February 9, 2014

パットナム、Potes、ソーシャルキャピタル


Bourdieu, P. 2008. “15 the Forms of Capital.” Readings in economic sociology 4:280.
 この論文ではブルデューによる文化資本とソーシャルキャピタルについての解説がなされている。資本を蓄積された労働であり、客観的・主観的に刻み込まれるものである。資本を用いて人は自分にとって利益を導く社会的な力を使用できる。ブルデューによれば、資本には経済学的な意味でのそれ以外にも、文化資本とソーシャルキャピタルがあり、ここで解説している。経済資本とは直接金銭に還元できるような、所有権として制度化されているような資本である。文化資本はその形態によって複数に分かれる。まず、身体化された文化資本がある。これは一定期間をかけて意図を持たずとも蓄積するものとされ、いわゆるハビトゥスを指す。これは経済資本と異なりあからさまに利益へと転換されるかが分からないため、象徴的な資本として機能し、資本が不平等に分布している界において利益を巡る闘争があるとする。次に、物質化された文化資本がある。これは絵画や本などのように物質として存在するため、他の物質や金銭と移し替えることが可能だ。また、経済資本によって生産手段を得たことと、その使用方法を理解して利益を生み出すことは異なる。この場合、後者は文化資本と考えられるようだ。最後に、制度化された文化資本がある。これは、教育制度を通じて何らかの資格を得ることと考えられているようだ(この点に関しては、高等教育の拡大が資格の価値にどのような影響を与えたのかが気になる)。また、制度化された資格として文化資本と経済資本との間の交換関係を媒介するともされている。
 次に、ソーシャルキャピタルがもう一つの資本として紹介される。これはある集団とのネットワークを構築することで、メンバーシップの承認などを得られる資源を指している。このネットワークは物質的ないし象徴的な資本の交換によって相互承認がされることで維持されているという。このように、資本それぞれには特徴があるものの、三者は相互に関係をしており、経済資本を中心に他の資本へと移転するというのが、ブルデューの主張の重要な点だと思われる。

Portes, A. 2000. “Social Capital: Its Origins and Applications in Modern Sociology.” Annual Review of Sociology 1–24.

 Portesによるソーシャルキャピタル研究に関するレビュー論文。彼はブルデューの議論からレビューを始めている。彼によれば、ブルデューはSCを二つの要素に分けていたという。一つが他者の持っている資源にアクセスできることを可能にする社会関係、もう一つはそうした資源が蓄積した結果のまとまりである。ブルデューの資本論の特徴は、各資本の移転可能性に言及したことにあるが、資本独自のプロセスに関しては還元不可能だと言う。たとえば、SCが蓄積した結果生まれる信頼屋気味と言った要素は経済資本には還元できない。次にSC論の起源としてLoury及びこの議論を聖地化したColemanが紹介される。Portesによれば、SCを通じて獲得できる資源をSCとするトートロジカルを避けるため、コールマンはSCの所有とそれを可能にするような組織や条件といったメカニズムの部分を分けたという。これはPortesによって資源自身と資源を得るための能力の二つに言い換えられており、これはブルデューの議論とさして変わらないことが指摘される。さらにコールマンによって、資源を得る際の本人とドナーの動機が分けられた。後者の場合、なぜ直接的な利益がないのに協力するかというのは分析の価値があり、SCは結果的に、本人のSC、SCを提供するドナー、資源自身の三つに分かれるという。及び、コールマンの業績としてclosureへの注目が挙げられている。

 次に、PortesはSCのsourceについてconsummatoryなものとinstrumentalなものの二つを挙げる。それぞれはさらに二つに分かれ、前者に無意識のうちに内面化された規範とマルクスの階級論に見られるような利害によって拘束された集団による連帯、後者に互酬的な交換と手段的な利益に結びつきつつも、直接的な見返りを求めず、所属している集団における地位上昇などを期待するものがある。こうして、人間関係から生み出された資源を利用することで、様々な結果(規範に従うこと、ファミリーサポート、弱い紐帯などのネットワークを媒介した利益)が生み出される。しかし、ソーシャルキャピタルにはネガティブな結果(独占やただ乗り、規範の強要など)を招くことが指摘されている。最後に、PortesはPutnamら政治学者による市民社会論の系譜とSC論の合流を説き、彼に対する事実レベルまた因果レベルでの批判を紹介している。

Putnam, R. (1995a) ‘Bowling alone: America’s declining social capital’ Journal of Democracy, Vol. 6, No. 1, pp 65-78.

 パットナムが孤独なボウリングを発表する2年前に雑誌に投稿した論文。孤独なボウリングの主張が要約されている内容に感じた。ただし、この論文では、SCの定義について互酬性の規範、信頼、ネットワークのようなきれいな定義はしておらず、どれも互換的に用いている印象を受けた。パットナムは近年のアメリカのコミュニティにおける市民参加が衰退していることSCをもって説明しようとする。市民参加の衰退の例としては、教会などの宗教参加、労働組合、PTA、さらにボウリングのリーグの減少などが例として挙げられている。その一方で、市民参加は衰退していないという反論も紹介される。例えば、1970年代以降の官許運動やフェミニズムなどが新しい社会運動として紹介されるが、パットナムによれば、こうした運動に人々は名前を連ねるだけで、互いに顔を見知った人々による協同的な運営はされていないという。こうした組織への参加に加えて、近隣の人との交流も減少していること、さらに一般的な信頼も減少していることが指摘される。こうした市民参加の衰退の要因としては、女性の労働市場への進出、移動、人口変動、そして技術革新が挙げられている。最後に政策提言がされているが、この箇所はパットナムのコミュニタリアンとしての性格を示しているように思われた。

Brehm, J., and W. Rahn. 1997. “Individual-Level Evidence for the Causes and Consequences of Social Capital.” American journal of political science 999–1023.


 この論文では、パットナムの議論を受けて、GSSデータを使用して市民参加、相互の信頼、そして政府への信頼、この三つの因果関係について検討している。ゲーム理論における囚人のジレンマを引用しながら、個人レベルの行為と信頼の関係について仮説を作っている点など勉強になる点も多かった(たとえば、パットナムは組織への参加がインタラクションや他者への信頼を醸成するなど、集団レベルでの説明に終始していたという)。また、トクヴィル仮説と称して、アソシエーションへ積極的に参加すると中央集権的な政府に対して反抗するようになるという仮説を示していて、アメリカらしい考えのように感じた。分析の結果、市民参加と相互の信頼は相関関係にあること、この方向性は参加による信頼の醸成の方が強いことが分かった。また、変数を統制しても相互の信頼が政府の信頼を醸成することが分かった。

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