April 8, 2015

4月8日

一限に10分ほど遅刻して(雨で電車が遅れたのが5分くらいの遅れを説明している)、質的調査法の授業。インタビューの作法、心の習慣、現代日本人の生のゆくえ報告書といくようだ。継いで方法基礎。感じたことは後述のとおり。昼休みは研究室で弁当を軽く済ませ、三限は社会調査法。一から小規模データを構築し、クロス表レベルで分析するまでのプロセスということで、応用的な志向を持つ人には向いていないとのこと。私としては、Stata要員としてでもいいので、受けようか考えている。

授業終了後、社研にSageの緑本を借りにいき、学部生室で少し談笑したあとコピー、その後三友館で論文を読み、20分昼寝をして、再び論文を読む。6時半に休憩に入り、スキャンをした後にコンビニで甘いものを買って、院生室で食べながら作業。帰宅後、ぐだぐだする。GREなどをやる時間にしなくてはいけない、、。


私は日々慎ましく社会学で用いられる計量分析の手法を学びながら、自分の専門に関連する文献や因果関係について考えており、やはり周りに優れた友人たちが多いのに救われていて、幸せだなと思う。私の肌感覚だと、やはり計量や統計に明るい人は周りに多く、手続き的にしっかりした、ある種綺麗な論文を書ける人はうちの研究室に限らず、比教社や、東北の行動科学、教育、大阪の人間科学などに結構おり、もちろん法政研や経済、公衆衛生にもいる。それは嬉しい反面、少し困る訳でもある。

方法の普遍性は広いと思っていて、それが統計をやっていることの強みの一つだと考えている。分野が違っても、分析手法が共通でそれを知っていれば、一応どういう作業をやっているか、分かるからだ。困るのは、彼等と比べて、我々には何があるんだろうと、方法だけで競ってどうなるんだろうと。答えらしい答えもないし、別に領域に限定する必要はなく、できる人は飛び抜けてできるのだから気にする必要もないかなと思うが、最近、近接分野の人と話してて考えるのは、社会学、とりわけ我々の研究室の人は、理論的な問題にも関心があるのかなということ。

今日の方法基礎で先生が話されたように、我々の研究室には、よいか悪いか別として、完成された小さな論文よりは、未完成なままの大きな論文を評価する寛大さがあることも事実のようである。昨今の業績主義の流れに抗えないとすれば、短いサイクルで手堅い論文を書く必要が出てくると思うが、その一方で、我々は小さな論文や修論をやりくりしつつ、その人にしかできないようなオリジナルで大きな問いを立てることも、社会学という学問を一度俯瞰してみると、必要なのではないかと考えている。

もちろん(これも先生が仰ってましたが)書ける論文と書きたい論文は別なのだが、だからといって二兎を追うのを諦める由はない。我々は生きてくために書ける論文を書きながら、いつか書けるだろうと思って諦められないようなテーマで論文を書くことを忘れてはならないなと思った。そういう意味で、大きな問いを立てている人には、この研究室は向いているかもしれないが、手堅い事実の積み重ねという(これはこれで科学者的な態度だと思うけれど)そういう考えを選ぶ人には、他の研究室が「隣の青い芝」に見えるかもしれない。というのも、この研究室が、そうした人を養成する機関という性格を、余り持っていないからです。

業績主義的なサイクルに乗る研究室では、修士のうちからパブリッシュを強く推すだろう。東北や大阪の院生が業績だらけに見えるのは、研究室・講座のそういう性格もあるかもしれない。一方で、我々の研究室では、先生の方から、修士から論文を書いたり発表をしろとはあまり言わない。本人達も、放牧ぎみなのを前提に勉強していたりする。そういう業績主義に抗ってきたかわりに、学生の自主性や、大きな問いを自ら立てることに、この研究室は寛容すぎるほどに寛容なのだと最近思うに至った。私個人としては、そちらの方が大学としての理念にも適っているような気もするが、時代が時代なので、業績主義を批判的に見ながらも、それに適応して、うまくやっていく(具体的には博士を5年でとったり)必要がある。

ということを方法基礎や論文読んだりして思いました。淡々とした一日。


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