November 26, 2018

アメリカにいると、raceについて考えない日はない。

昨今、ダイバーシティという言葉が日本のメディアでも頻繁に聞かれることになった。主として女性の活躍という文脈で使われている印象が強いが、例えばセクシュアリティの多様性といった場面でも、この言葉は用いられるだろう。

日本から見ると、アメリカは非常にダイバーシティに富んだ社会だと思われるかもしれない。大学の在籍者で見れば、すでに男性よりも女性の割合の方が大きく、研究者はこれをthe rise of womenと呼んでいる(一方で、労働市場における男女の賃金格差の是正は停滞気味である)。トランプ政権の登場によって逆風が吹いているかもしれないが、アメリカでは多くの州で同性婚が認められるようになっている。

こういった文脈で、アメリカにおけるraceあるいはethnicityの多様性を耳にすることがあるかもしれない。raceの分布に地域差があることも、知っている人は多いだろう。西海岸はアジア系が多く、テキサスは保守的な土地だが国境を合わせるメキシコからのヒスパニック系住民が多い。意外と知られていないが、中西部でもイリノイは他の週に比べればヒスパニックや黒人の割合が多いが、私が住んでいるウィスコンシンは、NYCからきた友人をしてvery whiteと形容される街である。

アメリカに来る前は、raceもジェンダーやセクシュアリティといった多様性の中の一つだと考えていた。しかし、アメリカを一つの社会としてみたときに、何が社会を構成する要素として影響力が一番大きいのかと聞かれれば、今では真っ先にraceと答えるだろう。

アメリカにいると、raceについて考えない日はないのだ。社会がどのように動いているのか(how society works)を考えるときに、raceが占める比重は非常に大きい。その影響力の大きさゆえに、raceについては様々な定義をすることが可能でもある。

例えば、raceをethnicityと対立的に捉え、前者を身体的(生物学的)な特徴、後者を文化的(社会的)な特徴とするのは、見慣れた区分かもしれない。もちろん、skin colorもraceを構成する要素であるとは考えられるが、両者は対立的に捉えられるものではない。例えば、国勢調査ではヒスパニックという`race'は存在しない。ヒスパニックはethnicityとして捉えられている。ヒスパニックの中にも、raceでいえばwhiteの人もいるしblackの人もいるからだ。ただし、国勢調査的にはアジア系はethnicityではなくraceである。ややこしいことに、私みたいな人間はraceをアジア系としてidentifyし、ethnicityをJapaneseとすることが期待されている。

期待されているとしたが、これがraceの定義を複雑にさせる要因でもある。raceは身体的な特徴と考えてきた人には、不思議に思われるかもしれないが、raceを語る際にそれがracismにならないのは、race自体が一つのアイデンティティとして確立しているからである。つまり、blackというカテゴリは、他者によって帰属させられるカテゴリであると同時に、自分自身をどのように定義するかというアイデンティティの側面も持つ。例えば、raceにもとづいた、根拠のない主張は偏見や差別になるが、本人が自分のraceを定義した上でraceに基づいて何かの主張をしている場合、その主張をraceと結びつけることには異論は出ない。

要するに、raceは自らを規定するカテゴリでもあると同時に、他者から規定されるカテゴリでもある。アメリカの社会学者がraceをsocial constructと捉える際に念頭に置いているのは、raceカテゴリがこのように社会的な相互作用から規定される側面である。繰り返すが、raceが全て社会的な構築物に還元できるわけではなく、文脈によっては身体的な特徴が押し出されたり、raceが帰属的な地位であると考えられることは多いが、アメリカ社会に身を置くと、raceを一言で定義することの難しさを痛感することになる。

raceは社会的な相互作用によって規定される。そのため、raceに対する意味付けや解釈が頻繁に行われることになるが、その解釈が差別になるのか、ならないのかには、実際に相互作用に参加している人でなければ掴めない綾がある。例えば、ある人を(本人が自分をどうidentifyしているかは省略して)blackだとかwhiteだとか同定することは、差別とは考えられない。したがって、道端ですれ違った人はwhiteだったと思う、という言明に差別的な意図は見出されない(それがなぜそのように判断されるのかは、説明が難しい。例えば、日本で見た目から当該人物を中国人や韓国人と判断したら、それは偏見だと思われるのではないか)。しかし、raceに基づいて、それ以上の判断、例えばアジア系だから見分けがつかない、というのは差別的な言明になる。

また、マイノリティ側であるraceの集団が、ある制度や組織をマジョリティによる独占やダイバーシティの欠如といった文脈で批判することは、コンフリクトを生じさせることはない程度に許容されている。しかし反対に、マジョリティ側がある組織がマイノリティによって独占されていることを言明することは差別的だと判断されるだろう。このようにraceによって、どのような言明が問題になるのか、あるいはならないのかの線引きは、おおよそ明瞭に決まっているが、その線引きがなぜ妥当とみなされているかの合理的な説明をすることは難しい。マイノリティがマイノリティであることによって不当な扱いを受けているという言明には説得力があるが、マジョリティ側が、マイノリティに対する優遇のせいで不遇を買っていると主張することは支持されない。

raceは日常生活のあらゆる場面に登場するが、非常にセンシティブな問題になることも多い。そのため、「線引き」を、無意識に判断してその場で適切な振る舞いを行えるスキルを持っている人と、そうでない人が出てくる。これをコンピテンスと呼べばいいのかはわからないが、いわゆるマジョリティ側(white)の中にも、こういったコンピテンスが高い人とそうでない人がいて、前者はマイノリティ側が潜在的に抱くであろう考えを、それが表出する前に察知することができるため、コンフリクトを生じさせないことができる。後者の場合、マイノリティ側の心情を考慮しない発言をしたりしてしまうため、そうした配慮に欠ける人だと考えられてしまう。

これは、raceに限ったことではなく、genderやsexualityに対するセンシティブさも同様に議論できるが、社会の機制として、raceが果たしている役割が、アメリカでは非常に大きい。

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