいこともうまく伝えられなかった。冬休みを挟んで、二学期の途中まで、少なくとも意識の上では、こういう状態は続いていたと思う。自分が話すときの,後ろめたさに近いもの。その後、少しできるようになったかなという感覚が掴めたけど、振り返ると、多分この時点で留学前に比べて流暢に会話できるようになっていたような気もする。

向上を強く実感したのは日本に帰ってきて、ISAのスタッフをしていたときだった。明らかに、初対面の人とスムーズにやり取りができるようになっていることに気づいた。それまでは、日常で接するような人とのやり取りだったから、自分の英語が変わったことにあまり気づかなかったのだと思う。この時に初めて、英語力の向上を自覚し,驚いた。

それから、現在も続いているチューター業を始めて、初対面の人と話す機会には恵まれていた。一度、自分の中で何となく得たものを、少しずつ確かめるようにして話す日々が続く、こうやっていくなかで、徐々に前のめりにならずに少し余裕を持って話すことができるようになった。それまでは、話せないという意識が強かったから、そう思われないために流暢に、自然に話そうとあくせくしていたが、逆に話しなれていない印象を与えていたように思う。第二言語として英語を使うものとして無理無く話すことと、ネイティブの振りをしようとすることは、意識の上でも実際の行為に関しても、大きく異なる。日本にいると、自分のホームということもあり、訛っててもいいから、分かり易く伝えるように心がけるようになった。

もちろん、日常で使っている言語は日本語なので、英語力がイギリスにいたときのように向上するかというとそうではない。語彙は増えないし、リスニングは逆に衰える。今でも、3日間でも英語を話さないと、一言目がスムーズに出てこない。ただ、数分話せば頭の中で日本語→英語のような作業をあまり経ないで話ができるので、一定の水準に戻ることはそこまで難しいとは感じなくなった。ただ、感覚としてはイギリスにいたときの1/3くらいの会話の量に落ち着いていると思う。やはり、聞き役に回ることは多い。

今学期は、工学部のSELの授業をとっていて、払った金額に見合うくらい英語が改善したとは思えないが、少なくともやや入り組んだ日常会話や議論をするのに必要な英語力をキープすることはできた。今まで,お世辞にも英語ができた人間ではなかったが、SELのクラスは最上級クラスの、さらにその中でも上級のコースに入ることができた。これには正直驚いた。最終的に6人の生徒のうち、2人は帰国子女、1人は大人になってから長く海外に滞在、私と後述の後輩の1年間の留学経験者、最後に特に長期滞在の経験が無い日本の人という構成で、さすがに帰国の人の流暢さには敵わないが、特に後ろめたさは感じない。本当に英米の大学院で勉強したいのなら、あと1-2ステップ踏まなければいけない気はするけど、今この状態で向こうに行っても、数ヶ月すれば遜色無く議論で気はする(留学生として)。だから、10ヶ月の留学は無駄ではないと思っているし、たった1年でもこれくらいになれたというのは、比較的若い段階で行けたからというのもあると思う(その意味で、博士課程修了後に研究留学としていくよりも、学部時代に交換留学をしていろんな人と話す経験を持っておくことは有益だと思う)。この授業で、特に成長したという感じは受けないが、今の自分の現在地を、得点化されない範疇であたりをつけられたのはよかった。それは、自分の英語を恥ずかしく思う必要はないという、主観的なものも含む。

自分のように、英語に強いコンプレックスを持っていても、留学と帰国後の活動を通じてある種の安心感を得られたというのは幸運な部類には入ると思う。必ずしもすべての人が、留学を通じてこのような状態にまで持ってこれない 、その一方で、自分よりもっと成果を上げた人もたくさんいると思う。

人によって得るものは違って、僕は社会学の勉強ばかりしていたから、もっと日常生活が充実していてもよかったかもしれない。といって思いつくのは、現地の人とカフェにいったり,たくさん旅行にいったり、みたいなことで、自分はあまり興味がないことかもしれないけれど。例えば、僕は留学してもブリティッシュな英語は全く身に付かなかった。今日の英語の授業、先生が飛行機の遅れで来れないらしく、違う先生がかわりに授業をもってくれた。

マンチェスターの出身で、よくあるブリティッシュな英語だったのだけど、やはり自分はあの手の英語は好きになれないなと思った。スノッブには聞こえないけど、抑揚がないので、アメリカ英語でできるようなリズムのよい会話ができないのが苦手なのか。自分はイギリスに10ヶ月いても、全くブリットな発音は真似しなかったし身に付かなかった。ウォーリックに留学してた後輩は結構それっぽくなってて、やはり意識って大事だなとという感想。

他にも、未だにあって始める会話にはなれない。How's going?と聞かれたら、Nothing badとかI'm fineとかと言えばいいのだけれど、頭の中で「最近何したっけ。。。」と考えてしまうことがある。「先週何かあった?」なんて聞かれた時には、1分くらい熟考したくなる気分に陥る。そういう、あまり日本語では使わない会話の習慣には、まだ慣れていない。

まとまりがないが、今日の授業でぼやっと考えていたことの羅列でした。

January 8, 2015

1月8日(結婚についてのメモ)

結婚と似ている行為
自殺との比較。似:基本的に人生で一度しかやらないもの(結婚は最近離婚しやすくなっている)、非:自殺よりは複数回経験しやすい、マッチングの相手は必要ではない。精神状態。
就職活動との比較。似:マッチングの過程、非:就職活動はプッシュ要因が大きい(お金を稼がなくてはいけない)が、結婚はプル要因が大きい(一緒になりたい相手と出会うから結婚する)結婚には象徴的な意味もある。
教育達成との比較。似:行為の結果自体とは異なる象徴的な意味(cf学歴)、準マッチング。非:教育達成はイベント発生時の年齢分布が比較的均質。

現代の結婚は
・自殺よりはし易いが転職よりはしにくい
・経済的な必要性(プッシュ要因)は相対的に減少し、象徴資本や相手の魅力などのプル要因が強い。
・相手とのマッチングの過程を経ないと結婚できない。
・イベント発生時の年齢分布がばらばら→就職活動とは違って、集団的な役割期待が働きにくい(大学四年生は就活していると期待できるが、結婚は30歳の独身の人が婚活をしているという期待は持ちにくい)
・ある程度の広い結婚適齢期が存在する(恐らく16-18歳では結婚市場には参入できていない、大卒だと、24−26位からぽつぽつ結婚する人が出てくる?)

人ななぜ結婚するのか?
自立するための経済的必要性
第三者からの圧力、共同体の規範
子どもを持つため
象徴的な意味(←→未婚=スティグマ)

人はどのように結婚するのか(今までの社会学が検討してきたところ)
学歴などの地位が同じ人との同類結合(選好)
女性の地位上昇婚(選好)
共同体の慣習の中で(見合いなど含む)(第三者の影響力)
同じ場所・空間の共有している(機会構造)

一応、恋愛→婚約→結婚の流れで、婚約した人はほぼ100%結婚しているので両者は同一と見なせる。
恋愛には、婚約に繋がると意識される恋愛とそうでない恋愛がある(個人の中でも連続的)
→人が結婚を意識し始めるのはいつか、そしてなぜか?(意外と分かっていない?)

——

ホリオカとフクヤマと山岸の話から若干の着想を得る。ホリオカが指摘する日本の世代間移転の非利他性は、日本では家を単位とした集団主義が強いという仮説。(あくまで仮説)。子どもは、家から離れるまで、親に依存することができる(学生の仕送りなど)。しかし、一度独立すると、違う家を形成すると見なされるので、世代間の移転は希薄になる。親からの独立(independence)のきっかけは国ごとに異なり、スウェーデンやアメリカでは、実質的に中等教育の終了がそれになっている。日本では、結婚ではないだろうかという仮説。(あくまで仮説)。

結婚を通じて、新しい家をつくり、独立する。親から依存することも規範的に難しくなる。そのため、結婚へのハードルが高いことになり,未婚化の一要因となる。日本は利己的な社会であるが、家を単位とした集団主義の国であるため、一見すると福祉レジームの議論などでは家族主義の国と見なされる。それは一面では正しいが、世代間関係が密接なのは、子どもが未婚のままでいる核家族段階のみ。日本で親の介護をするとなると、コンフリクトが生じる。

直系家族のオリジナルな形は、生産と再生産が一致していた時代に限定される。なので、形としては核家族化は進行してしまう。だが、家を単位として行動する志向性は、昔とあまり変わらないかもしれない。核家族化と精神としての家の存続は矛盾しない。 

January 5, 2015

1月5日(月)

11時頃起きて、授業の前に製本を終わらせようと、ちょっと早めに家を出る。この行動の問題点は,本当にちょっとしか早く出なかったために,ハプニングもあり授業に30分遅刻してしまったことにある。

印刷場所は市ヶ谷のキンコーズ。JR市ヶ谷駅を出て靖国通りに出ると,4−5分で着く(地下鉄の出口からだとほぼ直結) .


店に入ると,二台のプリンタと左手に3台のWin機が見える.客は見たところ一人しかおらず,受付を住ませてスムーズに印刷に入ることができた.問題は,texで作った文章は,なぜかA4ではなくletterpaper でタイプセットされていたため,プリンタが用紙のサイズを自動認識できなかった.そのため,自分のPCでもう一度セットしなおして,印刷してという予定外の事態のため,授業に遅れるはめに.

授業は,アメリカで育ち,向こうで学位を取った文化心理の上智の先生の報告。途中からだったので,流れを掴むまで時間がかかる.要旨としては,結婚を機にアメリカに渡った日本人女性のアイデンティティを質的に聞いているもので,方法的にはオープンなインタビュー,知見としては,単に英語力だけでacculturationを測ることはできず,日本文化への愛着や,アメリカ人意識などとも関係するということ,らしい.個人的には,階層変数とか,移住するまでに配偶者と出会った過程とかについて,もっと深く切り込んでもよかったなあという印象. 元になった論文と思われるものは,以下のURLから公開されているようだ.

出口真紀子. (2010).「アメリカに移住した日本人女性の文化変容の語り」(『神戸女学院大学女性学インスティチュート・女性学評論』第24巻、2010年3月、43-73頁)

ちなみに、授業終了後、隣に聴講に来ていた人がミシガンで博士号を取った日本人の教員の方だと知る。

授業後、論文を取り にいき、大学へ。学部生室で談笑、昼食後、本の返却と書籍部で有斐閣の「社会学」購入。談笑中に卒論の体裁について、やはりA4サイズで印刷しようということになり、再びキンコーズで。二度目だったので、セルフ印刷から製本まで20分もかからなかったと思う。

吉祥寺に戻り,夕食まで時間があるので北口方面を散策、目当てはモレスキンの手帳。2年ぶりに手帳を買うことにし,3年ぶりにモレスキンにしようと決めていた。やはり,久しぶりに持ったときのあのナイロンの質感と手にすっぽりはまる感じがとても懐かしく,実用性云々ではないレベルで欲していた.本当はウィークリーが欲しかったが,ネットでは既に在庫切れだった。普段利用するFreeDesignの営業時間が過ぎていたので、諦めかけたが、どうせ品切れで翌日来て落胆するよりかは,もう買ってしまおうということで、中道通りをユニクロまで出たところで左に曲がり、ロフトに入る。結局、マンスリーのソフトカバーを購入。本当なら、ハードカバーの方が好きだが,こっちはこっちでコンパクトなのが好印象。色は定番の黒。

――――

家で、先日帰省した時に行きつけの床屋のマスターから最近の理美容業界事情を教えてもらって、それについて少し調べていた。参考になるような本が見つからないのが、まだ気になるところ。

毎年の美容師と理容師の資格取得者の数は圧倒的に美容師の方が多い。世間的なイメージで、大して違いも分からないが理容師より美容師の方がカッコいいらしい。これは分かる。ただ(美容師がどうかは不明だが)理容師業界は高齢化が深刻で、開業している人のうち3/4は50歳以上。実に全体の4割を占めるのが60代という状況である(詳しくはこの報告書)。マスターのおっちゃんによると、この10−15年で理容室の廃業ラッシュが来るという。なぜなら、現時点で後継者が決まっているのは半分もいないから、ということらしい(先の報告書だと50歳以上の経営者のうち、後継者が決まっているのは3割もいない)。

という訳で、理美容とも独立は難しいとは言うものの、競争率の相対的な差と廃業ラッシュというトレンドを踏まえると、理容師の方がまだ見込みがあるというのに、国家資格の分布は偏ったままだという。

追加で、最近伸びている1000円カット業についても教えてくれた。彼らが業種区分上、理容師しか働けないそう(これは違って、調べてみるとQBカットは店舗ごとに理容と美容を一応分けて営業している。違法なのは同一店舗に理美容師が混在して働くことで,QBハウスは混在勤務を認める規制緩和を要望しているようである)。QBカットなどは、フィリピン人とかの実習生が一定期間研究を積めば日本の国家資格と同じ地位を与えることも求めているという。数の不均衡と人口構造の変化の中で、床屋と美容室を巡る様相がこう表現されるとは、という感じだった。

カリスマ美容師という言葉とそれに形容される人たちが登場したのは2000年頃かららしく、確かに理容師の数は変わらないのに美容師の数は増大している。理美容というのは、国家資格もあるちゃんとした技術職(とはいっても、そのレベルは国家資格の中でも最も低いものなんだよねとマスターは自嘲気味に語っていた)なのに、この20年で生じているのはQBカットなどの新規事業者による価格破壊であるという点もこの業種の性格を考える上で興味深い。最近では、キラキラ系とよばれる、一見華やかな業界に憧れて入ってはみたものの、劣悪な労働環境に苦しみ、中には自分を正当化する若者も現れる現状で、美容師はそういった職業の代表例としても語られる。このように、現代においても色んな視点から理美容業界は分析できそうなのだが、誰か一緒にやってくれる人はいないだろうか。というまとめにしておく。

――――
最後に、先日読んだブードン「社会学の方法」の簡単な紹介。宮島先生の解説によると、1970年に出たこの本がブードンの初めての訳書らしい。新書サイズで、社会学の方法を分類したあと、自身が重きを置く量的方法の水準における、分析過程の解説(この時代で既に、パネル調査への言及もあり彼の見識の広さを感じるにいたる)。最後に、少しだけ質的調査の説明もある。

目次
序章
第一章 方法をめぐる誤った論争
第二章 定量調査の方法
第三章 調査の分析における数学的方法
第四章 定性的方法
結論

個人的には、社会学的分析のレベルを対象と方法から以下のように分類している箇所が一つの鳥瞰図としてはいいなと思った。

以下p.21-22の一部抜粋
Aa 枠組み 全体社会(変動が主題)
 1 定性的研究(ウェーバーのプロ倫やデュルケムの社会的分業)
 2 定量的研究(自殺論やソローキンの社会的動態)
Ab 枠組み 全体社会(体系が主題)
 モンテスキュー「法の精神」やパーソンズ、マードックの著作

B 枠組み 個人、個人と環境
 自殺論、アルヴァックス「労働者階級の欲求」、ストゥファーのアメリカ兵など

C 枠組み 自然的単位(集団、制度、コミュニティ)
 ホワイトのSCSや官僚制の議論など

おおざっぱにいってしまえば、マクロとミクロとメゾということになろうが、マクロを変動と体系に分けている。



January 4, 2015

寝(込み)正月

ここ数日風邪で寝込んでいて、正直にいうと大晦日の記憶は実家の布団でもがき苦しんでいたことしか浮かんでこないくらいだ。29日に友達と会った後,卒論を仕上げに吉祥寺のスタバに入ってから,風邪にやられてしまった.30日に帰省する予定が,この場合,吉だったのか凶だったのかは分からない.ただ,寮で寝込んで寮母さんに迷惑をかけなくて済んだのはよかった.30日になっても容態は変わらず,発熱したまま東京駅へ向かい,水戸行きの高速バスに乗る.大体,夕方4時頃に着いて,実家に戻る.そこから大晦日までは,ひたすら寝込んでいた.1日になって,少しものを考えることができるようになり,ドイツ語の問題集(青本)に手を出す.結果的に,帰省中にほとんど一周するまでできたことはよかった(先ほど院試の問題を見てみたら,明らかに問題集のレベルの方が高いので,いい練習になる).
2日になっても熱はひいたがだるさは残り,少し勉強すると36.5度前後になる(平熱が35度くらいなので,これでも十分微熱)調子で,論文などに果てがつかない.だが,これが逆にドイツ語だけに集中できる猶予を与えてくれた.家にネットが無いのも,容態を悪化させないにはよかったかもしれない.3日にようやく外に出るまでに回復,デニーズで情報収集(実に四日ぶりにメールを開くと,結構な量だった).夜は,家族ですき焼きを食べながら,5日の弟の誕生日を少し早く祝う.弟は,これで5歳。随分きかんぼうで,遅い子はおとなしいというのはどこの誰がいったのかという気分になる.40歳後半の両親の手には負えないので,個人的には遊び友達をつくるか,スポーツ少年団の類いのものに早く入った方がいいのではないかというくらい.
という訳で,帰省中はいつにも増して寝まくり,寝正月の数日を過ごした.不思議と,夢に出てくるのは研究室の人たちで,早速会えないかと懐かしんでいる始末.夢は,自分が学部生室でのんびりしていると授業が終わって他の連中が一斉に,先生も交えて(ここは夢のフィクション)研究室に入ってくる,そしてみんなで談笑,という火曜日によくある光景.意外とこういうのが思い出に残るらしい.
4日の午前中に,地元の行きつけの床屋で髪を切り,昼に高速バスに乗り帰京.やはり,東京の方が落ち着く.水戸にいても,例えば駅前の旧リヴィンのビルが取り壊されていたとか,そういう変化ばかりに目がいってしまう(そして,変化に乏しい地方であるが故に,目立つ).

明日(今日)より平常運転.もう卒論に手は入れないと決めた午前5時であった.