今回は東京大学駒場キャンパスにある教養学部に、地域アメリカ研究科ができた歴史的な経緯について概観する。
教養学部に地域アメリカ研究科の前身である「アメリカの社会と文化」講座ができたのは1951年だった。教養学部自体は新制東京大学が発足した1949年にできているから、二年のブランクがある。というのも、発足当初の教養学部には旧制一高の学生及び新たな入試を経て前期課程に入学してきた学生しかいなかったからだ。そのため、3、4年の専門課程の教育を担うことになった教養学科は、新制東京大学の成立から二年後に設立された。
以後、地域研究としてのアメリカ科ができるまでの経緯について見ていくが、これには二つのアプローチがある。一つはアメリカ科と一緒にできた、ほかの地域研究科(当初は英仏独)とまとめて考えるものだ。教養学部教養学科に地域研究の講座を設ける過程を考える際には、この方法が適切だろう。もう一つのアプローチは、アメリカ科を単独で考えるものだ。東京大学の沿革を追っていても、アメリカ科のできた経緯は地域研究のそれに包摂されて考えられてしまいがちだ。アメリカ研究をしている側の論理を見るためにはこちらの方法が適切になる。
最初に、駒場に地域研究ができた経緯を見ていく。第二次大戦直後の1946年、第一次アメリカ教育使節団が日本の大学教育を視察し、これをまとめた報告書の中で一般教養科目を設けるという方針が示された。これにより、日本の国立大学は一般教養を教えることが必要になる。その他の大学の事情は省くが、東大の場合は一般教養を教える教養部の役割を旧制一高に託そうとしていた。駒場は旧制一高時代から本郷の帝大との交流が深く、それは単純に一高から帝大へ育成との数が多いと言うだけではなかった。一高の教授も講師として本郷に出講するなど、教官レベルの交流も深かった。このような事情から、旧制一高の教員が新制東京大学の一般教養を担うことになる。これについては教官で構成された実施準備委員会も同意していた。しかし、駒場の位置づけを巡って、教授間で議論が起こる。法学部や医学部、それに経済学部などは駒場を本郷で専門を学ぶまでの予科と位置づけていた。そのために、彼らが主張したことは駒場の教員の人事権を各々の学部に委ねることでした。しかし、それは駒場の自治権を奪うことを意味していた。実施準備院会には旧制一高の校長も参加していたが、駒場に自治権を持たせようとしていたのはむしろ本郷の教官でした。総長の南原繁、文学部の高木貞二及び社会科学研究所の所長、のち初代教養学部長になる矢内原忠雄の三人は、駒場に人事権を与えオートノミーを保証する必要を訴える。矢内原は審議会で駒場を独立した学部とすることさえ訴えた。もし駒場に自治権を与えなければ、旧制一高の優秀な教官たちが他の大学に移ってしまうことを予想していたからだ。議論の末、教養学部の設立が決まる。その途上で、矢内原は独立した学部を持つのだから、ジュニアだけでなくシニアコース、すなわち後期課程も教養学部に設けるべきだと主張し始める。矢内原は、とにかく駒場に他の学部と同等の地位を与えたいがためにこの主張をしたと考えられているが、結局のところ彼の主張が通ったことにより駒場に地域研究科ができることになる。
矢内原の関与はここまでだった。彼は駒場に自治権を与え専門課程を置こうとは考えていたが、具体的にどのような学科を置くかについては深く考えていなかったようである。周囲には、東京外国語大学の吸収を提案したことすらあった。
戦前の植民地政策論を主導した彼は、戦争に敗北したのは外国に対して無知だったからだと考えていた。そのため、新制の東京大学には、外国の文化や歴史について学ぶ学科が必要と考えていた。現実的に外大を吸収する予算も無かったため、一高の教務部長だったフランス文学者の前田陽一などの周囲は、旧制一高がもっている人材の範囲で専門課程を作ろうとした。彼はフランス留学の経験から駒場に地域研究科を置くことを考えていた。というのも、彼がフランスに留学した時にフランス文学を理解するためには、その背景となる思想や宗教の歴史などにも知識が及んでいなければならないことを痛感したからだった。学生の頃、仏文学しかやらなかったことに対する視野の狭さを感じた前田は、一国の文化や歴史をまとめて学ぶ地域研究科を提唱する。この考えは外国を知る必要性を訴えていた矢内原とも近いものであり、話し合いの結果、教養学科に米英独仏の4つの地域研究科を置くことになった。1951年、54名の学生を迎えて教養学科はスタートした。
地域文化研究アメリカ分科は当時「アメリカの歴史と文化」と呼ばれており、分科課程の科目には「アメリカ史」「現代アメリカの思潮」「アメリカの政治」「アメリカの経済」「アメリカ文学」「アメリカ社会誌」「アメリカの科学と技術」「特殊研究」が設けられていた。
以上が、駒場にアメリカ研究科を含む教養学科ができるに至った経緯である。次は、アメリカ研究単独の流れを見ていこう。
その際に有益な資料となるのは東京大学アメリカ資料研究センターが発行している年報だろう。年報は1978年から始まっており、日本におけるアメリカ研究についての資料を収集しているセンターが、その情報を提供しようと第一号を刊行した。
まず、その第一号に寄稿されているいくつかの文章から日本におけるアメリカ研究を概観し、教養学部におけるアメリカ研究の始まりをその中に位置づけたい。近代日本が始まって間もない1910年代に、すでに「米国研究」という言葉が確認され、日本におけるアメリカ研究の歴史は想像以上に長いことが伺われる。本間長生は報告において、東大に高木八尺によるヘボン講座が1920年代に開かれたことと関連づけて、「第二次大戦勃発の遙か以前より、アメリカ文明理解の必要は日本において痛感されていた」と述べている。その後、戦後直後の1946年に高木八尺によってアメリカ学会が創設されました。ちなみに本間は、このアメリカ学会が1950年から1958年にかけて刊行した「原典アメリカ史」に収める資料を検討するために、高木が開いた研究会を通じて新たな世代の研究者が増えていったとしている。
その後、1950年から始まったスタンフォード大学・東京大学研究セミナーや1951年から始まった京都アメリカ研究セミナーを通じて研究者の養成がなされ、1960年代までに日本のアメリカ研究は確立したといってよい。
このような背景のもと、1949年東京大学教養学部にアメリカに関する講義が開かれる。その前年から文学部西洋史学科を卒業した中屋健一が1948年に講師とし駒場に招かれていますが、翌年のアメリカについての講義を見据えてのことだろう。また、駒場では上記のように1950年からアメリカセミナーが開かれており、戦後の東大のアメリカ研究の再開は1949年もしくは1950年といえる。
参考文献
東京大学百年史編集委員会 (1987) 「東京大学百年史部局編4」
教養学科30周年記念事業実行委員会 (1982) 「教養学科の30年」
駒場50年史編集委員会 (2001) 「駒場の50年 1949-2000」
本間長世(1978)「日本におけるアメリカ研究 一つの概観」 東京大学アメリカ資料研究センター 「アメリカ資料研究センター年報」
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