November 3, 2019

秋休みの旅行の記録

10月27日から11月1日までの6日間、秋休みを利用して旅行をしてきた。11月末にもthanksgiving recessがあるので最初の頃は10月の休みが必要なのかわからなかったが、ちょうど学期の半分が終わるタイミングで、予想以上に疲れていた自分としては、いいタイミングでの休暇になった。ちなみに、この10月末の秋休みはマディソンにはなく、友人に聞いたところハーバードやブラウンにもないらしい。一説によると、南部から来ていた学生が農作業の収穫を手伝えるために帰省する文化の名残らしく、ということは南部の大学では秋休みはあるのかもしれない(実際にデュークには秋休みがあるらしい)。

土曜(26日)は駒場時代にお世話になった高山先生のご自宅でアメリカにいるOBOGと同窓会があったのだが、そこで、アメリカでは公共交通などのサービスに対して日本と同じような期待を持つことはしない方がいいという話が上がった。今思えば、この旅行のハプニングを暗示していたのかもしれない。

日曜朝に向かったのはニューアーク空港。ニュージャージーのローカル線(NJ transit)はメインの路線にあるPrinceton junctionからプリンストン大学関係者のためだけに一駅だけのDinkyと呼ばれる路線を走らせているのだが、この路線が持っていたappでは早朝から走っていると出ていたのに、実際には休日運転でタクシーを使う羽目になった。アメリカの公共交通のレベルは非常に低いが、これは序の口である。

予定通り飛行機は出発し、マディソンに着く。その足でタクシーに乗り、昔の自宅に(今も契約は残っている)。地下にいくつか荷物を残していたので、必要なもの、必要じゃないものを峻別して、ダンボール2箱とボストンバックをuberで運んでFedExに行き、プリンストンの自宅に郵送。夜はHilldaleにて日本の知人・友人と夕食。イーグルハイツ(大学寮)に住んでいる同じコーホートだった友人の家に一泊。


月曜は朝から指導教員とのミーティング。滑稽なことに、私は指導教員についていく形でプリンストンに移籍したのだが、当の本人はまだマディソンにいる。メールでもできることはあるが、やはり1 on 1のミーティングが一番早い。気づいたら2時間近く話してて、おそらくこれまでの面談で最長だろう。次に会うのは1月なので、これくらいは必要だったと思う。昼ごはんは人口学研究所にいた友人たちと。その後もミーティングや廊下でのちょっとした挨拶などを繰り返し、夜は一緒に人口学の授業をとった友人たちと夕食。そのあと、4年生の友人の家に宿泊。

火曜は朝にポスドクの人とお茶。人口学のセミナーを聞いて出発。時間が限られていたので、会いたい人全員に会えたわけではなかったが、キャッチアップにはいい機会だった。たった2ヶ月しか経ってないのに、なぜこいつはのこのこ帰ってきたのかと不思議に思われてなかったか、やや心配である。自分でも違和感なくオフィスを使って作業しながら時間を過ごしていたのは不思議なものだった。去年学生メンターだった先輩の車に乗せてもらって空港に。近況も共有できて一石二鳥だった。デトロイト経由でボストンへ。トランジット時間がややきつかったが、問題なく搭乗。ボストンについてすぐタクシーに乗って、政治学部の友人二人を訪ね、宿泊。

水曜は朝ごはんをTatteカフェでとる。11時過ぎから社会学部にいる韓国の友人と会う。昼食後キャンパスを歩きながら、近況をシェア。廊下ですれ違ったファカルティの先生や関心の近い院生を紹介してくれて、ありがたかった。13時過ぎに学部のディレクターをしているヒラリーと面会。15時過ぎにケネディスクールに留学している東大時代の先輩と再びTatteにて面会。South stationからプロビデンスに向かい。19時に到着。Kと京論壇を通じて親友になった友人(ブラウンでポスドク中)と再会、ディナー。Kのボロ一軒家に宿泊。






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木曜はあまり予定はなく、図書館を借りて作業、またダウンタウンでちょっと買い物。プリンストンに比べるとブラウン周辺はそれなりに街だった(プリンストンにはダウンタウンなるものは存在しない)。近い距離に色々なバックグラウンドの人が住んでいるのは、ある程度有機的な街ができていることを示している。その一方で、segregationは顕著で、マディソンよりも深刻な気がした。夕食はブラウンの社会学部にいる中国人の友人二人とKと4人でKがよく自慢げに写真をあげている蒸籠蒸しの店に。「安くない?」を連発されたのでしぶしぶ首肯しておいたが、まあそれなりの値段はした。再びKのボロ一軒家で一泊。

金曜は朝4時半に起きてプロビデンス駅へ。到着した時点でNYへの電車が遅れていたのだが、さらに遅れて到着した時点でエンジントラブルか何かでボストンに戻る可能性が高いので乗らないことを進めるという説明。色々すったもんだしているうちにバスの予約もいっぱいになったようでLyftをシェアすることにした。急いでいたのには理由があり、ブルックリンでデータプレゼンテーションのセミナーがあったからだった。同乗した二人はロードアイランド大学の疫学者で、話を聞く感じだと関心は遠くない気がした。一人とはvenmoで友達になったのだが、多分二度と会うことはないのだろう。1時間半遅れでセミナーに参加した。講習料は学割後で240ドルだったが、言い値で言えば24.0ドルくらいの収穫だった。Tufteというvisualization業界では教祖とされる有名人だが、個人的には特に新しいことを言っているようには感じなかった。ただ、それは逆に言えばTufte氏が長年訴えてきたprinciplesが他の人を通じてほぼ常識のように流布したことの証左かもしれず、私が240ドルのうち意味を見出せなかった216ドルは彼の懐と会場のホテルの収入になったわけだが、それをを考えなければ、一つの収穫だったかもしれない -- もう彼はセミナーをする必要はないのだ。

ただ、なおも残る彼のユニークな点は、プレゼンを一つのアートとしてみなしている点である。彼の用いる「美しいプレゼン」の材料は芸術作品や古い地図のようなものが多く、彼はこういったプレゼンテーションの資料が発達する前の時代から存在する「美しいプレゼン」からメッセージを読み取ろうとしている。この姿勢は最近私がプレゼンテーションを改善するためにとっているアプローチと近いので、自分の考えが間違っていないという確信をもてたのは良かった。具体的にいうと(ジョブズみたいなことを言って恐縮だが)、最悪スライドなしで発表できるなら、それに越したことはないのだ。歴史上のほとんどの期間、人はスライドを使って説明をしてこなかった。スライドを使った発表が当たり前になったのはごく最近の出来事である。そのため、スライドはあくまで発表の補助資料でしかなく、重要なのはスピーチそのものなのだろう。スライドの読み上げは、原稿の読み上げと等しいくらい、effectiveではない。このように考えて、最近はまずスライドなしで報告の練習をしてみて、そこで図なりデータの説明なり、口頭では分かりにくい部分に関して補足の意味でスライドを作るのがいいのではないかと考えている。スライドを作ってから練習するのではなく、練習する中で必要なものをスライドとして作るという逆転の発想になる。

ここで作る図は、自分の研究報告をstorytellingとしてより分かりやすく、compellingにするものという位置付けなので、よりオーディエンスの印象に残る、効果的なグラフィックは何か、と考えている。最近は書店でデザインの本を買って、自分のスライドに役に立たないか考えることもあり、これはTufteアプローチに近いと思っている。

帰りのバスの中で何度も電話に拒否されながらなんとかアムトラックのリファンドを済ませ、19時過ぎに帰宅、する予定が途中で乗客がいなくなったと思った運転手が私が降りようとしたストップにたどり着く前にバスを引き返してしまい、最寄りのストップまでつくのに30分ほど遠回りをしてしまった。色々と交通手段には振り回されるが、これも我慢である。

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