February 25, 2021

秋学期のまとめと春学期の近況

しばらく近況をまとめていませんでした。メモみたいに書いていたブログを読み直すと誤字脱字が激しかったので、奨学金の報告書として書いたものをここにもあげておきます。

パンデミックの影響で感謝祭前に学期が終わり、11月末から2ヶ月ほど一時帰国をしていました。1月下旬に戻り、現在春学期の4週目の授業が終わろうとしています。今回は2020年9月以降の記録として秋学期と春学期の途中までの経過をまとめています。

秋学期(2020年9-11月)

 今学期は多くの大学がそうであるように授業やセミナーは全てオンラインに移行しました。アメリカは通常感謝祭で1週間程度の休みを挟みますが、プリンストンでは移動を抑制するためこの休みがなくなり、学期開始を早めることで感謝祭前に授業が全て終わることになりました。そのため、通常は12月半ばまでかかっていた授業も、11月の下旬に終わりました。

 今学期の大きな目標はコースワークの終了でした。授業自体はほぼ取り終わっていましたが、後述する人口学プログラムの必修授業が一つ残っており、今学期はそれだけ履修しました。および、general examと言われる進級試験を済ませることがもう一つの課題でした。進級試験と書くと大袈裟に聞こえますが、プリンストンの社会学では少なくとも落ちることはないと言われており、私も無事パスしました。それでも口述試験までにそれなりに準備しなくてはいけないことはあったので、これを授業やティーチングと両立させながらこなしていくのは予想はしていたがあまり楽しい類のものではありませんでした。

a. コースワーク

 既に言及した人口学の必修授業は、これまで人口学プログラムを卒業した先輩たちの博論を読み、それを議論することで自らの博論への展望を形作ることに主眼が置かれたものです。先輩方の博論を読んだ感想としては、博論といえども完璧とは程遠いということに尽きます。

 人口学プログラムの博論は計量的な論文にもっぱら限られるため、実証的な論文を3つ書くthree chapter formatが取られていますが、このうち少なくとも1本はどこかのジャーナルに掲載されていることが多いです(正確には、どこかに掲載されているような論文がないと就職が難しい→掲載されるまで卒業を延長する!)。掲載済論文が再収録されたチャプターは非常に洗練されていましたが,それ以外の章は、問いがはっきりしていなかったり、メソッドが弱かったり、議論が追いづらかったり、読みにくいものも少なくありませんでした。この授業を通じて、プリンストンの社会学・人口学といえども、博論の水準がどの章も高くある必要はなく、少なくとも1章非常に強い論文があれば就職でき、それ以外の章は卒業後にアップデートしていけばいいのだと思えたことが収穫でした。もちろん実際には、ジョブトークで話す論文(経済学などのJMP相当)が評価されて就職が決まったら、急いで他の二つの章を仕上げる,という流れでクオリティに差が出てるのかもしれません。

b. 試験

 こうしてコースワークをこなしている間に、進級試験(general exam)の用意をしなくてはいけなくなりました。マディソンにいた時に受けた試験は夏休みにあったので試験勉強だけに集中できたのか良かったのですが、プリンストンでは学期中に行われるため、授業やティーチングとのバランスが大変です。

 選択した科目は社会階層論と家族社会学。「選択」というのは語弊があるかもしれません。マディソンではおよそ20ほどある試験科目の中から二つ選ぶのが条件でしたが、プリンストンでは科目を自分で作ることができます。そのため、例えば「社会科学における因果推論と機械学習」といった、最先端のトピックを作ることもできます。試験カルチャーで育ってきた自分は、あくまで過去問があり、それをもとに時間を逆算してできるだけ多くの問題に対応できるように準備をしていくスタイルに慣れていたので、今回のような創造性が求められるタイプに試験は、最後まで何が求められているのか掌握できなかったところがあります。

 実際に口述試験で聞かれるのは,試験勉強を通じて何を学んだのか、およびそれに関連して教員の方からトピックに関する質問がされるという感じで、そこまで「試験」といった感じではなく、いつものようにoverpreparedだったし、やや肩透かしを喰らったところもあります。というわけで、口述試験をパスしても、心が晴れやかになっている感じは特になかったのですが、準備を通じて作ったリーディングリストは今後重宝することもあるでしょう。ただ、個人的には試験だけに集中する時間が2ヶ月ほど欲しかったなと思います。もうこういう時間は取れないのだなと思うと、少し寂しくもあります。

c. 研究

 研究の方は,夏休みに投稿した論文のうち、返ってきたもの、最初の査読で落ちたものもあれば、再投稿してまだ結果が来ていないもの、最初の査読も返ってきていないものなど様々です。

 論文の投稿に関しては考えが変わりました。今まではトップジャーナルに載りにくいものでも重要な話はあり、それに時間をかけることも大切だと思っていたところがあります,実際にはまだ思ってもいます。ただそれ以上に、やはりトップジャーナルに論文を載せることも大切だなと感じ始めたのが今学期の変化でした。

 一つには、先に言及した授業の影響で、1本のトップジャーナル論文が持つ重みが、より際立って見えるようになったことがあります。もう一つは,結局のところ、トップジャーナルでも、それ以外のジャーナルでも、投稿して修正して再投稿しての繰り返して1年くらいは潰れることに気づきました。同じ時間をかけるのであれば、多くの人に関心を持ってもらえる内容にしたいし,それがひいてはトップジャーナルへの掲載に繋がるのだなと、考えを改めるに至りました。

 変な遠慮はせず、これから書くものは自分オリジナルの貢献ができ、それが結果的にいいところに掲載されるような論文を書いていきたいと思います。人生は限られてるので、自分以外の人でも書ける論文は、わざわざ自分で書く必要はないと言ってしまうと、何も書けなくなってしまうそうですが、それくらいの気概は必要なのかもしれません。

d. ティーチング

 ティーチングは現代日本論の授業を教えました。正確には指導教員がレクチャーした授業のTAですが、私の担当するセッションについてはかなり自由を認めてもらってるので、自分でデザイン(というと大袈裟ですが)した流れで教えさせてもらっています。当たり前と言えば当たり前ですが、授業を教え始めてわかるのは、教えられているのは自分自身だということです。特に,日本で育った経験をもとに日本を眺めていると,どうしてstatus quoを当たり前に思ってしまうところがあります。これに対して学生たちの素朴な、しかし核心をついているコメントには常にハッとさせられ、彼らの持っている素直な疑問に答えられるような研究がまだ少ないことに気づきました。思いもよらず,研究のモチベーションにつながっていることに感謝しています。


春学期(2020年1月-)

今学期は引き続きティーチングロードをこなすこと、および博論の計画書を練ることが目標です。授業は全て取り終えましたが、生活サイクルを整える意味でも多少緊張感のある授業をとっておくことは有益だと考え、ミニセミナー(6週間で終わる授業)を2つとっています。本来は一つが学期前半、もう一つが学期後半に開かれるはずだったのですが、何かの手違いか両方とも前半に開かれることになり、1-2月は非常に忙しくしています。

a. コースワーク

 授業は経済社会学と国際移動・移民の授業をとってます。まず経済社会学ですが、初回の文献を読んでると久しぶりに「社会学」の授業をとってる感じがします。具体的には経済活動がいかに社会的なコンテクストや人と人の相互作用に規定されているか、みたいなところに社会学らしさを感じます。一言で言うと、経済活動は社会なしには語れない、といった主張でしょうか。人口学の研究は統計的なデータを使ったマクロな分析が主なのですが、人口学の研究でこうした人と人の相互作用の重要性を指摘するときには、学歴やジェンダーと言った要因に還元しがちという批判を受けます。授業を理由して、それは概ね正しいと思いました。

 研究に関係する文脈では、兼ねてから興味のあった親の子どもへの投資、支出の話を経済社会学的に考えることができると分かり興味が増しました。どうやら、子どもを消費主体として積極的に捉えるアプローチは少ないようです。文献を読んでると、経済社会学の中にも経済学寄りの社会学者と社会学寄りの社会学者がいて、前者は経済学を(やや藁人形的に)対比しながら自分たちのオリジナリティを主張している一方、後者は前者と比較しながら自分たちのオリジナリティを主張しているように見えます。

 もう一つ履修している移民の授業も非常に楽しいです。今学期からプリンストンに着任された先生の授業です。毎週3時間のセミナーで、文献は論文や本の章が8本程度なのは他のセミナーと同じですが、移民研究は学際的なので、方法論も分野も非常に多様な論文が毎週並びとても楽しく勉強させてもらってます。

 経済社会学といい、移民といい、これまで詳しくなかったけれど興味はあった分野のコアの部分を、たった1学期(どちらもミニコースなので6週間ですが、それでもそれぞれで50本以上の文献を読むわけでなかなかの量です)で勉強できてしまうのは、こういう言葉が適切かはわかりませんが、とてもお得な気がします。まず先生がアサインする文献が面白いですし、それに対して周りの学生も鋭いコメントをしますし(またそれに淀みなく答える先生もすごいですが)、私も頑張って発言するようにはしてますが、実際には勉強させてもらってる側です。アメリカの研究大学に残って、こういう授業を20年くらい教えることができたら、もう人生御の字かもしれません。そういう大学に就職できるのはアメリカの院生でもほんの一握りですが、そこにたどり着けるように頑張っていきたいと思います。

b. 研究

 最近はコースワークとティーチングで忙しくて週に2-3日ほどしか研究に時間が取れず苦労していますが、指導教員との共著で書いた論文が人口学の雑誌に掲載されました。2月に入って、学部生の頃にスタートしたRAから発展した論文もアクセプトされました。その他、R&Rになった論文の改稿、今年出版される本の原稿、8月に疫学の先生と始めたCOVID-19の論文の仕上げ、労働政策研究・研修機構(JILPT)が実施したCOVID-19と働き方に関する調査の分析(4月にワークショップで報告予定)、リジェクトされた論文の改稿と再投稿、5月にあるアメリカ人口学会で報告する論文のアップデートなどに取り組んでいます。しばらく前ですが、アメリカ社会学会大会へのアブストも出しました。日本の論文も書きたかったのですが、ゲノムのものを一本だけ提出しました。社会学で遺伝の論文を書く際、社会への逆張りから遺伝要因をかなり強く見積もった議論になると容易に優生学的な話につながってしまうので、論文を書く際には細かなニュアンス含め誤解を生まないようにするのが大切です。個人的には遺伝は個人のポテンシャルを測ってると思うので、階層論的には重要だと考えています。

c. ティーチング

 今学期は2コマ、社会学入門(Introduction to Sociology)の授業を教えています。学生は社会学の授業をとったことがない人が大半で、彼らに非ネイティブの私がアメリカの社会の事例を用いながら社会学の基本のコンセプトを紹介する、危ない橋を渡る気しかしない授業です。社会学や人口学を修めていれば、

ある程度この言葉はこういう意味を持っている、という共通理解がある分、気張らなくてもいいところがありますが、予習しているとはいえ学部生にゼロから一から社会学教えるのはなかなか大変です。なにより、反応の薄い学生が(1)単に興味ないのか、(2)考えてて発言してないのか(3)私の英語が分からないのか、zoomからでは非常に分かりにくいのが気苦労の元なのかなと思います。

 アメリカの教科書で社会学入門の授業を教えていると、教える内容が日本と同じ時、異なる時があり勉強になります。例えば前回カバーした「社会化 socialization」では、ミードのI/meや一般化された他者は扱うのは日米で同じですが、アメリカではその後にコーン/スクーラーの子育ての価値の研究から、ラローの階級によって異なる子育ての話までいきます。(私個人の経験なのでなので一般化しすぎかもしれないですが)格差が非常に大きなアメリカの文脈を踏まえるとラローを言及しないわけにはいかない気がしますし、どの話にも格差・不平等が絡むのがアメリカの特徴なのかなと思います。日本の社会学の教科書にも社会階層の章はありますが、階層の話がどの章にも登場するわけではありません。意識的にそうしているわけではなく、おそらく社会化が出身階層によって異なるとか、家族形成パターンが学歴によって異なるとか、そういったことをあまり考えないのだろうと思います。

 私の担当するセクションでも積極的に、階層間の格差が私たちの生活のどのような場面で現れているか、discussion questionとして生徒たちに問いかけていますが、プリンストンという環境で格差の話をするのには、それなりにセンシティブでなくてはいけません。アイビーリーグの中でも裕福な人が多いと言われるプリンストンですが、潤沢な寄付金を奨学金として生かし、日本であれば経済的な理由で大学にすら進学できない人にも門戸を開いていると思います。このように、レガシー制度を通じて卒業生の子弟を優先的に合格させる一方、大学第一世代の学生にも機会を提供しているプリンストンのような大学では、キャンパス内の階層的な多様性が非常に大きいのです。様々なバックグラウンドの人がいるからこそ、格差・不平等の話、およびその中で高等教育がどのような役割を担っているのか、議論した方がいいと思って教えていますが、薄々気付いている格差を露骨にさらされることを気分良く感じない場合もあるでしょうし、バランスが大切なのかなと考えています。

 このように、教えながら教えさせてもらっている日々ですが、今後一人で英語で社会学入門の授業を教えるのは無理な気がするので、これで最後にしたいところです。というのも、社会学は普段慣れ親しんだものを違う角度から見てみましょう、という姿勢の学問なので、それこそベースとなる社会で「社会化」されていないと、その常識を常識として見ることができないのだろうなと思います。

February 23, 2021

社会学101

2月9日

今週からティーチングが始まりました。社会学101のセクションを二つ持っています。学生は社会学の授業を撮ったことがない人が大半で、彼らに非ネイティブの私がアメリカの社会の事例を用いながら社会学の基本のコンセプトを紹介する、危ない橋を渡る気しかしない授業です。

初回からいきなりつまづきました。自己紹介を終えて本題に入ろうとしたら、いきなり「社会学って何?」と学生に聞かれて、しばしフリーズします。あとでわかったことですが、その学生はアップされた授業映像をみてないばかりか、教科書も読んでいませんでした。

こういう学生がいるのはイレギュラーな気がしますが、それでも授業は進めなくては行けません。ということで、用意してたdiscussion questionなどは全て置いて、まず社会学を定義しよう、社会学って何に注目するのか、他の社会科が買うと何が違うのか、議論しました。危ない橋と言いましたが、私が今学期渡らなくては行けないものは、橋ほど頑丈ではなく、綱みたいに細いのかもしれません。

2月16日

2週目が終わりました。今回のカバー範囲は、方法論と文化。

一言で言うと、私の英語を聞き取れる学部生ほんとすごいと思います。

同業者であれば、ある程度この言葉はこういう意味を含意してるという共通理解がある分、気張らなくてもいいところがありますが、予習しているとはいえ学部生にゼロから社会学教えるのはなかなか大変です。

なにより、反応の薄い学生が(1)単に興味ないのか、(2)考えてて発言してないのか(3)私の英語が分からないのか、が分かりにくいのが気苦労の元なのかなと思います。

内容ですが、方法論のところは、量と質の話とかすればいいのでそんなに難しくはありませんが、文化というのは社会学のイントロみたいな本でも数多の定義が出てくるテーマで、専門にしていない身からするとすごく教えにくかったです。それを正直にいって、文化ってどう定義しよう、文化ってどう測定しようという話をしてました。こんなんで学部生がためになっているのか、自分にはよくわかりません。教えれば教えるほど、教えることの難しさに気づきます。

2月23日

第3週目が終わりました。今週のトピックは社会化とグループ・ネットワーク・組織でした。

アメリカの教科書で社会学入門の授業を教えていると、教える内容が日本と同じ時、異なる時があり勉強になります。例えば今回カバーした社会化では、ミードのI/meや一般化された他者は扱うのは日米で同じですが、アメリカではその後にコーン/スクーラーの子育ての価値の研究から、ラローの階級によって異なる子育ての話までいきます。

アメリカでは、はn=1なので言い過ぎかもしれないですが、アメリカの文脈を踏まえるとラローを言及しないわけにはいかない気がします。基本、どの話にも格差・不平等が絡むのがアメリカの特徴なのではないかと思います。日本の社会学の教科書は、階層の章はありますが、階層の話がどの章にも登場するわけではありません。意識的にそうしているわけではなく、おそらく社会化が出身階層によって異なるとか、家族形成パターンが学歴によって異なるとか、そういったことをあまり考えないのだろうと思います。

このように、私は日米の社会学を比較しながら教えることができているので、とても勉強になっていますが、今後一人で英語で社会学入門の授業を教えるのは無理な気がするので、これで最後にしたいところです。

というのも、社会学は普段慣れ親しんだものを違う角度から見てみましょう、という姿勢の学問なので、ベースとなる社会で社会化されてないと、その常識を常識として見れないところがあるんだろうなと思います。多分18歳になるまでの期間の半分くらいをアメリカで過ごさないと、専門外のことまで話すのは難しい気がします。

学部からアメリカという選択肢は存在しない家庭環境でしたが、もし高校生の時に戻れるなら東大とアメリカのリベラルアーツカレッジ併願してみたいです。ダートマスとか、グリネルとか、アムハーストとか。自分は東大で教育を受けて後悔はしてませんが、アメリカの、大学院生がいない(これは超重要です)田舎にある、日本人がいないようなリベラルアーツカレッジで教育も受けてみたかったです。

こういう言い方が正しいのかわかりませんが、プリンストンの学部生を見ていると、大学って楽しそうな場所だなと思います。大学側は学生に得難い経験を提供しようという姿勢でプログラムを作ってて、なんか遊園地みたいだなと感じます。

3月2日

コロナで中間試験のウィンドウが3日間と広がり、私のセクションがその中に入ってしまったので、今日(と明日)は学生は中間試験の答えを書いてる中で(2時間そこらで終わると思うけど)私のセクションに参加することになっている。

前回は技術的なトラブルがあり、それで焦ってしまいろくな授業ができなかったのだが、その反省を生かして今回はしっかり準備をした。ただ、学生がリーディングを読んでこない。質問してもほぼ反応がない。試験と被っているとは言え、少し困ってしまった。

3月9日

なんとか日付が変わる前に、中間試験の採点、いわゆる採点の祭典が終わりました。今教えている社会学入門の授業や、そのテストが学生たちにどれだけためになってるのか考えだすとキリがないので、一人でもこの授業をとってよかったと思ってくれる人がいることを願って採点してました。

入門の授業だから学生たちも割と軽い気持ちでとってるだろうし、アメリカだと社会学はスポーツ推薦できた学生がとる授業(パスしやすいから)みたいな偏見もあり、それを内面化してしまうとモチベーションに負に影響してしまいます。ティーチングは大切な仕事だと思うのですが、やはり教えている間に消えていく研究時間を考えると(50分2コマの授業でも2日弱の研究時間はティーチングで消えます)、将来的に何か教えることになったらその時間を使ってでも教えたいことだけ教えたいなと思います。

統計は私より教えるのうまい人たくさんいるでしょうし、できるとしたらやりたいのは、階層論と日本社会論です。後者は需要があるかと言われると、自信はありません。

今教えてるセクションにアメフト部の人が複数いることがわかったので、階層論を教えた今日はトム・ブレイディとジョー・バイデン、どちらが高い階層にいるかクイズを出した。最初名前を隠して、サラリーだけ出した後に写真出したらちょっとウケた。確かサンデルが熱血講義か何かでオバマとイチローの所得差は合理的に説明できるかみたいな話をしてて、その真似。


3月30日

今日の社会学入門は家族と教育だったので割と自信を持って話せた。やっぱり英語になると知らないことをごまかせない。

zoom授業で助かってるのが研究者が作っているインタラクティブマップ。今回は学区ごとのSESとテストスコアの地図を使わせてもらった。色々試行錯誤したけど、結局自分はデータから何が見えるか、みたいな授業が相対的に得意なのだと思った

最初は「教えよう」としたけど、やっぱりどうやってもアメリカで育った人の方が詳しいことはある。なので、教えるよりも面白いデータを見つけてきて、背後で何が起こってるのかを考えてもらう。正解っぽいことは最後に言うけど、学生は学生で面白い仮説を出したりする。これでいいのかわからないけど。

February 20, 2021

ちょっと留学の話

コロナでしばらくそういうお話は来てませんでしたが、日本からアメリカの社会学博士課程への留学を考えている人から連絡をもらい、思ったことをつらつら書きます。

日本の大学で、学部なり修士から定期的にアメリカに学生を送り込んでるところは、いわゆる実績関係、社会学の言葉でいう制度的連結みたいなものがインフォーマルに形成されてます。それは教授がアメリカの研究者と強いコネがあるとか、国際会議や雑誌などで学生のポテンシャルが観察可能な形になっていたり、様々です。そうした制度的な基盤が弱い分野は、個人でアプローチすることになります。

社会学はこの制度的な基盤がない分野に該当します。定期的にアメリカの博士に学生を送り出している学部や研究科もないですし、院生の頃から国際学会で報告、英語の雑誌に論文掲載、という事例は稀です。

したがって、個人として努力をする部分が大きくなりますが、その中できるアプローチの一つは、学部の時に北米の大学に交換留学して、アプライしたい専門と近い先生のRAなどをして、推薦状をお願いする、できれば複数、あたりです。もちろん推薦状目当てで先生探しなんて味気ないことを勧めるつもりはなく、自分の直感に従って、もっと話してみたいと思った先生にコンタクトすれば、向こうも悪い気はしないでしょう。

留学のチャンスを逃した/もう帰ってきてしまった、みたいなケースはどうしましょう。例えば海外の研究機関が開催しているサマースクールに出てみるのは一案かもしれません。ただ、サマースクールの期間くらいじゃ推薦状を書こうと思う教員も少ないでしょうから、そこで知り合った先生などにアタックして、共同研究に入れてもらう、そこで実力を見せて、何かお願いする、そうしたアプローチもあるかもしれません。

社会学だと、今プリンストン大学にいるユーシエ教授がミシガン大学時代に北京大とサマースクールを長くやってました。彼が呼んできた有名な先生の目に留まった学部生は、アメリカに来てみなよとプッシュされます、推薦状も書いてもらってたのかもしれません。そういうメカニズムがあると、日本から留学する人も目に見えて増えるだろうなと思います。

そうやって中国からアメリカの博士課程に来た人が、何人も若手スターになっています。日本の大学にいる学生だって、それくらいのポテンシャルはあるでしょう。足りないのは、制度的なメカニズムです。

いつか東大-プリンストンでサマースクールみたいなことができれば良いなと思いますが、私の在学中に始まっているのか、それともまだだいぶ先になるのかはわかりません。理想としてアイデアがあっても、制度的な障壁は低くないのかなと思います。

February 7, 2021

研究者ワークライフバランスダブスタ問題について

とは、口ではワークライフバランスが大事と言っているのに、リベラル研究者でもがんがん競争社会の中で研究しとるじゃないか、という話です。

今日は月火の大学院セミナーの予習を済ませ文献へのコメントを書いて送り、邦語の依頼?論文の方も前半を書き上げて共著者に送って頑張りました(文献コメントはそれぞれの授業で学期中2回必要なので残り1回でいい)。平日を余裕を持って過ごすためにも、個人的には日曜に研究するのはオーケーです。

火曜からティーチングが始まるので、明日は4時半からの授業まではその準備に充てます。ティーチングがやっぱり一番やっかいというか、まだどこで手をぬけばいいかがわからないので、準備に時間がかかり、それまでにできることは全て済ませておきたいと思っています。

さて、こんな感じで日曜にがっつり研究したと書いてしまうと、やや負い目を感じることがあります。一般化された他者から向けられる、なんで日曜に働いとんのやという、冷たい視線です。

もちろん世間一般で言うところのワークライフバランスは研究者にも大切ですし、働きすぎはよくないと思いますが、研究者は半被雇用者、半自営業者の側面があるので、企業・官公庁の理屈がそのまま通じるかというと、そういう気はしません。

自分の場合だと「やらされてる仕事」(被雇用者的な側面、ティーチングとか)は平日の夜ご飯食べるまでしかやりませんが(月曜にティーチングがあったりしたら例外)、「やりたい仕事」(自営業者的な側面、論文を読む書くなど)は別に休日にやってもいいかなと思います。

研究はしたいけど、被雇用者的な側面のみで働きたいという人には、研究所のポスト、あるいは大学でもリサーチサイエンティストみたいなポジションはあるので、そういうところでバランスを取る方法もあるんじゃないかなと思います。業績による評価の部分は、プロスポーツに近いのかもしれません。

難しいのは、こないだのショーンKYの別垢 v. 山口一男さんの例みたいに、口ではワークライフバランス大事っていっているのに研究者は死に物狂いで働いてるじゃないですかそれはダブスタだろー!みたいな一言です。すこし考えたのですが、自分の答えは、それはダブスタではなく、職業の特性が異なるから問題ないと思います。

例えば、私がマディソンでお世話になった先生の一人は、最近双子が生まれて土日はほとんど研究しないと言っていました。ただ、子どもが寝た後にガンガン、メールなどを書いているそうです。それが私のワークライフバランスだから、とあっけらかんと言われました。

全ての個人に通じる紋切り型のワークライフバランスがあるわけではなく、個人によって、あるいはライフステージによって、ベストなバランスの仕方を個人個人が達成できているのが理想だと思います。企業や官公庁勤めの人よりも、研究者はそのバリエーションが大きいので、なかなか一言でこれだという指針も出しにくいのかなと感じます。

February 2, 2021

土日を使って私に向けられた罵詈雑言を全部見て考えた話

土日を利用して(私には)罵詈雑言に見えた(私に向けられた)ツィートを読んだり、アメリカに留学してる日本の友達と話したり、clubhouseのセッションを聞いたりして、いくつか思ったことをメモしておきます。

1. 一部の研究者による無理解な発言があったとして、それをもとに分野全体が腐敗しているかのような発言の背後にある、個人から集団への昇華の仕方、それがどういったメカニズムで可能になっているのか。一見すると、ある国籍の人が犯罪をしたら、その国籍を持つ人全体を排斥する現象と似ています。

2. 事実と規範が分離できていないという批判が散見され、フォークロア・セオリーとして鋭いなと思いました。価値中立の話が度々議論されるように、社会科学の研究というのは事実と規範を区別することが難しいラインをあえて研究することがあります。それに気づかれてるのです、価値中立という言葉を使わなくとも。

これは類推ですが、エビデンスベーストを重視する流れが強まることは個人的に歓迎していますが、それがともすると、規範を述べようとする研究は事実を歪曲しようとしている、というバッシングにつながるのかもしれません。

3. 他の国ではあまり叩かれないよね?という話の中で(少なくともアメリカでは)学位を取るまでのトレーニングがしっかりしているので、そこでセレクションはできているのではないかという点がありました。

かつて査読論文を書かなくても教授になれた分野でも、今では査読論文があっても就職できないくらい市場は厳しいですし、昔よりも体系的なトレーニングはできつつあります。結果的に専門外のことには立ち入らない知的態度はつきやすいのかもしれせん。これに世代差はあるでしょう。そういう意味で、アカデミアの中のアイデンティティと、一般向けに書きたい話を名前で分けた見田宗介=真木悠介は賢明だったのかもしれません。

4. 炎上しないためにはどうすればいいか。 →ツイッターを止める。 

5. ツイッターは有効活用しつつ炎上しないためにはどうすればいいか。 →鍵垢、無理解なツィートは全て無視。

6. 鍵垢にしたくないけどツイッターは続けたい→オットセイを落っとせいwみたいなツィートはしない。

以上、名前を言ってはいけないあの学問へのリフレクションでした。

February 1, 2021

Robert Mare's passing

So sad to know that Robert Mare passed away. He is the most influential scholar for me, who paved the path to where I am now. I don’t have any personal/institutional connections with him, but it's safe to say he is one of the scholars who brought me to the US.

Starting my first year in grad school at UTokyo, I got to know the discipline called demography. Since I was interested in assortative mating and inequality, soon I realized that I need to study demography for my research, and then got to know works by Robert Mare.

After I decided to apply to US PhD programs, I emailed him, asking about the possibility I could be an advisee. I know this is not a polite way to contact professors you would like to work with, but at the time I was a student without any knowledge about US academia.

He was one of only a few professors who replied to me, and the person who replied beyond my question. The short answer was no, because he will be a research professor so he can’t advise anymore. But instead, he introduced professors whose interests fit with mine in great detail.

His guidance led me to Madison, Wisconsin, where he used to teach before coming to UCLA. There are a lot of his legacies at UW, I soon realized. Many faculty used to be his students or his “grandchildren” in an academic family tree.

In a demography methods course, we were assigned his paper in SSR (1997), which proposes the idea of examining intergenerational mobility through a demography lens. Although I saw him a couple of times at conferences like ISA-RC28 or PAA, I was too shy to say thank you to him.

Probably he is well known for his work on the educational transition model (1980, 1981), his manifest for linking demography and mobility (PAA presidential address, 2011), or papers documenting educational assortative mating (1991, 2005 with Christine Schwartz), all of which are my favorite and citation classics in my field. Less known but critically important I think is his paper on multigenerational perspective on assortative mating (2016), which should be paid more and more attention I believe.

As a grand-grandchild of his academic legacy, I just want to say thank you for creating the foundation of our field. Rest in peace.

UCLAの社会学者・人口学者であるロバート・メアさんがお亡くなりになったというツイートを目にしました。数年前から病気なのは人伝で聞いていましたが、一度もご挨拶できなかったのが心残りです。

個人的なつながりはありませんが、彼の切り開いた分野が、今の私の基礎の基礎になっています。マンチェスターに留学しているときに、階層、家族、教育と自分のやりたいことが全て入っている学歴同類婚に魅せられ、その時に読んだ論文が最初だったと思います。

大学院に入って、人口学を学ぶ必要性に気づいた時、また手に取ったのがメアさんの論文でした。PAA会長講演としてDemographyに掲載された論文を読んだ時の「これだ!」という感じはよく覚えています。

アメリカの大学院に進学しようと決めた時、メアさんに真っ先にメールをしました。日本のことをやっていない人でも、直感的に自分がやりたいアプローチに一番近い人の下に行きたいと思い、それに最もよく当てはまるのが彼だったからです。

アメリカの先生は忙しく、大学院に進学したいとメールしてくる人はたくさんいるので、基本無視か、目に留まったものについては簡単に返信するのが大半だろうと思います。私が送ったメールも、多くはそういう扱いでした。ただ、メアさんは例外的に、非常に丁寧に、メールを返してくれました。ちなみに、もう一人すごく丁寧な返事をしてくれたのはPennのラローさん、こういうのはよく覚えています。

メアさんの返事は、自分はすぐ研究教授になるのでもう学生は持てないと言うものでした。その代わり、彼は自分の教え子で私と関心が近い先生を3ー4人紹介してくれて、その先生方の専門の詳しい説明までつけてくれました。いろんな大学の先生に送ったメールがほとんど返ってこず、落ち込んでいた自分には一筋の光になりました。

結局、私は彼が教歴を始めたウィスコンシンに行き着くことになり、そこで今のアドバイザーの先生と一緒に研究したり、彼の教え子の先生に指導してもらったりしました。ウィスコンシンは階層論のメッカで、彼は本当に多くの弟子を育てています。実は、自分のアドバイザーのアドバイザーが、彼の教え子です。つまり、学問的には私は彼のひ孫になります。

そんな風に、一度も話したことがないのに、自分の今の研究を形作ってくれた人として、一番尊敬する社会学者・人口学者の一人でした。結局お礼も言えずじまいになってしまって、悔いが残りますが、彼の残した業績をもとに、この分野の発展に貢献することが、せめてもの恩返しと思って一層頑張りたいと思います。ご冥福をお祈りいたします。