法政大学の多喜先生から、先日単著をいただきました。東大社研でのアルバイトでお会いしてから、10年近く個人的にもお世話になっています。私の専門は人口学,家族形成なので教育の話は詳しくないのですが、社会階層研究の中で教育制度について理解を深めておくことは非常に大切なので、夏休みの時間を利用して拝読させていただきました。
社会階層論の枠組みで教育について焦点を当てるときは、学校段階の学力が親の出身階層によって規程されているのはどのようなメカニズムにおいてなのかを問います。代表的なメカニズムは、生徒を異なる集団に分化させる組織的なメカニズム(Sorensen 1970)、具体的にはトラッキングと呼ばれるものです。日本で言えば、高校段階の選抜は生徒の学力によって行われ、偏差値の異なる学校にトラッキングされることが、その典型例と言えるでしょう。個人視点で見れば、個人の特性(学力など)に基づいて生徒がソーティングされる側面に注目が集まりますが、トラッキングを行う制度視点で見れば、こうしたトラッキングはどのような正当性に基づいて(例:学力)生徒を異なる集団に分岐させるメカニズムが制度化されているのか、という点から論じることができます(Meyer 1977)。
今回の研究もその例に漏れず、出身階層と教育段階でのアウトカムの関連を説明する制度的なメカニズムに焦点が当てられています。本著の野心的な試みは、個々のメカニズムを俯瞰する理論的な枠組みの中に、日本の事例を位置付けようとした点にあります。この本では第1章で社会階層と教育,それぞれの次元の関係性から既存の理論を整理しています。文献レビューの結果,既存理論は教育システムの自律性(社会階層によって異なる価値観や文化に教育という場が従属的なのか、それとも教育制度が独自に生み出す資格などが格差の生成に寄与するのか)と自明性(教育上の成功の定義が社会で共有されているかどうか)の二つの軸で整理します。自律性が高い教育制度を持つ社会では、階層差が制度的には一定のルールのもとで配分される資格などを経由して生じるため、学校が格差の生成に寄与している点が見えにくくなります。自明性が高い日本のような社会では、教育上の階層性が学力をもとに明確に定義されている一方、アメリカのような社会では学校での子どもの成功に影響する指標が曖昧で、複数あることが例として挙げられています。
しかし、この二軸では、日本における教育の格差生成メカニズムとして重要視されてきた「努力の階層差仮説」(苅谷 2001)をうまく位置付けることができないと、著者は論じます。日本は学力を基準にしたトラッキングが標準化されているため自明性は高く、学校で生成される学力を媒介して階層の再生産が行われているという意味では、自律性も高いと想像されます。しかし、自律性・自明性の双方が高いフランス社会をベースにした文化資本論を展開したディマジオらの研究と比較すると、「努力の階層差仮説」は学力という一元的な尺度が決定的に重要である一方、文化資本論では教師による評価や面接など、階層差を媒介するメカニズムが複数あることが指摘されます。実証分析を踏まえて、この研究では最終的に教育システムの自明性ではなく「一元的階層性」という軸を新たに提唱します。この軸によれば、「努力の階層差仮説」は最も一元的階層性が高く、その次に来るのが文化資本論であると論じられています(220)。日本発の理論は欧米の理論とは比較が難しい「オルタナティブ」としての側面が強く、それがひいては日本特殊論にも繋がっていったと著者は示唆しますが、この研究では欧米の理論の中に、日本事例から導かれた仮説を位置付けた点が非常にユニークかつ、アメリカの大学で日本の研究している自分にとっても、勇気付けられる著作でした。
以上が要約で、以下、いくつか気になったところです。
1. この本では、第1章で議論した理論の俯瞰を経て、第2章で具体的な社会を比較する際の枠組みも議論しています。なお、国際比較研究より、中等教育段階の制度的な特徴こそが、教育システムによる格差生成メカニズムにおいて重要であるという知見をもとに、本研究では中等教育段階の生徒を対象にしたPISA調査を用いた分析を行っています。
実証分析において具体的に筆者が依拠するのはミュラーとシャビット(Muller and Shavit 1998)による教育の制度的文脈に関する類型論です。この類型論では、三つの指標(stratification, standardization, vocational capitacity)が使用され、具体例としてドイツとアメリカが議論されます。stratificationは生徒が教育制度を通じて階層化される度合いであり、トラッキングによって生徒が異なる学校類型に分岐させられるドイツは高く、単線型のアメリカでは低いとされてます。standardizationはこれらの制度が国内で共有されているかの度合いで、これもドイツは高く、アメリカは地域による多様性が大きいため低いとされます。最後のvocational capitacityは教育システムの職業との関連性ですが、これもドイツは高く,アメリカは低いとされます。
これに対して日本はドイツとアメリカ、いずれにも当てはまらない類型になります。ミュラーとシャビットによれば日本は職業との関連が弱く、これが広く標準化されており、学校間の格差も小さいため(stratification, standardization, vocational capitacityの順に)「低・高・低」とされていますが、筆者によれば、階層化の指標は職業との関連でみたトラッキングだけに限らないとします。実際、職業トラッキングとの関連のみで階層化を定義すると、それはvocational capitacityと同じになってしまうためです。著者は、日本の中等教育は職業とのレリバンスは低いが、一方で高校は学力によって階層化されていると論じます。したがって、修正版の日本類型は、「高・高・低」となります。
この類型から予測される仮説を導き出し、筆者は実証分析でこの予想が概ね正しいことを示していますが、一つ気になったのはアメリカにおいて学校間の階層性が「低い」とされた点でした。本書でも、アメリカは居住してる地区に相当する学区の学校に通うことになっており、区域ごとに学校教育のあり方を決める余地が残されており,その点で多様性に富むとしています。私個人としては,この多様性が階層性に結びつかないのが、非常に不思議でした。というのも、アメリカの初等、中等教育段階の学校の予算は、その地区の財政力によって左右されているため、どこに住むかによって受けられる教育の質が異なります。さらにアメリカでは歴史的に人種による居住の分離があったために、今でも黒人層が多い地区と、白人層が多い地区といった分離があり、それが学校間の予算の違い,ひいては階層性に寄与していると考えていたからです。実際の分析でも、分岐型のドイツ語圏に比べると低いものの、学校レベルでみたSESは他の国と比べて中程度に高く(171)、筆者もアメリカを含む自由主義的なモデルの国では学校間の階層格差が中であると結論づけています(175)。最初に提示した階層性の度合いが低であったので、これは予測と分析結果が異なると考えられ、議論すべきところだったと思いますが、あくまで日本的事例をこれまでの分類に位置付けることに主眼をおく本書で、この点が軽視されているように思えたのは残念でした。
2. 類型論に戻って考えてみると、筆者はミュラーとシャビットによる日本の分類に対して反論をする中で、学校の階層性の度合いは将来の職業との関連性のみに帰する必要はないと論じ(79)、偏差値による学校のトラッキング指標を考慮した上で,日本における学校の階層性を高いとしています。同様のロジックをとれば、アメリカにおける教育システムの制度的な特徴についても、ミュラーとシャビットの分類をそのまま援用するのではなく、再検討することができればよかったのかもしれません。
3. 学校の階層性の度合いの指標として職業との関連性以外を見るべきという主張には首肯するのですが、一方でこのようなアプローチは以下のような危うさを孕んでいるのではないかという気もしました。今回は日本的な文脈、具体的には偏差値による学校トラッキングにフォーカスした上で、「一元的階層性」という軸を新たに作っているわけですが、職業との関連性以外も学校の階層性の指標として考慮するべきと言ってしまうと、日本でいえば偏差値、アメリカでいえば学校の威信(78)も加えた方がいい、といったように、各国の学校の階層性を構成する要素を限りなく検討することを許容してしまう気がします。
最終的に各国の事例から示唆される仮説群が今回の二軸のように収斂すれば、先行研究よりもカバー範囲の広い、説得力のあるタイポロジーができるのでしょう。今回は教育システムの自明性を「一元的階層性」とバージョンアップすることで、日本発の仮説を含めることはできましたが、今まで座りの悪かった各国ベースの仮説は、必ずしも日本だけではない気がします。その場合、他の事例も含めてこの自律性-一元的階層性フレームで、どれだけ説明力が増しているのかに言及があると、理論的な貢献も増すのではないかと思いました。将来的に、日本以外もディテールな文脈を踏まえた分析を通じて、このフレームのレバレッジがどれだけあるのかが明確になると、日本以外の読者にとっても意義の深い研究になるのではないかと思いました。
4. この研究の主題は出身階層と教育上のアウトカムを媒介する、教育システムの制度的メカニズムにあったわけですが、アメリカの学校間格差を階層性の一指標としてみなし、これを含めるとすれば、この階層性は生徒の学力ではなく出身階層の影響を強く受けていることが示唆されます。同時に、筆者も日本の高校トラッキングにおいて参照される学力に対する出身階層の影響を認めています。そのような理由から、実証分析では数学能力に対する規定要因の中で親SESを検討していたと思われます。日本のようなトラッキングがprimaryには学力で行われている社会を分析する際には、学力をアウトカムにした分析でもトラッキングを見たことになるのかもしれませんが、筆者の問題関心を反映すれば、実際には「どのような学校に進学するか」に関する分析があった方がよかったのかもしれません。実は筆者もこの点については確認する必要があると述べているのですが(94)、実際の分析でトラッキングへの親階層の影響をみた分析がなかったのは、少し不思議でした。
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