5月1日
前日の午後10時半から午前3時過ぎまで寮の自治会に関心がある人で集まったため、朝は遅く起床。残り物の手羽元の甘酢煮を食べて、作業。雲行きが怪しくなって来たが、前日風呂に入るのを忘れていたため、シャワー浴びたりしているうちに降り出してしまう。幸いにして雨量は少なく、自転車でも無理なく登校。
4限少し前に教室に到着したので、叔母に電話をしてみると、いきなり泣き出してしまった。こちらもつられてしまう。
授業終了後、院生室で申請書類などの作業。それなりのところで終わらせて、ハナマサでもも肉を買って帰ろうとしている時に、火曜日はどうせ特に予定もないのだし、祖母の見舞いで親戚が来るというので、二度手間にはなるが水戸に戻ろうと母に電話をかける。
呼吸が怪しくなっている。
一瞬、何を言っているのかわからなかった。すぐさま、水戸にすぐ帰る必要性を感じた。母にすぐ特急に乗ると言って帰宅。着替えてタクシーを捕まえて大塚駅へ。既のところで22時15分発のときわに乗り込み、23時40分に水戸駅に到着。再びタクシーに乗って、協同病院まで。
幸い、呼吸は来ている時には幾分か安定していた。それでも、かた呼吸というか、痰が絡みながらいびきをかいているのがよくわかった。
祖母が脳出血で倒れてから3日間、叔母と母は二人で頑張って祖母を車に乗せ、病院に連れて行き、夜遅くまで待合室に待機していた。その間、麻痺になった左手が使えない中、右手を使いながら何かをしようとした形跡が残る祖母の家に向かい、血を拭いたり、食べ物を片したり、洗濯物を戻したりもしたらしい。
突然の帰省だったため、自分の寝床が用意できず、父が普段母と弟と寝ているところに入らせてもらった。寝始めたのは1時半ごろだが、やはり展開の早さに眠ることができない。おきたのは7時で、とても寝た気がしなかった。
9時過ぎに再び病院に向かうと、だいぶ呼吸は安定していた。脳出血後に意識障害が起こることはあっても、直接なぜ寝たきりなのかはわからないらしい。幸い、11時から担当の医師の方の説明を受けられることになっていた。
10時50分ごろ、日立から親戚のおじさん、おばさんが来てくれた。抑えていた涙が零れ落ちる。本当に来てくれて嬉しかった。当日祖母とあっていなかった叔母と親戚でICUに向かっている間、気が抜けたように空を見つめていた。これからどうなるのだろうか。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか。これは自分よりも祖母の近くにいた母と叔母が強く悔いていることだろうと思う。すでに認知症が分かって、普段より多めに会いにいっていたのだから、まだ発見が早かっただろうということは容易いのだろうが、それでももう少し発見が早ければと思ってしまう心情に、僕は何もいうことができない。
一旦病院を後にして、千波湖近くのレストランで8人で昼食。大学1年生くらいになるまでは、祖母の兄弟の末っ子のおじさんの家に親戚一同集まっていたのだが、20年近く続いた元旦の風物詩も、自然と消えていた。5年ぶりに、親戚一同集まって話す場が、まさか祖母の病によって生じるとは、とても予想はつかなかった。
親戚のおじさん、おばさんたちは昼食後に水戸を後にした。母と叔母と自分の3人で、13時に終わったMRIの結果を医師の方から告げられる。
原因は、アミロイド血管症。アミロイドというタンパク質の一種が脳の血管に貯まることによって脳出血が引き起こされるらしい。よく見られる合併症なのだろうか、アミロイドの蓄積は認知症の要因ともなるらしい。これで説明がつく。祖母の脳には、出血の黒い塊だけではなく、医師の方も驚くほどの無数の血管の破裂が確認された。
こうなって来ると、手術は難しいらしい。熱も出ているので、容体が安静になるのを待つことも必要だった。最悪の場合には、痰が絡むことで肺炎を起こす感覚がだんだんと短くなり、そのまま衰弱。最高でも車椅子生活で介助が必要になるらしい。意識がないので、まだ左での麻痺の程度もわからない。
おおよその話が分かった段階で、東京に戻ることにした。15時半前に出た電車の途中で、ぐっすりと寝てしまい、目覚めた時には上野駅だった。
もう今までのような生活は望めないだろう。祖母が一人で住んでいた家も引き払うことになるだろう。祖母の容体を鑑みながら、淡々と進めざるを得ない作業を思い浮かべると、母と叔母の助けになんとかなってやりたいと、どれだけできるのかわからないが、そう思う。
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