December 31, 2019

一年の計

ここ数年は一年を振り返る余裕もないくらい忙しかったのが正直なところで、昨日久しぶりにのんびりと大晦日を迎えたのには、新鮮な気持ちを覚えた。今年は、それなりに忙しくありつつも、余裕を持って過ごしたい。あまり季節感のない人間なのだが、実家でのんびりしている間に一年の計画を考えるのは悪くないだろうと思い、簡単に記す。すでに3件ほど航空券の価格推移を数日観察していて、早くお金に気にせず旅行する身分になりたい。

2月3日〜:春学期の開始
今学期は2nd year paper を書くempirical seminarとcontemporary sociological theoryに加え、epidemiologyと学期の後半から指導教員のfamily sociologyの授業に参加する予定である。リーディング量が多いのは間違いなくtheoryの授業で、前回はWeberやDurkheimなど日本でも読んでいた社会学者だから多少気を緩めることはできたが、今回は基本的にポストモダンの研究がメインなので、色々と苦労が多い気がする。

2月28日:FUTIでの講演
東海岸に引っ越して、東大の同窓会組織とも繋がりを持つようになったのだが、その縁で東大のNYオフィスにてジェンダー格差についての講演を依頼された。光栄なことである(自分が適任かは別として)。いい機会なので、自分が読んできた文献をまとめる機会としつつ、現役の学生とアラムナイとの間で、昨今のニュースを踏まえながら議論できる機会にしたい。

2月27日-3月1日:Eastern Sociological Society Annual Meeting
参加するかは未定だが、フィリーで開かれるので、日帰りでもいける。プログラムの多さには驚いた。興味のあるセッションもあるので、体力と相談しつつ参加を決めたい。

3月16-17日:数理社会学会
こちらも参加は未定だが、ちょうど春休み期間と被っていて、この時期はフライトチケットも安いので考え中。体力とも相談だが、学部からファンディングが出るかも重要(多分出る気がする)。会場は慶應大学。

3月19-22日:Association for Asian Studies Annual Meeting
正直現実的ではないが、ボストンで開催されるアジア学会も一応カレンダーに入れてある。おそらく行くことはなさそうだが。

4月22-25日:Population Association of American Annual Meeting
ポスターを一つ報告予定。また、日本研究者を集めたジャパンディナーを企画中。DCにて開催。

5月18-19日:IUSSP Meeting
イタリア開催ということでかなりテンションが高くなっている。

5月20-23日:RC28 Spring Meeting
二つ口頭報告の予定。開催地はフィンランドのトゥルク。夏は最高だろう。この前後にイタリアでのワークショップがある模様で、それにも参加する予定。

6月12-14日:日本人口学会
おそらく日本にいるはずなので、日程的には参加可能だが、報告は考え中。会場は埼玉県立大学。

6月15-19日:Workshop: Genomics for Social Scientists
ミシガン大学で開催される社会ゲノミクスのワークショップ。この手の分野に関する知識にはまだ疎いので、インプットの機会として考えている。日本人口学会や他の学会との日程的な問題がある。

7月14-18日:ISA Forum of Sociology / RC 28 Summer Meeting
ブラジルのポルト・アレグレにて開催されるISAの大会、およびRC28のミーティングも兼ねている。二つ報告予定。ファンディングがまだ確定していないが参加する予定。

8月8-11日:American Sociological Association Annual Meeting
アブストの締め切りが1月末なのでやや難しいかもしれないが、何か出したいと考えている。ファンディングは出るはず。体力的な問題で断念するかもしれない。

8月末:本の出版
いまだに締め切りが読めていないが、夏までには出版予定の本にも取り組んでいる。

10月中旬:IUSSP Meeting
北京で開催の予定。

その他の日程

General Exam
4月20-5月23日 or 9月28-10月17日
コースワークの一環でパスしなくていはいけない試験。社会学部では2年生の春学期ないし3年の夏学期までに済ませないといけないのだが、春学期はPAAとRC28などがあり忙しそう、秋学期はティーチングをする予定なので、これもまた忙しそう。いずれにしてもこの時期はカオスになる予感がある。

論文投稿
現在、R&Rの論文が3本。これらに加えて、
(1)学歴同類婚の論文(単著)。年頭には投稿したい。
(2)きょうだい順位による同類婚の論文(共著)。同様。
(3)職域分離の趨勢に関する論文(共著)。同様。
(4)PAAで報告するシングルフッドの論文。4月以降の投稿。
+(5)ISA forumで報告する大人への移行への論文(共著)、同類婚と不平等の論文(共著)、RC28で報告する低体重のグローバルトレンド(共著)、ゲノムと同類婚の論文(共著)、専攻分野による性別分離の論文(共著)などは進捗状況によって投稿できれば嬉しい(現実的には全ては不可能)。

研究助成
いくつか出そうと考えている。

December 30, 2019

アメリカ大学院出願覚書:多様化する博士課程までの経由地

この時期は暇になったアメリカの博士課程にいる院生が日本語で大学院留学の手引きとかを書くシーズンでもあります。私も昔そんなのを書いた記憶がありますが、入学後いまいち的を得ているわけでもないなと思い直し、消したかもしれません(覚えてない)。再び日本語でそういった記事を見たのと、アメリカでウィスコンシンとプリンストンという二つの環境に身を置いたことで、博士課程に来るような人はどういう人なのかについて、多少違った見方ができるようになった気がするので、覚書として書いておきます。

経済学の人の手引きを読むと、アメリカのトッププログラムに入るためには、東大の修士課程に入り、いわゆるコア科目で優秀な成績を収めることが重要というメッセージを感じます。

同じ社会科学でも経済学と違い社会学では、修士のコースワークの成績がアメリカの博士課程での能力のシグナルにはなりにくい気がします。例えば、質の人が統計の成績良かろうが悪かろうが関係ありません。社会学では、その人にしかできない研究テーマのオリジナリティの方が、高く評価される傾向にある気がします。ダイヤの原石を採用して、あとは自分たちで教育する方針なのでしょうか。

ちなみに、社会学では日本のコースワークは大概翻訳不可能で(言語的にも、実際の内容的にも)、日本で修士をこなすメリットは、相対的に薄いです。これは、アメリカの社会学と日本の社会学が、言語によって大きく関心や教育が異なっていることが背景にあると思います。その点、経済学では日本の大学院はアメリカPhDの予備校らしいので、ストレートに翻訳できるのかもしれません。これはいいことなのかどうか、私にはよくわかりません。

推薦状も同様に重要ですが、日本の大学出てるとここも不利になりやすいです(アメリカの教員がその実績を知っている研究者が少ない)。そういう意味で、研究の問いの新規性、それを博士課程のうちにどうやって実現するかのプロポーザルの重要性は相対的に大きいと思います。これは、ややもすると逆説的に聞こえるかもしれませんね。アジアからくる留学生はどこの馬の骨かわからないので(それはアメリカの非エリート大学でも同じかもしれませんが)、ちゃんと数字に残るようなGREや成績が重要なのではないかと思われるかもしれませんが、その辺りは必要条件のところもあれば、あまり気にしないところもあるので、まちまちな気がします(あってよいものではありますが)。私は、社会学の入試で一番重要なのは、プロポーザルだと思います。その次に推薦状ですかね。

ちなみに、プリンストンの同期の半分以上が、学部卒業後にシンクタンクやコンサルで働いた経験を持っています。ある人に言わせると、そこで自分の研究をどう実現可能なものにするか、ちゃんとプロポーザルを書くスキルを身につけられたのが合格につながったと言ってました。この点、日本の修士よりも、コンサルなどの民間で経験積むのは一つのアプローチだと思います。なぜかはわかりませんが(もちろん、コンサルに行くような人は、鼻からそういった思考ができる人がoverrepresentされてる側面はあるでしょうが)、コンサルに行くと、ロジカルなシンキングが身に付く気がします(実際に経験したことがないので、半信半疑なところがありますが)。

あるいは、単に合格の可能性を高めたいということであれば、日本の修士にいるよりも、アジアなら香港科技大、あるいはアメリカの社会政策とか東アジア研究にはマスターがあるので、そこで所定のコースワークを済ませ、教授にいい推薦状を書いてもらうのが、相対的に近道かもしれません。オックスフォードやLSEの修士も一つですね。周りの社会学部にいる留学生も、こうした海外の修士課程を経てきた人は多いです。

また、早くからリサーチの経験を積んでおくことは有利ではあるので、社会学からも今後は(アメリカの)大学のRA、プレドクポジション()を経由して博士に入るルートは増えるかもしれません。昔よりも博士課程に入るための競争は熾烈になっているらしく、そうやって差をつけるのでしょうか。このルートは、日本の人はビザ的に不利ですが検討してみてもいいかもしれません。

追記:後輩から以下のようなプレドク(というかフェローシップ)も紹介してもらいました。
Stanford Law School Empirical Research Fellowship

総合すると、博士課程に行くルートは母国の修士を経由する以外にもたくさんあります。コンサルで経験積むもあり、海外の修士に行くも一つ、シンクタンクも一つ、色々です。昔よりも競争が激しくなっている分、博士課程に行くルートは多様化しているかもしれません。

ただ、実は、できることなら学部からアメリカに行ってしまうのが、アメリカの博士課程に行くには最短であるのは、間違いないところです。ウィスコンシンは非英語圏の学部・修士を出た留学生らしい留学生も結構いましたが、プリンストンではほぼいません。基本アメリカか英語圏の学部BAをとってます。

もちろん、これらのルートの一つに、日本での修士は間違いなく選択肢として考えるべきでしょう。というのも、自分の場合、日本で修士までやったからこそ、アメリカでは自分くらいしかできない研究ができると思っているからです。

このように、色んなルートがあっていいと思います。問題は、多様化する経由地の情報が、あまり共有はされてないことかもしれません。情報の欠如はもったいないですね。まあ、日本からアメリカの博士課程に行きたいと考えている人が他の分野に比べると圧倒的に少ない気がするので、単に需要がないのかもしれません。

あとがき

かなり恥ずかしい気もしますが、昔、書いた記事を貼っておきます。社会学では木原盾さん(ブラウン大学社会学部博士課程)のUnder the Canopy、政治学だと向山直佑さん(オックスフォード大学国際関係学部博士課程)の紅茶の味噌煮込み、経済学だと菊池信之介さん(MIT経済学部博士課程)のホームページで、それぞれ大学院留学の手引きについての情報が得られます。便利な時代ですね。なぜかこの手の留学手引きは私の観測範囲にバイアスがあるのかわかりませんが、皆さん男性なんですよね。






一時帰国中に読んだ本

丸山洋平、2018、「戦後日本の人口移動と家族変動」文眞堂

東京圏に住む女性の出生率が低いことを根拠に、東京への一極集中を是正することで出生率の回復を目指す日本創成会議の言説、私の周りでは眉唾だと思われてる節があるが、丸山さんの博論本では東京に流入する未婚女性の晩婚化が近年のコーホートで強くなってることを指摘している。

この本によれば、女性の社会進出に伴い、進学・就職目的で東京圏に進出する未婚女性が増加し、彼女たちが東京圏引いては全国の未婚率の上昇のドライバーになっているという大胆な仮説が提示されているが、本人も現時点では未婚流入者の結婚行動が全体に与える影響は小さいと言っており、主張にやや飛躍は感じる。それと、私はこうした女性に少子化の責を帰するような主張には、あまり与したくないというところもある。とはいえ、人口変動と人口移動を結びつけようとした視点は非常にオリジナリティがあり、評価は高い。


前田健太郎、2019、「女性のいない民主主義」岩波書店

前田先生はタイトルをつけるのがうまい。「市民を雇わない国家」もそうだったが、研究者がつけがちな「固有名詞と固有名詞:固有名詞によるアプローチ」みたいな、タイトルからだけではどういう研究か判別できないものは避けており、今回の「女性のいない民主主義」も一言で主張を要約していると同時に、ジブリの映画のように、つい中身を覗いてみたくなるような好奇心をそそるものでもある。

本題の方だが、この本でははじめに政治学の民主主義に関する主流の学説が男性視点のものであることを指摘し、これまでの議論がジェンダーの視点を導入することによって全く違ったもの、例えば民主化の歴史が異なって見えたり、あるいは、なぜ女性差別をしてきた政治体制が民主主義のも判例として考えられてきたのか、といった問題に見えることを論じている。私は一つ一つの政治学の学説には疎いが、そうした読者にも(1)なぜそれらの学説が政治学で重要な論点を占めていたのか、および(2)なぜそれがジェンダーの観点を踏まえると問題なのかを明確に説明してくれるので、そこまで苦労せず読み進められる。詳細な議論や文献の引用はないが、新書としての読み切りやすさを重視したのだろう。フェミニズムの議論も紹介される一方で、一部社会学の概念(ジェンダー化された組織やダブルバインドなど)も使われていて、これらがなぜ政治という場が十分にジェンダーを代表していないかを説明するツールとして用いられている。社会学にいるとジェンダーというのは主要なトピックなのだが、隣の政治学や経済学ではこれらの視点がまだ新しいというのは、驚くとともに、社会学の研究が持つレバレッジの大きさを示唆するものでもあった。政治学の読者ではない人にも問題の本質をわかりやすく伝えてくれる好著。


林香里編、2019、「足をどかしてくれませんか:メディアは女たちの声を届けているか」亜紀書房

ジャーナリズムの本質は権力の監視にある(昨今の日本ではこの機能が失われている気がするが)。一方で、先の前田先生の本にもあるように、ジェンダーの問題の背景には常に権力の存在があり、いかなる政治現象とも関わる。その意味で、ジャーナリズムの世界においてジェンダーがどのように扱われているかを検討することは決定的に重要であると、冒頭の章で編者の林香里教授は指摘する。各章は様々なメディア媒体に所属して活躍する女性ジャーナリストをメインに、メディアとジェンダーに関する個人的な経験も交えながら誰にとっても心地の良いメディアのあり方について議論している。学術書というよりは個人の経験したエピソードから問題にアプローチしていくスタイルだが、彼女たちがキャリアを通じて直接・間接に経験した男女差別は、非常にリアルで、日本におけるジェンダー格差の根深さを浮き彫りにしている。



シェリル・サンドバーグ(村井章子訳)、2018、「LEAN IN 女性、仕事、リーダーへの意欲」日経ビジネス人文庫

筆者は執筆当時フェイスブックのCOO。ハーバード大学を最優等で卒業後、学部指導教員だったローレン・サマーズの元でDCで働き、その後西海岸ヘ移りグーグル、そしてフェイスブックという時代の先端を行く企業でキャリアを積んできた、いわばエリート中のエリートである。このプロフィールを見ると、典型的な成功した女性というイメージを持ち、なかなか本書のテーマとする女性のキャリアについて、共感を持たれにくいかもしれない。しかし、彼女がキャリアを歩んでいく中で直面した男女差別や男女のキャリアに対する考え方の違いは、多くの女性が経験を共有するものだと思う。

本書はトピックごとに11章からなっているが、緩やかに彼女の半生を過去から現在に至る形で辿っている。各省の構成は一貫していて、トピックの紹介、それにまつわる学術研究のレビュー、自分ないし自分の周りの女性の実際の経験、それらを踏まえた提言という構成になっている。この本は一種の「私の履歴書」的なもので、働く女性に対して一歩踏み出す(lean in)すること、具体的にはリスクがあっても高い地位につくチャンスがあれば、チャレンジしてみる勇気を持つ大切さを訴えているが、巷の啓蒙書にありがちな自分語りに終始することはなく、社会学や経営学、心理学の文献を広く引用している。Pamela StoneのOpting outや、ホックシールドのsecond shiftといった定番の著書にとどまらず、ASAの学会報告まで引用してて、正直驚いた。私も知らない文献がいくつかあったので、この手の文庫では考えにくいが文献にも付箋を引いてしまったくらいである。インポスター症候群(2章)、成功した女性を同僚にはしたくない選好(3章)、メンターの重要性(5章)、完璧な母親像と長時間労働の問題(8章)といったトピックは、昨今の研究者の世界でも頻繁に議論されるものだ。原著の出版は2013年と少し古いが、これらの問題がいまだに課題として認識されていることは、この本がその意義をまだ失っていないことを示唆しているだろう。


山田昌弘、2019、「結婚不要社会」朝日新書

この方の本は、いつも買おうか買わまいか悩んで結局買ってしまい、特に目新しい発見もないまま読み切ることになるのだが、今回もその例にも例にもれなかった。いくつか最近の研究を引用してはいるが、いつもの未婚化や、婚活の話で終わっている。新しい知見としては、団塊の世代では「初めてつき合った一人目の相手と結婚する」(119)ことがほとんどだったと(データを示してはいないが)指摘している点だった。筆者によれば、告白文化というのはこうした結婚を前提にした付き合いが多かった時代の産物ということだが(知らなかった)、こうした告白しなければ交際できない条件は、交際をどちらかというと結婚に近いハードルの高いものにしてしまっている。さらに近年では、結婚難が広く知られるようになったため「結婚につながらない恋愛は無駄だ」(34)という意識が強くなってきたという。そのため、恋愛の不活発化が起こることになるが、日本では交際がなければ結婚が生じないため、恋愛の不活発化が結婚難に拍車をかけているとする。



白井青子、2018、「ウィスコンシン渾身日記」、幻冬舎

思想家の内田樹氏の教え子だった白井さんが、結婚した夫の留学についていった2年間の奮闘記。ニューヨークやボストン、LAといった日本人がよく耳にするような留学地ではなく、白井夫婦が向かったのは中西部、しかもマディソンである。本として出版されたマディソン滞在記はこれくらいなのではないだろうか。主として白井さんが通った語学学校と、ウィスコンシン大学で履修した映画の授業を通じて出会った人との愉快な、時としてセンチメンタルな思い出の記録だが、マディソンの四季の移り変わりも描写されており、個人的にも懐かしくなった。再び夫の「白井君」はマディソンに留学していると聞いているので、渾身日記2が出るのを楽しみにしている。


朝日新聞取材班、2019、「平成家族」、朝日新聞出版

朝日新聞の取材班がyahoo newsと共同で平成が終わろうとしている当時、「昭和の価値観と平成の生き方のギャップ」に悩み、自分の手でこのギャップを埋めようとしている人の声を集めた記録。私はタイトルを読んで、平成の間に生まれた多様な家族の形態、みたいなものを想像したのだが、本で描かれるのは昭和の時代に当たり前とされた、結婚や出産という「家族のかたち」が様々な事情で難しくなってしまった人の葛藤で、自分で選んだかどうかという以前に、積極的に選ぶという理由づけを社会の側が打ち消してしまうような話の連続だった。例えば、自分たちは子どもを持たなくていいと思っていても、親から子どもはまだか、という声を聞くことで後ろめたさを感じてしまうカップルなどは、自分で選択したはずの人生を前向きに捉えることができないでいる。ひとりで生きていたいと思っても、それを積極的なライフスタイルとして選択しているのはこの本の一部の人たちで、多くの未婚に悩む人たちは、将来への不安から、社会の要請から、結婚相談所に通っている。

これは、私たちが望んでいる未来なのだろうか?この疑問を持たざるを得ない。私はひとりで生きたいと思う人はそういう人生を歩めばいいと思うし、我々がどのような「家族のかたち」を選ぼうとも、それで差別されるようなことがあってはならないと思う。少なくとも私は、自分で選んでシングルの人生を選んでいるが、この本に登場してくる、多くは私よりも年上の、そして恐らく私よりも様々な意味で困難な人生を歩むと考えられるシングルの人たちは、望んで今の人生を選んでいるのだろうか。この本の記述からは、それを読み取ることは難しい。結婚を迫る社会規範が問題なのか、結婚しなければ生きていけない社会制度が問題なのか(特に雇用が不安定な and/or 女性において)、それらが問題だとして、私たちはどのような社会を設計していけばいいのだろうか?この問題は考えだすとややこしい、特に前者は特に難しい。なぜかというと、少子化問題を「解決」したい時のrationaleは「産みたい人が産めない」、結婚支援の場合も「結婚したい人が結婚できない」ことによって、諸々の政策が実行されているが、そうした「したい」の大部分が、社会からの制約によって支えられているとしたら、それらの政策が行なっているのはこの本で「昭和」とされた価値観の再生産なのではないだろうか?我々は無意識のうちに昭和の価値観の再生産に加担していないだろうか。だとすれば、多様性を讃える価値観との間に矛盾はないのだろうか?



吉川洋、2016、「人口と日本経済:長寿、イノベーション、経済成長」、中公新書

前々から多少気になってはいたのだが、良くも悪くも噂を聞かなかったので放置してしまっていた。メインのtakeawayは、「経済成長を決めるのは人口の数ではなく、ひとりあたりの生産性」であり、ひとりあたりの生産性を向上するのがイノベーションである、というものだ。人口の数が経済成長にダイレクトに重要ではないというのは分かるし、イノベーションの重要性も経済学者ではないにしろ、首肯することはできる。ただし、筆者は「人口の構成」が経済成長にもたらす負の側面について議論しておらず、消化不良の感を拭えない。具体的には、生産年齢人口が減り、高齢者が増えるという構成比の変化は経済成長に対してネガティブに影響するというのは、人口学ではよく引用される議論である。筆者は確かに社会保障費の増大について言及してはいるものの、それを直接経済成長との関係で議論はしていない。筆者は人口減少について過度に悲観的になる必要はないという主張をしているが、私はこの本を読んでも少子高齢化(人口構成の変化)が経済にもたらす影響に対する悲観的な見方を変えることはできなかった。人口高齢化が直接経済成長に影響することはなくとも、イノベーションの影響などを減じる足かせにはなるのではないだろうか。



矢野 耕平、2019、「男子御三家 麻布・開成・武蔵の真実」、文春新書

東大に入ると、東京ないし横浜の男子中高一貫校出身の知り合いが増えることに驚く。特に麻布・開成・武蔵のいわゆる御三家とされる高校は個性が強いとされる。これまで、何人もの知り合いを通じて、その学校文化の特徴を知る機会には恵まれたが、今回、半分研究、半分趣味の腹づもりで読んだこの本のおかげで、それらを比較しながら読むことができた。

ひとことで言うと、可能性の麻布、組織の開成、真理の武蔵といったところか。いずれの学校も「生徒の個性を伸ばす」教育に重点を置いているが、それは多くの進学校が(進学校なのに放任というのは逆説的かもしれないが、日本の入試は画一的で、それらは塾に任せるのが効率的と言う側面もある)掲げている校是でもあるので、ほとんど学校の特徴を説明することにはならない。問題は個性の上で何を重視しているかである。

開成は最もわかりやすく、個性を伸ばしつつ組織の中で生きる大切さを、運動会に象徴される行事で植えつけているといえるだろう。何をするにしても比較的大きな組織に所属するため、官僚制に親和的な人間を生み出しやすいのではないだろうか。「個に立脚した集団主義」ともいうべき開成と比較すると、麻布と武蔵は「個に立脚した個人主義」で分かりやすいが、時として両者の差を見出しにくいとも感じる。

両者の違いは、個性を伸ばす先にあるのではないだろうか。私が本書で読み取った両校の違いを学術を例に考えてみると、麻布はオリジナリティのある分野を開拓することを重視する一方、武蔵はすでにある分野の本質を追求することを重視する雰囲気を感じるのだ。どちらも「自分にしかできないこと」あるいは「自分が本当に興味を持つこと」を推奨する教育から成立することには違いないが、麻布は「自分が面白いと思う新しい真理を作れ」という教育のニュアンスを感じる一方、武蔵は「真理はすでにあるのでそれを自分で明らかにしろ」に近い。

余談だが、私は男子校廃止論者である(理由は機会があるときに書く、すでに書いているが)。こうした学校文化は男子だけの環境から成り立っている、という条件付けがある。彼らが誇る学校文化は、男子校でないと実現できないものなのか、それを認めることは性別本質主義と何が違うのだろうか。そうした疑問は消えることがない。

ちなみに、この著者は「女子御三家」も書いているので、こちらも読む予定。



矢野 耕平、2015、「女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密」、文春新書

「男子御三家」の著者による女子御三家に関する本。(別に要約する必要はないが)学究の桜蔭、自律の女子学院、配慮の雙葉といったところ。東大に来る雙葉出身の学生は相対的に少ないので、私も最近まで雙葉が女子御三家であることを知らなかったが、雙葉は桜蔭とJGとはやや一線を画す教育を行っている印象を持つ。それは保守的な(あるいは良妻賢母的な)カトリック教育ということができるかもしれないし、徹底的に個を伸ばす(男子御三家も含めて)桜蔭とJGと比べると、常に周りへの配慮を欠かさないこと(「他者のために生きる」p.201)に高い価値を置いているのが雙葉かもしれない。

この本では学校関係者に昨今の女性活躍への考えを聞いており、JGと雙葉の関係者が専業主婦のような職業を持たない人も、家庭を守っているという意味でそれも女性活躍の一つだろうと答えている(p.149, p.201)。桜蔭の関係者はこうした答えを示していない(というか、筆者が女性活躍に関する質問をしていない様子、桜蔭だと卒業後も働き続けることがノルムなのかもしれない)。自由・自律で知られるJGの院長でさえも「社会では女性だからこそできる役割があります」と言っているのは少々驚いた。こうした考えを真っ向から否定するつもりはないが、一般的にこういうスタンスは性別本質主義にあたり、男女の差別を正当化するロジックにも使われかねない点には注意すべきだろう。男性がいわゆる女性的な分野に参入してこない現状では、安易に男性と女性でできることは異なるというのは、危険も伴う。

ちなみに、この本で言及されている桜蔭創立90年記念誌は非常に興味深い(パスワードが必要と書いてあるが公開されている)。明らかに近年ほど最終学歴が大学院の卒業生が増えている。また、最終学歴の学校を卒業してから継続して就業している女性の割合が非常に高いこともわかる(医師が多いことが背景だろう)。


山中 伸弥・羽生 善治・是枝 裕和・山極 壽一・永田 和宏、「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」、文春新書

京都産業大学教授の永田和宏が知り合いの研究者(全て男性)を集めて、学生たちに「偉い人でも自分たちと同じ」ことがあるとわかってもらいたいと思って始めた講演・対談の記録である。研究に関わるものとしては、山中教授がなぜいまだに月1回のペースでアメリカに行っているかに関して理由を説明しているところは、慧眼に値する。また、山中、是枝両氏が若い時に経験した失敗談を語っている箇所も、笑みがこぼれつつ、教訓を含んでいる。山中教授はユーモアのセンスもあり、アメリカから帰国した後の日本の研究環境に悩んで鬱になった経験をPAD(Post-America Depression)と名付けている。山中さんの対談から、なぜ彼が日本に残り続けているかを合理的に説明することは難しそうな印象をもつ。日本に帰った理由も含めて、やはり日本人としてのアイデンティティがあるのかもしれない。一種の留学記にも読めるので彼の章はオススメである。



水村美苗、1995、『私小説 from left to right』、ちくま文庫

先に「日本語が亡びるとき」を読んで彼女の屈折したパーソナリティに苦手意識を持ったままこの小説を手に取ったのですが、久しぶりに頭をドカンと叩かれたような感覚に陥っています。

水村美苗は12歳の時に父の仕事の都合で家族一同アメリカの東海岸はロングアイランドに移住し、そこからイェール大学で仏文学の博士号を取った後、日本語で小説を書き始まるのですが、ちょっとこの小説が果たして(日本語で書かれた文学的な意味で)日本文学なのか、よく分かりません。日英バイリンガルの美苗と姉の奈苗が織りなす会話の応酬は、そういったジャンルに収まらない密度を持っています。

この小説の主人公である美苗はアメリカ人にも、日本人にもなりきれない日本語を母語とする日本人として、時として遠くの日本社会を羨望し、時としてその日本へ「帰国しちゃった」知り合いの日本人を無下に評したりしているのですが、このどちらの国にも確固たるアイデンティティを見出せず違和感を感じている美苗に、高々アメリカに住み始めて1年半、東海岸に引っ越して半年も経ってない私がいうのはおこがましいかもしれませんが、似た経験を見てしまいます。

思えば、マディソンにいた時は日系のスーパーまで車で2時間という土地柄で、周りに日本人もほとんどいなかったので、自分の中でどこか「日本は忘れよう」と開き直ることができたのですが、東海岸に移ると、「アメリカ製のものとはひと味違うというカゴメのケチャップやキューピーのマヨネーズなどから始まってカネボウや資生堂のムースに至るまで丸ごと日本がそろ」う「ヤオハン」(現ミツワ)(p.81)まで車で1時間(といっても上記のどの商品もアメリカで買ったことはないですし、そもそもミツワにはいったことがないですが、あくまでシンボリックなものとして)、ニューヨークも電車で1時間半と地理的にも「日本」が近くなり、プリンストンの方が日本から来た人も多く、なかなか研究対象として日本を素直に見るだけでは終えられないところがあります。

日々の生活の節々で自分は日本人だな(というより、日本的な文化慣行にどっぷり浸かっているのだな)と思うことが増え、アメリカに骨を埋めようと覚悟しつつ日本気質が抜けない自分自身をシニカルに見つめてしまうときもあります。そういった日々の些細な感傷の多くは言語化せず過ぎ去ってしまうのですが、この「私小説」がその日常レベルの小さな葛藤を言語化していて、ズシンと来ました。自分にとって言語はsimカードみたいなもので、アメリカにいる時は英語のsimカードを入れてるので、メールも英語で書く方が楽なのですが、日本に帰ると日本語のsimカードになってしまい、途端に英語を使うことを億劫に感じてしまいます。日々生活していてストレスは感じないのですが、「私小説」を読んで単にそういったストレスをストレスとして感じないように感情の皮膚が分厚くなっているだけのような気もしました。学期中に読むとメンタル的に重くなりそうなので、この本を手に取ったのが休暇中で良かったです。

私はよく、日本(というか東京)とアメリカ両方で生活することができて、どちらも一方では得難い経験ができてよかったな、と呑気なことを考えているのですが、水村の小説はそうした異なる環境に身を置くことに対して徹底的にネガティブな評価を下しています。日本との往復が(物理的・文化的双方で)今ほど簡単ではなかった環境で水村は育っているわけですが、例えば現代のようにツイッターやフェイスブックといったメディアを通じてより「日本」を近く感じられる環境で育っていたら、水村のアイデンティティはさらに紆余曲折したものになっていたのでしょうか。



カル・ニューポート、Deep Work. 
日夜長時間労働をしている全ての大学院生に読んでほしい。翻訳もある。

December 29, 2019

「人生百年時代」を問い直す

雑誌「統計」9月号の特集「「人生百年時代」を問い直す」はすごく面白かった。人口学における死亡研究の最前線がわかりやすく要約されている。
https://jstat.stores.jp/items/5d68f0c18606481329d97630

人間に寿命があるのか?は人口学のホットなイシューで、国の統計では寿命は将来的に頭打ちになると予測する一方、世界の平均寿命は1年あたり3ヶ月伸び続けているので、今後も伸びるはずという主張もある。「人生100年時代」の根拠は後者で、これによれば2007年生まれの日本人の半分が107歳まで生きる。

December 23, 2019

12月23日

気づいたら今年もあと1週間程度である。今年は8月から人生が一変して、疾風怒濤の中で後半が過ぎていった。今日はこの一年で読んだ本や論文で面白かったもののまとめをしていたが、プリンストンに来ていなかったら触れていなかったものも多い。本当に、人生はどうなるか、わからない。

あと二日ほど研究して、日本に戻ります。3週間の帰国も、半分くらい出張をしていそうで、家族と時間が十分取れるかよくわからない。最近、自分の中で戸惑いもあり、あまり家族とも連絡していないが、とりあえず、色々と禊を済ませて、新しい一年を迎えることにしたい。

December 22, 2019

学校基本調査を用いた性別専攻分離のトレンド

文科省のページで公開されている学校基本調査の集計表を使うと、四年制大学の専攻における性別分離のトレンドが描けることに気づいたのでやってみました。

正確には「専攻」ではなく学生が在籍している「関係学科」のデータを使っています。この関係学科には大中小、三つの分類があり、大分類は人文科学、社会科学、理学、工学といったもの、中分類は大分類を細かくしたもので、例えば社会科学の中には法学・政治学、商学・経済学、社会学などが含まれています。さらに小分類は細かく、法学・政治学だと法、法律学、私法学、公法学といったように具体的な学科名が記録されています。小分類レベルのデータは公開されていないのですが、実質的に教えられる内容はかなり似ているだろうと判断できます。というわけで、今回は公開されている範囲で最も細かい中分類で性別専攻分離を検討してみました。

職域分離と同じく、専攻についても調査年によって分類が多少違ってきますが、職業に比べるとその変化はかなり緩やかなので、統合は比較的容易でした。今回はひとまず20年くらいのスパンで見ようと考え、1998年から2018年までの分類を統合し、73個の専攻を分析対象としています。

これまでの例に漏れずDuncanの分離尺度を用いています。この指標では、学部jごとの女性内割合(Fj/F)と男性内割合(Mj/M)の差の絶対値をとり、これを他の学部の値と合計したものです。具体的には「男女間で学部の分布を等しくするためには何%の女性(男性)が他の学部に移らなくてはいけないか」を示していて、完全に分離(例:男性全員が経済学部にいて、女性全員が法学部にいるような世界)しているとこの尺度は100になり、完全に一致していると(例:男性も女性も各々2割ずつ異なる5つの学部に在籍する)0になります。

まず全体のトレンドについてみてみましょう。1998年時点では分離指数は46程度となっていて、これはおよそ46%の男性ないし女性を移すことによって、男女それぞれの専攻分布が等しくなることを示しています。驚くべきことに、この20年の間に専攻による分離は一貫して減少していることがわかりました。2018年時点では、分離指数は37程度となっていて、この20年でおよそ20%ほど、分離が解消したことがわかります。

アメリカの性別専攻分離を検討したEngland and Li (2006)によれば、アメリカでは専攻で見た男女の分離は停滞傾向にあることが指摘されています。これがEngland氏が主張するstalled gender revolutionの一つの証拠となっているのですが、日本ではジェンダー不平等が維持されているにも関わらず、専攻で見た分離は一貫して解消傾向にあるという傾向は興味深いです。

では、具体的にどの専攻が分離の解消に寄与しているのか、ざっくりとした分析になりますが見てみます。基本的にこの指標の性格上、男性ないし女性の多くが在籍する専攻分野の寄与分が大きくなります。例えば、物理学専攻では専攻内部における分離は大きいわけですが、全体に占める物理学専攻の人の割合が少ないので、このトレンドに対する寄与は小さいわけです。専攻内部の分離のトレンドについても別途検討したいと思います。今回見ているのは、全体の分離に対する寄与ということですね。各専攻の寄与度の和が当該年度における分離指標に等しくなります。

寄与度が大きな専攻を(目視で)確認して、8つほどあげました。分離の解消に大きく寄与しているのは文学と商学・経済学であることがわかります。例えば、1998年時点で文学を専攻する女性は18.5%いたのですが、男性では3.6%しかいませんでした。2018年時点でも文学を専攻する男性は2.8%と微減傾向にとどまっていますが、女性では8.3%と急減しています。文学はいわゆる「女性的」な専攻だったわけですが、急速にこの性格が薄れていることを示唆しているかもしれません。

反対に経済学では男性でこれを専攻する人が減りました。1998年時点では男性の31.1%が商学ないし経済学を専攻していましたが(女性は13.4%)、2018年時点では22.6%に減少しています(女性は11.7%)。理系専攻では大きな変化が見られないのですが、その中では電気通信工学の分離が解消傾向です。この専攻は「男性的」なのですが、男性で専攻する人が20年で9.1%から7%に減少したため、分離が解消しています(女性は1%から0.8%)。

以上のように、基本的にどの専攻も分離の解消に寄与しており、昔に比べて男性ばかりが経済学を専攻し、女性ばかりが文学を専攻するような世界ではなくなってきていますが、一つだけ例外的な専攻がありました。看護学です。看護学は20年間で分離が増加しています。これは女性で看護を専攻する人が増加したことが要因です。1998年時点で女性の1.3%が看護を専攻していましたが、この割合は2003年時点で2.4%、2013年で5.3%そして2018年では6.7%の女性が看護を専攻するようになっています。これに対して男性で看護を専攻する人は1998年の0%(!)から0.6%に増加しているにすぎません。結果として、看護学専攻における分離が強まっています。

おそらく、看護学専攻における分離の増大は、介護需要の増加と、短大から四大に昇格した大学の増加によって説明される気がします。短大の多くは私大なので、設置者を国公立と私立に分けると、後者のみで看護の分離が強くなっているかもしれません。


December 21, 2019

東大内における性別分離のトレンド

先日NYTの記事で東大の学部の女性比率が2割というニュースがありましたが(At Japan’s Most Elite University, Just 1 in 5 Students Is a Woman)、在学生の中で男女の分離はどれくらい変わっているのか、いないのか、気になったので調べてみました。
先日出版した論文で使ったDuncan indexと呼ばれる指標を使って、東大の12の学部における男女の分布をもとに分離のトレンドを作ってみました。

この指標は、学部jごとの女性内割合(Fj/F)と男性内割合(Mj/M)の差の絶対値をとり、これを他の学部の値と合計したものです。具体的には「男女間で学部の分布を等しくするためには何%の女性(男性)が他の学部に移らなくてはいけないか」を示していて、完全に分離(例:男性全員が経済学部にいて、女性全員が法学部にいるような世界)しているとこの尺度は100になり、完全に一致していると(例:男性も女性も各々2割ずつ異なる5つの学部に在籍する)0になります。

ホームページから2009年から2019年までのデータが取れたので「後期課程」かつ「その年度に進学した人」に限定して分離指標を作りました。その結果が以下の図です。これによると、2009年時点では学部間でみた男女の分離は約29ポイントで、およそ3割の男性(女性)が移ることで分布が等しくなることを示しています。それ以降、2017年まで分離は減少傾向にあったのですが、2018年から上がり始め、2019年には過去10年で2番目に分離が大きくなっています。


この指標の性格上、全体に占める男女の比率もトレンドに影響するのですが、東大の場合女性割合は安定的に2割なので、実際には学部内における男女の分布がより分離的になっていることが示唆されます。学部はたった12個しかないので、それぞれの寄与分を直接みた結果、近年分離の増加に寄与しているのは以下の4つの学部でした。


日本語だと、左から教養学部、工学部、法学部、そして理学部です。2018年から2019年に関しては教養学部と工学部の寄与分が大きいです。

工学部は2013年に分離の値が最も小さくなっていますが、この時、男性内割合は34.3%、女性内割合は18.4%でした。しかし、2019年になると工学部に進学する男性の割合は35.5%に増える一方、工学部に進学する女性の割合は14%に減少しています。男性がより進学するようになって、女性が進学しなくなったので、分離が近年上昇傾向になります。教養学部は逆のストーリーで、2018年時点では女性のうち8%が進学していましたが、2019年ではこの割合は11.8%に上昇しました。これに対して、男性のうち教養学部に進学する人は5.3%から4.5%に減少した結果、分離が強まっています。

学部内の女性比率はほぼ横ばいですが、その中で男女がどのような学部に進学しているかは安定的ではないことがわかりました。工学部に進学する女性が減ったこと、および教養学部に進学する女性が増えた背景は何なのか、気になります。

December 19, 2019

ジャンル別面白かった本10選

師走ですね。季節感がない人間なのですが、授業が終わり積読を消化する時期に入ったので、結果的に今年の振り返りをしているがごとく、某氏を真似て、今年読んだ本で面白かったものを10選してみました(半分くらいはここ1週間で読んだものだけど…)。

論文の方も10本選考中ですが、流石に本はこの1年で出版されたものに限定するのは難しかったので、できるだけ最近出版されたもの(2017年以降)に限定しています。

Inequality
1. Jack, Anthony Abraham. 2019. The Privileged Poor: How Elite Colleges Are Failing Disadvantaged Students. Harvard University Press.

文句なしに今年一番印象に残っている本。一言で格差というジャンルに落とし込めるのは難しく、人種・エスニシティ、文化、教育といった様々な分野に対しても大きなインパクトをもたらしているだろう。
この本では、アメリカの有名リベラルアーツカレッジであるアムハースト大学に入学してきた不利な背景を持っている(低所得出身のマイノリティ)学生を対象に、彼らがエリート校の文化にどのように適応しているのか、あるいはしていないのか、それらを分ける要因は何かを検討している。
我々は、こうした階層的に不利な背景を持っている人たちを均質的にみてしまう。それはアメリカでも同様で、1990年代後半からアメリカのエリート校では高額な授業料にたいして学生ローンを組むのではなく、低所得の学生向けの奨学金を拡大させてきた。こうした対策によって、これまで以上に低所得の学生がエリート校にアクセスすることは容易になっているが、筆者によればそれは問題の本質を解決したことにはならないという。以下のパラグラフは力強い。

I believe we should congratulate these colleges and universities on their willingness to innovate. Yet we cannot stop there. We must inquire further. Who are the students admitted to college under these new financial aid regimes? And what happens to them when they arrive on campus? Now that they have gained access to an elite institution, how do they make a home in its hallowed halls?

筆者自身も低所得かつ不利な背景を持った黒人家庭の出身で、アムハーストカレッジに進学した一人である。彼によれば、こうした学生の中でもエリート校に進学する前に似た環境で準備をすることができた層とそうでない層の2グループがあるという。前者をこの本ではPriviledged Poorと呼び、後者をDoubly Disadvantagedと読んでいる。PPのグループは入学前にボーディングスクールや有名私立高校に入学し、エリート大学に進学するような裕福な背景を持つ学生とすでに接する機会を持っている。これに対して、DDのグループはこうした有名高校に進学せずに、エリート大学に進学している。筆者によれば、エリート大学に進学する低所得黒人層は、このPPとDDがそれぞれ半数程度いるらしく、どちらかが珍しいわけではない。DDのグループはエリート大学の文化に触れるのが初めてであり、同じ社会経済的な背景を持っていても、PPに比べて学校生活に適応する際にハードルが高い。この本では、この二つのグループに焦点を当てて、エリート校がどのようにしてこうした不利な出身背景を持つ学生を不利に扱っているかを明らかにしている。

日本でも、同じ低所得層出身の学生でも、高校段階で選抜度の高い都内の中高一貫校に進学した層と、地方の公立校に進学した場合だと、トップ校(東大など)に進学した際の適応に差が出るような気がする。その意味で、この本の示唆はアメリカの事例にとどまらない。

2. Calarco, Jessica M. 2018. Negotiating Opportunities: How the Middle Class Secures Advantages in School. Oxford University Press.

カラルコさんは研究者としても優秀だが、最近ではツイッター・セレブリティとしての方が、名が知られているかもしれない。私も毎日ツイッターを楽しみに見ている。彼女はツイッターで頻繁に、質的研究だからこそわかるものは何かを書いているが、要するに質的研究はHowに答えるのに向いているというのが、彼女の答えだろう。

この本でも、解くべきリサーチクエスチョンは全てHowから始まっている(p.3)。ここまでくると珍しいくらいに正直で好感が持てる。
- How do children deal with challenges in the classroom?
- How (and why) do those efforts vary along social class lines?
- How do teachers respond to those efforts?
- How (and why) do those responses contribute to inequalities

さて、この本ではどのような回答を与えているのだろうか。依拠する先行研究はブルデューの文化資本の議論と、それをアメリカの中産階級と労働者階級のペアレンティングに敷衍した彼女のアドバイザーであるラローの議論である。これらの議論に基づけば、中産階級的な文化が支配的な学校では、中産階級の子どもは教師の期待に応える行動をするために、結果としてそうした文化的な知識を持っていない労働者階級の子供との間に格差が生まれる、という説明になる。しかし、実際には中産階級の子どもたちは教師の言うことに従わないことがある。彼女が具体例としてあげるのは、教師がある問題を自分たちでとくようにいった時でも、中産階級の子どもたちはわからない場合に助けを求めるのだ。では、労働者階級の子どもたちはなぜ手を上げないのだろうか。彼女の分析によれば、労働者階級の子どもの家庭では、学業に対して自分で責任を持つこと、および教師の手を煩わせないことを教える傾向にあると言う。これに対して、中産階級の子どもの家庭では、親は子どもたちを助けることが教師の仕事であると教える傾向にあると言う。彼女の本書の主張は、学校での困難に対して、子どもの出身階級間でその困難を解決するための機会を巡って、異なる対応が取られることがあり、それが不平等につながっているのではないか、というものだ。

3. Tomaskovic-Devey, Donald and Dustin Avent-Holt. 2019. Relational Inequalities: An Organizational Approach. Oxford University Press.

社会階層研究は10年に一度くらいrelational turnを提唱する本が出ることがあり、トマスコビッチさんのこの著作もその一つに連なるだろう。仮想敵とするのはいわゆるBlau-Duncanの地位達成モデルであり、関係論的な視点に立つこのモデルは個人主義的すぎるきらいがある。個人の中に不平等を生む資源が存在しているのではなく、個人が埋め込まれている社会関係が格差を生み出すという視点を関係論者は重視するわけだ。ここまではTilly のdurable inequalityとさしてかわらないが、組織の社会学で多くの業績があるトマスコビッチさんのこの著者では、組織(organization)をコアに据えて議論する。

この組織を分類する際に彼が用いる概念がinequality regimeであり、これは組織を中心にどのように資源が分配されているのか、どのような地位に対して報酬が与えられるかの体系くらいに考えればよい。これは彼の例ではないが、例えば日本の企業だと、資源は年齢を中心に分配されていて、年齢に基づいて付く地位に報酬が付されていると考えてもいいかもしれない。こう考えると、ジェンダー不平等に注目した時に、inequality regimeの言ってることがgendered organizationと何が違うのか、この本の議論は、基本的にジェンダーや人種といった個別具体的な現象については、すでに似たような蓄積がある気がしてやや評価しにくいところもある。どちらかというと、理論の本というよりは、組織レベルの格差生成プロセスに関する研究のまとめ、として読んだほうがストレスは少ないだろう。

次点:Rivera, Lauren A. 2015. Pedigree: How Elite Students Get Elite Jobs. Princeton University Press.

これまでの社会階層論はどちらかというと貧困に注目することが多かったが、トップ1%の収入の増大による不平等の拡大や、とりわけアメリカにおいてこうした不平等の拡大と社会移動の停滞の関連が検討される中で、エリートの家庭がどのようにしてその有利さを教育や労働市場を通じて維持しているかに関する研究が増えている。エリート大学に進学した層がいかにして競争的な地位の職業を卒業後に得るのかに関して、ジョブインタビューを中心とした就職のプロセスに着目ながら議論したPedigreeも、その研究ラインに連なる一冊であり、すでに古典的な扱いを受けている。出版年の関係で次点だが、そのインパクトはJackの著作に並ぶだろう(実際に10章では、Privilegeのない学生がどのようにしてジョブインタビューを切り抜け、内定を得たのかに関しての記述がある)。

Family
4. Collins, Caitlyn. 2019. Making Motherhood Work. Princeton University Press.

アメリカ、東西ドイツ、イタリア、スウェーデンの高学歴のworking motherの人にインタビューをして、彼女たちがどのようにwork family conflictを定義し、これに対応しているのか、あるいは彼女たちのideal motherについてのアイデアが国ごとにどのように異なるかを明らかにした上で、それらがマクロな政策的な文脈や文化とどう関わっているかを検討している。

スウェーデンはworking motherという言葉が死語になっており、働くことが前提でカップルが形成されるというのは興味深い。アメリカの母親が育児に対する自己責任をより語る傾向にあるというのも、市場的な福祉政策との繋がりで考えればよくわかる。こうした知見が出せるのが、比較研究の強みだろう。

ドイツの事例などで、彼女は政策を変えたとしても以前から存在している文化的な規範にworking motherが拘束される点も指摘している。イタリアは日本と似ている気がしたが、前者ではeconomic uncertanityがどの世帯でも懸念されていて、それがバランスが難しい中でも女性にフルタイムでの就労を要求している一方、日本ではMary Brintonのチームの研究でも指摘されるように、労働時間などの会社側の要因がconflictを生じさせているのではないかと思った。本研究では東アジアは検討されていないが、ジェンダーとワークライフバランスの文脈で言えば、この国を検討しない理由はない。コリンズさんと話した時も、東アジアの事例としての重要性は認められていた。おそらく、言語的な問題でこのような国のチョイスになったということだろう(そして、英語でインタビューすることへの批判的な意見もあったらしい)。

5. Kislev, Elyakim. 2019. Happy Singlehood: The Rising Acceptance and Celebration of Solo Living. University of California Press.

結婚の遅れ、あるいは生涯で一度も結婚しない人が増えつつあるのが、多くの高所得国でみられる現象だ。これらは必然的に「結婚しない人」が増えていくことと表裏一体なのだが、彼らは結婚したくても相手が見つからないのか、それとも結婚をそもそも志向していないのか。後者はさらに同棲相手のようなパートナーがいるのか、それともそうしたstableなパートナーも必要としていない人が増えているのか。このように、一口に「独身者」といってもその中身は多様である。日本では「おひとりさま」と言った言葉に示されるように、独身者でいることのハードルは(特に都市部に住む男性にとっては)低いが、アメリカではカップル文化が強いと感じることは多い(実際に、筆者は日本がextreme exampleであるとしている)。

こうした見方に従うと、シングルの人は相手を見つけたいけど見つけられていないと考えられがちだが、近年の研究ではもっと積極的にシングルの生活を営んでいる人たちが少なくないことを明らかにしている(余談だが、最近エマ・ワトソンが自分は「セルフ・パートナーシップ」を持っていると発言して注目を集めたが、こうした考えも、今後広がっていくのかもしれない)。

この本では、同棲相手のいない未婚者を「シングル」と定義して、彼らがどのような独身者に対する偏見にあい、それらを克服していっているかに焦点をあてている。メソッドとしては、社会調査データの分析もしながら、主としてアメリカとヨーロッパの都市部に暮らすシングル層への質的なインタビューを試みている。この本から一貫して示唆されることは、シングルに対する偏見は、翻って結婚している人への偏見とも表裏一体であるということだ。例えば第4章では、独身者の方が社会的活動に対して積極的ではない一方で、結婚している人の方がこうした活動に熱心であるという考えが今でも持たれていることが指摘されている。実際には、近年になるほど結婚している人の社会参加は減っていて、シングルの人の方がボランティアやコミュニティ活動に参加している場合も少なくない点がデータで示されいる。

このように、シングルに対して寂しい、不幸という偏見を持つことは、結婚している人に対して、幸せであるという偏見を貼ることに等しい。こうした偏見は双方にとって望ましいものではないと筆者は主張する。結婚とは幸せなものだと思い、用意ができていないのに結婚してしまうと、それは不幸な結婚につながってしまうからだ。シングルであっても、なくても、それ自体によって偏見が付されないような社会になっていくかが、今後の課題かもしれない。

Culture
6. Currid-Halkett, Elizabeth. 2017. The Sum of Small Things: A Theory of the Aspirational Class. Princeton University Press.

ウェブレンの「誇示的消費」は広く人口に膾炙した概念だが、この本では現代版の「誇示的消費」を検討している。ウェブレンの時代の誇示的消費は、まさに意味のない絵画や高級品が消費されるわけだが、産業革命によって勃興した中産階級は大量に生産されるようになった財をもって自らの地位を示すことができるようになった。それはブランド物のバックかもしれないし、高級車かもしれない。

ウェブレンの時代の誇示的消費は、生産活動に従事する必要のない「有閑階級」の誕生と表裏一体である。しかし、誇示的消費が中産階級、果てはより広い層にまで可能になるにつれて、有閑階級という言葉が実体を伴わなくなってきた。実際には、近年になるほど高所得者の余暇時間が減少しているという。さらに、グローバル化や知識経済の進展によって専門的スキルの重要性が増し、それらは教育によって得られるため、専門的な知識を身につけることが所得とは独立にエリートを構成する要素となっている。こうした所得だけによって結びつかない新たなグループは、筆者によれば「共有された文化的な習慣と社会規範」によってつながっているとされる。これらの習慣の一つ一つが、タイトルにあるような非常に小さいもので、それが集合となって新しい階級が作り出される。筆者はこれをaspirational classと名付ける。これらの消費は、明確な意識に基づいており(「健康」な食事など)、こうした個人のアスピレーションの共有からなる階級はウェブレンの時代における経済的消費による階級とは大きく異なる点を、筆者は主張している。

Race
7. Kao, Grace, Kara Joyner, and Kelly Stamper Balistreri. 2019. The Company We Keep: Interracial Friendships and Romantic Relationships from Adolescence to Adulthood. Russell Sage Foundation.

アメリカでは長く、異なる人種間の友人関係あるいは交際、最終的に結婚に至るかどうかが社会的同化(ないし統合)の一つの指標とされてきた。ここでの「人種」は白人と黒人の境界線のことをさすことが多かったが、近年ではヒスパニックとアジア系の人口も増加しており、Bonilla-Silvaのようにbiracialから一部のアジア系や人種的には白人に近いラテン系をいわゆるHonarary whiteに分類する見方も登場している。

このように、多様化する人種・エスニシティや、将来的に白人が人口の半数を下回るmajority minorityに関する議論はアメリカの社会学の一大テーマであるが、筆者らはこれらの先行研究において、若年期のinterracialな友人関係が大人への移行時期の友人・交際関係に影響するのかという点は検討されてこなかったとする。Alportらの接触仮説などを引用した上で、この本ではAdd Healthのパネルデータを使用して(1)青年期と大人期の友人・交際関係の違いの記述、(2)両者の関連、(3)白人、黒人、ヒスパニック、アジア系による違いを検討している。本書の貢献の一つは、これまでサンプルサイズの少なさから種略されがちだったヒスパニックとアジア系の友人関係についても十分に検討している点があげられる。また、これまでの研究では回顧的な情報から若年期の他の人種との関係が与える影響を検討していたが、この研究ではパネルデータの特性を生かして、実際にコンタクトがあったかの影響を検討できている点も指摘できるだろう。

8. Hamilton, Tod G. 2019. Immigration and the Remaking of Black America. Russell Sage Foundation.

こちらも2019年にRSFから出版された人種に関する本。といっても、そのフォーカスは同一人種内の多様性、具体的には増加する黒人移民がもたらす示唆に関するものである。いわゆるアメリカにおけるracial divideは白人と黒人の間に引かれるわけだが、Kaoらの研究でもあったように、近年になってヒスパニックやアジア系といった第3のカテゴリが増加し、彼らは黒人よりも白人層と関係を持ちやすいため、将来的には白人と黒人ではなく、非黒人と黒人の間にracial divideが移っていくのではないかという議論がある(これだけ書くとすごい大げさな人種差別論に聞こえるかもしれないが、人種の社会的構築や黒人層の歴史的な差別の経験といったものが全て積み重なった上での議論である、念のため)。

しかし、黒人層の内部も多様化しているのが、本研究の着目している点である。具体的には、近年では黒人とアイデンティファイする人のうち、9.2%が移民であり、移民の10%が自らを黒人とアイデンティファイしている。また、アメリカ生まれの黒人の20%がいずれか一方に外国生まれの親を持っている。この外国生まれの黒人移民の国籍は非常に多様で、英語を母語にもつジャマイカ、ナイジェリア、ガーナ、スペイン語が母語のドミニカ、フランス語のハイチ、スーダンではアラビア語が母語である。アフリカや中南米出身の移民でも、同じ言語を持っているわけではない。このような多様性ゆえに、これまで黒人系移民の詳細については検討されてこなかった。しかしながら、上述のアメリカにい置ける変化するカラーラインを考える上では、黒人内の異質性に着目することは非常に重要である。

また、黒人移民とアメリカ生まれの黒人の間には労働参加や賃金などに差があり、この格差は、これまでの研究でアメリカ生まれの黒人において労働市場のアウトカムが低いこよが、彼らの文化的な要因に帰するという考えを生む温床になってきた。これに対して、筆者は黒人移民層のセルフセレクション(例えばナイジェリア系移民の6割近くが大卒学歴を持っている)、1965年前後で変化したアメリカの人種差別の文脈、そして移民がアメリカの労働市場に対して持つアメリカ生まれの黒人とは異なる考え方の三つが両者の差を説明する、言い換えると貧困の文化といった説明を棄却している。

労働市場のアウトカム以外に、健康や結婚といった指標も検討しており、今後、黒人系移民の研究の土台になるような重要な文献だろう。ちなみにTodはプリンストンの教員で、結構気軽に話しかけてくれるいい人。

次点:Morris, Aldon D. 2015. The Scholar Denied: W. E. B. Du Bois and the Birth of Modern Sociology. University of Chicago Press.

我々はアメリカ社会学の始まりがシカゴ大学から始まると考えがちだが、これは正しくない。正確には「正しかった」のかもしれない。実際には、シカゴ大学が社会学部を作る前にアメリカ黒人研究で知られるDu Boisがアトランタ大学に社会学部を作っている。Du Boisは当時の人種差別の影響もあり、主流の社会学からは排除されてきた。戦後になっても、Du Boisが社会学の文献として読まれることは稀で、日本の学説の輸入はDu Boisの研究をうまく取り入れられていないかもしれない。ノースウェスタンの社会学者であるAldonさんは、学部の恩師からDu Boisを教わり、それ以降一貫してDu Boisの研究をしてきた第一世代といってもいいかもしれない。学説史を研究されている人には、ぜひこの本を手にとって、どのようにしてDu Boisが主流の学説から排除され、近年その功績が見直されているかを知ってほしい。出版年の関係で次点。

Big data
9. Salganik, Matthew J. 2017. Bit by Bit:Social Research in the Digital Age. Princeton University Press.

日本語でも瀧川さんたちが翻訳して広く知られるようになった「ビット・バイ・ビット」。社会学の人に対してはビックデータのもつ可能性を示唆するものであり(2章)、データサイエンティストに対しては社会調査のアイデアを伝える(3章)、バランスのとれたものになっている。4章と5章では具体的に実験とマス・コラボレーションという「デジタル時代の社会調査」だからこそ可能になっている新しい方法についての紹介、最後に6章では倫理的な課題について言及されている。3章はこれまでの社会調査の教科書の復習に読めてしまうかもしれないが、実際にはビックデータ時代の社会調査をこれまでの調査の歴史と対比させる形で議論しているため、社会調査法の授業でアサインすることはオススメだし、実際にプリンストンの授業でもこの章が調査法のセミナーで読まれている。

Japan
10. 神林龍, 2017.「正規の世界・非正規の世界」慶應義塾大学出版会.

最後のジャンルは「日本」、ということで和書を選んでみた。非正規雇用の拡大は日本の社会階層論でも度々議論の対象となる現象だが、この本では非正規雇用が90年代以降の日本で増加しているのに対して、正規雇用の規模は安定的かつ、その特徴とされる長期雇用慣行はコアな部分で維持されているという一見するとパラドキシカルな状態を法と経済の双方に着目して説明している。まず、数字の上では非正規雇用増加の背景にあるのは自営業の衰退である点が指摘される。本書ではなぜ自営業が衰退したのかについての説明はされているが、冒頭にもあるように明確な解答を出すまでには至っていない。

その一方でなぜ非正規が増えたのか、あるいはなぜ正規が増えなかったのか、という問いについては、日本特有の労働法制にその答えを求めている。筆者によれば、日本の労働法規制は労使二者間のコミュニケーションによって柔軟に調整されている側面が強く、日本的雇用の特徴とされる企業別の労働組合も、こうした会社単位の労使の交渉を容易にしてきた側面があるという。「正規の世界」は労使二者間の柔軟な交渉によって成立していた側面があり、これに対してインフォーマルセクターでは「正規の世界」がもっていたような労使のコミュニケーションの制度が存在しなかったため、正規が増えなかったと結論づけている。本書のテーマは「非正規の世界と正規の世界の不釣り合いな連関」にあるが、その関係性を理解する鍵が労使自治の違いであるというのが、筆者の主張である。

次点:Nemoto, Kumiko. 2016. Too Few Women at the Top: The Persistence of Inequality in Japan. Ithaca: ILR Press, an imprint of Cornell University Press.

出版年から次点となったが、安倍政権のいわゆる「女性が輝く社会」の話もあり、女性管理職をいかに増やすかはホットなトピックになっている。社会学者は元来「そんなに世界は簡単に変わらないよ」ということを主張する集団で、この本でも女性就業者がどのようにして、管理職など指導的な地位につけないのかを3つの金融セクター、および2つの化粧品企業に勤める男女への質的なインタビューから明らかにしている。先行研究では日本企業に特徴的な長期雇用慣行が女性の就業継続を不利にし、年功序列に基づく昇進制度をとる以上、女性が管理職に就くのが難しいとされてきたが、本書では質的研究らしく「どのように」これらの慣行が女性を不利に扱っているかを明らかにしている。同一企業に長く奉仕するコミットメントが要求される日本的な雇用慣行では、長時間労働などのハードワークが賞賛される傾向にあり、このナラティブのもとで女性は管理職には向いていないという言明が正当化されている。長時間労働自体は本書が対象とした企業でも減少傾向にあるというが、それでも夜10時ごろの退社が当たり前とされるケースは少なくなく、こうした長時間労働が前提の雇用を前にして、ワークライフバランスを考える女性は昇進意欲を失ってしまう点も指摘されている。

第4章でほとんど地位が変わらない(結婚している)男性が家賃補助をもらっているのに対して、(独身の)女性がもらっていない、特に女性管理職が少ない場所では、とする記述があり、性別職域分離と結婚プレミアムの研究を進める上で興味深い記述だった。

新規性のある概念を生み出したといった類の本ではないが、緻密な質的調査から定点観測的に現代の日本を記述した意義は大きい。Yuko OgasawaraのOffice Ladies and Salaried Men と比較して読むと、何が変わって、何が変わっていないのかがよくわかる。研究者以外の人にもオススメの一冊。

番外編:Genetics
Conley, Dalton and Jason Fletcher. 2017. The Genome Factor: What the Social Genomics Revolution Reveals about Ourselves, Our History, and the Future. Princeton University Press.

この一年で最も考えることが多かったと言ってもいい、社会ゲノミクスの包括的な概略本ですが、残念ながら2018年に読んでいたので今年読んだ本10選には入らなかった。ただ、lasting influenceはすごい。

振り返り

レビューしてみて改めて思ったが、今のアメリカはやはり不平等研究が熱い。以前にもどこかで書いたが、アメリカの社会学は近年、様々な角度から不平等を検討する学問になりつつあり、不平等を研究するのは階層研究者だけの仕事ではなくなってきている。毎年のようにイノベーティブな方法やアイデアを駆使した新しい研究が出ているのは、格差が拡大している社会だからこそ、だとすれば皮肉かもしれない。しかし、こうした研究によって、私たちが格差・不平等を理解するツールは、どんどん増えている。これはいい傾向だろうし、異なる文化圏の社会学者も、こうした研究を積極的に吸収するべきだろう。

社会学のトレーニングを受けていないと、格差というのは、そこにあるか、ないかで考えてしまいがちだ。実際には、ないように見えているだけで、ある認識の枠組みを使えばみなかった格差が見えるかもしれない。JackのPriviledged PoorとDoubly Disadvantagedという概念は、まさに低所得層のエリート大学進学者という一枚岩で語られがちな生徒たちの異なる側面を明らかにする概念である。それで不平等を解決することはできないかもしれないが、見えなかったものが見えるようになることが、問題の本質を一歩進んで、理解できることにつながるのではないだろうか。

ジャンル別面白かった論文10選(2018-2019)

某氏を真似て、私も今年読んだ論文で面白かったものを10本あげてみた。ただし、2018ー2019年に出版された論文に限定することにし(1本だけ例外)、かつジャンル別にしている(内訳:社会移動1、教育2、出生2、健康1、同類婚2、移動・空間2)。ジャンル別にしてはいるが、遺伝関係の論文が3本あり、最近の自分の関心を反映している。最近日本語が怪しいので、読みにくい場合はすみません。

1.Social Mobility
Song, Xi, Catherine G. Massey, Karen A. Rolf, Joseph P. Ferrie, Jonathan L. Rothbaum, and Yu Xie. 2019. “Long-Term Decline in Intergenerational Mobility in the United States since the 1850s.” Proceedings of the National Academy of Sciences 201905094.

文句なしに今年出版された社会階層論の論文で最も重要なものの一つだろう。何がすごいか、一言で言えばアメリカの1850年代からの社会移動の長期的な趨勢を記述したことにあるが、それが可能になったのはセンサスデータをリンクできたからである。この作業が非常に手間のかかるものだったらしい(第一著者談)。このリンケージ作業を始めたのがノースウェスタンのFerrieさんで、社会学者のSongとXieがこのデータを使って長期的な趨勢を描くアイデアを思いついた、と理解している。一度報告を聞いたことがあるが、リンケージの説明だけでもかなり勉強になったのとを覚えている。

いわゆる相対移動でみると、アメリカの社会移動は減少傾向にあるが、これは上昇移動しやすかった農業者層が一定数いたからであり、彼らを除くと、移動のトレンドは安定的であることが指摘される。こうした長期的な趨勢を描くことで、あらためて社会移動を考える際の農業層の役割についてスポットライトが当たりつつある。余談だが、日本でもセンサスのリンケージは始まっているらしく、今後は日本でも似たようなことができるかもしれない。

2.Education - College Effect
Zhou, Xiang. 2019. “Equalization or Selection? Reassessing the ‘Meritocratic Power’ of a College Degree in Intergenerational Income Mobility.” American Sociological Review 84(3):459–85.

社会階層論ではHout(1988)の研究に代表されるように、社会移動の流動性は大卒者において高いとされてきた。この研究の問題意識は、これが本当に大学を卒業したことによる因果効果なのかというものだ。既存研究(主としてBrand and Xie 2010以降の学歴効果の異質性に関する研究)では低階層出身の子どもほど大学を卒業することの便益が多いとする、college as a great equalizerという発見が指摘されてきたが、この研究ではresidual matchingという新しい傾向スコアウェイティングの手法を使って、この問いを再検討している。アウトカムは親子間の収入の関連である。NLYS79を用いた分析の結果、ウェイティングによって進学者の傾向性を調整したところ、大卒者と非大卒者の間の移動には違いがなく、大卒学歴の取得自体はequalizerではないことが示唆された。

ちなみに、この論文では、大学を選抜度によって分類してロバストネスをチェックしており、結果には大きな違いがなかった(つまりどの学校を出ていても便益は階層によって異ならない)。PAAで学会報告を聞いた時に思ったのは、大学に進学しやすいかのpropensityが大学の選抜度によって異なるというのは、日本に応用させると面白いかもしれない。例えば、同じ大学でも都市部の大学か地方の大学かでselectionのメカニズムは異なるかもしれない。都市部の大学に行きにくい傾向性を持つ人が(都市部の)大学に進学したときに得られるリターンには、ボーナスがあるのかもしれないので、検討してみると面白そうだ。ちなみに、プリンストンでもコロキウムのトークにきてくれて、その時にこの論文が15歳時の認知テストのスコアを使って「能力」を統制したといっていたので、将来的にはPGSを使ってみてはどうかと指摘してみたが、反応はややしょっぱかった。あとで個人的に話したところ、彼の周りではまだゲノムを使った分析に対してはmixed feelingらしい。

3.Education - Genetics
Lee, James J., Robbee Wedow, Aysu Okbay, Edward Kong, Omeed Maghzian, Meghan Zacher, Tuan Anh Nguyen-Viet, Peter Bowers, Julia Sidorenko, Richard Karlsson Linnér, Mark Alan Fontana, Tushar Kundu, Chanwook Lee, Hui Li, Ruoxi Li, Rebecca Royer, Pascal N. Timshel, Raymond K. Walters, Emily A. Willoughby, Loïc Yengo, 23andMe Research Team, COGENT (Cognitive Genomics Consortium), Social Science Genetic Association Consortium, Maris Alver, Yanchun Bao, David W. Clark, Felix R. Day, Nicholas A. Furlotte, Peter K. Joshi, Kathryn E. Kemper, Aaron Kleinman, Claudia Langenberg, Reedik Mägi, Joey W. Trampush, Shefali Setia Verma, Yang Wu, Max Lam, Jing Hua Zhao, Zhili Zheng, Jason D. Boardman, Harry Campbell, Jeremy Freese, Kathleen Mullan Harris, Caroline Hayward, Pamela Herd, Meena Kumari, Todd Lencz, Jian’an Luan, Anil K. Malhotra, Andres Metspalu, Lili Milani, Ken K. Ong, John R. B. Perry, David J. Porteous, Marylyn D. Ritchie, Melissa C. Smart, Blair H. Smith, Joyce Y. Tung, Nicholas J. Wareham, James F. Wilson, Jonathan P. Beauchamp, Dalton C. Conley, Tõnu Esko, Steven F. Lehrer, Patrik K. E. Magnusson, Sven Oskarsson, Tune H. Pers, Matthew R. Robinson, Kevin Thom, Chelsea Watson, Christopher F. Chabris, Michelle N. Meyer, David I. Laibson, Jian Yang, Magnus Johannesson, Philipp D. Koellinger, Patrick Turley, Peter M. Visscher, Daniel J. Benjamin, and David Cesarini. 2018. “Gene Discovery and Polygenic Prediction from a Genome-Wide Association Study of Educational Attainment in 1.1 Million Individuals.” Nature Genetics 50(8):1112–21.

長い。全員共著者である。社会学の論文では引用したくなくなるが、社会移動を考える際には、今後必ず引用しなくてはいけない文献の一つになるだろう。これまで、行動遺伝学では単一遺伝子が表現型に与える影響や、遺伝情報を共有する双生児を対象とした分析が多かったが、近年のテクノロジーの発達と、遺伝子情報を得るコストが劇的に(本当に劇的に)減ったおかげで、polygenic(複数遺伝子)な分析ができるようになった。これは要するにヒトの間で異なる遺伝子型と注目する表現型の間の関連をとり、一つ一つのlociの小さな寄与をまとめたスコアをつくることで成り立つ。このスコアが俗に言うポリジェニックスコアだ。このスコアは、概念的には注目する表現型を規定する遺伝的要因と解釈される(ただし、実際には環境要因も含まれているため、解釈には注意が必要)。このポリジェニックスコアは遺伝子の配列を元に個人に与えられるもので、スコアの性質上、正規分布になる。と聞くとベルカーブ論争を思い浮かべる人もいるかもしれないが、社会ゲノミクスの研究者たちは慎重に優生学的な言明を否定しているので、その点は注意されたい。

表現型ごとにスコアは異なり、一つのスコアを求めるだけでトップジャーナルに論文が載っているのがここ数年の現象だが、社会学者が関心を持つ教育年数も、2018年にスコアのアップデート版が出た。アップデートというのは、ポリジェニックスコアがその基にする遺伝子型は非常に数が多く、多重検定をして有意な遺伝子型をスコアの作成に用いるため、サンプルサイズが足りないとスコアによって説明されるばらつきが小さくなってしまう。この論文では、110万人の遺伝子データを解析した結果、ヨーロッパ起源のアメリカにいる白人層においては、教育年数のおよそ11-13%が遺伝によって説明できることを示唆している。

4.Fertility - Gender
Brinton, Mary C., Xiana Bueno, Livia Oláh, and Merete Hellum. 2018. “Postindustrial Fertility Ideals, Intentions, and Gender Inequality: A Comparative Qualitative Analysis: Postindustrial Fertility Ideals, Intentions, and Gender Inequality.” Population and Development Review 44(2):281–309.

日西米瑞20-30代の高学歴のカップルを対象に、理想子ども数と出生意図の差がどのように生じるのかを検討したもの。日本ではフルタイム就労の女性の夫は、妻の就労継続に理解があり、家事にも貢献したいと考えているが、自身は長時間労働のためそれができない。妻も夫の貢献を想定していない。

パートタイム就労の女性の場合には、夫一人の収入がメインのため子育てのコストを考えて理想と意図の間に差が生じる。日本と同じ超低出生のスペインは、将来の経済的不安のために共稼ぎが必要と認識。日本では性別分業が暗黙のうちに前提とされている。超低出生国の間でも文脈の違いが認識の違いを生む。

日本のフルタイム夫婦の場合に理想と意図の差が生じるのが、夫は妻のキャリア志向を尊重しつつも、長時間労働のために家事に貢献できないと考え、それを妻も共有していて、結果として暗黙のうちに性別分業が前提とされている、という説明は腑に落ちるところが多い。

Goldscheiderのジェンダー革命の議論だと、日本の高学歴フルタイム夫婦の男性でジェンダー平等的な意識が持たれている点では、日本も革命の第2段階に来ているのかもしれないが、意識の上で夫婦が対等になりつつも、長時間労働により暗黙の性別分業が維持される限り、日本はこの理論の逸脱例だろう。あるいは、妻が働くのをサポートしたいというself-fulfillment(自己実現?)側に立ちながらも、実際には女性が男性並みに働く(ただし男性は家庭で家事負担はしない)ことで男女平等が達成されようとしているのであれば、Goldscheiderの枠組みでは、まだ日本は革命の第1段階だろう。

5.Fertility - Macro Economic Change
Seltzer, Nathan. 2019. “Beyond the Great Recession: Labor Market Polarization and Ongoing Fertility Decline in the United States.” Demography 56(4):1463–93.

アメリカを襲った大恐慌は失業率の増大をもたらした。失業率の増加は出生率の低下に繋がるのはよく知られている。したがって、失業率が回復すると、出生も元の水準に戻ると考えられてきた。しかし、アメリカでは失業率は回復しているのに、出生率は基に戻っていない。これはなぜか。著者によれば、それは大恐慌によって産業構造が変化したからだと言う。 具体的には、製造業が恐慌によって衰退し、これまで製造業についていたような世帯の経済的な不透明性が高まり、出生の遅延や減少がみられるようになったと言う。この主張は、失業率が回復しても出生率が今度も上昇することはないと言う示唆を持つものであり、分析は手堅いがインプリケーションは大きい。ネイサンはウィスコンシンの先輩で、個人的にもよく話していたので、この論文が掲載されたのは個人的にも嬉しい。

6.Health
Brown, Tyson H. 2018. “Racial Stratification, Immigration, and Health Inequality: A Life Course-Intersectional Approach.” Social Forces 96(4):1507–40.

アメリカの人口学の一大トピックの一つは、学歴や人種間の健康格差である。この論文では、これまで比較的よく検討されてきた人種と移民ステータスによる健康格差をライフコース論とインターセクショナリティの視点から複雑化している。健康という文脈におけるライフコースの重要性とは、若い時の不利の蓄積が高齢層になって格差の結晶となって現れるcumulative (dis)advantageの議論とほぼ同じである。移民は従来セレクティブなプロセスでアメリカに来ていることから、hispanic health paradox(ヒスパニック系の方がSESは白人ネイティブより低いのに健康である現象)などが検討されてきたが、この論文では移民内部の異質性をアメリカの人種コンテキストに落とし込んで検討している。HRSを用いた分析の結果、たしかに移民層へ健康上のアドバンテージを持っているが、年齢とともにその推移は異なり、これは人種と関連する。具体的には、白人の移民では比較的健康が良好に推移するのに対して、黒人やヒスパニック系の移民では年齢を経るに従って健康が悪化しやすい。筆者はこれを、移民がアメリカの人種の文脈に暴露された蓄積の結果であると解釈している。近年の人口学で重要になっているトピック(人種、移民、ライフコース)をうまく取り入れた意欲作、といったところか。非常に面白い。

7.Assortative Mating - Role of College
Ge, Suqin, Elliot Issac, and Amalia Miller. 2019. “Elite Schools and Opting-In: Effects of College Selectivity on Career and Family Outcomes.” NBER Working Paper No. 25315 1–55.

私の本業は同類婚なので、この手の論文も一応フォローしておきたい。といっても、今年出版されたもので「これは」というものは少なかった(自分の専門なのでやや厳し目かもしれない)、来年は多分(というか既にRR/アクセプトされたものを含めると)面白い論文が出てくるだろう。

この論文は経済学者によるもので、エリート大学を卒業することが労働市場や家族形成に対して因果的な影響を持つのかを検討している。この手の「因果」の論文では、エリート大学の「効果」はほぼないものとされている(Dale and Krueger 2002)。この論文ではDale and Kruegerで検討されたものと同じデータを使いつつ、サンプルを拡大し、男女別に分析している。結果、男性ではエリート大学を卒業する因果効果はなかったが、女性では結婚確率を下げる一方、結婚した場合の相手の学歴は高くなることがわかった。最近、この手の大卒内の異質性に関する論文を書いているので、多少参考になる、多少だが。

8.Assortative Mating - Genetics
Conley, Dalton, Thomas Laidley, Daniel W. Belsky, Jason M. Fletcher, Jason D. Boardman, and Benjamin W. Domingue. 2016. “Assortative Mating and Differential Fertility by Phenotype and Genotype across the 20th Century.” Proceedings of the National Academy of Sciences 113(24):6647–52.

この論文は最近出たものではないが、一連の同類婚とゲノムの関係は非常にポテンシャルがあるので、例外的に選出することにした。この論文では教育年数を予測するポリジェニックスコアを用いて、学歴同類婚のどれくらいが、教育年数を予測する遺伝子によって説明されるかを検討している。配偶者間のPGS for years of educationの相関は0.132(高い…)である。ちなみに、他の研究によって学歴同類婚の相関の1割は、PGS for years of educationで説明される(Domingue et al. 2014)ことも踏まえると、この結果は、以下のような示唆を持つ。これまでの学歴同類婚の研究では、学歴というのは将来の所得を予測するシグナルとして機能していると理解されてきた。今でのこの想定は間違っていないだろうが、これらの研究から、学歴というのは遺伝子レベルで予測される教育年数スコア、言い換えると我々が知性や能力と呼んでいるものの代替としても機能しているかもしれないことが示唆される。

9.Geography - Genetics
Abdellaoui, Abdel, David Hugh-Jones, Loic Yengo, Kathryn E. Kemper, Michel G. Nivard, Laura Veul, Yan Holtz, Brendan P. Zietsch, Timothy M. Frayling, Naomi R. Wray, Jian Yang, Karin J. H. Verweij, and Peter M. Visscher. 2019. “Genetic Correlates of Social Stratification in Great Britain.” Nature Human Behaviour 3(12):1332–42.

またゲノムである。UK biobankのデータを用いて、さまざまなポリジェニックスコアの地理的分布を見た論文。ゲノムの強いところは、基本的に生まれた時点でフィックスしているので(メチル化によるゲノムの変化という例外はあるが)、逆因果を考える必要がない点がある。分析の結果、33の表現型のうち21が地理的に有意なばらつきを示していて、特に教育年数のポリジェニックスコアによる分布が最も分布が地理によって異なっていた。特に、鉱山地域といった産業が衰退した地域ほど、ポリジェニックスコアが低い集団が集中している。もともと、高学歴層ほど機会を求めて地方から都市部に移動しやすいというのは、移動研究で頻繁に指摘されてきたことだが、それは高い学歴をもつ人の観察されないような特徴(リスク選好やインテリジェンス)が移動と学歴の関連を生み出している可能性を示唆してきた。この分析結果は、この仮説を支持するものであり、環境(この場合は地域の経済的な機会)とゲノムのインタラクションによる移動の発生、という文脈に位置付けられるだろう。余談だが、このトピックは非常にポリティカリーインコレクトな問いにつながる可能性がある。というのも、イギリスにしろ、アメリカにしろ、現在の政治的指導者を支持するような人は、人が都市に移動していったような地域の出身に住む傾向にあるからだ。

10.Geography - Eviction
Humphries, John Eric, Nicholas S. Mader, and Daniel I. Tannenbaum. 2019. “Does Eviction Cause Poverty? Quasi-Experimental Evidence from Cook County, IL.” NBER Working Paper No. 26139 1–47.

プリンストンの社会学者マット・デスモンドの一連の研究によって、アメリカでは年間200万件におよぶ住居の強制退去(eviction)が行われており、これが貧困の結果だけではなく、さらなる貧困を生む可能性が指摘されてきた。しかし、因果推論にうるさい経済学者に言わせると、evictionがその後のネガティブなアウトカムに対して因果的に効果があるのかは、まだ正確に検討されていない。なぜなら、eviction自体が貧困の結果生じるものであり、これは典型的なセレクションの問題になるからだ。筆者らはイリノイ州のクック・カウンティの17年に及ぶevictionレコードのデータを分析して、evictionがその後のアウトカムに与える因果効果を検討している。DIDとIVを用いた分析の結果、記述的には存在したevictionとその後のクレジットスコアの関連は(300-850のレンジのスコアで、evictedされた人とそうでない人の間には100の差があった)、有意だが非常に小さなもの(an eviction has almost no effect on credit score)になることがわかった(DiDではクレジットスコアでおよそ2ポイント程度)。

プリンストンの社会学部には全米のevictionデータベースを作成しているラボがあるが、この結果はラボのメンバーには少し衝撃的に受け止められている。確かに、evictionがその後の経済的なアウトカムにほとんど影響しないというのはやや信じがたい。今後多くの追試が行われると考えられるが、ある同僚によれば、分析対象がイリノイ州シカゴであり、この地域の貧困の文脈を考えると、evictionが効果を持たない可能性は理解できるという。転じて、外的妥当性について考える際にも重要な研究になるかもしれない。

December 13, 2019

言行一致

Today my Japanese friend told me 言行一致 cannot be translated into English. I later searched, a translation would be: behavior (should be) consonant with one's words. Not sure we (Americans) care about the consonance. He said the word came from neo-Confucianism [陽明学]. Words [言] in this context refer to what you think.

多分アメリカでは、自分の周囲の環境にベストな行動をすべきで何を考えているかはまた別の問題な気がする

December 9, 2019

休日

学会明けの休日は概して気だるい。今日もその例に漏れず、気分転換に映画館に来たが、上映中の映画で見ていないものがParasiteとMarriage storyだったので、何れにしても研究関心に近いものだった。後者を見る。月並みかもしれないけど本当の修羅場を見させられているようでヨハンソンとアダム・ドライバーの演技は圧巻だった。私はどちらかというとああいう修羅場を幼い頃によく見ていたので、変なリアルさもあった。女性弁護士の聖書のくだりは映画館でみんな笑ってた。いい映画。

先日のカンファレンスでディスカッサントのアネット・ラローのコメントは示唆に富むものばかりだったけど、特になぜ東アジア研究者が結婚にここまでこだわるのかという指摘は結構大事だと思った。研究者自身も社会の価値観を内面化しているかもしれないから。

私が独身者の研究をするのも(コインの裏表といえばそうなのだが)、むしろ独身者をマージナルな存在としてみなしている価値観を相対化する(ぶっ壊す)ために、これだけ増えてるんだから彼らのことちゃんと理解しましょうよと、いいたいからでもある。marriage storyは、結婚するかしないかが東アジアでは確かに重要だけれども、それ以外のオルタナティブを研究者がどうやって提示していくかも、重要だと思う。

先日の学会で中国研究の教授から日本の留学生は少ないという嘆きを聞く。昔は"historically incommensurate knowledge cultures and greater opportunities within Japanese academia" (Kennedy & Centeno 2007)だったかもしれないが、後者は現在は妥当しない気がするので、今後は増えるかもしれない。

ただの印象といえばそれまでだが、アメリカでトレーニングを受ければアメリカでTTの職を得られる人は日本の院生で何人もいるはずで、就職の口が狭くなる中でますます厳しい競争にさらされてるように見える

December 7, 2019

Social Science Korea

UPennの韓国研究センターが人口学研究センターと社会学部のサポートを受けてFamily Changes and Inequality in East Asiaというカンファレンスを開いてくれた。今回、私は指導教員が第一著者の論文を一緒に報告することになり、招待してもらった。

自分の発表についてはまた暇があればまとめるが、ひとまず1日目の感想。毎度のことだが、学会イベントは知的にも(飲み会があるので体力的にも)疲れるけど、終わった後に頭が示唆に満ちている瞬間がなんともいえない。

アメリカの学会ではかなり珍しく東アジアの家族と格差に関心がある人「だけ」が集まる小さなカンファレンスなのに、プリンストンの同期と話している最中にマディソンや東京、中国や他のカンファレンスであった人や初めて会った人が混ざる感じは、不思議な懐かしさが込み上げるものだった。同時に、自分がプリンストンに来てから触れている、考えていることとはいくつもの意味で違う体験をすることができて、示唆に富むものだった。

表現することは容易ではないが、その地域の文脈をよく理解するための研究はたしかに重要な一方で、最近の自分は、もっと理論的な観点から日本や東アジアをどうケースとして扱うかを考えている。その辺りの指向性の違いを感じた。昔は日本ありきで考えてたけど、だいぶ変わった。それはつまり常に「なぜ日本なのか(Japan, who cares?)」という自己問答である。ただ、日本研究のアイデンティティを失ってるわけではないので、どんどんハイブリッドになっているのかもしれない。

現実的には既存の仮設の検証といった手堅い論文を書きつつ、日本の事例だからこそアメリカのオーディンエンスが見逃してた大きな問題に答えられるようなレバレッジの大きな論文を進めることが大切だと思う。何事もバランスが大事で、今回のカンファレンスは地域コンテクストの大切さを改めて共有できた。

結局のところ、日本や東アジアの事例からアメリカのジェネラルなオーディエンスに対して何が理論的な貢献として言えるのかに尽きる。言うは易しの類だが。地域研究だからこそ負っている不利はあるが、まだ未開拓の分野を進めるポテンシャルもあるはず。ただそれはリスキーといえばリスキーなことも確か。

与太話。教育拡大によって学歴の価値が変わっていく問題をどうすればいいかという話の時に、パーセンタイルランクを使うよくあるアプローチの後に、ポリジェニックスコアを統制変数で使えばいいんじゃないのと言う趣旨のコメントしたら、やや場が凍った気がした。ゲノムは言い方に気をつけないといけない。ゲノムがわかるプリンストンの同期にフォローしてもらったので傷口は広がらなかった気がする。

それ以外にもいくつか不思議な体験がありこれがアカデミアの世界なのかと興味深く観察した。ペンのファカルティの先生がディナーの時に突然来たかと思うと、やや不自然な感じで私に話しかけてきて、私が自分の研究を話しても、何か素性を知っているような気配を受け。勘違いかもしれないが、日本研究をしている社会学者が少ないことを嘆いていたので、もしかすると何か下調べ的なものをしているのかもしれない。

最近自分がわけわからないこと考えている気がしてうまく周りに伝えられない気がするが、一貫した趣旨の論文を書けばいいので、ひとまずは気にしないことにする。

December 5, 2019

12月3日

今日の授業で、ゲノムレベルで予測される個人の、例えば教育年数の、スコアは階層論が区別するascribed/achievedのどちらなのかという議論があった。

20世紀前半の階層論の古典では既にIQなどの知能指数が出身階層の影響を受けていると言ってるけど、今は彼らがピュアな個人の能力と想像したものにかなり近いものを観察できるようになっている。でもそれは理論上は遺伝なので、別の出身階層なのではないかと考えることもできる。

突き詰めて考えると、達成的な地位という概念は、何が達成に客観的に影響するのかよりも、達成されたという事実自体、その地位に対する本人及び社会の意味づけに焦点を当てたものなのかなと思い始めた。まあ社会学が考える「地位」って本来そういう関係的な概念だけど。
この話をした次の日に、某大学出版局からでる社会階層論のハンドブックにゲノムが社会階層研究に与えるインパクトについて共著で各オファーがきた。

December 2, 2019

12月2日

Two papers got accepted to ISA Forum 2020. Looking forward to visiting Brazil for the first time.ブラジルは(というか南アメリカは)初めてなので楽しみ。二つとも結構「ソフト」な論文で、アメリカの私が属しているようなコミュニティではあまりcutting edge 都はみなされないと思ったので国際学会に出してみた。ソフトな研究でも、コンテクスト重視でパブリッシュすることは非常に大切。

しかし、何も考えず気になったカンファレンスにアブストを出してたら、夏は(お金が無限にある仮定だと)5月上旬:日本帰国→5月中旬:フィンランド・イタリア出張→日本帰国→6月下旬アメリカ帰国→7月下旬ブラジル出張になる可能性がある。最初に日本に帰る必要がない。家族の誕生日が近いので、5月に一旦帰りたいところではあるが。

ちなみに理論上、3月の数理、6月の人口学会、および10月の日射どれも参加できる、それぞれ、春休み、夏休み、秋休みが被っている。理論上ではある。ただ、10月はまた別の海外出張が入りそうなので、来年はかなり出張が多くなりそう。今日チャットした知り合いの研究者には、独身で羨ましいと言われたが、独身が羨ましがられるのは基本的に長期休暇の時だけである。

理論上参加できるが、日本にいる研究者の人と「いい距離感」をどうやって保つのかが最近の課題なので、全てに参加するのはどうなのだろうと、悩む。自分はあくまでアメリカのマーケットで勝負していくので、プライオリティをつけることが重要。

結構驚いたけど、1930-50年代のアメリカ社会学では今よりも盛んに同類婚が研究されていた感じがある、しかも言っていることが(アイデアとしては)全然古さを感じない。

20年代の論文が始まりぽいけど、それらは00年代のピアソンの論文を引用している。この時代は開放性よりも優生学的な関心に近いのかもしれない。ソローキンも20年代に同類婚書いてるし、昔の社会移動の研究自体が優生学と距離が近かったのかも。最近のゲノムの分析でstrike backしてきた感がある。

私は階層と家族と教育が全てやりたくて、将来どこに移ってもいいように学歴同類婚の研究を始めたけど、最近はゲノムの分析で同類婚が非常に重要であることに気づき、この現象本当にポテンシャルがある分野な気がしている。

12月1日

「ドゥ・ボイスは理論なのか」という問いを吹っかけられて先週から考えているが、彼に限らず社会学が制度的に無視してきた理論家は数多に登るはずで、これは社会学で理論とされるものがどれだけ西欧に偏ったものであるかを問い直すことに等しい気がしている。一種のポストコロニアルの議論に近いかもしれない。

下記の本は理論・学説を屋号に掲げる人は読んでおいて損はない。我々はシカゴ大学がアメリカ「最初」の社会学部と記憶しているが、それは真実ではない。
The Scholar Denied

シカゴ学派からアメリカの社会学を始めてしまうとドゥ・ボイスの業績をスキップしてしまう、ここ最近のアメリカの文脈的にはあり得ない。人種の議論を飛び越えてドゥ・ボイスが理論的に重要なことを言っているかは意見が分かれるかもしれないが、以前の学説が定説として輸入されきってしまう状況は残念。Souls of black folksなどは邦訳もあるようなので、社会学の理論のゼミで読めないことはないと思うのだが、教える側もどうやって読めばいいのかわからないかもしれない。