下記と関連するが、こだわりの強い論文というのは本当に些細なところまで気にしてしまって、それが全体のバランスを崩すことがあるのかもしれない。諦める勇気が大切。アドバイザーのフィードバックを踏まえて改稿すると結果が以前とは異なってしまって、そうするとこの部分の議論が怪しくなって、でもそもそもそのフィードバックが妥当な批判なのかがわからなくなり、既に書いた論文の結論から逸れる結果を見るジレンマも重なり、ストレスは多い。
実験研究だと研究デザインは一度登録したら変えられないのだが、社会学ではアドバイスに従ってサンプルの定義を変えたり変数の分類を変えたりすることが多々ある(それは、いわゆる理論的な整合性をより高めるという大義名分のもとで行われるのであり、p-hackingではない、しかしpはスクリーンの目の前に存在している、それは事実としてある)。これらによって、研究デザインが変わることがある。生みの苦しみが大きいほど意義のある論文が出るのだろうか、まだ不透明である。
その後、夜の東アジアセミナーまで時間があったので、その前に走ろうかと思っていたその時、4ヶ月ほど前に投稿した論文の査読が返ってきた。ずっとsubmission in progressだったので、デスクかデスクかと怖がっていたのだが、実は査読に回っていたらしく、しかもR&Rのおまけ付きだった。しかし、3ヶ月で書いたスピンオフの論文が某フィールドトップの雑誌でR&Rになる一方、自分のメインの研究関心の論文は2年近くかかってもまだ投稿できていないというのは皮肉である。ただ悪いニュースではなかったので気持ちは少し浮ついた。いつものランニングコースの坂も、少し軽く感じた。
夜9時から、東アジアセミナーの人口と不平等に関する学生・ポスドクセミナーのキックオフ。英語でセミナーのリードをするのは初めてだったので、始まる前にはとても緊張して、1時間ほどかけて、何回も冒頭の挨拶を練習したり、進行を確認していた。頭で考えていると思いつかなかったことが、何度も話しながら練習しているうちに、こう言った方がより伝わりやすくなるかな、この順番で言った方がいいな、とアイデアが出てくる。数ヶ月にわたるロックダウン生活で自分から声を発する機会を著しく失っていたため、少し不思議な瞬間だった。論文を書いているとおろそかになりがちだが、発話というのは人間の創造性を形作る上で非常に大切な要素なのかもしれない。
セミナーには15人が参加してくれ、無事終了、これから隔週で報告していくことに合意した。zoomで話をリードしたことがある人はわかると思うが、話し手としてはリアクションがないのが一番怖い。in-personだと、うなづきやその場の空気感でこれは話が伝わっているのかなと踏めるのだが、オンラインではそれができないので、自分の話を聞いている人が本当にわかっているのか、いつも以上にわからない。
そうした不安も手伝って淀んだ箇所もあったのだが、1時間できっちり終わり、司会としては最低限の仕事は果たせた(と思う)。日本にいた時は、こういう研究会のオーガナイズの場数はかなり踏んでいた方だと思うが、繰り返すように英語では初めてだったので、改善点もたくさんあったはずだ。それでも、終わった後に良かったよ、楽しかったよ、と言ってくれる人がいたのは本当にありがたかった。
今まで、どうしても留学生という地位に、甘えるではないけど、前に出ていくことができない場面があったのだが、9月から(「2回目の」1年生を経て)3年生になるし、徐々に所属するコミュニティをリードしていくことが期待されるようになると思うので、恥ずかしがらずに自分からspeak upする機会を切り開いていくことが大切だと思った。齢29歳にしてこんなもんかと思われるかもしれませんが、私は小心者です。
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