March 31, 2017

3月29・30・31日

本当は早起きして床屋に行く予定だったが、案の定寝過ごして、午後3時前にバスに乗って緑岡高校前まで行く。床屋の前に、祖母の家を訪れる。どうやら、5時に叔母がくるらしいので、タイミングが良ければ床屋に行った後、また寄ると言って出る。

ここ最近のストレスの一部はダボッたくなった髪にもあり、切ってずいぶんすっきりした。いい加減、東京の店でいいところを見つけたい。

ちょうど5時過ぎに祖母の家に向かうと、叔母が車から降りるところだった。近くの接骨院に祖母を置いてきた後だった。その間、お風呂のお湯を沸かして、叔母と祖母について話す。時間になったので、接骨院に向かい、祖母を迎える。頬を赤くした祖母はだいぶ気持ち良さそうだった。後で聞くと、接骨院で整体してもらった後に風呂に入るのがこの上なく幸せらしい。人と混じることが少ない祖母に我々ができることといったらこのくらいなのだろうか。

風呂に入っている間、叔母が祖母の一件について話してくれた。祖母は団地の集金を担当していたが、先月あたりに自分が集金したのか、記憶が定かではなくなってしまったらしい。誰に集金して、していないのか、こちらも分からないので、叔母と母が二人で協力して聞き回ったという。その時の苦労を聞いて、涙を流してしまった。自分の親が老いるというのは、孫が感じる以上の哀しみなのだろうか。

ひとしきり泣いた後、気持ち良さそうな祖母が戻ってくる。悪化した指にテーピングをして、叔母の車に乗って家を後にする。その日は、泣いてしまったこともあり、ずいぶん眠かった。

翌日(30日)は、父が東京に出張ということで、8時ごろに家を出て、父と二人で水戸駅に降りる。父の特急券を買うついでに自分の帰りのチケットも発券し、別れる。北口の初めて入る喫茶店でモーニング(650円)。1時間くらい新聞を読んだりして、芸術館へ。藤森保信展に一番乗り。自然と調和した建築という言葉よりも、建築の中に自然を植え付けるという表現の方が適切かもしれない。並立や共存というよりも、同化に近い建築物が多かった。それは、路上観察を通じて、人間の作ったものに自然的なものを見だす姿勢と通じるのだろうか。二周して、写真も撮って、芸術館を後にする。

京成で好みのお菓子を買い、祖母のためにねじり大福を買って、県立図書館で昼食をとる。プログラミングの雑誌を読んだ後、川又書店やコンビニで印刷をする。出発しようかという時、祖母が昔働いていたホテルの写真が県立図書館にないかと思い、郷土史コーナーを訪れるが、観光産業系は実際の観光地か、温泉付きのホテルばかりだったので断念して、バスで祖母の家の前まで行く。およそ2時40分。電話していたよりも少し早く着いたからか、祖母が近くのファミレスで何か食べないかというそぶりを見せる。あくまでそぶりで、自分から積極的に行こうという感じではない。ただこれはすぐには風呂には入りたくないのだろうという雰囲気を感じ取り、歩いて1分(それでも祖母と歩けば5分)のファミレスへ。僕は沖縄そば、祖母はネギトロ丼。あっちが払おうというが、割り勘にした。後から考えると、孫には自分で払いたかったのだろうか。その時もどう払うのがいいか考えたが、解としては中間のものを選んだということになる。

小銭入れを持って行かなかった祖母はどこに小銭入れを置いたのか、忘れてしまいあっちこっちに動く。最初は意味がわからず、何をしているのと聞きそうになってしまうが、徐々にこれが症状なのかと考える。問題は、祖母に対してそれが症状とは言えない、あるいはいったところでわかってくれないという点。祖母も記憶が弱くなっていることには自覚があるが、認知症の具体的な症状を、当の本人はなかなか理解することが難しい、あくまで日常生活を営んでいるからだろうか。

自分も祖母の家の風呂を焚くのは初めてだったので、最初は迷ったが、なんとか焚くことができ、祖母にありがとうと言ってもらえたのがこの上なく嬉しかった。

結局、母が仕事を終えてテーピングをしにくるまで待つことになった。それまで、祖母の生い立ちについて訪ねることになる。何点か、誤解していることもあった。もともと大阪の人間かと思っていたが、実際には祖母の父の仕事の都合で北海道から大阪に移っていたらしい。祖母は1944年生まれで、生まれてすぐ終戦、そして再び北海道に行くことになる。したがって、すでに曽祖父(あるいはそれ以前)の時代には北海道に移住していたことになる。そして、曽祖父は炭鉱の組合の仕事をしていたことも新たに分かった。組合の仕事をしているのにもかかわらず、炭鉱夫が嫌いだったらしい。

祖母は中学を卒業してすぐ、美容院に入って下積みの仕事を始めたということも分かった。祖父との出会いや、突然の死、仲間の話、いろいろと聞いた。

母が来て、手の処置を施し、家を後にする。徐々にやる気が出てくる。

31日は、11時過ぎまで寝てしまい、その後離任式終わりの弟と父、それから祖母の四人で寿司屋にいく。祖母は自分の財布を持ってこなかったため、父に出してもらうのが忍びなくあまり食べようとしなかった。家に戻った後、お風呂を焚くスイッチだけ入れたのだが、後で叔母がいうことには、どうやら待ちきれず途中で入ろうとして、ぬるかったとぼやいているらしい。結局、まともに風呂に入ることは今日はできなかった。なかなか、難しい。やはり、時間の感覚がなくなるので、どれくらい待てばいいのかがつかめないのだろうか。

そんなこんなで、祖母と4日間、過ごした。やはり3日目にほぼ二人きりで過ごしたのが思い出深かった。夏には夕張に行って、写真を撮ってきてやりたい。もう祖母は、東京にも夕張にも、行くことは難しいだろうから。

年度末

年度末ですが、論文が一本刊行されました。
「育児休業の取得が女性の就業継続に与える中長期的な影響―JGSS-2009LCSを用いた生存分析―」
となります。分析に際して、JGSS-LCS2009を利用させていただきました。先日の受賞報告で頂いたコメントを踏まえ、改稿しています。

ここ数日全くやる気が出なかったのですが、新年度を迎えるという言葉に騙され、若干のやる気を出しつつあります。4日間、祖母と触れ合えたので、だいぶ落ち着いてきました。これからまた頑張りたいです。


March 28, 2017

3月28日

かなり疲れていたので、12時過ぎまで爆睡していた。いまは何も研究について考えたくない。

3時頃に叔母がきて、その車で祖母の家に。認知症と診断されてから、初めて会う。会うことはあっても、もう何年も家の中にまで入ることはなかった。今日、数年ぶりに部屋位入ってみて、こみ上げるものがあった。なぜ、もっと早く気付いてあげられなかったのだろうと。

一時の不調から脱して、祖母はだいぶ元気になっていた。それでも、日付や時間の感覚は無くなってきているし、少し前に自分が果物を置いたのに、誰が置いたんだいと言ってくる。僕の名前も、弟と頻繁に間違える(ただ、僕の名前は覚えている)。

以前、調子が悪かった時に風呂を空焚きしてしまったことがあり、それ以来、叔母と母が風呂を沸かすようになっている。祖母が風呂に入っている間、異変に気付いたこの一ヶ月のことを、叔母が語ってくれた。本当に大変な思いを二人はしていたのだと、涙が出てきた。

自分には何ができるのだろうか。これから自分は何をするべきなのだろうか。

帰宅後も、特に研究はせず、ぼーっとしていた。メールに返信して、twitterをみて、あまり調子が良くないのでfacebookはdeactivateしておいた。

豊田先生がベイズで統計学教えるらしいことを知った。放送大学なので、自分も受けようと思えばできそう。引越しの時間を確認して、その後イオンシネマ板橋で映画を見ようかと画策。東京に戻ったら、beamsのstand 九州にもいってみたい。

じきに、研究計画を考えるために過去の研究ノートを見返そう。このツィートには至極納得した。論文を書く作業を、再開したい。

明日は、この一ヶ月の振り返りを書きたい。

修士課程の間で、ある部分では貯金をし、ある部分では負債を負っているのだなと感じるこの頃。

March 27, 2017

3月27日(2次分析研究会報告会)

8時過ぎに起床。知人の家を出て、3月末にもかかわらず真冬のような体に突き刺さる寒さと冷たい雨の中、会場へ。今日は二年間参加していた、社研の2次分析研究会の報告会。

この研究会、東北、東京、大阪の各大学の院生を中心に集める点が特徴的で、その特徴ゆえ、代表務められる先生方も色々と大変なこともあったのではないかと思う。若手ゆえ、二年間で所属を変えられる人も結構いた。あるいは若手ゆえ、研究テーマの設定にも未熟さはあったかもしれない。だけれども若手ゆえ、互いの身分を気にすることなく、忌憚ない議論ができたのかもしれない。実際、報告会までの間の研究会では、他の研究会に比べると、活発な質疑ができたのではないかと考えている。自分自身の修士課程の2年ともかぶった活動だったため、思い出深い集まりであった。

この2次分析研究会含め、修士の頃からいろんな機会に恵まれたことには感謝しているのだが、今振り返ると、断らずに全て受けていたら、一つ一つの仕事に雑さが目立つようになっていった。修士論文や留学のための準備も並行して行った結果、今思うとどこかのタイミングで糸が一本切れたような感覚でいる。

最近は、今日の報告含め、自分でも何のために研究しているのかよくわからなくなってしまい、二年間がむしゃらにやっても、結果としてはどれも中途半端で、修論の出来も納得がいかず、博士論文を何で書こうか、まだ明確に考えられていない。

来年度は、研究の方はセーブしたいなと考えている。いま手をつけているテーマだけでも十分すぎる量なので、それらを全て消化した後に新しいことに手をつけたい。おそらく、2次分析研究会の類にも、出るのは難しいのではないかと思う。

研究会などで報告の機会をいただけることは全ての人が享受できるわけではなく、自分は恵まれた立場にいるのだと思う。しかし、それを全て消化できるほど、能力があるわけでもない。結果、場当たり的に何かやってみて自分の首を締める、ということになってしまった一年だった。誘われることに浮き足立ってしまい、地に足がつかない経験から、自分は何か学べたのだろうか。

この点についてはしっかりと反省して、このまま研究を続けるかも含めて、自身の今後について考えたいと思う。この二年間は、2次分析研究会含め、勉強になる機会はたくさんあったが、私の能力不足で、先生方の期待に答えられるような成果を残すことができなかったことに対して、申し訳ない気持ちが大きい。また戻ってくることがあれば、自分が納得できる、よい研究報告をしたいなと思う。いまは単に疲れているだけで、しばらく休めば、またいつもの調子に戻るのかもしれないが、ひとまず、今年度の反省を兼ねて。

March 26, 2017

3月26日

怒涛の引越し作業を終えて、27日まで知人宅に泊めてもらっている。

以下、本日の記録。
*数理のトラベルグラント原稿を執筆
*帰省のため,電車のチケットを購入
*2次分析研究会の原稿を改稿
*一度知人宅に戻り、大相撲を観戦。今後語り継がれるだろう本割と優勝決定戦を制した稀勢の里に感動。
*朝日湯にて一風呂浴びる。
*研究室にて改訂した原稿を提出



March 20, 2017

3月19・20日

昨日は日曜日で食事なし(前日の夜はプリンタを解体してみた)。19日になって定期が切れたので引きこもり。

寝起きはすぐれず。コンビニでヨーグルトとグラノーラを買って朝食。裁断機が届いたので、少しいじってみる。ミーティング前に分析をしてみるが、あまり晴れやかな感じではなかった。気分転換に本を段ボールに詰める。小さめの本棚を四つ解体した。

昼食は牟礼までいってすき家。薬局で飲み物とお菓子を購入。おおよそ、こもっていると食生活は豊かではない。

16時からミーティング。1時間ほどして、再分析するため中断。それを済ませて、大相撲。稀勢の里は松鳳山に勝利して中日勝ち越し。再び1時間ミーティングして、休憩後夕食。夜10時を過ぎていたので、健康的な店はおよそ空いておらず、初めてぶぶかに入ってみる。黒丸草食系。げっぷ。帰宅して眠くなり就寝。

いつのまにか引越し5日前。よく寝たので、祖母が夢に出てきた。どういう内容かまでは忘れてしまった。やはり、起きた時にメモをしておきたい。

業者からスキャナーとwifiが届く。12時までにアブストを二つ作成して提出。
その後は、引越し作業しながら論文に手を入れたり。90冊の本を裁断。Rentioに明日返却予定。なかなか便利。朝食は菓子パンとコーヒー。諸々の作業終わって、カップラーメンとご飯で大相撲見ながらで夕飯。琴奨菊の勢いはよかったが、足がついていかず、稀勢の里はなんとか突落しで勝利。高安も引き続き全勝。仮に高安と稀勢の里が全勝で優勝決定戦になるとすると、高安は3場所33勝(7+11+15)になるのだが、どうなのだろう、2場所前が負け越しの印象は悪いだろう。スキャンを進め、夕食はそばにした。

帰宅後、引き続きスキャン。論文も再度チェック。婚外出生と追加出生の関係の論文が意外とあることを知る。

31日までに、熊野、数理、他諸々。明日まで引きこもる。

March 18, 2017

3月18日

リーディング大学院の面談で本郷へ。丸ノ内線が珍しく止まっていたので御茶ノ水から歩きで来ました。

人と話すことは大事ですね。どうでもいいのですが、先日研究科長賞の発表があり、駒場のクラスで同期の中野くんが受賞されていることがわかりました。

んー、まさかクラスの同期の人と研究科長賞で争うことになるとは思いませんでした。彼は学部の卒論の賞をもらっているので、優秀なのでしょう。

学部の卒論は社会学研究室の人が受賞されていました。素晴らしいですね。

March 15, 2017

JAMS63

落ち込んでいたのに学会に出たら元気が出たというベタな展開でした。

自分一人で研究してたらいつか倒れていたような気がします。僕なんかのような人間でも声かけてくれる人がいるのは本当にありがたいことだと思いました。

さて、JAMS63のメモ。

大林さんのアナソシセミナーは、書評論文書いてあることもあり、おおよそは既出の話でした。個人的に面白かったのは追えてなかったKronebergの研究事例や、ManzoがいうECA(ABM)は因果推論への諦めだという視点。

社会現象には、デリベーション(微分)しやすいものとそうでないものがあるという話です。例えば、どういう属性の個人が仕事を得やすいかみたいな分析の場合、従属変数は人の行為ではないので、比較的単純に回帰分析したりすることができます。これに対しては、結婚しかり、どの相手とマッチングするかといったものが目的変数の場合には、相手も行為者の行為をみて動くわけなので、複雑だし、変数の効果を見ても内生性が出てしまう問題があります。

仮に複数の個人が相互作用しながらある現象が生まれていく、そのプロセスに関心がある場合には、回帰分析的な枠組みではもはや分析ができないため(諦め)、ABMのようなダイナミックなモデルを用いましょうという議論でした。

これが自分にはとても面白く聞こえました。以前書評論文を書いたときに、分析社会学が説明対象とするマクロな社会現象には個人の集積からなるもの(社会階層など)と個人には完全されない集合的なもの(集合行為など)の二つがごっちゃになっているという点を盛り込もうとしたのですが、中途半端になってしまってお蔵入りになった節があります。

元来(と言ってもそこまで歴史はないですが)、アナソシというのは個人の行為と相互作用の連鎖に着目して社会現象を説明しようつするある程度ゆるい枠組みを提供しているわけですが、その個人の相互作用の過程を踏まえて、出てくるのは集合的(collective)なものであって、集積的(aggregate)なものではないのでは?というのが初発の疑問でした。

大林さんのセミナーを聞いて、デリベーションが難しい現象というのは、個人が複雑に絡み合うものであり、反対に容易にできるものは、あまり相互作用はメインの原因にはなってない(地位達成とか)のではないかと。少し対比が明確になってきました。例えば、ヘドストロームも周囲の失業状況が個人の労働市場における行為に影響して、といった話をしているのですが、分析単位として個人の行為とその相互作用をどこまで重くみるかという点は、説明したい現象の性質(集合的or集積的)によるかもしれないというのを考えました。

この点は、翌日の永吉先生のシンポジウムでも似た論点として提起されていたように思いました。

私なりに響いた点だけ要約すると、個人は何かしらの信念(意識)を持ってる(測定できる)し、個人の信念の集積(aggregate)もある(世論調査などで測定できる、ただし調査によって明らかになる平均値は個人にとってはあまり意味ない)。そして個人の集積「ではない」集合的な意識は測定できなさそう(でもある)。という課題を永吉先生は述べられてました。

ちなみに二次会の席では、マクロというときに個人の足しあわせでわかる集積と個人には還元できない集合的な現象があり、まずこれらを峻別した上で、後者は個人の信念に影響するし、逆も然りだろうという話をしました。で、これは構造化かもねとなってもう計量やめようかまでは、言わなかったのですが。

計量やめようか、というよりは、計量に限らないアプローチでどう接近していくかだと思います。確かに観察することは難しいかもしれないですが、現実の似姿としてのモデルと現実のデータを突き合わせることで、現象のプロセス解明に一歩近づけるかもしれない。そういう風に考えると、ABM(ECA)の重要性が出てきます。

どうしても集積的な分布の方が観察しやすいため、議論の俎上に上ることが多いのかもしれません。例えば格差と分断は両方とも現代社会が抱える大きな課題ですが、格差は文字どおり「格の差」なので、究極的には二つ以上の集団の何らかの差があればわかります。例えばデータをランダムでとってきて、正規と非正規の格差がどれだけ変化したのかを時系列で見る、立派な格差研究でしょう。一方で、分断というのは、どうやって定義するかにもよりますが、空間的な要素を含んでいるような気がします。どれくらい分断しているかも重要ですが、なぜ分断するようになったのかを考える際には、空間的な性質を持つ以上、その空間に埋め込まれた個人や制度の複雑なプロセスを解明する必要があります。都市社会学を中心に、フィールドワークを用いた研究が多いのも、分断がこうした性質を持つからかもしれません。

とはいっても、両者は関連しているはずです。ある時点の格差がその後の分断には影響するかもしれませんし、分断が格差生成の一要素となるかもしれません。両者を束ねる概念までは思いつきませんが、おそらく、両者を並行して考えることが求められる現象もまだたくさんあるでしょう。この時、量的データとして観察しやすく、分析もしやすい集積的な側面だけで満足してて良いのでしょうかという話です。もちろん、説明したい現象次第ではありますが、個人的にはアクセスできるデータの制約によって説明したい現象の幅も変わってくるのかもしれないと思います。もともとある材料に制約がある場合、思考の幅も狭くなるだろうと。

みたいな話をぐるぐる考えた3日間でした。やはり、共同研究者がいるので粘ってみようかなと思います。

March 10, 2017

3月10日

二次分析セミナーでWong先生によるログリニアのセミナーを受講してきた。ここ数日の疲れであまり集中できず、もったいない。終了後確定申告を終えた。

やはり家族のことが気になるので、大学を休もうか考え出した。なんの役に立つのかわからない研究をするよりも、祖母のそばにいてあげた方が、後々になって、後悔しないのではないかと考えている。学振も落ちたし、推薦してもらった研究科長賞ももらえず、自分の能力のなさを痛感する日々でもあり、これを機に大学院から去ろうか、考えている。

March 8, 2017

3月8日

色々と考え事をしていて、寝たのは朝の5時だった。そして10時になってまた母から電話。授業料免除の申請をするのだが、それに関するものでこちらも起きたてで少し機嫌悪く回答してしまった。

すぐ大学へ。まだ目が覚めない。14時頃になってようやく。数理の作業を進め、その他についても。

新しく買った自転車は悪くない。Schwinnのシティバイクで、シングルギア。値段は安かった方だと思う。なにせ、フレームが壊れてしまったので急遽購入したものだった。ギアがないので坂道が多い通学路には不適切だが、じき引っ越すので解決するだろう。

帰宅後、ハヤシライスを食べながら後輩と話して、すぐ寝てしまった。1時半に起床して。作業。

March 7, 2017

3月7日、母との電話

ひと段落ついたので数理の用意を再開しました。ただ、なかなか行きづまり感。

夕ご飯を食べて母から電話がかかってきた。午後にこちらからかけていたのだが、その時は留守だった。

当然というか、祖母の話になる。診断後、平日は叔母、休日は母親が家に行って、買い物などに付き合うようにしているらしい。叔母は水戸から少し離れた笠間に住んでいるが、パート先が水戸で、帰る前に寄ってくれている。母はパートに加え、7歳の子ども(僕からすると弟)がいるので、休日優先。幸い、休日は弟がサッカーやプールに行っているので、その時間を使ってくれている。来年からは、叔母はパートを一時間、母は月の休日を2日ほど増やすと言っていた。

昔の祖母は、早く買い物を済ませて、子どもたちがのんびりしているのを愚痴っていたくらいだが、今では何を買うこともなくスーパーをぶらぶらしてしまうそうだ。買うのはもっぱら菓子パン、牛乳、惣菜。めっきり料理をしなくなったらしい。冷蔵庫に置いてあった卵を叔母が確認したら、賞味期限が12月だったようだ。それでも、診断される前後には近所の僕の実家におひたしとゆで卵を持ってきてくれた。車をぶつけて廃車にしてから足がなくなってしまったのだが、20分はかかる道を一人で来たのだから驚く。これが、症状が進むと徘徊になるのかはよく分からない。母に言わせると、祖母は夜はちゃんと寝るのだからそういうことはないのだろうと。73歳の認知症の高齢者が電車にはねられたというニュースを見て、気になって電話していた。

ずいぶん、時間の感覚、知覚がなくなってしまったようだ。次は7月かいと言いだせば、12月の次は13月だという。最初はただの勘違いかと思うかもしれないが、およそこういう発言が続いて母が心配になり、MRIで検査してもらうことになったのが数週間前だった。


ばあちゃんは認知症と診断されました。


そのメールをもらった時、今まで自分が考えてこなかった、親の介護、祖母の命、そういった言葉が脳裏をよぎった。そしてしばらくして、少しだけ、納得した。

祖母は人付き合いをしなかった。もともと土地に根付くような人ではなかった。戦後、大阪に生まれ、父の仕事の都合で炭鉱で栄えていた夕張に移住。炭鉱の事務所で働く父の給料は悪くなかったようだが、多くの兄弟姉妹を抱え、祖母はすぐ働き始めたのだろう。トラック運転手の祖父と結婚して、ようやく一軒家を購入した次の年、祖父は交通事故で亡くなった。同様のタイミングで、炭鉱が閉鎖に追い込まれる。僕から見れば曽祖父は蒸発したらしいが、稼ぎ手のいなくなった一族は、祖母の親族を含めて一同フェリーに乗って茨城へ。そこから祖母は女手一つ、二人の娘を育てた。水商売もしたらしい。途中から、水戸の有名な旅館とホテルで仲居を始めた。僕が幼い頃まではやっていて、ホテルの方に遊びに行って、何歳か年上の御曹司の坊ちゃんと話したこともある(その後ホテルは2005年ごろに廃業した)。

場所も仕事も転々としていた祖母だったが、仲居時代が一番の「天職」だったのではないかと思う。時代が時代だったので、羽振りの良い政治家の話も聞いたし、仕事の話をする様子は楽しそうだった。化粧も好きだったろうし、相手を気遣う、サービス精神の旺盛な人柄はそういった職業に向いていたのだろうと思う。一方で、私生活では親友と呼べる人は少なかったのではないかと思う。仲居時代にそういった人が一人いて、よく僕も一緒にご飯を食べたが、その人は裕福な家の生まれだったのか、マンション住まいで次第に疎遠になっていた。遺族年金をもらっていた祖母は、子ども二人が巣立ってからは県営団地に住むようになった。まだ少子化という問題がクローズアップされなかった時代、団地にはやんちゃな子どもたちがうじゃうじゃいた(僕はいじめられる側だった)。団地というのはそういうところである。祖母は公園の眼の前に部屋が位置していたこともあり、よく水を出しっぱなしにする子ども達を叱っていた。そういう自分の決めたルールは完徹する人だった。周りは少し迷惑だったかもしれないし、美化するわけでもないが、昔の団地というのはそういうおせっかいをやく人がいて、互助的な機能があったのかもしれない。母もシングルマザーで働いている時間が長かったので、よく祖母には面倒を見てもらった。小学校から帰って、祖母の家でくつろいで、冬は焼き芋屋が通ると胸を踊らせたものだった。

小学校を卒業する時に、母が乳がんになった。当時、僕は義理の父との関係がよくなかった。家に二人きり、それは到底考え難いことだった。僕が選んだのは、祖母との同居だった。その時祖母が仕事をしていたかははっきり覚えていない。仲居はやめていたと思うが、次に始めた清掃の仕事をしていたかどうか、微妙な時期だった。北海道時代の生活の経験から、祖母は(そして母も)極度に結露・湿気を嫌った。そのままにしておくと凍るし、カビてしまうからである。さすがに水戸の気候では朝ベランダの窓を開けようとしたら凍っていたということはないが、それでも湿気をこまめに取り除いていたため、部屋には一切カビがなく、新居同然の綺麗さだった。白いピカピカのテーブルクロスにたくさんの料理を運んで、祖母は育ち盛りの僕を孫として、そして初めて持つ男の子として、可愛がってくれたのではないかと思う。

祖母との共同生活はもう一度だけあった。今度は母が妊娠したのだった。2009年の夏、浪人中だった僕は、車の中で母から妊娠を伝えられた。予定日は翌年の1月。センター試験の直前だった。その頃には父との関係も改善していたが、それでも誰が家事をするのか。受験に集中したい僕は、またもや祖母との短い同居生活を始めた。年明けから住み始めたと思う。時期が時期だったので、少し遠くなった予備校に真冬の中、自転車で通い、センター試験に備えた。得点はいまいちだったが、結果的に東大に合格することができた。センター試験の1週間前に、弟が生まれた。

大学に入ってからは、一時期僕は帰省しなくなった。親と衝突することもあった。一番の原因を振り返って考えると、貧しさと、欲深さがあった。これまで書いてきた履歴から、我が家系がそこまで豊かだったわけではないことがわかる。幼い頃から、僕は自分の家が貧しいことを知っていた。男の人がいないと貧しくなることを知っていた。小学校時代に、夏休み明けに苗字が変わる同級生を見て、自分はああなりたくないと思ったものだった。同族嫌悪に近いものだったのだろう。再婚することになっても、僕は苗字を変えることを拒んだ。再婚した父とも衝突した。なぜうちは貧しいのだろうか。そう考えながら、浪人する時は頭を下げた。

大学に入ってから、その感覚はより鋭いものになっていた。田舎から上京してきた一人暮らしの学生の生活は貧しい。家賃5万5千円の永福町のアパートに住みながら、ギリギリの仕送りをもらって、バイトもした。それでもお金は足りなくなり、母にせびったこともある。帰省は費用を抑えるために高速バス。時間がずれるたびに母に怒られ、僕も応酬した。もっとお金があれば、こんな喧嘩はしないで済むのに。そう思いながら、家族と疎遠になる時期もあった。大学2年から3年にかけては、学生団体の仕事が忙しい(という口実)という理由で、一年間帰省することはなかった。

いつからか帰省をこまめにするようになった。一つは弟の成長を見守りたいことが理由だった。そして最近、年老いてゆく祖母と少しでも一緒にいたいと思っている。祖母が認知症と診断された時、祖母との思い出がよみがえってきた。そして、そうした記憶を押す潰していた自分に気がついた。なぜ気づいてあげられなかったのだろう。弟に夢中で、祖母に気を向けられなかったのではないか。心のどこかで、早く就職しろと言ったり、ほとんど貯金がないのに僕にお小遣いを渡そうとする、祖母の厄介を疎んでいたのかもしれない。今年会った時には、もうそんなことも言わなくなっていた。祖母自身が、病を患い、衰えていくことを実感しているように見えた。

思い返すと、祖母は第二の母親だった。幼い頃、母は自営業の夫(僕から見れば生みの父)の手伝いで、子育てどころではなかった。必然、幼い僕は祖母に育てられていた。その前後の時期には、家に曽祖母もいたらしいが、同じく認知症(当時は「痴呆」)で施設に送られた。僕の曽祖母の記憶は、施設でのやり取りしかない。その時には、僕のことは一度会ったら忘れていた。そうやって、僕は周りが女だらけの家に育てられた。母と祖母は、その中でも特別な存在なのだろう。だからこそ疎む時期もあったし、今こうやって毎日考えているのだろう。

なかなか答えは見つからないが、僕にできることは、祖母を助ける母と叔母の話を聞いてあげること、そして祖母に寄り添ってあげることだと思う。そうして、長い一時間近くの電話が終わっていった。

March 6, 2017

3月6日

4,5,6と作業してました。今日は午前10時頃起きて、研究会に向けた報告の用意。報告自体は良いコメントもらえたので次に繋がりそう。メモを起こして、明日からは数理の用意。
韓国の人との共著を進めたりはしたけど、今日はやや低調。3月の送別企画や、4月の旅行、あとは新居が決まったりとこれからはドタバタしそうな雰囲気。

March 3, 2017

3月3日

前日に祖母が認知症と診断されたという連絡を母から受け、あまり寝ることができなかった。

予定入れていたので、寝たのは5時くらいだったが、9時前に起きて、アップルストアへ。キートップの在庫があれば無償で交換してもらえるという噂は本当でした。自分の場合はキートップの裏側にあるパンタグラフという引っ掛けの一部が欠けていただけだったので、軽く済んだ。

そのあと、ボールペンのリフィルを解決して、イメージフォーラムでチケットを購入。大学へ。パソコンを借りて、今日はほぼ結婚タイミングの日韓比較の話。途中で文献取りに行ったり、打ち合わせしたり、あとはコード書いたり、スキャンしたり。

タンジェリンを見たあと、吉祥寺でソーキそばを食べて帰宅。