8月が終わろうとしている、夏休みは割と楽しかった(といっても、ほとんど休んでいないが、研究を好きにできるのは長期休みの特権である)、学期が始まるのが嫌で嫌でしょうがない。
ティーチング関係で一悶着あった後、初めてティーチングをする人向けのトレーニング。今日は5分間のmock presentationをしたのだが、他の人が軒並みスライドを使って解説をするのに対して、自分はweekly reflectionをもとに議論するプリセプトなので、ややフォーマットが合っていなかったが、色々勉強になることはあった。一度生徒の立場になって考えることは大切だと思った。
ウィスコンシンでは、留学生は英語のテストを受けてパスしないといけない。ブラウンでもティーチングアシスタントへのトレーニングは結構厳しいと聞いていたが、プリンストンは本当にあっという間に終わった。本来は2日かけて済ませるトレーニングのほぼ全てをオンライン上のクイズなどにしたことは、間違いなく背景にあるが、このトレーニングで落とされることはないに等しいことを考えると、プリンストン のトレーニングはかなりゆるい方だと思う。これでいいのか、ちょっと分からないが、今日の模擬授業を見てみると、それぞれ英語にアクセントはあっても、教えようとしている内容を各自自信を持って発表しているように見受けられたし、アクセントに対してつべこべいってくる層は、こう言った内容面をあまり重視していないのかもしれない。もちろん、理解可能な英語を話すことはコミュニケーションの上では大切だが、過度に強制されるものでもないだろう。
この大多数を英語を母語としない人が占めるという環境が久しぶりで新鮮に感じた。うちの社会学は基本アメリカの人、たまにバイリンガルの人が多数で、私みたいな非英語圏でずっと教育を受けてきたという人はかなり珍しいので、今日みたいな環境に入ると驚く。
ちなみに、今学期TAする現代日本社会論(バブル後の日本)、授業すでに全部収録されてるみたいなんだけど、多分安倍政権が続いていることを念頭に置いてるので、あちゃーという感じ。
続いて、ポッドキャストの編集。感想。日本には書店がない自治体が2割もあるそう。書店があっても岩波文庫など教養的な本がない場合も珍しくはない。そうした地域による文化の格差を技術の力で解決できないかという、今回のゲストにお越しいただいた矢田さんのモチベーションには感嘆した。といっても、私は収録後、そうした技術を開発しても媒体に触れるかは階層差があるはずなので、本当にリーチアウトしたい人に辿り着けるんでしょうか、と社会学にありがちな悲観的なことを言っちゃったんですが(反省している)、地域・文化の格差をエンジニアリング視点で見てる研究者に対して、社会学はどうポジティブに貢献できるかと、ぼんやり考えてしまった。
その後、今日は同じアパートに住んでいるコーホートの友人を招いてルームメイトと3人でディナー。中身は中華のデリバリー。久々にたわいもない話が、オイリー中華をおかずにして、できたのでよかった。家で作るなんちゃって中華は全然オイリーじゃない。これが本当のオイリー中華だ。
その中で、安倍首相がやめた話も、もちろん話題に上がった。と言っても私が安倍政権を断罪するみたいな下りはなく、いつ次の首相が選ばれるのか、首相の任期はどれくらいなのか、選ばれ方は選挙なのか、といった事実確認の話をしていたら色々脇道に逸れていった。日本は内閣制度をとっているので、直接首相を選ぶことはできないこと、首相も閣僚の一人なので大統領とは違って任期に制限はないこと、ただし首相が選ばれる国会議員の政党の内規で、党首になるための任期制限があるので、実質6年以上首相を続けることはできないが、安倍政権下でそのルールが変わったこと、選挙が近い衆議院議員は人気ベースで党首を選ぶ可能性があること、選挙が近くない参議院の議員はそうした動機が薄いことなどを話した。
中国や台湾の留学生と話して、たまに指摘されるのは、日本は多党制だがほぼ一つの政党が政権をずっと担っており(ただし小政党の協力がないと政権を担えない、この辺りもややこしい)、一体何が争点となって政党が対立するのか、という点。例えば台湾であれば、中国との関係をどう考えるかで大きく二つの政党が分かれ、アメリカで言えば銃規制、中絶、移民への対応などで党派性がはっきりと出るわけだが、それにあたるものは、そもそもあるのかという。そう考えると、日本はこれと言って「国を二分する」ような論争がないのかもしれない。
かつての日米安保のように、将来的に国を二分するようなトピックはあるかもしれない(夫婦別姓、女系天皇、同性パートナーシップ制度など)が、少なくとも今は、多くの日本人のこれらのトピックへの意見は、政権を担う政党の政策と大きく矛盾しないのだろう。
良くも悪くも安倍晋三が総理である日常に慣れ過ぎてしまった嫌いがあり、これから新しい首相が選ばれることに対して、少し途方に暮れているところがある。次の政権に対して期待を持てるわけもなく、大して変化もしないだろう政権を待つための妙な空白期間が、私の気持ちを浮つかせているのが薄気味悪い。首相が辞めて、ちらほらと立候補の噂が出てくるあたりから、安倍政権以前の嫌な空気を思い出させる。そこに我々が割って入る余地はないのだ。彼ら(というか幹事長?)のご都合で選出方法が決まり、その彼らが決めた方法で選ばれた政治家を、我々の代表とされる国会議員の一部が指名する。我々が直接介入できないのに、その政治家は国を代表する権力を持つようになる。
たくさん批判を受けた政権だったと思うが、政権が変わるという、我々が辟易としていた日本政治の悪習をしばし忘れることができたのは、この政権の重要な功績だったかもしれない(これは皮肉ではない)。一方で、日本のメディアの騒ぎようがコロナ前の「日常の中の非日常」を強く喚起させ、そのネガである日常の部分が戻ってきた錯覚を覚えてしまった、そんなわけはないのに。
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