October 17, 2019

本当に新しい研究

忙しいような忙しくないような日々である。コースワークは二つしかないし、文献をスキムすればそこまで大変ではないのだが、環境に慣れたとは言ってもまだ知らなくてはいけないことに日々直面するし、なによりこっちにきてから「知らなくてはいけないこと」がどんどん増えていて、正直限られた時間でコースワークと研究の合間でフォローできるものではない。

この大学は図書館やその他研究支援のサービスはすごく充実していて何も不満はなく(私みたいな人間が不満を抱かないのは本当に珍しい…)、その辺りの時間のロスは全くと言っていいほどないのだが、毎日どこかで何かしらのセミナーが開かれていて、外部からスピーカーを読んで報告してもらう形から、院生がコースワークの一環として発表したり、とにかく毎日誰かが発表している(ちなみに、昼時のセミナーにランチがつかないことはない)。どういうセミナーに出席しているかは以下の記事

報告は基本的にどれも面白い。院生の報告はややばらつきがあり、準備段階のものや、手堅い研究にはそこまで大きく感動することはないが、たまに外部のスピーカーの報告よりも先を行っている研究報告を聞くこともある。例えば、先日の人口学研究所のセミナーはうちの5年生のトークで機械学習のメソッドを取り入れて、社会学の因果推論の研究を2ステップくらい飛び越えてた。まだ論文にもなっていない研究によって従来の知見がアップデートされる瞬間に立ち会うのは、感動さえする。周りの「こいつはヤバいこと言ってるんだ」という空気が伝わってくる感じ。

自分の研究関心(日本の家族人口学)に当てはまる研究報告は皆無に等しいが、できるだけ自分の関心から遠いセミナーでも出るようにしている。社会学は色々なサブトピックがあるので、そもそも知っておかないといけない研究の幅が広い気がする。また、そういうセミナーから自分の研究に活かせるポイントが見つかることも少なくない。

とはいえである。報告を聞いた後にわからなかったことやチェックしておきたい文献があれば確認するようにしているが、掘れば掘るほど先行研究があることに驚く。当たり前に聞こえるかもしれないが、各報告者の研究は基本的にどれもその分野のフロンティアなので、彼らのlit reviewは一朝一夕では済まないものだ。文献をまじまじ読むことはないが「今こういう分野ではこういう研究が読まれているのか」と覚えておいて機会があるときに掘ってみるようにするだけでも、結構な時間になる。転学して、本当に最先端のことをやってる人に会い始めて、勉強しなきゃいけないことがどんどん増えてるのが現実だ。翻って私の関心のような(重要だとは思うが)「新しくはない」研究をしている一人としてこうした研究をどのように消化して自分の研究に反映させていくかについては、常日頃から考えている。

知的にはエキサイティングだが、同時に精神的に疲弊するのは、先ほどの人口学研究所のセミナーのように、本当に新しい研究結果が報告され、我々の持っている知識がアップデートされる瞬間に出くわす時である。あたらしい知識が生まれてまもない現場に立ち会っていると考えれば、それは刺激に満ちたものだが、また新しい知識が出てきて自分の過去の情報を更新しなくてはいけないと考えると、それはストレスにもなる。このバランス感覚を取るのは、意外と難しい。

話はややそれるが、こうした「本当に新しい研究」はもはや伝統的なディシプリンに収まっているものではない。例えば社会学で言えばCSS、ゲノム、因果推論、社会移動の研究は他の分野の研究者とのコラボから新しい知見が生まれている。経済学者のトップ研究者のチェティが社会学部にも所属する時代だから、上位の研究大学では分野の垣根はなくなりつつあるのかもしれない。

重要なのはこうした「本当に新しい研究」が伝統的な社会学部では必ずしも評価されない傾向にある点だ。ゲノムが最たる例だろう。遺伝情報を用いた社会学的な分析には、まだ毛嫌いする人が少なくないのも事実である(実際に文献を読んでみると、彼らの懸念はとっくの昔に終わっているのだが)。就職戦略としてこう言った新しい分野を選択することは非常に「リスキー」になる。というのも、ティーチング中心の非研究大学ではこうした分野の研究者を(教える需要がないので)雇うメリットがないからだ。

これに対して、研究大学、特にトップ校になると、こうした「本当に新しい研究」が評価される傾向にある。これらの大学で教員を雇うのは教育よりも研究業績がメインであり、今後成長が見込まれる新しい分野の研究者を雇用するメリットが大きい。したがって、ゲノムのような「新しい研究」がリスキーなのは、その分野で一流と認められれば研究大学に就職できる可能性が高まるが、そうでない場合には就職市場で不利な立場に陥るためである。

こうして分野間の垣根が消失しながら共同研究が行われる中で、近年の社会学のトップ研究者はAJSやASRといった社会学のトップジャーナルを飛び越えてScience, Nature, PNASなどの雑誌に投稿、掲載するようになっている。こう言ったジャーナルの引用数は社会学のそれに比べると桁違いだ(本当に桁が違う)。私が予想しているアメリカの社会学アカデミアの将来像の一つは、こうした傾向が続いた結果として、エリート校と非エリート校の研究者間でcitationの格差が広がってくるのではないか、というものだ。先ほどの就職事情と同じ理屈で、非社会学系のトップジャーナルに雑誌が載っても、トップ校でしか評価されない。そのため、非研究型の伝統的な社会学部にいる研究者は引用数が少なくても、社会学部で「社会学」と認められている雑誌に出さないとテニュアを取りにくくなってしまう。そもそも、そうした「新しい研究」をしている人は、地方の非研究大学などではそもそも雇用されにくい。結果として、非社会学系のトップジャーナルに論文を投稿する研究者がトップ校の社会学部に在籍する一方、社会学系の引用数の少ないジャーナルに論文を投稿する研究者が非研究大学の社会学部に所属するようになると、上に述べたような格差がますます広がっていくのかもしれないと考えることがある(非常に単純な図式なので、実際にそんなことは起こらないと思いますが、一つの可能性として)。

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