人口学プログラムに在籍していると、三年生の必修として博論プロポーザルを仕上げるためのセミナーを履修する。以前書いた説明をそのまま持ってくると。
この水曜の授業は、人口学プログラムに所属している院生は必修の授業で主に博論プロポーザル(prospectus)を提出する人向けの授業になっている。目的はシンプルに過去に人口学プログラムを卒業した先輩の博論、および博論を基にした投稿論文でのレビュアー、エディターとのやりとりを読み、博論までの過程を脱神話化することが狙い。博論を書く作業は長く、孤独で悩むことも多いので、取り組み始める前に必要以上にハードルを上げないようにする試みと言えるだろう。
今週から実際に博論を読んで議論する回だった。運がいいのか、悪いのか、初回は私が指名した博論が担当だった。(余談:ティーチングもそうだが、いつの間にか授業で議論をリードする役目を自然に押し付けられる()学年になってしまった。渡米前ではとても考えられない、もっとも進行は拙いのでまだまだ勉強中)。
オーソドックスな家族人口学と社会階層論のミックスがきいた博論で、シンプルに「富」が結婚に与える影響を検討している。それだけだと当たり前のことを検討しているように聞こえるかもしれないが、単なる収入や学歴が結婚に与える影響と異なって、ストックである富自体が人口学的なアウトカムに与える影響は、最近の流行の一つである。富の蓄積過程は社会階層論におけるライフコースアプローチの古典とも言えるが(Spilerman 2000)、富の「効果」については、この10年くらいでいくつかの家族社会学の研究が「富の象徴的側面」の重要性を示唆する研究を出している(Edin and Kefalas 2005; Cherlin 2005)。
この背景にあるのは結婚と出生の関連が弱くなり、同棲パートナーシップを歩む人が増えたというアメリカ的な事情が背景にある。必ずしもする必要のなくなった結婚をなぜ人々はするのか、そしてなぜ結婚に至る割合に階層差があるのか(高学歴の人ほど結婚しやすく、SESが低い人ほど不安定な家族形成を歩みやすいというdiversing destiniesの話)、家族社会学者のCherlinによれば、それは結婚におけるシンボリックな価値が相対的に強まっており、結婚は人生における集大成(capstone)イベントになっているからであるという。結婚してから相手を見極めるのではなく、ある程度連れ添った相手と達成の意味を込めて結婚をする。そうした結果としての結婚、という意味合いが強くなると、結婚に至るまでに成し遂げておかねばならない事項があり、その一つが富の形成(資産や住宅の保有)であるというのだ。日本でいうと、ある程度会社で地位を築いてからプロポーズする感じだろうか。
前振りが長くなったが、こうした結婚における象徴的価値の重要性を指摘した研究は質的研究が最初で、量的なデータでより広い人口を対象に検討した研究は限られていた。私が指名した博論は、この問いを検討した初期の研究であると言えるだろう。
構成はアメリカでよくある、独立した経験的な問いを検証したチャプター3つ+イントロと結論。最初の章は博論提出時にすでにトップジャーナルであるAJSに掲載されていた。そうしたことが先入観に影響し、この博論を指名した時は、他のチャプターもきっと水準が高いのだろうと思っていたのだが、読んでいくうちに色々疑問も生まれていた。よく書かれているけど、笑かない部分もちらほら、と。
そうはいっても、アメリカの人ならとりあえずナイス、グレート、アメージング、ファビュラスなどと言って済ませるんだろうなと思ってセミナーに臨んでみたのだが、博論は予想以上にコテンパンにされた。アメリカでここまで人の論文がこき下ろされる機会は初めてで、日本にいた時を懐かしく思い出す、不思議な3時間だった。授業の最初で、主観的にこの博論が十点満点中何点かと先生が冗談めかして匿名のアンケートを取ったら、参加者はみな6-7点をつけて、まあ中の上くらいかなと(今思うと最初から結構厳しめだったと思うが)判断していたのだが、授業を受けた後に点数をつけ直すとすると、多分4-5点くらいになっていただろう。
もちろん、批判されて然るべき点があるから批判されるのだが、一応、プリンストン大学ってとっぷすくーると言われているし、博論を書いた本人も初職からトップ校に就職したりしてるので、間違いなく評価の高い博論であるはずなのだが(確かに、問いは非常に大切だと思った)、外面から予想される以上に論文は不完全なのだなと思った。特に、査読されていない後半の2章は、もう、すったもんだ、書くのが憚られるくらいのホラーだった。開けたての査読コメントを間違って開いてしまった気分。
日本だと、本人がいる前で焼畑農業が行われるので、コメントされる本人にとっては本当に辛いこともあるのだが、幸い(?)アメリカの焼畑農業は本人がいない場で行われるので、多少気配りが効いているのかもしれない。
いくつか、詳細に入らない範囲で、他の論文にも通じそうな論点をメモしておく。
・検討したい仮説のレビューがアンバランス
この博論では、上記のように富の象徴的側面をメインに検証したかったのだが、富が結婚み与える経路、メカニズムはそうした文化的なものに限られない。そこは当人も気づいており、レビューの上で他の仮説も検討しているのだが、その一部はメインに検証している仮説に比べると、レビューが弱く、何を根拠にして言っているのか、自明ではないところもあった。
・サンプル、変数の定義が不明瞭、結果の再現ができない
イベントヒストリーを行なっているのでリスクセットに入る人口の定義が重要になるが、どのような人は入って、入らないのか、必ずしも明瞭ではない。富などの変数の定義も、満足ではない。例えば、ミッシングは全体として何%あったとされているが、どのような特徴を持つ人に多かったのか、そうした記述統計はなかった。ミッシングがどれだけ深刻な問題を引き起こすのかも議論が薄かった。
・ある章では検討される仮説が別の章では検討されない
データの限界などでそうしたことは生じうるが、最初の章では2つの仮説のみが検討され、後半では3つ検討される理由が明確に書かれていなかった。
・変数操作化の議論が薄い
この博論では、上記で挙げた研究を念頭に車の保有や、預金額、家の所有が富の指標とされたのだが、博論はその定義をそのまま使っており、他にありうる富の指標は何なのか、この操作化に問題点はないのか(例えば車の保有は車が必要ではない富の指標なのか)、そうした議論はほとんどなく、ある意味で先行研究の定義を踏襲している。質→量の流れはクリアだが、本当にその操作化で良かったのか、もっと丹念に検討されるべきだった。
・因果ではないのに筆が走る/因果ではないと書きすぎると奇妙
これはバランスが難しいが、サーベイデータを使って共変量の調整などシンプルな回帰分析をしているので、因果(富が結婚を引き起こす)に言及するのは難しい、これは誰でもわかることである(ただし、富の象徴性仮説は、結婚しようと思った時に資産が必要だと思ったのである程度貯蓄して車を購入した、みたいな経路も含んだ理論だと思うので、内生的でも問題ない気はした、著者は気づいているような気もしたが、明確には書いていなかった)。ところが、因果ではない、ひたすら壮観ですよと言って書きすぎると、文章が非常にawkwardになる(富がない場合に比べてある場合の方が結婚タイミングが早い傾向にあることが示唆される…みたいな)。しかしクリアに書こうとして「富が結婚に正の効果を持つ」みたいに書いてしまうとイエローカードが出る。塩梅が難しい。
・モデリングの説明が間違っている
・なぜ分析に使用したデータがベストなのかの説明がない
・帰無仮説を対立仮説にしている。
・有意水準のみで議論していて、サイズに関する議論が少ない(まあ2012年の博論だが)
・仮説の少なくない部分が交互作用の結果に依拠していて、標準誤差が大きいために支持できていない可能性があるものが散見される、その議論もない。
その他、色々こき下ろされた。まさか自分が尊敬する研究者の博論がここまで批判されるとは思っていなかったので、本人ではない自分も冷や汗をかいてしまった。
先生は当初、この授業を受けると高めに設定していた博論へのハードルが下がるからとあっけらかんとしながら、言っていた。たしかに、トップ校に就職する人の博論もこれだけ弱点があると考えれば、ハードルは下がった気もする。その一方で、どんなに頑張っても将来授業でこれだけ叩かれると思うと、今設定しているハードルがさらに高くなった気もしている。
と、色々と新鮮な経験をさせてもらった3時間だった。こういう授業を受けられるのは幸運だと思うので、次からは外面に騙されずにもっとクリティカルに読んでいこうと思う。