March 10, 2020

疫学とコロナウィルスの話、そしてゲノムが少々

まさにbreakingといった感じで、今日の朝に学長名で大学からメールが届き、春休み明けから授業がオンラインに移行することになった。私を含め、NYでのコロナウィルスの広がり、あるいはコロンビアやNYUなどのアナウンスをみていて、遅かれ早かれ授業がオンラインになるのは予想していたが、決定は月曜の朝にスパッと入ってきた。4月5日まではオンラインで続け、その後状況を鑑みて再検討するらしいが、この勢いだと今学期はオンラインのままだろう。合わせて、大学において大規模な集まりが開催されることも禁止され、アナウンスから数時間後にはいくつものセミナーがキャンセルになったという連絡が矢継ぎ早に入った。流石にこのあたりの作業は手早い。

そのメールから2時間も経たないうちに、疫学の授業が始まった。今回は、イェール大学から公衆衛生における倫理問題を専門とする先生がゲストで来てくれた(春休み明けじゃなくてよかったねと笑っていた、本当である)。話は主に生命倫理(bioethics)と公衆衛生における社会的正義(social justice)が必ずしも一致しないことがあり、時として疫学者は二つの正義の間でコンフリクトに直面するという話だった。合わせて、彼の専門であるアメリカにおけるワクチン摂取の義務化に関する話が紹介された。驚いたのは、アメリカには「ワクチン摂取の義務化に反対する運動」があるということだった。運動に参加しているのは子どもの親で、その論理はワクチン摂取が自閉症を引き起こすという知見らしい(もしかしたら非常に小さなリスクがあるくらいらしいが)。公衆衛生の観点から、ワクチン接種が学校への入学に義務付けられている州もあり、この運動は強制的なワクチン接種に反対しているという。実にアメリカらしい。

授業が終わったあと、ワクチン接種に対して反対するというのは日本ではちょっと考えられないという感想を述べたのだが、今日のゲストを招いた授業担当の先生によれば、それは日本は政府に対する信頼があるんじゃない、とのこと。本当か、と一瞬思ったが、少なくとも医療に対しては日本人は日本の制度に高い信頼を置いているかもしれない。考えてみれば、この国には、国民保険制度が存在しないことを思い出した。そんな国で、コロナウィルスが広がっているのだ。ツイッターなどを見ていると、コロナウィルスの拡散を防ぐために、旅行を控えよう、自分が大丈夫でもvulnerableな人に伝染するリスクがある、といった発言をちらほら見かけるのだが、私から言わせるとvulnerableな人はコロナウィルス拡散以前からリスクにさらされているのだから、もっと根本的なところをいじった方がいいのではないかと思う。ただこれも、コストベネフィットの観点で公衆衛生の人が全員賛成するものでもないのかもしれない。

そのあと、ニュースを見ていると原油安と合わせてどうやら株価が大暴落したらしいことを知った。いよいよリーマンショックの再来が近いかもしれない。学校が閉鎖するとか、マスクが品切れになるとか、渡航が制限されるかというレベルではなく、今回のコロナウィルスの影響によって、冗談抜きにリーマンショック後のような状況になる気がしてきた。結果として、ジョブマは1-2年は冷え、ポスドクも減り、ポジション取れなかった人が翌年も残るとすると、余波は3年くらい続きそうだ。覚悟する必要がある。

そんなこんなで、数時間で見えてる世界がガラッと変わってしまった1日だった。見え方が変わるという話で言えば、今日の夜は2nd year paperになる予定の、ゲノムと学歴同類婚の論文を書いていた(正確には、lit reviewのための論文を読んでいた)。具体的には、先日のセミナーでなぜサンプルを男女に分けるのかという質問をされたので、そのrationaleを関連する文献から導き出そうとしていた。慣習的には、regression系で結婚の分析をするときには男女で分けるのが定石である。それは結婚市場やタイミング、相手の学歴の構成が異なるから、という業界的には当たり前の理由がいくつかあるのだが、Pam Herdさんの論文を読んでいて、ジェンダーをもっとcontextualize したら面白いのではないかとということに気づき、単に操作的に男女に分けるというだけではなく、新しいサブセクションを作ってジェンダーで結果を分ける理論的な妥当性について議論することにした。

社会学の論文を書いていると不思議に感じるのは、同じ分析結果でもフレーミングによって全然見え方が違ってくるところである。今回も男女別の結果自体は変わらないわけだが、係数の一つ一つの意味みたいなものが、フレーミングによって違って見えてくる、というかよりinsightfulなものとして「現れて」くる。これは、因果的に実在すると仮定したものを特定することにとらわれていると忘れがちになる点だ。行動遺伝学の人からすると、なぜそんなフレーミングをするのか?という質問が飛んできそうだが、おそらく、遺伝学の人は形質を規定する遺伝的な要因そのものを説明する、あるいは社会的(遺伝的)な要因を排して遺伝的(社会的)な要因を特定することに関心があるのかもしれない。一方で、社会学でゲノムを使う場合、どちらかというと力点は社会にあり、具体的には「いかに社会がゲノムを作るのか」ともいうべき論点で攻めているものが多い。もちろん、本当に社会が塩基配列を変えるわけはないのでこれは比喩なのだが、多少踏み込むとGxEの話で、どのような社会的なコンテクストにおいて遺伝が発現するのかしないのか、という点にこだわっている。Herdさんの論文は、我々が個人の持っている属性と考えがちなジェンダーをもっとstructrural/contexualなものとして捉えていて、フレーミングの技が光っている。ちなみに、日本の人からすると人種によって分析を分けることに抵抗がある人もいるかもしれないが、何も我々はレイシズムを助長しようとしているわけではなく(もちろん二次的に、論文がそういった文脈に回収されてしまうことはあるかもしれないが、それは読み手が社会学者がどのように人種を概念化しているのかについて掴み損ねているからではないかと考えている)、raceはgenderと同じようにstructrural/contexualなものを捉えて使っている人が、全員とは言わないまでも多数派だろう。

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