December 30, 2019

一時帰国中に読んだ本

丸山洋平、2018、「戦後日本の人口移動と家族変動」文眞堂

東京圏に住む女性の出生率が低いことを根拠に、東京への一極集中を是正することで出生率の回復を目指す日本創成会議の言説、私の周りでは眉唾だと思われてる節があるが、丸山さんの博論本では東京に流入する未婚女性の晩婚化が近年のコーホートで強くなってることを指摘している。

この本によれば、女性の社会進出に伴い、進学・就職目的で東京圏に進出する未婚女性が増加し、彼女たちが東京圏引いては全国の未婚率の上昇のドライバーになっているという大胆な仮説が提示されているが、本人も現時点では未婚流入者の結婚行動が全体に与える影響は小さいと言っており、主張にやや飛躍は感じる。それと、私はこうした女性に少子化の責を帰するような主張には、あまり与したくないというところもある。とはいえ、人口変動と人口移動を結びつけようとした視点は非常にオリジナリティがあり、評価は高い。


前田健太郎、2019、「女性のいない民主主義」岩波書店

前田先生はタイトルをつけるのがうまい。「市民を雇わない国家」もそうだったが、研究者がつけがちな「固有名詞と固有名詞:固有名詞によるアプローチ」みたいな、タイトルからだけではどういう研究か判別できないものは避けており、今回の「女性のいない民主主義」も一言で主張を要約していると同時に、ジブリの映画のように、つい中身を覗いてみたくなるような好奇心をそそるものでもある。

本題の方だが、この本でははじめに政治学の民主主義に関する主流の学説が男性視点のものであることを指摘し、これまでの議論がジェンダーの視点を導入することによって全く違ったもの、例えば民主化の歴史が異なって見えたり、あるいは、なぜ女性差別をしてきた政治体制が民主主義のも判例として考えられてきたのか、といった問題に見えることを論じている。私は一つ一つの政治学の学説には疎いが、そうした読者にも(1)なぜそれらの学説が政治学で重要な論点を占めていたのか、および(2)なぜそれがジェンダーの観点を踏まえると問題なのかを明確に説明してくれるので、そこまで苦労せず読み進められる。詳細な議論や文献の引用はないが、新書としての読み切りやすさを重視したのだろう。フェミニズムの議論も紹介される一方で、一部社会学の概念(ジェンダー化された組織やダブルバインドなど)も使われていて、これらがなぜ政治という場が十分にジェンダーを代表していないかを説明するツールとして用いられている。社会学にいるとジェンダーというのは主要なトピックなのだが、隣の政治学や経済学ではこれらの視点がまだ新しいというのは、驚くとともに、社会学の研究が持つレバレッジの大きさを示唆するものでもあった。政治学の読者ではない人にも問題の本質をわかりやすく伝えてくれる好著。


林香里編、2019、「足をどかしてくれませんか:メディアは女たちの声を届けているか」亜紀書房

ジャーナリズムの本質は権力の監視にある(昨今の日本ではこの機能が失われている気がするが)。一方で、先の前田先生の本にもあるように、ジェンダーの問題の背景には常に権力の存在があり、いかなる政治現象とも関わる。その意味で、ジャーナリズムの世界においてジェンダーがどのように扱われているかを検討することは決定的に重要であると、冒頭の章で編者の林香里教授は指摘する。各章は様々なメディア媒体に所属して活躍する女性ジャーナリストをメインに、メディアとジェンダーに関する個人的な経験も交えながら誰にとっても心地の良いメディアのあり方について議論している。学術書というよりは個人の経験したエピソードから問題にアプローチしていくスタイルだが、彼女たちがキャリアを通じて直接・間接に経験した男女差別は、非常にリアルで、日本におけるジェンダー格差の根深さを浮き彫りにしている。



シェリル・サンドバーグ(村井章子訳)、2018、「LEAN IN 女性、仕事、リーダーへの意欲」日経ビジネス人文庫

筆者は執筆当時フェイスブックのCOO。ハーバード大学を最優等で卒業後、学部指導教員だったローレン・サマーズの元でDCで働き、その後西海岸ヘ移りグーグル、そしてフェイスブックという時代の先端を行く企業でキャリアを積んできた、いわばエリート中のエリートである。このプロフィールを見ると、典型的な成功した女性というイメージを持ち、なかなか本書のテーマとする女性のキャリアについて、共感を持たれにくいかもしれない。しかし、彼女がキャリアを歩んでいく中で直面した男女差別や男女のキャリアに対する考え方の違いは、多くの女性が経験を共有するものだと思う。

本書はトピックごとに11章からなっているが、緩やかに彼女の半生を過去から現在に至る形で辿っている。各省の構成は一貫していて、トピックの紹介、それにまつわる学術研究のレビュー、自分ないし自分の周りの女性の実際の経験、それらを踏まえた提言という構成になっている。この本は一種の「私の履歴書」的なもので、働く女性に対して一歩踏み出す(lean in)すること、具体的にはリスクがあっても高い地位につくチャンスがあれば、チャレンジしてみる勇気を持つ大切さを訴えているが、巷の啓蒙書にありがちな自分語りに終始することはなく、社会学や経営学、心理学の文献を広く引用している。Pamela StoneのOpting outや、ホックシールドのsecond shiftといった定番の著書にとどまらず、ASAの学会報告まで引用してて、正直驚いた。私も知らない文献がいくつかあったので、この手の文庫では考えにくいが文献にも付箋を引いてしまったくらいである。インポスター症候群(2章)、成功した女性を同僚にはしたくない選好(3章)、メンターの重要性(5章)、完璧な母親像と長時間労働の問題(8章)といったトピックは、昨今の研究者の世界でも頻繁に議論されるものだ。原著の出版は2013年と少し古いが、これらの問題がいまだに課題として認識されていることは、この本がその意義をまだ失っていないことを示唆しているだろう。


山田昌弘、2019、「結婚不要社会」朝日新書

この方の本は、いつも買おうか買わまいか悩んで結局買ってしまい、特に目新しい発見もないまま読み切ることになるのだが、今回もその例にも例にもれなかった。いくつか最近の研究を引用してはいるが、いつもの未婚化や、婚活の話で終わっている。新しい知見としては、団塊の世代では「初めてつき合った一人目の相手と結婚する」(119)ことがほとんどだったと(データを示してはいないが)指摘している点だった。筆者によれば、告白文化というのはこうした結婚を前提にした付き合いが多かった時代の産物ということだが(知らなかった)、こうした告白しなければ交際できない条件は、交際をどちらかというと結婚に近いハードルの高いものにしてしまっている。さらに近年では、結婚難が広く知られるようになったため「結婚につながらない恋愛は無駄だ」(34)という意識が強くなってきたという。そのため、恋愛の不活発化が起こることになるが、日本では交際がなければ結婚が生じないため、恋愛の不活発化が結婚難に拍車をかけているとする。



白井青子、2018、「ウィスコンシン渾身日記」、幻冬舎

思想家の内田樹氏の教え子だった白井さんが、結婚した夫の留学についていった2年間の奮闘記。ニューヨークやボストン、LAといった日本人がよく耳にするような留学地ではなく、白井夫婦が向かったのは中西部、しかもマディソンである。本として出版されたマディソン滞在記はこれくらいなのではないだろうか。主として白井さんが通った語学学校と、ウィスコンシン大学で履修した映画の授業を通じて出会った人との愉快な、時としてセンチメンタルな思い出の記録だが、マディソンの四季の移り変わりも描写されており、個人的にも懐かしくなった。再び夫の「白井君」はマディソンに留学していると聞いているので、渾身日記2が出るのを楽しみにしている。


朝日新聞取材班、2019、「平成家族」、朝日新聞出版

朝日新聞の取材班がyahoo newsと共同で平成が終わろうとしている当時、「昭和の価値観と平成の生き方のギャップ」に悩み、自分の手でこのギャップを埋めようとしている人の声を集めた記録。私はタイトルを読んで、平成の間に生まれた多様な家族の形態、みたいなものを想像したのだが、本で描かれるのは昭和の時代に当たり前とされた、結婚や出産という「家族のかたち」が様々な事情で難しくなってしまった人の葛藤で、自分で選んだかどうかという以前に、積極的に選ぶという理由づけを社会の側が打ち消してしまうような話の連続だった。例えば、自分たちは子どもを持たなくていいと思っていても、親から子どもはまだか、という声を聞くことで後ろめたさを感じてしまうカップルなどは、自分で選択したはずの人生を前向きに捉えることができないでいる。ひとりで生きていたいと思っても、それを積極的なライフスタイルとして選択しているのはこの本の一部の人たちで、多くの未婚に悩む人たちは、将来への不安から、社会の要請から、結婚相談所に通っている。

これは、私たちが望んでいる未来なのだろうか?この疑問を持たざるを得ない。私はひとりで生きたいと思う人はそういう人生を歩めばいいと思うし、我々がどのような「家族のかたち」を選ぼうとも、それで差別されるようなことがあってはならないと思う。少なくとも私は、自分で選んでシングルの人生を選んでいるが、この本に登場してくる、多くは私よりも年上の、そして恐らく私よりも様々な意味で困難な人生を歩むと考えられるシングルの人たちは、望んで今の人生を選んでいるのだろうか。この本の記述からは、それを読み取ることは難しい。結婚を迫る社会規範が問題なのか、結婚しなければ生きていけない社会制度が問題なのか(特に雇用が不安定な and/or 女性において)、それらが問題だとして、私たちはどのような社会を設計していけばいいのだろうか?この問題は考えだすとややこしい、特に前者は特に難しい。なぜかというと、少子化問題を「解決」したい時のrationaleは「産みたい人が産めない」、結婚支援の場合も「結婚したい人が結婚できない」ことによって、諸々の政策が実行されているが、そうした「したい」の大部分が、社会からの制約によって支えられているとしたら、それらの政策が行なっているのはこの本で「昭和」とされた価値観の再生産なのではないだろうか?我々は無意識のうちに昭和の価値観の再生産に加担していないだろうか。だとすれば、多様性を讃える価値観との間に矛盾はないのだろうか?



吉川洋、2016、「人口と日本経済:長寿、イノベーション、経済成長」、中公新書

前々から多少気になってはいたのだが、良くも悪くも噂を聞かなかったので放置してしまっていた。メインのtakeawayは、「経済成長を決めるのは人口の数ではなく、ひとりあたりの生産性」であり、ひとりあたりの生産性を向上するのがイノベーションである、というものだ。人口の数が経済成長にダイレクトに重要ではないというのは分かるし、イノベーションの重要性も経済学者ではないにしろ、首肯することはできる。ただし、筆者は「人口の構成」が経済成長にもたらす負の側面について議論しておらず、消化不良の感を拭えない。具体的には、生産年齢人口が減り、高齢者が増えるという構成比の変化は経済成長に対してネガティブに影響するというのは、人口学ではよく引用される議論である。筆者は確かに社会保障費の増大について言及してはいるものの、それを直接経済成長との関係で議論はしていない。筆者は人口減少について過度に悲観的になる必要はないという主張をしているが、私はこの本を読んでも少子高齢化(人口構成の変化)が経済にもたらす影響に対する悲観的な見方を変えることはできなかった。人口高齢化が直接経済成長に影響することはなくとも、イノベーションの影響などを減じる足かせにはなるのではないだろうか。



矢野 耕平、2019、「男子御三家 麻布・開成・武蔵の真実」、文春新書

東大に入ると、東京ないし横浜の男子中高一貫校出身の知り合いが増えることに驚く。特に麻布・開成・武蔵のいわゆる御三家とされる高校は個性が強いとされる。これまで、何人もの知り合いを通じて、その学校文化の特徴を知る機会には恵まれたが、今回、半分研究、半分趣味の腹づもりで読んだこの本のおかげで、それらを比較しながら読むことができた。

ひとことで言うと、可能性の麻布、組織の開成、真理の武蔵といったところか。いずれの学校も「生徒の個性を伸ばす」教育に重点を置いているが、それは多くの進学校が(進学校なのに放任というのは逆説的かもしれないが、日本の入試は画一的で、それらは塾に任せるのが効率的と言う側面もある)掲げている校是でもあるので、ほとんど学校の特徴を説明することにはならない。問題は個性の上で何を重視しているかである。

開成は最もわかりやすく、個性を伸ばしつつ組織の中で生きる大切さを、運動会に象徴される行事で植えつけているといえるだろう。何をするにしても比較的大きな組織に所属するため、官僚制に親和的な人間を生み出しやすいのではないだろうか。「個に立脚した集団主義」ともいうべき開成と比較すると、麻布と武蔵は「個に立脚した個人主義」で分かりやすいが、時として両者の差を見出しにくいとも感じる。

両者の違いは、個性を伸ばす先にあるのではないだろうか。私が本書で読み取った両校の違いを学術を例に考えてみると、麻布はオリジナリティのある分野を開拓することを重視する一方、武蔵はすでにある分野の本質を追求することを重視する雰囲気を感じるのだ。どちらも「自分にしかできないこと」あるいは「自分が本当に興味を持つこと」を推奨する教育から成立することには違いないが、麻布は「自分が面白いと思う新しい真理を作れ」という教育のニュアンスを感じる一方、武蔵は「真理はすでにあるのでそれを自分で明らかにしろ」に近い。

余談だが、私は男子校廃止論者である(理由は機会があるときに書く、すでに書いているが)。こうした学校文化は男子だけの環境から成り立っている、という条件付けがある。彼らが誇る学校文化は、男子校でないと実現できないものなのか、それを認めることは性別本質主義と何が違うのだろうか。そうした疑問は消えることがない。

ちなみに、この著者は「女子御三家」も書いているので、こちらも読む予定。



矢野 耕平、2015、「女子御三家 桜蔭・女子学院・雙葉の秘密」、文春新書

「男子御三家」の著者による女子御三家に関する本。(別に要約する必要はないが)学究の桜蔭、自律の女子学院、配慮の雙葉といったところ。東大に来る雙葉出身の学生は相対的に少ないので、私も最近まで雙葉が女子御三家であることを知らなかったが、雙葉は桜蔭とJGとはやや一線を画す教育を行っている印象を持つ。それは保守的な(あるいは良妻賢母的な)カトリック教育ということができるかもしれないし、徹底的に個を伸ばす(男子御三家も含めて)桜蔭とJGと比べると、常に周りへの配慮を欠かさないこと(「他者のために生きる」p.201)に高い価値を置いているのが雙葉かもしれない。

この本では学校関係者に昨今の女性活躍への考えを聞いており、JGと雙葉の関係者が専業主婦のような職業を持たない人も、家庭を守っているという意味でそれも女性活躍の一つだろうと答えている(p.149, p.201)。桜蔭の関係者はこうした答えを示していない(というか、筆者が女性活躍に関する質問をしていない様子、桜蔭だと卒業後も働き続けることがノルムなのかもしれない)。自由・自律で知られるJGの院長でさえも「社会では女性だからこそできる役割があります」と言っているのは少々驚いた。こうした考えを真っ向から否定するつもりはないが、一般的にこういうスタンスは性別本質主義にあたり、男女の差別を正当化するロジックにも使われかねない点には注意すべきだろう。男性がいわゆる女性的な分野に参入してこない現状では、安易に男性と女性でできることは異なるというのは、危険も伴う。

ちなみに、この本で言及されている桜蔭創立90年記念誌は非常に興味深い(パスワードが必要と書いてあるが公開されている)。明らかに近年ほど最終学歴が大学院の卒業生が増えている。また、最終学歴の学校を卒業してから継続して就業している女性の割合が非常に高いこともわかる(医師が多いことが背景だろう)。


山中 伸弥・羽生 善治・是枝 裕和・山極 壽一・永田 和宏、「僕たちが何者でもなかった頃の話をしよう」、文春新書

京都産業大学教授の永田和宏が知り合いの研究者(全て男性)を集めて、学生たちに「偉い人でも自分たちと同じ」ことがあるとわかってもらいたいと思って始めた講演・対談の記録である。研究に関わるものとしては、山中教授がなぜいまだに月1回のペースでアメリカに行っているかに関して理由を説明しているところは、慧眼に値する。また、山中、是枝両氏が若い時に経験した失敗談を語っている箇所も、笑みがこぼれつつ、教訓を含んでいる。山中教授はユーモアのセンスもあり、アメリカから帰国した後の日本の研究環境に悩んで鬱になった経験をPAD(Post-America Depression)と名付けている。山中さんの対談から、なぜ彼が日本に残り続けているかを合理的に説明することは難しそうな印象をもつ。日本に帰った理由も含めて、やはり日本人としてのアイデンティティがあるのかもしれない。一種の留学記にも読めるので彼の章はオススメである。



水村美苗、1995、『私小説 from left to right』、ちくま文庫

先に「日本語が亡びるとき」を読んで彼女の屈折したパーソナリティに苦手意識を持ったままこの小説を手に取ったのですが、久しぶりに頭をドカンと叩かれたような感覚に陥っています。

水村美苗は12歳の時に父の仕事の都合で家族一同アメリカの東海岸はロングアイランドに移住し、そこからイェール大学で仏文学の博士号を取った後、日本語で小説を書き始まるのですが、ちょっとこの小説が果たして(日本語で書かれた文学的な意味で)日本文学なのか、よく分かりません。日英バイリンガルの美苗と姉の奈苗が織りなす会話の応酬は、そういったジャンルに収まらない密度を持っています。

この小説の主人公である美苗はアメリカ人にも、日本人にもなりきれない日本語を母語とする日本人として、時として遠くの日本社会を羨望し、時としてその日本へ「帰国しちゃった」知り合いの日本人を無下に評したりしているのですが、このどちらの国にも確固たるアイデンティティを見出せず違和感を感じている美苗に、高々アメリカに住み始めて1年半、東海岸に引っ越して半年も経ってない私がいうのはおこがましいかもしれませんが、似た経験を見てしまいます。

思えば、マディソンにいた時は日系のスーパーまで車で2時間という土地柄で、周りに日本人もほとんどいなかったので、自分の中でどこか「日本は忘れよう」と開き直ることができたのですが、東海岸に移ると、「アメリカ製のものとはひと味違うというカゴメのケチャップやキューピーのマヨネーズなどから始まってカネボウや資生堂のムースに至るまで丸ごと日本がそろ」う「ヤオハン」(現ミツワ)(p.81)まで車で1時間(といっても上記のどの商品もアメリカで買ったことはないですし、そもそもミツワにはいったことがないですが、あくまでシンボリックなものとして)、ニューヨークも電車で1時間半と地理的にも「日本」が近くなり、プリンストンの方が日本から来た人も多く、なかなか研究対象として日本を素直に見るだけでは終えられないところがあります。

日々の生活の節々で自分は日本人だな(というより、日本的な文化慣行にどっぷり浸かっているのだな)と思うことが増え、アメリカに骨を埋めようと覚悟しつつ日本気質が抜けない自分自身をシニカルに見つめてしまうときもあります。そういった日々の些細な感傷の多くは言語化せず過ぎ去ってしまうのですが、この「私小説」がその日常レベルの小さな葛藤を言語化していて、ズシンと来ました。自分にとって言語はsimカードみたいなもので、アメリカにいる時は英語のsimカードを入れてるので、メールも英語で書く方が楽なのですが、日本に帰ると日本語のsimカードになってしまい、途端に英語を使うことを億劫に感じてしまいます。日々生活していてストレスは感じないのですが、「私小説」を読んで単にそういったストレスをストレスとして感じないように感情の皮膚が分厚くなっているだけのような気もしました。学期中に読むとメンタル的に重くなりそうなので、この本を手に取ったのが休暇中で良かったです。

私はよく、日本(というか東京)とアメリカ両方で生活することができて、どちらも一方では得難い経験ができてよかったな、と呑気なことを考えているのですが、水村の小説はそうした異なる環境に身を置くことに対して徹底的にネガティブな評価を下しています。日本との往復が(物理的・文化的双方で)今ほど簡単ではなかった環境で水村は育っているわけですが、例えば現代のようにツイッターやフェイスブックといったメディアを通じてより「日本」を近く感じられる環境で育っていたら、水村のアイデンティティはさらに紆余曲折したものになっていたのでしょうか。



カル・ニューポート、Deep Work. 
日夜長時間労働をしている全ての大学院生に読んでほしい。翻訳もある。

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