January 22, 2015

1月22日(木)その2

珍しく本日二つ目。

今日の授業はアジア学生調査のワークショップのプレゼン練習で、英語での議論だった。

ひとまず内容は省略するとして、毎回この手のディスカッション主体の授業になると、自分の議論のスタイルについて、終わった後に反省してしまう。

自分の議論の良い点は、アグレッシブさだと思う。ひとまず、思いついたらすぐ発言する。頭の回転は遅くはないから、何かありますか?と言われた瞬間に、いつも手を上げていることが多い。この習性は、駒場の時の高山ゼミで、すごい緊張感の中、全く発言できなかった時の辛さや、その中でも勇気を持って論理的に喋ろうとした経験をすると、緊張感が無い場ではすぐ発言できるようになってしまったことが原因である。

議論に積極的に関わろうとする姿勢は,個人的には肯定的に見ている。なぜならば、議論の口火を切ることができる人は、なかなかおらず、自分にはそういう役割もあると思っている。また、自分自身が話しながら考える性格のため、発言しないことにはうまく前に進めない。ただ、最初に思ったことが間違っていた時に、なかなか修正しようとしない癖がある。

その癖の原因は、私は他の人に比べて、質疑応答の時間を異なる意見を持った人が互いの意見をぶつける場だと思っている節があるからかもしれない。もちろん、相互に交流のない議論は意味がないと思っているから,自分なりに建設的な意見を述べようとしている。しかし、どうしても相手の発表の良い点をただ誉めるよりも,批判的に議論できる点に注目がいってしまうし、先のように,自分のなかなか主張を曲げない性格である。

しかし、相手の言うことに素直に納得して、ああそうですねといってしまうと、会話がそこで終わってしまう。特に英語になると、時に攻撃的になってしまうのは、議論のリードを渡してしまうと,他のネイティブの人が参加して,後手に回ってしまうからだ。他の質問者の意見を聞くことも必要だが、それでも、ややもするとがめつい感情が無ければ、多くの参加者が発言しまくる欧米っぽいスタイルの議論には対応できないと思っている。なので、自分で言いすぎだなと思いつつ、意識としては隙があればすぐ発言をする意識を常に持っていなくてはいけないと考えている。


議論がうまくかみ合えば、相手もそこまで不満には思わないが、問題は議論が噛み合なくなった時に、それを調停してくれるような第三者がいないと、議論が平行線を辿ってしまうことが多いからである。自分自身も、どこかでブレーキをかけなくてはと、反省している。

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