UPennの韓国研究センターが人口学研究センターと社会学部のサポートを受けてFamily Changes and Inequality in East Asiaというカンファレンスを開いてくれた。今回、私は指導教員が第一著者の論文を一緒に報告することになり、招待してもらった。
自分の発表についてはまた暇があればまとめるが、ひとまず1日目の感想。毎度のことだが、学会イベントは知的にも(飲み会があるので体力的にも)疲れるけど、終わった後に頭が示唆に満ちている瞬間がなんともいえない。
アメリカの学会ではかなり珍しく東アジアの家族と格差に関心がある人「だけ」が集まる小さなカンファレンスなのに、プリンストンの同期と話している最中にマディソンや東京、中国や他のカンファレンスであった人や初めて会った人が混ざる感じは、不思議な懐かしさが込み上げるものだった。同時に、自分がプリンストンに来てから触れている、考えていることとはいくつもの意味で違う体験をすることができて、示唆に富むものだった。
表現することは容易ではないが、その地域の文脈をよく理解するための研究はたしかに重要な一方で、最近の自分は、もっと理論的な観点から日本や東アジアをどうケースとして扱うかを考えている。その辺りの指向性の違いを感じた。昔は日本ありきで考えてたけど、だいぶ変わった。それはつまり常に「なぜ日本なのか(Japan, who cares?)」という自己問答である。ただ、日本研究のアイデンティティを失ってるわけではないので、どんどんハイブリッドになっているのかもしれない。
現実的には既存の仮設の検証といった手堅い論文を書きつつ、日本の事例だからこそアメリカのオーディンエンスが見逃してた大きな問題に答えられるようなレバレッジの大きな論文を進めることが大切だと思う。何事もバランスが大事で、今回のカンファレンスは地域コンテクストの大切さを改めて共有できた。
結局のところ、日本や東アジアの事例からアメリカのジェネラルなオーディエンスに対して何が理論的な貢献として言えるのかに尽きる。言うは易しの類だが。地域研究だからこそ負っている不利はあるが、まだ未開拓の分野を進めるポテンシャルもあるはず。ただそれはリスキーといえばリスキーなことも確か。
与太話。教育拡大によって学歴の価値が変わっていく問題をどうすればいいかという話の時に、パーセンタイルランクを使うよくあるアプローチの後に、ポリジェニックスコアを統制変数で使えばいいんじゃないのと言う趣旨のコメントしたら、やや場が凍った気がした。ゲノムは言い方に気をつけないといけない。ゲノムがわかるプリンストンの同期にフォローしてもらったので傷口は広がらなかった気がする。
それ以外にもいくつか不思議な体験がありこれがアカデミアの世界なのかと興味深く観察した。ペンのファカルティの先生がディナーの時に突然来たかと思うと、やや不自然な感じで私に話しかけてきて、私が自分の研究を話しても、何か素性を知っているような気配を受け。勘違いかもしれないが、日本研究をしている社会学者が少ないことを嘆いていたので、もしかすると何か下調べ的なものをしているのかもしれない。
最近自分がわけわからないこと考えている気がしてうまく周りに伝えられない気がするが、一貫した趣旨の論文を書けばいいので、ひとまずは気にしないことにする。
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