October 13, 2019

プリンストン第二回高山ゼミ

今日はほとんど研究しなかった。午前中は疲れて寝てて、お昼から高山先生とランチ。IASの食堂でご馳走になった。くるたびに思うけど、ここは本当に静か。

先生の自宅(?)で、暖炉を囲みつつ、いつの間にか第2回プリンストン高山ゼミになる。気づいたら5時だった。贅沢な時間。

毎日狭いテーマで研究しているので、高山先生、そしてゼミの先輩の山田さんとの三人で話す時は、大局的な視点で物事を考えることの大切さを感じている。高山先生は西洋中世史、山田さんは中東研究で、それぞれの分野における各国の大学の位置付けや出版事情などを知ることも、とても勉強になる。今日は先生が今度プリンストンのワークショップで講師をするというので、その延長でセミナーのトークでは何が求められているのか、という話になり、日本では実際の論文も含めて「ファクト」が大切にされる一方で、英語圏の研究ではどういう事実がわかったかよりも、どのような視点でそれがわかったのか、という物の見方の切れ味の方が評価の軸になるのではないか、という話になった。

この点はわりと首肯するところがある。日本の学会報告では理論的な貢献よりも「何がわかったか」が重視されてきた印象を受けるが、こっちの報告を聞いていると「わかるためのツールは何の意義があるのか」ともいうべき点が強調されている。ともすると、その結果からその主張を導くのは無理があるんじゃないかと思うこともあるが、視点が面白い研究ほど(ある程度経験的に確かめられていることを条件とした上で)評価されている気がする。これは共著論文を書いていることでも感じることがあり、指導教員は視点の鋭さや、結果からサジェストされる知見の深さを重視するのだが、たまに論文を書いていて「その結果からその主張はサジェストされないんじゃ」と思うこともある。もちろん、何も支持されない結果を提示することはできないのだが、分析の精緻さだけを気にしていたら論文を出せなくなってしまうので、どの塩梅で「サジェスト」されるのかは、結構判断の分け目が難しい時がある。どちらかというと、分析を精緻にしすぎるよりも、アイデアを提示することの方が大切で、そのアイデアが間違っている可能性も限界で書きつつ、批判可能性にオープンでいることが大切なのかなと思った。

そうしたことを思った1日だった。

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