September 4, 2013

今日読んだ論文

3本

太郎丸博,2002,「社会階層論とミクロ・マクロリンク―Jhon H. Goldthorpe の社会移動論と合理的選択理論―」,『社会学評論』52(4), 504-521.https://www.jstage.jst.go.jp/article/jsr1950/52/4/52_4_504/_article/-char/ja/

Jæger, M. M. 2009. “Sibship size and educational attainment. A joint test of the Confluence Model and the Resource Dilution Hypothesis.” Research in Social Stratification and Mobility 27(1):1–12.

Steelman, L. C., B. Powell, R. Werum, and S. Carter. 2002. “Reconsidering the effects of sibling configuration: Recent Advances and Challenges.” Annual Review of Sociology 28(1):243–69.



太郎丸 2002
ゴールドソープの研究業績から社会階層論のトレンドを振り返るという論文で,別に新しい知見が出ているということはない.ただ,マルクス主義と産業化論という二つの「大きな物語」が一つには時代的な趨勢から,もう一つはゴールドソープ自身の経験的研究から,階層研究の理論として魅力的なものではなくなったこと,さらに基本的にマクロな動態だけを説明していればよかったゴールドソープが,仮想敵とする二つの物語がなくなってしまったことで,合理的選択理論というミクロなプロセスを援用した理論を構築しているというまとめは面白い.なぜかというと,この太郎丸自身の議論自体が物語臭く感じられるからだ.そもそもゴールドソープを通じて社会階層論の趨勢を語るという構成が社会学評論に載るなんて。。。 この論文を読んで,ゴールドソープの哲学的な立場と方法論を知るためにOn Sociologyを読みたくなった.個人的には、わざわざ合理的選択理論を持ち出して社会階層論に理論を持ち出すことにはあまり興味がない.ただ,理論から乖離したデータの記述程つまらないという太郎丸の主張には賛同するので,以下の二つの選択肢を示しておく.基本的には,階層研究の知見を土台に他の分野との接合を測ると作戦.一つには,盛山のように「何を是正すべき不平等とするべきか」という公共哲学的な問いに答えるための理論を考えること.(ゴールドソープの弟子だったアダム・スウィフトはClass analysis from normative perspectiveという論文も書いているが,盛山のいうような公共社会学的なものとは関係するのだろうか.)次は,例えば階層研究の知見を家族,教育といった関連する分野の理論を発展させるために使う.例えば,家族社会学で議論されてきた家族規範の問題は,階層化社会という現実レベルでどれくらい妥当なのか,など.


Jæger 2009 
 Jæger (2009)は合流モデル(CM)と資源希釈仮説(RDH)の理論的背景の違いについて考察しており,両者の議論の前提を比較するのに役立つ.両者の理論的背景の違いは大きく分けて二つある.一つはきょうだい数が子どもの認識能力cognitive abilityと教育達成に与える影響についてであり,もう一つは両者が着目するきょうだい構成の要素についてである.まず,第一の点だが,これはCMの方がRDHよりも狭い定義をしていると考えると分かりやすい.CMの考えでは,きょうだい数の増加は家族全体の知的環境に負の影響を与える.この結果,子どもの認識能力も悪影響を受け,これが子どもの教育達成を左右するとする.つまり,きょうだい数の増加は子どもの認識能力に対する影響のみを媒介にして,子どもの教育達成に影響する.親のもつ様々な資源の希釈が子どもの教育達成に影響すると考えるRDHもこの点に関しては認めている.しかし,RDHは家族の知的環境が希釈されることを通じた子どもの認識能力以外の,より広範な資源(大学進学のための資金など)の希釈が子どもの教育達成に直接影響すると考えている.教育達成を説明する要因から両者の違いを確認すると,きょうだい数が子どもの認識能力を通じて間接的に教育達成に影響すると考える点では,CMRDHは共通だが,それ以外の資源の希釈が教育達成に直接の形で影響を与えると考えるのはRDHの特徴である.
 次に,CMRDHはきょうだい構成の要素に求める理論的役割という面でも異なる.きょうだい数はCMRDH両方が重視する要素であるが,出生間隔と出生順位はCMのみが着目する.出生間隔について,CMは間隔のあいた出生がきょうだいごとに異なる影響を与えると考える.出生間隔の離れたきょうだいの場合,年上のきょうだいは家族の知的環境を向上させると考えられるので,年下の子どもにとって年上のきょうだいの存在は彼/彼女の認識能力にプラスに働く.その一方で,年上のきょうだいにとっては,年下のきょうだいの存在は相対的に見て家族の知的環境を低下させる働きを持つ.RDHでも近い出生間隔が教育達成に不利に働くと考える見方もあるが,きょうだいの出生間隔が短ければ,経済的・物質的ではない資源(注意や気配りなど)は共有できると考えられる.そのため,RDHは出生間隔が教育達成にもたらす影響について一貫した仮説を提示できない.さらに,出生順位に関しても,先述のようにCMはきょうだいのいる長子はかれらに教授teachingすることができるため,有利である一方,末子はそのような利点を得ていないため,不利になる.Jæger (2009)によれば,RDHが出生順位に着目するのは経験的な結果から出生順位間に違いが確認された時のみであり,それは理論的背景に関連するものではないという.


Steelman et al. 2002
 質の高いレビュー論文.はじめに,Steelman et al.はきょうだい数が教育達成に与える影響についての一連の研究は,「規模」という社会構造的な側面がいかなる意味を持つかを探求する試みであり,社会学における小集団研究に連ねることが可能と論じる.これは,きょうだいもその一部となって構成される家族も職業集団のような個人同士からなる関係も,同じ小集団という枠からアプローチできることを意味する.両者の違いを親密性とそこから発生するつながりの有無とすれば,これらの存在が規模のような社会構造にどのような影響を与えることができるかを考えることが可能だ.
 この後,Steelmanたちはきょうだい数が教育達成の文脈で重要視されてきたことを多くの文献を引用することで明らかにする.その一方で,出生順位に関してはその影響を過大に見積もっているかどうかの決着がついていないとしている.出生順位が教育達成に影響を与えないとする研究結果が出ても,「出生順位の罠」,すなわち誰もがなんらかの出生順位を持っており話題に上がりやすかったことを指摘する.このような一致した結論が出ていない点は出生間隔でも同じだとする.きょうだい間の出生間隔が離れていることは,特にRDHを支持する見方からすれば,親の資源が回復する時間を確保することで,教育達成にはプラスの影響がもたらされると考えられている.しかし,出生間隔が近いことも,資源を共有したり親が子育てする時間を節約したりすることが可能だという見方から,こちらも教育達成に有利だされることもある.ただ,大勢は前者のみを支持するようだ.さらに,これら三つに比べてこれまで軽視されてきた性別という別のきょうだい構成の要素に関しても,女性だと有利なのか男性だと有利なのかについては決着がついていないようだ.これに関しては,Steelmanたちは従属変数や検証方法がそれぞれの研究でばらばらだったことを指摘している.x

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