February 8, 2014

さぼってたので一度にまとめました論文

Scherger, S., and M. Savage. 2010. “Cultural Transmission, Educational Attainment and Social Mobility.” The Sociological Review 58(3):406–28.

 文化資本が教育達成及び社会移動に与える影響は多くの論文で指摘されてきたが、その見解は必ずしも一致したものではなかった。また、こうした研究はアメリカのデータを用いたものであり、イギリスの事例を検討したものは少なかった。そこで、この論文では、親から子への文化資本の移転と教育達成、そして社会移動の関係をイギリスの社会調査のデータを用いて明らかにしている。文化資本として用いられたのは、幼いころに親などの大人がつれていった文化施設(activityの変数)及び彼らが勧めた文化的活動(encourageの変数)である。

 分析の結果、以下のようなことが分かった。既存の研究結果を支持するように、親の階級が教育達成に与える影響は文化資本の移転の変数によって媒介されている。さらに、これに加えて、この移転は教育達成に与える直接効果も確認された。社会移動に関しては、労働者・中産階級の出身に対して上昇移動が、サービス階級に対して下降移動がテストされ、前者に関しては文化資本の移転が上昇移動を促すこと、後者に関しては、下降移動を防ぐ傾向が確認されている。

Lin, N., W. M. Ensel, and J. C. Vaughn. 1981. “Social Resources and Strength of Ties: Structural Factors in Occupational Status Attainment.” American sociological review 393–405.

 この論文では、まずグラノベッターの業績が紹介されている。筆者らは、この知見をさらに一歩進めて、紐帯の強さと見つける職業の地位の高さの関係について考察する。人々は一般に地位の高い職業を見つけ、仕事の仲介者の地位は雇用者の判断に影響を与えるという想定と弱い紐帯を組み合わせると、一次的な社会圏を超えた弱い紐帯を持つ人は、影響力のある人物を見つけ、地位の高い仕事を得やすくなると考えられる。加えて、ホモフィリーの知見を踏まえると、職業的地位の低い人であれば弱い紐帯が有効に働くが、高い人であれば、強い紐帯も地位が高い人になる確率が上がると考える。以上のような仮説をsocial resourceの理論としたこの論文では、量的データを用いて検証を試みている。

 分析の結果、個人的属性とともに、弱い紐帯を持つことは影響力のある人とコンタクトする確率を上昇させる。また、コンタクトの地位は地位達成に直接的な効果を持つ、最後に就労年数が長くなると、親族や友人などの紐帯から知人の紐帯を使って仕事を見つけるようになり、コンタクトと会社の強い紐帯の効果が上昇することが分かった。

Dumais, S. A. 2002. “Cultural Capital, Gender, and School Success: the Role of Habitus.” Sociology of Education 44–68.

 この論文では、これまでの文化資本と教育達成の関係についての研究はブルデューの理論を反映していなかったことが述べられている。具体的にはそれらの研究は文化資本のみを用い、社会的位置によって拘束される個人の考えや性向といったハビトゥスの側面を見逃してきたという。そして、このハビトゥスの違いが文化資本が同じでも進路が異なる男女の違いを説明すると筆者は論じる。その上で、アメリカの第8学年の生徒のデータを用いた筆者は、女子生徒及び社会経済的背景が有利な子は文化活動に参加している割合が高いことが分かった。さらに、ハビトゥス(ここでは、将来就きたい職業のアスピレーション)を統制しても、文化資本は女子生徒の教育達成にプラスの影響を与えていることが分かった。男子生徒に関してはfixedモデルの場合に文化資本の影響が僅かしか見られないことが述べられている。最後に、ハビトゥスの直接効果は大きいことが指摘されている。

Stolle, D. 1998. “Bowling Together, Bowling Alone: the Development of Generalized Trust in Voluntary Associations.” Political Psychology 497–525.

 この論文では、ドイツとスウェーデンのデータを用いて、自発的な結社(association)に加入することが、一般的信頼を高めるかが検証されている。この議論の土台にあるのは言うまでもなくパットナムの孤独なボウリングだが、そうした組織に加入したから信頼が醸成されるのか、もともと信頼を持つ人が組織に入るからなのか、因果の関係についてはあまり検討がされてこなかったという。それは端的に言って比較検討をするのが難しかったことにあるが、この論文では、組織に加入している人のデータのみではあるが、因果を検討している。

 データは自発的な結社の他、ジムの会員という非自発的なもの、結社ではないもののその要素が確認できる個人グループ、最後に個人的な利益ではなく公共の利益を目的にした団体の構成員から集められた(この選択や団体の定義に関しては納得がいかないところが多い)。分析の結果、多様性があり、個人がコミットし、弱い紐帯(これが何によって定義されているか分からなかった)を持つ団体の一般的信頼は高いことが分かった。また、セレクションバイアスについては否定できず、信頼を持つ人が組織に入るという主張をしている。

Fairlie, R. W. 2005. “An Extension of the Blinder-Oaxaca Decomposition Technique to Logit and Probit Models.” Journal of economic and social measurement 30(4):305–16.

 この論文ではパットナムの孤独なボウリングの主張(Bowling alone thesis)に寄せられた批判を四つに分類して紹介している。第一に、パットナムや他の研究者が用いたデータではBowling alone thesisを主張できないとするものである。これには高い教育程度を得ることが政治参加を促すというパットナムの前提に対する懐疑も含まれる。第二に、Bowling alone thesisがアメリカ社会に限定されたものであるという主張である。ヨーロッパ社会では政治参加が必ずしも衰退してないことは、パットナム自身も認めるようになっている。第三に、伝統的な組織参加が衰退したことを認めつつも、新しい形の市民参加(平等主義、個人主義的な草の根運動)を見逃しているというものである。こうした運動はパットナムが想定したような頻繁なインタラクションをせずに活動をしていると述べられる。第四に、パットナムらが主張した減少を認めつつも、それが民主主義にもたらす影響を否定的に見るものである。こうした批判を紹介した後で、Bowling alone thesisを未来を予測している。これら4つの批判は必ずしも整合的ではないが、パットナムの主張に対して、今後、新たな経験的証拠を示し、因果関係のレベルで再検証される必要がある点で共通している。

Jamieson, L. (1999) ‘Intimacy Transformed? A critical look at the ‘pure relationship’, 
Sociology, 33 (3): 477-494

 この論文では、ギデンズの「親密性の変容」で掲げられた純粋な関係性のテーゼに関して批判的に検討している。社会の不透明性が増した後期近代では、個人が自分自身と対話することで、またパーソナルな関係をもとに自己を形成することが要求される。お互いのself-disclosureによって、関係性を純化する形で成立した男女関係は個人に存在論的安心と一般的信頼をもたらすとされている。

 こうした親密性における男女関係は平等的であるとギデンズは論じるが、関係性が純化し平等になるというイデオロギー、言説的な部分と、実際の男女の格差はことなるとLynnは論じる。加えて、ジンメル以来、複数の社会学者が互いのself-disclosureによってこれ以上相手に秘密にする部分を持たないことは個人にとって心理的負荷をかけると指摘してきたが、ギデンズは安易にセラピーの文章を引用することでこうした点について回避してきたと批判されている。

 このように論じた上で、Lynnはカップル関係と親子関係を事例に、ギデンズの主張が経験的なデータに照合しないことを主張し、親密性の多元性を指摘する。カップル関係においては、確かに、mutual disclosureは純粋な関係性における親密性の基礎をなして入るものの、それ以外に既存の伝統的な役割規範を背景にしたシンボリックなコミュニケーションが行われていることが指摘されて、純粋な関係性における男女の平等な関係とは裏腹に、現実には女性よりも男性の方が権力を持っていることが示されている。親子関係は親密なカップルにおける純粋性をはぎ取るものと考えられるが、これは子育てにジェンダーによるインバランスがあることが指摘される。さらに、親子関係においても純粋な関係性を志向することは確認されているが、それは親から子に限ったことであり、また階級やエスニシティによって偏りがあることが指摘されている。

Farr, J. 2004. “Social Capital: a Conceptual History.” Political Theory 32(1):6–33.

 この論文では、ソーシャルキャピタルの今日における議論状況を踏まえ、その概念史に新たな流れを付し、それがSCに示唆するものを明らかにすることを目的としている。パットナムもその概念を初めに用いたとするHanifanからこの論文は始まる。Hanifanは学校を中心にしてコミュニティにおける経済格差や人種問題などの社会問題の解決を図ろうとし、その際にソーシャルキャピタルという概念を用いて、社会的勢力と市民の道徳をよみがえらせることを狙ったという。次に、このHanifanの議論を引き継いだ人物としてジョン・デューイが挙げられている。彼の哲学はこの時代のソーシャルキャピタルという概念に哲学的基盤を与えたという。デューイの哲学的スタンスは批判的プラグマティズムと呼ばれている。この思想がソーシャルキャピタルに与えた影響について三点挙げられている。まず、哲学を批判として考えたデューイは批判が社会問題の発生とその解決によって生み出されるconstructiveなものと主張した。次に、デューイはこの思想によって人々の共感を強調した。最後に、capitalという言葉によって、デューイは個人の能力をコミュニティの資源として活用できる点を主張した。こうしたデューイの哲学は当時古典的な政治経済学に批判的になろうとしていた、マルクスらと共鳴し、連帯した労働や組織による集合的な生産といった社会的経済を主張した新しい政治経済学に合流したという。このような歴史を辿った後、筆者はソーシャルキャピタルの市民の道徳や共感といった側面が明らかになったとしている。

Goldthorpe, J. H. 2007. “‘Cultural Capital’: Some Critical Observations.” Sociologica I(2):1–23.

 ゴールドソープによる文化資本論批判。ゴールドソープによれば、ブルデューは出身階級が与える教育達成への影響のロジックについて、家庭と学校の文化の連続性を見出し、dominant class出身の子どもが有利に教育を受けると考えたという。しかし、以上のような主張は当時の教育社会学に多く見られたものであり、これ以外に彼の社会的再生産過程に注目する必要がある。

 ブルデューが文化を社会における差異の分布としてのresourceではなく、資本として捉えたのは、彼がdominantc classが資本を用いて自らに便益を導いている過程を問題視していたからだという。この資本は経済資本における所有権と同じように、教育制度において成績や資格に制度化される。また、この資本は世代間で移転される。以上の資本の蓄積の制度化と移転は、dominant classが再生産を維持しようとしている過程にとって重要になっている。

 これに加えて、文化資本は経済資本と異なり社会化のプロセスで伝達される時間のかかるものであること(これがハビトゥスの形成とつながり、それが家族に限定されているため再社会化の余地がないとされている)、さらに文化資本はdominant classの利益によって決められ、そこには教育に置ける言語能力や知識に相当する部分による分化が認められていないとする。従って、ゴールドソープは文化資本の移転がうまくいかなくても、教育制度が変化をもたらすことはない点で、ブルデューの理論は社会的再生産を二重に保障させていると批判する。

 こうした教育システムによる再生産の理論が失敗に終わることを、ゴールドソープは教育拡大期において、学校が親の世代に置いて教育達成をしていなかった子ども世代に文化資本を獲得するチャンスを提供したことをもって指摘している。家族だけが文化資本を移転する唯一の場所ではないのだ。相対移動に関してはまだ議論に決着がついておらず、この批判は近代化論からのものではない。ブルデューの理論が失敗に終わっているのは、彼は教育拡大期に階層下位の出身の子どもでも教育達成した事実に対して、理論を相対化するのではなく、自分の理論の正当化に用いているからだ。

 最後に、ゴールドソープはブルデューの業績をこれまでの社会階層と移動の研究に連なるdomesticatedなものか、全く新しいことを言おうとしたwildなものかと捉えることによって異なる批判をする。前者の場合は、ブルデューの主張する文化資本的な要素が、階級の再生産を説明する際に寄与するものではないことが指摘できる。後者の場合、批判はより根本的になる。ゴールドソープはブルデューを評価するSavageら自身が、この理論を反映した経験的な事例がまだないことを指摘している。さらに、既存の研究とブルデューとの間の大きな違いとなる文化資本の家族のみにおける移転という点に関して彼らが議論を避けていることが指摘されている。

Savage, M., A. Warde, and F. Devine. 2007. “Comment on John Goldthorpe/3.” Sociologica 1(2):1–6.

 Savageらのゴールドソープへのコメント。彼らは、ブルデューの再生産論の機能主義的な側面、英仏の社会移動の程度から、文化資本の考えが再考される必要を認めている。しかし、それでもなお、オーソドックスな階級分析における搾取の理論を操作化することが難しいこと、ゴールドソープの合理的選択理論においては有効な資源がトートロジカルに定義されていることを踏まえると、ブルデューの理論が出発点として有効だという。特に、フィールド(界)の理論は関係性という概念を保持する時に有効だ。さらに、ゴールドソープが関心を持つ教育達成という狭量な範囲を超えて、文化資本は人類学的な意味でのway of lifeを文化の実践という側面から捉え、どのように階級が形成されるのかを理解することを可能にするという。例え、文化的側面が教育達成に重要ではないと分かったとしても、それはなお階級の形成に関わってくるのだ。

Durlauf, S. N. 2002. “Bowling Alone: a Review Essay.” Journal of Economic Behavior & Organization 47(3):259–73.

 この論文では、経済学の視点からパットナムの孤独なボウリングを批判している。第一に挙げられるのが、ソーシャルキャピタルの定義の曖昧さである。パットナムは冒頭で信頼、互酬性の規範、ネットワークを三つの要素としているが、19章ではこれに労働市場に置けるコネクションを加えているほか、ソーシャルキャピタルの機能主義的な定義も批判されている(例えば、ブリッジングとボンディングの定義は排他的ではない、など)。次に、因果性に関する批判が述べられる。パットナムはテレビや戦争など、外生的な要因の変化に注目して、ソーシャルキャピタルの衰退を主張しているが、信頼などは社会関係から発展して生じる内生的なものであることを踏まえると、集団に所属することが個人の行動にどのような影響を与えるかという点についての検討が必要だが、パットナムはこうした社会心理学的な知見に触れていないとする。次に、分析結果に関して、二次分析とパットナム自身による一次的な分析、そしてその両方にまたがる批判が紹介されている。最後に、パットナムが終章で扱ったソーシャルキャピタルの暗黒面、及び政策提言に関して、パットナムの象徴に懐疑的な意見が示されている。

Stolle, D., and T. R. Rochon. 1998a. “Are All Associations Alike?: Member Diversity, Associational Type, and the Creation of Social Capital.” American Behavioral Scientist 42(1):47–65.


 この論文では、自発的結社(アソシエーション)に加入することが、集団内の信頼を高めるという研究結果をもとに、こうした団体への参加が一般的な信頼などのソーシャルキャピタルを醸成するかを、団体の多様性に注目して考察している。例えば、市民団体と労働組合に入るのとでは、一般的信頼の形成にどのような違いが見られるか、などが考察の対象となっている。データは、アメリカ、ドイツ、そしてスウェーデンの団体のメンバーと非メンバーを対象に12のソーシャルキャピタルの指標について分析する形で行われた。分析の結果、団体のメンバーになることは非メンバーよりも多くのソーシャルキャピタルを醸成することが分かった。また、団体間によっても、ばらつきが大きいことが分かった。さらに、団体の性格の違いも一般的な信頼や政治的な信頼などで異なる分布を見せた。特に、文化系の団体への参加は多くのソーシャルキャピタルの醸成と関係していることが分かった。さらに、団体内の多様性も考慮され、均質的な団体は多様な団体に比べ、一般的信頼やメンバー間の互酬性などが高くならない傾向が見られた。

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