August 20, 2012

Introduction


何に使用するか分かりませんが,今自分が調べていることを導入の形で文章にしたものです.冗長に語りすぎる嫌いがあるのは問題.



 社会保障制度を含めた公的な制度が「標準」として採用してきた「夫婦と子どもからなる世帯」は,高度成長期の日本にあっては,確かに「標準家族」としての意味を持っていた.85年に全世帯数のうち4割を占めていたこの「標準としての世帯」は,しかしながら,2005年には3割を切るようになる.代わりに増加したのが単身世帯だった.85年の段階で全世帯のうちわずか20%の割合しか占めていなかった単身世帯は,標準世帯が減少するのとは対照的に増加の一途をたどり,2005年には29.5%を記録した.(総務省:『国勢調査』)
 このような世紀をまたぐ中で進行している家族の変化を,私は「個人化」もしくは「多様化」と呼ぶことにしたいが,一般的にはそのようなニュートラルな表現よりも,むしろ「家族の危機」などといったネガティブなイメージで家族の変化が語られてきたことは,家族社会学を中心に多くの論者が指摘してきたことである.(落合,1997;目黒,1999;山田,1994;上野,1990)例えば,落合(1997)は経済企画庁国民生活局(現内閣府)が発表してきた「国民生活白書」の社会指標として採用された「経済的安定」「勤労生活」「健康」など8つのうち,1975年以来,ほとんどの指標がプラス指標を記録する中で「家庭生活」のみが悪化の一途をたどったことが「マスコミや世間一般の家族危機感を煽った」と述べている.この指標に用いられたのは,少年非行率や離婚,家庭内暴力などで,これらが家族の機能の低下として語られた.このような機能低下の原因として「日本の家族が核家族化したこと,さらに家庭の中心となるべき主婦が就労のために家庭の外に出るようになったこと,などが議論されていた」という[1].(目黒,19992)こうした危機感は,1989年に合計特殊出生率が1.57を記録した「1.57ショック」によって広く共有されるとともに,来たる少子高齢化社会への不安を駆り立てることになる.
 ここからは,家族の変化と同時に進行した女性の社会進出が家族の機能低下の原因とされ,否定的な評価が下されたということが分かる.上野(1990)に言わせれば「『核家族の働く母親』が攻撃のターゲットされた」事態において,家族の変化を「危機」として捉える考えは,フェミニズムを中心に,家父長制的規範の女性への適用として議論の遡上に挙げられる.男女の不平等の源泉を家事=不払い労働という物質的に求めたマルクス主義フェミニズムの代表的論者である上野千鶴子にしても,現象学的社会学から出発して日常的な相互作用の中にジェンダー秩序が生起していると論じた江原由美子にしても,以下の点でフェミニストとしての問題関心を共有している.すなわち,社会的な産物に過ぎないジェンダーによって,女性は男性から支配を受けるのであり,その解決を志向するという姿勢だ.ファミニズムからすれば,女性に妻として,母親として,家庭におけるケア役割を期待することは,直系家族に端を発する父権的家父長制秩序という前近代の産物を踏襲しているのであり,解体されねばならない.家族危機論の背後には,男性による女性の性支配の正当化が隠されているのであり,
 しかし同時に,こうしたフェミニズムの考えは,「家族危機論」と同様の振れ幅を呈している.すなわち,赤川が指摘するように「フェミニズムは観察可能な男女の差異が存在するならば,そこには性支配が存在しているはずだ」という理論的前提を共有している.(赤川,2006127-132)フェミニストではない側からすれば,家族危機論が「男は仕事,女は家庭」という男女の役割期待に基づいて,女性に家庭におけるケア役割を無垢に想定したのと同じように,フェミニストたちも「観察可能な男女差の陰には性支配が存在している」という構図を暗黙のうちに前提としているのだ.観察可能な男女の差異が性支配以外では説明できないという事態をもってはじめて,外部に説明可能な理論図式を提示できるこの論法は,フェミニズムが想定しているよりも,意外と脆いのかもしれない.
 同時に,江原(2001)が反省的に述べるように,こうしたフェミニズムの論法は,既成の秩序の正当化に繋がりかねない危険性をはらんでいる.いくら社会的に形成されたものという意味でジェンダーという言葉を使おうとも,私たちが当該社会で採用されている男女の分類基準に基づいて議論を進める限り,「明らかにするべきこと(当該社会の男女の『性差』)を,予め作業の中に組み込む」ことになり,「その結果を公表することは,まさに当該社会のジェンダーを学問的に『正当化する』ような結果とならざるを得ない」のである.(江原,20013-7
 もちろん,このような当該社会で用いられている分類基準の採用が,その秩序の正当かにつながりかねない危険性は,他の領域でも確認できる.(例えば,貧困や民族など)ただ,フェミニズムは「解放の思想」として出発しているが故に,観察可能な男女の差異を普く家父長制による性支配に結びつけがちである.そのような議論の中では,先のような正当化リスクを抱えていることに反省的になりつつ,経験的なデータを提出していくという学問に真摯な姿勢が忘れ去られてしまう,特徴的な言説磁場を孕んでいるのではないのだろうか.
 話が冗長になってしまった.私の問題関心は,そのような性支配の構造を明らかにすることではない.戦後の社会変動の一つの帰結として,冒頭に述べたような家族の変化が起り,それは今後の日本に少子高齢化の波の中で(人口学的な意味での)「危機」をもたらす可能性を多分に秘めている.その一方で,女性の高等教育進出や労働参加を通じての「男女共同参画社会」が曲がりなりにも宣言されているにもかかわらず,男女の観察可能な差異=不平等は存続している.社会の変化,家族の変化,男女の関係性の変化,その中でさえ,残り続ける不平等.さらにそうした不平等は,女性内部でも差がある.ここで提起されている問題は,階層論の視点である.私の問題関心は,家族の多様化,個人化の中における,階層性を帯びた女性のライフコースの変化にある.


[1]上野(1990)によれば,このような「家族危機論」は都市核家族の広範なレベルでの成立と主婦の労働者化が同時に始まった1960年代から見られるという.(上野,1990238-239

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