今日は低所得国の出生を議論、文献はよくオーガナイズされてた。まず世界レベルでの家族計画の歴史を振り返り、人口変動への発展史観を批判的に検討した論文と例のカメルーンの論文を読み、最後は低所得国における出生と女性のウェルビーングの論文。post Cairo researchという言葉が印象に残った。
その中で、ThorntonさんのPAA会長講演論文を読んで、人口学も自身の研究に対する反省性が必要だなと思った次第。
この論文では、啓蒙思想から20世紀の人口学までみられた、1時点の社会のばらつきをもとにした発展史観から生じたイデオロギーが、いかに世界の家族パターンに影響を与えたかについて分析している。検証することが難しい命題もあるけど、現代の我々が考える何が「現代的」で何が「伝統的」かのラベリングに対して、developmental idealismが与えた影響は計り知れないと思う。分かりやすい例は見合い結婚から恋愛結婚への移行。後者は結婚が自立した個人に基づく契約であるべきという信念と親和的。
人口転換論も発展史観の亜種みたいなところはあり、この論文はかなり内輪向けに厳しいこと言ってると思う。developingとdevelopedという対比ももっぱら前者から後者への経路しか想定されていないわけだし。仮に単なるカテゴリとして用いる場合でも、その言葉の出自には反省的であるべきだと思った。
なぜ反省的である必要があるかというと、その分類が天から降ってきた自明なものではなく、社会的に構築されたものだから。もちろん、だからと言って、分析自体が不可能になるわけではなく、社会学者としては社会が生み出したカテゴリを拝借して分析してるってことに敏感になろうということかなと。
genderにしても、人口学者はsexとほとんど区別してないってフェミニスト人口学にディスられてたけど、まさにそうで、この二つの関係に反省的でないと、両者を独立のものと考えたり、同じものと考えてしまう。フェミニストは生物学的な性を否定しているみたいな誤解もそう。
raceとethnicityについても、合意はないかもしれないけど、アメリカでは両者が別のものというよりは、むしろraceという言葉はかなりethnicityに近い意味で用いられているような気もする。そもそも、昔と違って今はraceは対象者が考えるidentityの項目で、歴史的な制度と結びついたidentityだと思う。
これら全て、NIHからファンドをもらってる研究所のトレーニングの一つとして行われている人口学の授業で議論したことに基づいているのが面白い。人口学の院セミナーはよくオーガナイズされていて、前半は人口転換に関する古典的な理論を勉強した上で、後半は(圧倒的にマイナーな)フェミニスト人口学に言及した文献を入れ、最後にこの文献で終わるという。
Gender in the Investigation and Politics of ‘Low’ Fertility
社会学の側でReflexive demographyみたいな分野を作ればいいんじゃないかなと思います。人口の増加にしろ減少にしろ、人口学は非常に政策との距離が近いので、自分たちがどういう想定に基づいて議論をしているのか、自分の研究が政策に対してどれほどの影響を持っているのか、持っていないのか。こう言った点を考える際に、社会学の価値自由の議論とかとても大切だと思います。
しかし、このセミナーの先生が博士号が公衆衛生なのがまたすごい。きちんと公衆衛生側のトレーニングも受けながら、こういうreflexiveな視点を忘れない授業ができるのは。まさか1学期のセミナーでここまで人口学の文献を批判的に読めるトレーニングを受けられるとは思わなかった。この人口学の想定を内から崩して再構成していく感じ、ちょっと想定外。
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