April 6, 2015

4月6日(Sweeney論文に対するやや辛口なメモ)

4月6日

バイト終了後、ボスと一緒に夕ご飯。ルミネにある、つばめグリルにて、ハンブルクハンバーグ。


卒論の延長も含めて、いくつかネタを考えている。世代間同類婚テーブルは固く、もう一つ、動学的なモデル、要するにイベントヒストリーを使った分析として、一つは結婚満足度の時系列的変化、ないし結婚/離婚の離散時間ロジットなど。修論は、学歴同類婚が世帯間の経済格差に与える影響、だが、理論と応用が利く範囲で、いくつか考えている。欲を言えば、EASSも分析しなおしたい。あと、分析社会学の潮流を何らかの形で紹介し、議論を求めたい。

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今日のSweeneyは、女性の労働市場が未婚化を促進したのか、それとも男性の経済的地位の悪化がこれを促したのかという、半ば古典的なベッカー・オッペンハイマー論争の検討論文。分析に入るまでの部分を掘り下げたい。

Sweeney, M. M. (2002). Two decades of family change: The shifting economic foundations of marriage. American Sociological Review, 132-147.

この論文では、世紀末の二十年のアメリカで生じた、女性における結婚と労働参加の変化について扱っている。1965-1993年の間で、女性の結婚年齢は4歳、労働参加率は30%からほぼ倍の58%になっている。結婚年齢の遅れは、男性に比べた時の女性の平均収入の上昇と軌を一にしているように見受けられる。こうした状況を説明する理論を初めに提示したのが、経済学者のベッカーである。女性の自立仮説を唱えたベッカーによれば、経済的見込みの高い女性はそうでない女性に比べて結婚のメリットがなく、婚期が遅れる傾向にある。この仮説が前提とするのが、家庭内部における分業モデルである。交渉モデルから出発したこのモデルでは、夫婦が互いに優位なスキルを用いて分業することで結婚の利益が最大化されるということになる。ベッカーは女性に家事スキルを割り当てており、この仮説に従うと、労働市場における有利な地位は、男性においては結婚の可能性を高め、女性においては低める効果があると考えられる。これをもってベッカーは女性の労働市場と未婚化・晩婚化の関係に対して独立仮説を唱えた。

しかし、ベッカーの理論は性別分業が規範的であった時代に提出されたものであり、近年の動向を踏まえ、対案が提出されている。その代表的な論者がオッペンハイマーである。彼女によれば、まず結婚の前に、生活の程度やスタイルに対する価値観が形成されるとする。これに基づくと、女性の労働市場が進む中で、次第に女性の経済的地位が男性と似通ったものになっていくと、配偶者として重要視される特徴も対称的になると考える(恐らく男女両方にとって?この点は議論になるかもしれない)。したがって、この仮説に従うと、経済的地位の高い女性は結婚の可能性が高まることになる。さらに、女性本人が家計に対してより多くの貢献ができると期待するようになると、かならずしも男性の経済力の高さは重要ではなくなるかも知れない、つまり要求する条件が緩和される可能性がある。

戦後、収入の上昇は男性よりも女性に対して生じた他(男性はといえば労働供給の減少を受けるまでになる)、性別分業への意識のリベラル化、生活水準の変化などのトレンドを踏まえた後、Sweeneyは間違いなく女性の労働市場の地位が結婚に及ぼす影響は決定的になりつつあるとするが、反対に男性のそれについては曖昧になっていると指摘する。恐らく、相対的に見れば男性の労働市場における地位は、結婚にとって重要ではなくなってきているかも知れない。

こうした歴史があるにもかかわらず(?)、実証研究の方は、男性の経済的な地位は結婚にポジティブな影響があるとするが、女性のそれは研究によって回答が異なるという。パネルデータを使った分析は、女性の経済的な見込みと結婚について、関連性がないとする。筆者は、このような状況を踏まえて、女性の労働市場における位置づけと結婚の関係について、パネルデータを用いて、ベビーブーム前後の世代を分けて検討する。


よく分からないのが、結婚の社会経済的な文脈が歴史的に変化してきたということから、「女性の労働市場の地位が結婚に及ぼす影響は決定的になりつつあるとするが、反対に男性のそれについては曖昧になっている」と指摘しながら、経験的な研究では男性の経済的地位が明らかで、女性のそれが曖昧というのは、どういうズレなのだろうか。分析結果は、女性の経済的地位の重要性が増している一方で、男性のそれが重要でなくなってきているとはいえず、その意味で、ますます女性は男性に似るようになってきているということらしい。男性は変わらず、女性は変わり、ということで、ますます対称的になっていくという。


なんというか、この議論には昔から、胡散臭さ(というと失礼だが)に似た感じを覚えている。外野から見ていると、社会学の研究者はベッカー理論を否定しようと(リベラル的な見地から)こうした研究をしているように見受けられる。これ自体は構わないが、彼等にとってのベッカー理論は即ち女性の独立仮説で、収入が高いといった特徴に示されるような、経済的地位の高い女性は結婚しないという風に言い換えている。確かに、ベッカーもこうした趣旨を言っているし、現に引用もされているが、ベッカーを否定しようとするあまり、なんだか気持の悪い想定をしているような気もする。

私は、つくづく「〜〜する程○○になる」構文の仮説に対する胡散臭さを感じている。社会学の人たちが想定するベッカー理論は「女性は収入が高いほど結婚しない」だが、これを否定するために彼等が示そうとしているのは「女性は(も)収入が高いほど結婚する」になっている。私には、ベッカー理論という論破する相手がいないと仮定するとき、女性は収入が高いほど結婚する」にそれほど感銘を受けない。この手の「すればするほど」構文には、否定するべき相手がいる際は、それとなく理論に見えるが、そうした相手がいない時は、あまりに一般的すぎて、批判しようもない。

仮に理論に足るべき理論を、こうした分析から探したければ、まずは線形的な発想から抜け出ることも必要だろう。例えば、男性でも「すればするほど」構文が成り立つのだが、果たして収入の低い男性と平均並みの男性、収入の高い男性を一次元的に語ってよいのだろうか。どこかでthreshholdがあるとは考えられないだろうか(今回の分析では、コーホートのthreshholdが女性のみにあるというのが一つのポイントであった)。そうした主張には、先行研究がないという批判があり得るが、現に論文の筆者が相対的に見れば男性の労働市場における地位は、結婚にとって重要ではなくなってきているかもしれないと言っているのである。なぜこの点がモデルから見られないかを、より複雑な形で表現することはできないだろうか。筆者は結論部で、交互作用を検討していないことを限界として述べている。この論文は、今までのベッカー・オッペンハイマー論争に一定の回答を示したという点では評価出来るかも知れないが、メカニズム的な説明は特になく、理論的な示唆に富むとは言いがたい。その意味でとても記述的な問いに答えている。より説明的な問いを志向するとしても、計量分析では交互作用の検討程度になってしまうのかも知れず、HedstromやSorensenのが表現していたストレスも分かるには分かる、と顧みてしまう論文であった。


最後に、下線部の部分は、この論文では男女が自分の社会経済的資源の多寡によって結婚する可能性が変わるという前提を強くおいているように見える。したがって、相手がどのような状況であろうと、経済的に豊かな人は結婚しやすいし、そうでない人は結婚出来ないということになる。

しかし、未婚化や晩婚化に、配偶者選択におけるミスマッチという視点を入れることは、不可能ではない、むしろこちらの方がリーズナブルではないだろうか。収入に限らず、女性の方はますます男性と同じような条件で働き、それにしたがって平等的な配偶者選択を好むものも出てくる一方で、男性の方は意識が実態に追いついていない、としたらどうだろう。これもあり得る話である。つまり、何も結婚相手の選択を議論する際に、結婚相手の情報を抜きに議論をする意味は、どれほどあるのだろうかという点である。恐らく、Raymo and Iwasawaあたりがこの辺りの議論をしているので、後で再検討するとして、ひとまず、この分析は配偶者の情報についてほとんど考慮していない個人主義的なモデルを採用しているのも気になった。

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例えばある演繹的な発想から「Aという時、結婚の利益は最大化する」という理論を考えたとして(これはこれでよい)、Aが成立する条件として、BとCがあり、そこからBであればあるほど、結婚しやすいという仮説を導きだしたとして、計量分析で検討するのは、この「あればあるほどXしやすい」部分。

この発想では、もう一つの条件であるCの部分が無視されてしまい、そもそもBによってCも代替可能といった可能性も排除されてしまう。例えば、収入があればあるほど結婚しやすいとして、だからベッカー理論が否定されると考えるのはおかしい。

例えば、夫婦双方が高収入(B)で、家事(C)をアウトソースしたとしても、家庭内部ではBとCが達成されている。だから、わざわざベッカー理論から独立仮説とかを言う必要もない。一見分業していないように見えても、外部化することで間接的に分業を成立させることは可能。

だから、収入が高いほど結婚しやすい学派が否定しているのは、独立仮説であって、ベッカー理論ではない。独立仮説を支持しないベッカー理論も可能な上、独立仮説もすればするほど構文なので、結局、いわゆるベッカー・オッペンハイマー論争は、DVに対するIVの矢印の向きで競っている。

私たちがどのレベルで勝負しているかというと、ベッカー理論の修正ではなく、現実に観察されるデータからどういう傾向が指摘出来るかというレベル。家事を外部化しているパワー・カップルは少数で、理論的には妥当でも、経験的には観察されない。すればするほど系の仮説では、少数事例が無視される。

仮に理論的なフィードバックを得たいのであれば、少数事例でも無視せず、その理論的な含意を考えるべき。すればするほど系の分析では排除されざるえないケースを拾うためには、まず検討する変数群をパターン化してみることなどが考えられる。


言い換えると、少数事例を誤差と捉えるか、分散(多様性)と捉えるかの違い。基本的に、すればするほど系の議論は因果推論と親和的で、少数事例は誤差と考える。変数群のパターン化を志向する記述的立場は分布の端を多様性と捉える。因果関係を特定化しつつ、説明できない事例の理論的含意を見逃さない。




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