May 30, 2021

本が届く、ニュースへのコメント

 東アジア図書館の司書さんに日本関係の本で重要そうな本がなければリクエストしてと言われ、しばらく前にぽんぽん頼んでたのがコロナ禍の影響で配送が遅れつつも到着、なぜか借りるリクエストもしてたみたいで専門と関係ない本も多い。すぐ読まれることはないだろうが、いつか必要とされる時がくるはず


本当に生み控えだけなら翌年以降出生数は多少回復するはず。テレワークの増加など生活様式が質的に変化したりコロナ禍で追ったストレスが回復しないようだと婚姻、出生とも減るかもしれない。個人的には婚前妊娠による出生の減りも大きい気がする。基本的に日本の出生数はコロナ禍がなくても減り続けるトレンドなので、去年と比較するのではなく同じ年の期待出生数との比較をするべきだと思う。


人口学的には生み控え自体は問題ではなく遅延された出生が回復しないことが問題なので、朝日新聞なのだしそのあたり専門家に聞いておけばいいのにと思う例えばアメリカでは恐慌後に減った出生率が回復せず、その理由が色々検討されてる。有力な説は恐慌によってワーキングクラスの雇用が劣化したこと。

May 29, 2021

形式人口学ワークショップ感想

 月曜から金曜までUCバークリーの人口学研究所が主催する形式人口学ワークショップに参加してきた。このご時世なのでもちろんzoomなのだが、そのおかげで例年よりも倍近い参加者を招くことができたようで、アメリカだけではなく、ヨーロッパ、ラテンアメリカからも多くの参加があった。

例年テーマがあるようで、今年はCovid-19の影響を研究する際に、形式人口的な視点がどのように役立つかという関心から、ワークショップが構成されていた。応用するトピックは絞っているが、結局のところオーガナイザーとしては形式人口学の他分野における有用性を訴えるというのが目論みなのだろう。

前半は割とヘビーな形式人口学の数理的な話とその応用、後半は研究者を招いたリサーチトークになった。人口学的な研究における形式人口学の役割について、節々で感じたのは、モデルの重要性である。

データが全て揃っていれば、仮定を置く必要はないが、例えば人種別の死亡率がない場合、ある死亡スケジュールに従うと仮定するであったり、あるいはコロナによって年齢別の死亡率はproportionalに増加するという仮定だったり、そういった仮定に基づいたモデルを作ることで、一つには明晰性が担保され、もう一つにはデータの欠測をモデルで補える。社会科学のデータは不完全であることが多いので、その分モデルに基づいた検証が必要なのかもしれない。

別のところで、ある研究者(Rob Mare)は常にwhat is your underlying model?と聞くことがあったという。この発言をやや大袈裟に解釈すると、社会学者はどういったモデルを念頭に分析しているのか、不明瞭になりがちなことへの批判にも読める。同じ人口学でも、社会人口学、家族人口学と呼ばれる分野は社会学のように「とりあえず何が起こっているのかみてみよう」スタンスの研究が多いので(それはそれで大切なことだと思っているが)、まさに私のような研究者にとって、形式人口学の教えは良い戒めになっているのかもしれない。

もちろん、モデルベーストで考えようというのは形式人口学に限ったことではなく、数量的なデータを用いる研究全般に言える点だとは思うが、人口学的な研究の中でも、形式人口学がこの点についてもっとも意識的なのだろう。

参加者とはブレークアウトルームで少人数のグループを作り、そこで多少自己紹介はできたのだが、やはりzoomだと初めての人と打ち解けるのは結構難しい。はやくin personのミーティングが戻ってきてほしいと改めて思った。

May 26, 2021

学期を終えてからの少しのんびりとした週末、及び5月何があったかのまとめ

5月21日の金曜日、Robert Mareのメモリアルイベントに参加した。私はMareと直接話したことはないが、intellectualには最も影響を受けているアメリカの社会学者といっても過言ではなく、参加してみた。昔どこかに書いたことがあった気がしたが、右も左もわからなかった東大の修士時代、マナー知らずにアメリカの先生にメールした中で、一番丁寧な返事をくれたのを今でも恩に感じている。

その次の週(つまり今週)はUCバークリーが主催する形式人口学のサマースクールに参加している。今回のテーマはCovid-19。最初二日は数学的に割とヘビーな数理人口学の話、今日からはリサーチトークである。参加者と話す機会もあるにはあるのだが、やはり初めての人とズーム上で仲良くなるのは簡単ではなく、早くin personの日々に戻りたいという思いを強くした。

今日は今週のto doだった社会ゲノミクスの学会へのアブスト(というかフルペーパー)を提出し、1年間オーガナイズしてきた「東アジア格差と人口学セミナー」(readi)の最後のセミナーを終えて、幾ばくかの解放感を感じている。セミナーについては、数えたところちょうど20回だった。最初は25人くらいコンスタントに来てたけど、やっぱり飽きが来るのか最後には1桁になることもあり、所属機関が違う人たちにどう興味を持ち続けてもらうのか、考える日々だった。続けることが全てではないので、来年は柔軟に考えている。

学期も終わり、ワクチンも打って、時間的にも精神的にも公衆衛生的にも、外に出て人と会う季節になってきた。日曜日には日本人の先生の主催するランチ会にでて、盛大にgelatoをガレットと読んで恥をかいたり、大学時代の友人とズームで話して「30歳になると自分は何者にもなれないことに気づく」といった臭い話をしたり、プリンストンを離れる人から家具を格安で譲ってもらったり、17年に1度大量発生するという素数ゼミの数に驚いたり、夏休みののんびりとした日々を過ごしている。映画は18本程度みた。

その他5月にあったこととしては、Russell Sageが主催する社会ゲノミクスのサマースクールに合格したという連絡をもらったり、一時帰国時に一橋大学の経済研究所に滞在させてもらうことが決まったり(リアルでお会いしたことのない経済学者の先生方に大変お世話になりました)、研究助成を申請したり、東大社研のデータアーカイブ機関が支援してくれる課題公募研究会のオーガナイズを進めたり、夏以降の予定を進めていた。あるいは、人口学研究所内のセミナーで報告したり、論文を投稿したり(日本語の雑誌の1回目、英文誌にminor revisionの計2回)、査読レポートを出したり、サーベイ実験の調査票を作ったり、日本の学会にアブスト(2つ、これからさらに2つ)を提出したり、アクセプト済みの論文の校正およびOpEd作り、上で書いたゲノム学会へのアブスト提出など、研究面でも最低限の進捗を出している。

6月は初日に博論プロポーザルのディフェンスというビッグイベントが待っており(ちなみに前日5月30日深夜に研究会)、そのすぐ後に学会報告が二つ(RC28日本人口学会)ある。その後少々の自由時間を挟んで、日本に一時帰国、2週間の隔離後7月上旬からは東京は小平に滞在して博論の研究を進める予定になっている。

May 18, 2021

「大学院出願を考えている」の生存者バイアス

ときたま日本の方からアメリカの博士課程進学について相談を受けることがある。ありがたいことだとは思いつつも、博士課程進学にはリスクもあるので、迷っている人の背中を押す気にもなれず、のらりくらりと避けてしまうこともあるのだが、心の中では、日本から進学する人が増えて、日本研究を盛り上げてほしいと思うことは多い。

まだ相談を受け始めて数年なので、確からしい傾向は見えないが、「大学院出願を考えている」とコンタクトしてくる人の多くは、実際には出願に至っていないことに気づいた。いくつか仮説があるだろう。

素直な仮説は、大学院出願は大変だ、という説である。一回あたり馬鹿にならない費用のTOEFLやGREのスコアが伸びずメンタル的にくることもあるだろうし、周りに出願する人が多い環境ではないと孤独な受験勉強は負担が大きい。私も準備をしているとき、特に浪人に等しい一年を過ごしていたとき、この時間を研究に使えないことの機会費用が小さくないことに苛立っていた。どこかで出願さえ見合わないリスキーな投資だと考えれば、相談してきた人のうち多くが出願に至らないのは、理解できる。

素直ではない仮説は、相談に来るグループが何かしら特徴を持っていて、それが出願を阻害しているという説である。考えてみると、そもそも出願を決めている人は、相談にすらこない(例:自分)。相談に来るというのは、出願しようか悩んでいるから相談に来るのかもしれない。もし相談に来る人ほど相談にこない人に比べて出願しにくいということであれば、これは(逆?)生存者バイアスと言ってもいいかもしれない。

これまでの経験上、出願を考えている段階の人の悩みというのは、日本に残る/アメリカに行くことのメリット・デメリット、修士を日本でこなしたほうがいいのか、出願までにどういった準備をするべきか、といった割と分類可能な程度には均質的な気がしており、1対1で相談するにしても話すことは似ている。

そのため、広くリーチアウトする意味でも、留学講演会、みたいな機会があればいいのかもしれない。大きく「アメリカの大学院に進学する」の中に社会学の人がポツンと入ることはあるが、経済学のようにもっと社会学として組織的にやったほうがいいのかもしれない、といっても需要はそこまでない気がする。月に一通くらい来るメールでの相談をもって、潜在的にどれくらい関心がある人がいるのか、予想することは難しい。

May 14, 2021

ブルシットアメリカ社会学

先週の金曜日に、学内の研究会で報告した。テーマは日本の学歴同類婚と所得格差の関係、4年くらい前にスタートして2018年の学会で報告したまでは良かったが、その後私がウィスコンシンでコースワークに忙殺されたり、プリンストン への転学をしたりでなかなか再開する機会を見失っていた。この研究会のおかげで1ヶ月半程度集中して取り組めたのは良かった。

実を言うと、昔はアメリカの大学にいる人の前で、日本の研究発表をするのにためらいがあった。アメリカがベースラインの社会として想定されているアメリカの社会学では、せめて北米+メキシコくらいの事例までじゃないと、Why XX(XXには任意の国が入る)?と言われる。

私は日本研究をしているので、潜在的・顕在的にWhy Japan?問題と常に戦っているわけだが、アメリカの研究をしている人は、Why US?とは言われないので、この質問はブルシットである。しかし最近は「ホワィジャパーン?」と言われても(実際にはそんなダイレクトなブルシット質問をする人はおらず、多くの人は自分がブルシットアメリカ社会学の一員であることを認めつつ、なぜ日本なのか?と聞いてくる、結局ブルシットなのだが)、真っ当なコメントだなと思えるようになり、少しだけメンタルが太くなったかもしれない。

なぜ真っ当なコメントに思えるのだろうか?繰り返すように、Why US?と言われないのは不平等だ。しかし、社会学は多かれ少なかれ、拠点とする社会を前提にした側面は否定できない。日本に帰ればWhy Japan?問題は存在しなくなるのだ。そういう意味では、日本の社会学もアメリカの社会学並みにはブルシットである。

少し回り道をしたが、私の言いたいところはWhy Japan?という質問自体はまともであるし、同様にアメリカの社会を研究しているアメリカの社会学者も、個々の研究でアメリカを事例として選択しているのはなぜか、肝に命じて言及するべきなのだ。Whyと問うことがブルシットなのではなく、Whyを自らに問わない姿勢がブルシットなのだ。

そういったブルシットなアメリカ社会学の恩恵を受けて、自分は毎回、なぜ日本事例を選択することがリサーチクエスチョンに対してcompellingなのか、考える癖がついているので、それ自体は感謝することが多い。以前別のところで話したように、事例選択の適切性について考えるのは、メリットも多いのだ。ただ、そういった議論をすっぽ抜かした論文がトップジャーナルに掲載されているのをみると、やはりアメリカの社会学はブルシットだなという思いを強くする。大学院教育などで、こういった事例選択における不均衡さについてきちんと教え、アメリカの研究においてもなぜ事例選択が適切なのかを考えさせるトレーニングが必要だと思う。

May 10, 2021

知的な女性を否定する人ほど「数学は男性的」と考えるのか?

私の周りで1ヶ月ほど前に話題になっていた「知的な女性を否定する人ほど「数学は男性的」のバイアス」と題された記事の元論文を遅ればせながら読んでみました。

記事:https://www.asahi.com/amp/articles/ASP486263P47ULBJ008.html

元論文:https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/09636625211002375

日英の成年人口(大卒者に限る)をサンプルに、どういった要因が「数学・物理は男性的である」という考えを説明するのか、検討しています。アウトカム(従属変数)には数学・物理がそれぞれ男性に向いているかどうかという順序変数を用いていて、記事で取り上げられている「女性は知的である方がよい」(women should be intellectual)に反対するほど男性に向いていると答える傾向にあったのは、日本の数学においてのみでした。これは記事を読むと触れられてはいるのですが、記事の

「(「女性は知的である方がよい」という)バイアスを持つ人ほど、数学や物理を「男性的」とみなす傾向があり、女子生徒の進路選択に影響を与えている」

という冒頭の一文は、物理についてはnullなのでミスリーディングな気がしました。

ちなみに、数学の方もp値 0.044で、係数の大きさも他の有意な変数に比べると小さい気がします。面白い仮説だなとは思うのですが、数学で関連がある一方、物理で関連がないのはなぜなのか特に議論しておらず、イギリスではどちらもnullであることも踏まえるとfalse positiveなのかなという気もします。

May 2, 2021

アカデミックアイデンティティ

一周回って自分は人口学者ではなくて社会階層の研究者なんだと最近思うようになりました、正確にいうと、アメリカ産の人口学的アプローチを使う階層研究者。

この分野、ニッチといえばニッチなんですけど、一番しっくりくるホームグラウンドという感じ。もちろん、人口学のコースワークは人並みにこなしたので、そちらの方にアイデンティティがないわけではないんですが、やっぱり格差の話にかかわらないと、あまり入ってこなくて、少子化・高齢化の話も耳学問程度になりがち。人口学というのは、自分にとってはあくまでパースペクティブを提供してくれるものです。

例えば少子化の理論、どういう社会で少子化が進むのか、みたいな話はあまり興味はなく、しかし一方で親の学歴によって出生力が違って、それが世代間の格差にどう寄与するのか、みたいな話はすごく食いつきます。人口を単位にして社会階層が再生産されるメカニズムに関心があるんだなと、改めて思いました。

最近いろんなものに手を出してたんですが、4年前に学会発表してほぼ放置だった論文を書き上げつつある中で、自分が一番得意なフォームを思い出した感じがします。目瞑っててもどこに何があるかわかる感じで論文書けるのは、楽しいです。