January 26, 2015

1月26日(月)Writing for Social Scientists

H.S. ベッカーの上記タイトルの本の一部の要約。

Ch. 2 Persona and Authority

第二章で、ベッカーは指導学生の論文に手を入れてその学生に返したというエピソードから始める。ベッカーは論文を簡潔かつ明確にするよう手を施したのだが、学生曰くそこに法則性があるのかがわからないという。これについては、ベッカーも同様の意見を持ち、学生と議論をした所、彼女は自分の文章の書き方の方はClassierだと述べた。後に、彼女がベッカーに送った手紙の中に、以下のような事が書いてあった。彼女は、カレッジにいた時に、哲学の先生を非常に利発だと感じていたのだが、その理由は先生が「むつかしい言葉」を使っていたからだという。彼女にとって先生が利口そうに見えたのは、彼女が彼の言っていることを理解できなかったからなのだ。

ここからベッカーは自分の議論を始める。教育機関という組織の中では、教授は学生よりも知識があり、彼等を指導する立場にあると考えられる。したがって、学生たちは先生の言っていることを真似ようとする(社会化)。教授達のこむつかしい文章は彼等を集団から境界づけるエリート主義に思われることもあるが、将来自らも研究者になろうとする学生にとっては、模倣の対象となってしまう。知識人として生きようとすることは、人に自分をスマートに見せようとさせてしまう。

学術に携わるもの以外にも、このようにある特定の文章表現をすることを通じて、自分たちがどのグループに属しているかを示す仮面(ペルソナ)をかぶり、時に権威を発現する。ある分野に詳しい者は、さも物知り顔でしゃべることで、その領域に対する優位さを他の人に確認させているのだ。ベッカーが述べているのは、私達が文章でとるスタイルは、読者を意識したものであり、言い換えればどう読み手に見られたいかという期待を反映したものであるということである。また、ベッカーは最後に、時として研究者の文章は権威を示そうとするだけではなく、自分がどの学派に所属しているかをシグナルとして送ることも述べている。

Ch. 9 Terrorizd by the Literature


第9章はタイトル通り文献(先行研究)とどのように取り組むのかについて書かれている。ベッカーははじめに、ゴフマンが授業である文献について触れた時に、シカゴの大物だったワースが「それはどの版のだい?」と尋ねたエピソードを紹介し、先行研究に触れる際には注意深くなければならないとする一方で、自身の研究のオリジナリティを示すときには、社会学の伝統に自らの考えを脈絡づけ、その伝統の中で問題が検討されていないことを示す方法を勧める。ベッカーは、Stinchcombeという人物による、6種類の先行研究の用い方を紹介するが、これらはどれもどのようにしてリサーチトピックに関連する文献を「使うか」については答えていないとする。

ここからがベッカーの主張だが、まず始めに彼は、学術研究とはたった一人の研究によって革新が起こるわけではなく、それまでにはいくつも研究の蓄積が必要だとする。これは先行研究の蓄積を用いる必要性についての部分だが、肝心のうまい使い方には以下のように述べる。まず、論文で新たな主張をしたい場合には、新しければ新しいほど人びとの興味は失われしまう。人びとはこれまで議論されてきた問題に関心があるからだ。その上で、彼は木工を例にしながら、先行研究の用い方について述べる。ある木工物を作りたい時に、いちから作るのでは時間がかかるし、そもそも全てのものを自分で作る必要はない。なぜなら、部品の一部はすでに誰かによって作られているからだ。

彼曰く、論文である主張をしたい場合にもこれは通じる。もともと議論され、構成された概念や理論はパッチワーク的に自分の論文に使っていけば良いとする。このように、既存の文献を用いる利点は、新しく仰々しい専門用語を作らなくて良いことにあるというベッカーは、次に文献の悪い面について述べる。それは、余りに過去の研究を真剣に考慮しすぎてしまうと、自分の主張を曲げてしまうという本末転倒な事態を招くかもしれないからだ。ベッカーは、文献を用いつつ、あくまで自らの主張を内的に一貫させる必要性を説く。

及び、先行研究は往々にして論文を書く人よりもイデオロギー的なヘゲモニーを持っている。すなわち、先行研究で用いられているようなアプローチのほうがリーズナブルだと考えられるのだ。そのため、先行研究の概念を、異なるアプローチで応用する場合には、何故先行研究に純粋に従わないかをきちんと述べる必要があるとする。

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