December 7, 2014

12月7日(日)

昨日、ビックデータが社会学の経験的研究に大きな影響を与えるという論文を読んで、そして今日の飲み会でその話をして、今までと質の違うようなデータが生まれ、あらゆる行動レベルでの実験が可能になる、そんなSFチックな世界が実現するのも、時間の問題かもしれないと思った。

そのような世界では、当面の間、因果(メカニズム)は必要なくなる可能性がある。仮に、Aとnot Aという処置をしたグループを比べることができれば、望ましい変化をした方を採択すればいい。それだけのことだ。

そこに介在するメカニズムは、望ましいアウトカムだけを求めるならば、「当面の間は」必要ないし、単純な比較の場合は、問うまでもないくらいに自明だろう(鍵括弧を付けたのは、生産性を増すために、原因を突き止めることは必要かもしれないという意味だ)。

ただ、社会科学、もしくは社会学の問いは、もう少しややこしいものかもしれないというのを、今日話をして感じた。

ややこしさには二つある。まず、アウトカムに対する評価が簡単にはいかない。これは、社会学における公共性の問題と関連するかもしれないが、社会学が扱う不平等や制度の議論は「何が望ましいか」が普遍的に妥当しないことが多い。次に、我々は単純な実験では分からない社会的なプロセスに関心を持つことが多い(これは、明らかにしたい問い・アウトカムが抽象的というのにも依存する)。例えば、階層論における不平等の再生産というのは、事実レベルでは明らかになっていても、統制が難しい例の代表だろう。

一般に、ビックデータが明らかにするような事象は、良い意味で単純で理由付けがそこまで必要なく、改善の矛先が自明であることが多いのではないだろうか。例えば、ここをこうすれば人の移動が変わる(その結果、交通状況が改善されたり、人の出会いのパターンのオプションが増える)というのは、変える方向性にも、変え方自体にも、議論の余地はないように思える。

しかし、社会学が問うのは、社会の(集合的な)行為や、それを条件づける規範や秩序、これらを規定しているような構造であり、ある社会形態からもう一つの形態へと移行する変動の軌跡である。さらに、問いの中には実験の不可能な歴史的な問いもある(例えば、近代化の効果ーロマンティック・ラブの浸透などーを問うとすると、それは実験ができない、歴史的なものになる)。

近年、社会学で因果推論や準実験のリサーチデザインが流行している事情には、こうした事実レベルの因果をひとつひとつ明らかにしていって、マクロとミクロの相互作用を明らかにしようとするAnalytical Sociologyの視野が含まれると思われる。その意味で社会学に実験が入り込むのは、仕方ないとも言えるし,歓迎すべきだろう。

しかし、やはり大きな問いをホールドする以上(しないのであれば、社会学にこだわる必要も無く方法に特化した組織,例えば企業にいけばいい)、その問いは、今までの研究伝統に根ざしたものであり、一見すると実社会とのニーズからはかけ離れたものになる可能性が高い。

これに限らず、実社会のニーズとアカデミックな共同体において価値があるとされる問題には、往々にして乖離がある。社会学だと、人口や家族、不平等というテーマであれば、そうしたギャップは比較的小さいのかもしれないが、それでも社会学の学問領域が有していて、それ以外の方法主義的な視点を持つグループが持っていないのは、近代化黎明期から続く,社会学の古典的な問いだろう。

ここまでくると、最終的には私たちは思想レベルで議論をしなくてはいけない。社会学は人文学になる。一般的な経験的な社会学者(計量社会学の看板を掲げる人たち)は、どこかで人文学的な野心を持ちつつも,実際には日々回帰分析の応用の反復で終わっている。これは重要な役割だと思うし、最近の日本やイギリスの社会学でその価値が増している領域でもある。しかし、そうした人々がカバーしてきた需要は,今後ビックデータと結びついて研究によって転覆されるかもしれない。先の論文が示唆しているのは,そういうことだろう。このように考えると、理論に傾倒した社会学の方が、将来的にはまだ社会学らしいと言えるのではないかもしれない。実証主義一辺倒の議論が限界に来るのは、そう遠くないのではないか、話したのはそういう内容だった(これには、異論反論があると思われる)。

方向性はいくつか考えられる。まず、あえてと思われることかもしれないが、理論化を急ぐ手がある。ブルデューやベック、日本では山田昌広のような、計量的な分析などには大きな関心を持たず、理論レベルで洗練されたものを提供するような、純・理論(応用可能な理論のための理論)を構築するのは,需要が残るだろう。次に、ビックデータと結合した実証研究を志向することだ。この例としては、Savageらが企画したGBCSのような調査が考えられる。確かに、従来の統計的なスタンダードからは逸脱しているかもしれないが、この調査では豊富なデータからイギリスで台頭するエリートの存在を浮かび上がらせることができるている。

今後、世界が、社会学がどのように変わっていくかは分からない。しかし、仮に英米圏でビックデータを利用した調査が増えていくことになれば、それは日本にも波及するだろうし、世界的な潮流になる可能性は高い。もちろん、その過程で、今からは想像できないような,認識論的、理論的、実践的な問題が登場してくるかもしれない。それを差し引いても、時代など変わっていないと結論づける保守性よりかは,我々は時代の転換点にいるかもしれないという勇気ある態度を持つべきかもしれない。


脇道にそれるが、これに限らず、研究に没頭していると、これまでの研究伝統を重視しすぎるがあまり、新しい手法や視点に対して懐疑的になることがあるかもしれない。しかし、そもそも知というものは、私たちを自由にするはずだ。学問をするということは、それまでの無知の状態から解放され、知的にリベラルになることだと、どこかで信じたいという気持ちに駆られながら、筆をおく。

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