September 26, 2020

9月26日

今日ランチした先生は大学院時代、私がお世話になってる先生の引っ越しを手伝ったらしい、狭い世界。彼らが大学院生の頃は日本からの留学生はたくさんいたが、減りましたねという話に。国内で再生産できるようになったのもあるかもしれないが、競争は激しくなり、プッシュ要因も減ったのかもしれない。もちろん、英語圏でなくとも社会学ではスウェーデン、オランダなどの大学は自国で博士課程の院生養成して、それでアメリカのジャーナルに載せてる人は珍しくない、やろうと思えば日本の大学もできるはず。ノウハウがないだけ。

その後、試験の論文作成。ひたすら。

9月25日

 今日はあっという間に過ぎていった。急遽指導教員のセクションのピンチヒッター(2回目)を務めることに。そのために前日早く寝て、7時に起きてレフレクションが締め切りの8時になってから質問を見て議論のオーガナイズをして、多少準備をしたのでひとまず無事に終わった。

その後すこし休んで、試験の論文を書き、午後3時から水曜の授業の受講生と一緒に先生の自宅の庭でお茶。学期中zoomで毎週のように顔を合わせていたコーホートの友人と実に半年ぶりの再会、不思議な気分だった。一時帰国までにもう一度会えればいいなと思う。

帰宅し、ハツを食べ、すこし論文を書き、第3回日本からアメリカ社会学博士課程に留学してる(た)人飲み

日本の格差貧困問題の根本要因は雇用の安定性だって分かってるのに、なぜ政府はそこを直接解決する政策を取らないのか?正しい。自民党は業界団体のエリートから支援されてると答えるが、一方で政権は世論の声にも敏感なはずと。正しい。特定の集団の世論により敏感なのか?多分正しい、高齢者だろう。

月曜の自分のセクションの生徒の提出したリフレクションにも目を通したが、ちゃんと授業で議論したことを踏まえて膨らませて書いてくれた人もいて嬉しかった。

第3回日本からアメリカ社会学博士課程に留学してる人飲み

 備忘録メモ

・日本研究をどうテイラーするか、及び雑誌の投稿先ストラテジー

・批判的人種理論と計量研究の可能性

・学生指導の難しさ

・指導教員とどうコンタクトするか

いつもながら楽しく勉強させていただきました。

September 24, 2020

9月23日

すっかり秋めいてきた。土日は近く迫った試験の用意、友人を招いた火鍋、月曜の授業の用意などをしていた。

月曜にティーチングを終え、博論を読み、paaのアブストを書き、数理社会学会に参加。ポスターセッションまで参加していたので、翌日は結構眠かった。日本にいる古い友人と久々に電話して互いに近況を伝える。

火曜はpaaの提出をし、博論を読みコメントを提出、月曜の授業のフィードバックを済ませる。人口学セミナーはウィスコンシンの先生で私を覚えてくれていて嬉しかった。今週からin home testingに変わったコロナ検査を提出。眠かったので9時過ぎに寝てしまう。

水曜日は午前中に博論セミナーに出た後、学部ミーティングに参加。終了後にランドリーを済ませ、ナッソーまで出て注文していたコーヒー豆、アイス、及び日本食器店で買い物。本もピックアップして戻り、covidの分析を進めてメンターに共有。

この間、ルームメイトが見ていたコブラ会というアクションコメディをみている。空手キッドという1980年代に流行った映画の後日譚なのだが、勝つために手段を厭わないコブラ会と呼ばれる道場を営む前作の悪役と、前作の空手大会でそのライバルを倒した後車会社で成功を収めた主人公がそれぞれ30年後に対照的な人生を歩む大人になり、自分たちの子ども、彼らの学校の生徒・友人たちとの交流を通じて、少年時代のように空手にのめり込んでいく話。

空手の中にやや変な日本文化の解釈が含まれているのは愛嬌というか、アメリカから見た一種の日本理解としてみれば途中苦笑いしながらも楽な気持ちで見れるコメディである。その一方で、親子の葛藤や学校でのいじめ、移民の親を持つ子供の経験など、アメリカのドラマらしい描写がその中にうまく入り込んでいる点がユニークと言えるかもしれない。前作で悪役だったライバルも、自分の道場の教え方に葛藤を抱き始め、善悪の区別が曖昧なのは現代らしい。

September 18, 2020

予測可能性寿命

 授業用の自習で読んでみたところ、日本は長寿化(それに伴う定年の延長)と労働市場の不安定化が同時に生じてるが、それらが組み合わさると、昔のコーホートよりも今の人の方が、不確かな人生を歩む年数が絶対的に増えていくことに気がついた。

Population Decline and Ageing in Japan - The Social Consequences

実際はどうであれ、平均余命が60歳と言われれば恐らく人は自分の寿命を60年あたりにして人生を考えるだろう。一億総中流、日本的雇用慣行が信じられてた時代には、一度大企業に入れば自分の人生はずっと安定と思えた。非正規が増えた今は、そうした考えを持てる人は減っているし、その中で長寿化が進む

9月17日

 午前中は特に予定がなかったので寝る。論文を少し書いて、午後にミーティング…それをもとに分析で1日が終わる。ACS 5 yearsの1%サンプルを使って分析をしているのだが、国勢調査1%相当なので、単純にアメリカの人口で割るとサンプルサイズが1500万程度になり、私のラップトップではまともに動かせないので人口学研究所のremote desktopを使うことにした。それ自体は問題ないのだが、windowsになるのでショートカットが異なり面倒くさい。ストレスが溜まるタイプの作業だったのでかなりアイスを食べてしまった。


直近の日程としては、来週にPAAの締め切りがあり、10月末には別の論文の締め切りがある。その合間に進級試験があり、論文を読んだりエッセイを書いたりしなくてはいけない。そうしているうちに、あっという間に11月になる。

September 16, 2020

9月16日

 今日は前日にかなり早く寝たので7時ごろ起きた。9時から2時間半程度の博論輪読セミナー。外でカレーを食べ、ランドリーを済ませ、メールに返信したりしつつ、午後は久しぶりに新しい論文を書いてた。学校トラッキングとスクールエフェクトに関するもので、自分にとっては未知の世界。夜ご飯を作り、ルームメイトとシェアして食べた。台湾の名前の付け方のカルチャーなどを教わる。夜にreadi。

博論輪読セミナー第2回

今日の授業は前回に引き続き、私が指名した卒業生の博論に触れる回だった。この授業ではまず博論を読み(先週)、その後に博論が元になった(あるいはlitになる前にすでに出版された)論文の査読過程をレビューする(今週)。卒業生が寛大にも自分が投稿したときの原稿、レビュアーからのコメント、改稿、改稿へのコメント、など出版に至るまでのドキュメントを全て共有してくれることで、この授業は成り立っている。

前回も述べたように、この卒業生の博論の一章はアメリカの社会学でトップジャーナルとされる雑誌に掲載されたもので、この雑誌への掲載率は4-5%と非常に狭き門である。そのような雑誌に掲載された論文なのだから、さぞかし最初の原稿から洗練されているのだろうと思っていた。

予想は若干異なった。

まず、レビュワーのコメントを読む前に、最初の提出原稿を2度ほどよみ、コメントをつけていく、イントロが長い、投入する共変量への説明がない、レビューが薄いところがある、色々とコメントはあった。その後にレビュワーのコメントを読むと、同じようなところに言及しており、やはり誰が読んでも物足りないと思うところは変わらないのだと思った。もちろん、レビュワーのコメントの方が非常にクリティカルで(とはいえそのレビューを経ても先週色々批判されたわけだが)、これらのコメントを踏まえて改稿した原稿は、ほぼ完成原稿に近かった。2度目のレビューで新しく査読者が入ったり、元々の査読者が突如として奇抜なことを言って結果のプレゼンテーションなどが変わっていたりしたが、コアな部分は最初の改稿でおおよそ済ませたことがよくわかった。

最初の原稿は私の目から見ても改善の余地が大きそうで、それは完成原稿を見ているからそういうコメントになるのかもしれないが、一方で完璧な原稿ではなくてもトップジャーナルからR&Rをもらえるのだと思うと、少し勇気づけられた気がする。

レビュワーのコメントに私が個人的に首肯しないところがあったり、その人がレビュワーの従った結果、セミナーで先生に批判されたところもある。というわけで、一つの学びとしては、間違った指摘は間違っているとちゃんというべきなのだろうなと(当たり前に聞こえるかもしれないが)思った。ただ、レビュワーの指摘が間違っている場合は、きちんとその理由を示さないといけない(当たり前だが)。ただ、トップジャーナルでR&Rにもなって、しかもジョブマーケット前の学生という立場となると、面従腹背アプローチの方がセーフティに思えてしまうのも無理はないというコメントもあり、これは確かにそうだなと思った。この人は実際にジョブマーケット前にトップジャーナルへの掲載を実現し、トップスクールへの就職を成し遂げているので、色々論文へのコメントはあるが、結果としては成功しているのだろう。

論文を読みながら、いくつか行っている分析でサンプルサイズがありえない程度に違うところを見つけた、再度確認すると博論でも変わっていなかったので、おそらく最終的に出版されたものでもその怪しさは残ったままなのだろう。一瞬再現できるか試してみてコメンタリーでもかこうかと思ったが、労多し益少なしなので諦めた。その延長で、セミナーでは経済学のジャーナルなどでdata editor、あるいはハーバードのIQSSが論文提出前の分析結果のチェックを行ってくれるという話を取り上げた。大学間で格差が生じないようにするためには、威信の高いジャーナルはdata editorを用意して、アクセプトされた論文の再現性はチェックした方がいい気がする。もちろん、そうするとさらにコストがかかるわけで、投稿料や掲載料が上がるのかもしれない。それでも、分析結果の透明は非常に大切だと思う。

日本で細かく分析するカルチャーに育ったところがあり、話の大きさよりも分析の緻密さが大切だと思った時期にないとはいえない。しかし、アメリカの大学院に来て感じるのは、まず論文を評価する軸は、問いの大きさであり、その問いを明らかにすることで既存研究にどういう貢献ができたかというところがまず先に来る、それは手法に関係ない。

適切なデータを選ぶことも非常に重要だが、分析手法がベストではなくても、(アメリカの)トップジャーナルのR&Rは難しくない気はする、というより変にこだわりすぎる必要はないと思う。一つにはレビュワーがどの手法がベストかに関して異なる意見を持っているので、結局多かれ少なかれ指示に従っていじる必要があるから、という実際上の理由もある。もちろん、手法次第によってサブスタンティブな結果が変わったりすることもあり、その場合はレビュワーのコメントはかなりクリティカルになるだろう。

やや難しいのは、メソッドはコンテクストフリーなところがあるので、日本でトレーニングしていてもアップデートは難しくないとは思うのだが、既存研究で何が抜けていて、その中で何を今埋めるとレバレッジが相対的に大きいのか、というのはかなりコンテクストに依存する気がしている。こう言った部分を手っ取り早く、日常のインタラクションの範囲で把握するためには、アメリカの博士課程に進学するのが最も手早いことは、想像に難くない。

September 15, 2020

teaching第2回反省

 2回目といいつつ実際には指導教員が教えるはずだった一コマを代わりに教えたので、3回目だった。学生が一人抜け、一人加わり6人のままでスタート。先週の反省を踏まえて、レスポンスを読んでいたらいくつかの質問は関連づけられると思ったので、ひとつずつチャットボックスに書いてもらうよりも、私の方で指摘した方がいいかなと考えて今回は最初に簡単な振り返りをして、クイズをだし、その後にこちらから質問をレビューして行った。先週に比べると多少オーガナイズされて、効率的に議論できたと思う。その代わり、最後に時間が余ってしまってモゴモゴしてしまったのは反省点。時間が余った時にやるべきことを頭に入れておくべきかもしれない。あるいは、多少時間が足りないくらいに議論のネタを考えておくべきなのかもしれない。

いくつか反省点。こちらは全員の質問を見えているのだが、レスポンスを出した学生は自分の質問しかわからないので、コンテクストを共有してもらうためにもこちらでまとめるよりも学生に話してもらった方が発言機会の確保にもなると思った。

もうひとつ、構成的に一人の学生の質問だけ十分にカバーすることができなかった…自分の質問が触れられなかった学生の気持ちは痛いほどわかるので、どうするべきか、自習までに考えたいと思う。この手のことがあるので、やはり一人一つ上げてもらう方がいいのかもしれない。

September 14, 2020

9月14日

 午後3時過ぎまでティーチングの用意とプリセプト。終了後シャワーを浴び、worse のアップロード、ゲストへのメール。試験の日程調整、セミナーのリマインダ用意、水曜の授業の用意。実際にトップジャーナルに載るまでのレビューを先輩が共有してくれて、それに基づいて議論するのだが、かなりありがたい。普通に2年はかかるのだなと思った。その後学生のレスポンスへの返答。夕食を食べ、寝て、散歩。その後CCCのセミナーに参加。

中国の家族についての話で、mosaic modernityを応用して、個人主義と家族主義の両方が混濁して共存する家族モデルの理論を提示している。理論なのかどうかはよくわからなかったが、ひとつ面白かったのは一人っ子政策の結果、女子の一人っ子が増え、かつては異なる家に嫁ぐ父系的な家族規範が強かったのだが、最近の中国では双系化、つまり結婚後も女性は両方の家とつながりを持つようになっているという。つまり、嫁入りした女性も、将来的に嫁ぎ先だけではなく自分の親のケア役割も期待されているということだ。これを反映して、かつては嫁入りしてきた女性にケア期待をしていた義理の親たちも、その女性と本当の親子のように接しないといけなくなっていると論じる。面白いし、中国に限らず日本でも少子化とともに取り上げられ始めた問題のように思える。論点としては、福祉制度が整っていない、あるいは家族主義であることに言及した方が良いと思った。また、この手の話でいつも感じるが、こうした急激な家族の変化を経験しているのはどちらかというと都市部の家族だと思うので、地方で同じような変化が見られるのか、見られないのか、分岐するのか収斂するのかのシナリオも議論すべきだろう。

その後チケットの変更。予約はできたがエラーがあったとかで電話をしないといけない、面倒だ。

September 13, 2020

9月12日、隠れたカリキュラム、全米オープン、火鍋、家族社会学会

今日はオフで研究はせず、ゆっくりと1日を過ごした。朝起きて、リビングにカラルコさんが最近出した大学院における隠れたカリキュラムに関する新著があった。ルームメイトが買ったらしい、買うまではないかと思っていたが、そこにあるので読んでみたくなり、2章ほどさっと読んだ。第1章は大学院をどう選択するかという内容で、出願時には考えもしなかったが、実際に入ってみると重要だと思うところにも言及があり、これから出願を考えている留学生にもいい本だと思った。学部のホームページを見るとどの学生がいて、どういう関心を持っていると言った表面的な情報はわかるが、ホームページに書かれていない情報、例えば学部の「文化」などは実は重要だと思う。

例えば、ウィスコンシンは学生間の紐帯が強く(大都市から遠いこともあってみんなマディソンに住んでいる)、誕生日パーティーがあるときには学部の人を招くなどインフォーマルなイベントが多かったのだが、かたやプリンストンでは近郊に大都市があり、必ずしもキャンパス近くに住む必要のない学生が多いこともあって、こうしたイベントはない。カラルコさんのいるインディアナ大学社会学部ではソフトボールや室内サッカーのサークルがあるらしく、教員も混じってプレーしているのは微笑ましいなと思った。こういう仕事以外での人間味のある付き合いというのは、プリンストン では相対的に希薄だと思う。

もちろん、それがあるかないかが決定的に重要かというと、そうではないのだが、カラルコさんはそうした細かい部分の差(この差は実際には隠れたカリキュラムなのだが、学部の文化が書かれていないから重要じゃないかというと、そうではないという意味では、関係するだろう)が蓄積した結果、最終的に学生のメンタル面にきいてくるという主張をしているので、気になる人は出願時やビジットの時にクリアにしておくといいのかもしれない。第2章の、研究に際して人に求める役割を同じ人に求める必要がないという話は眼から鱗というか、この章を読んで自分は指導教員の多くの役割を求めすぎなんだと気づいた。

そのあと昼ごはんを食べて、論文を読む。4時から全米オープン。第1セットはこのテニスをやられたら誰も勝てないだろうというくらいにアザレンカの勢いがあったが、第2セットの途中から大坂も緊張が抜けてミスが少なくなっていったように思えた。毎回太ももを叩く仕草が気になり、怪我で棄権しないか心配でしかたなかった。

第3セットの途中で大坂がブレイクに成功したところで出発の時間になり、火鍋ディナーへ。ルームメイトの友達の集まり、5人でレストランの外で食べた。NJは25%収容率で室内飲食も認めているが、今回は安全を考慮して外にした、ただこのところ夜は少し寒い。社会学部の新しく入った一年生にも会えたのでよかった。

帰宅してその足で家族社会学会。アメリカからでも日本の学会に参加できるのはありがたいが、やはり現地会場に行くまでのワーケーション的要素も学会の醍醐味であることを再確認した。zoomの議論に慣れていないのか、質問が出るタイミングがいつもの学会より遅い気がして、沈黙を嫌ってしまった私は意味のない質問をしたりしてしまったが、興味深い報告も聞けてよかった。東大にいる時よりも、アメリカから参加していると「よそ者」のように思われていないか気になってしまうのですが、多分杞憂であることを願います。

学歴下降婚夫婦の男性はより育児に参加する

つぶやいた論文の追記

学歴同類婚の帰結に関しては所得格差などが多かったが、この論文では家事育児時間の分担について検討しており、先行研究が足りていないところを埋めてくれてありがたい。

家族人口学のジェンダー革命の理論では、高学歴の女性が新しい価値観の家族を形成し、それが他の階層にも伝播していくというモデルがある。この理論を家族間ではなく、家族内にも適用した研究と言えるだろう。

ただし、学歴に限らない夫婦の地位の組み合わせについては、これまで相対的に所得の高い妻の家事行動については検討がなされている。これによれば、ジェンダー研究者によってdoing genderと呼ばれる現象、つまり所得が夫よりも相対的に高いという意味で既存のジェンダー規範から逸脱している女性は、それを穴埋めするために余計家事をしてしまう、というパターンが見られる。ただし、これは家事についてで、育児については女性の所得が高くなるほど男性の育児負担は増え、平等になっていくという指摘がある。この説が正しければ、学歴でも下降婚の場合、男性は少なくとも育児をよりするようになると予想される。

これとは別の文脈で先ほど指摘したジェンダー革命の理論は家族形成におけるジェンダー革命に対する学歴の重要性を指摘してきた。この命題が正しければ「革命」は高学歴同類婚のカップルによってリードされると予想される。

この論文では仮説を明確には設定していないが、相対的資源仮説が正しければ、学歴下降婚カップルの夫はそうではない場合よりも家事ないし育児をする一方、ジェンダー革命の理論からは少なくとも高学歴同類婚カップル、あるいは女性の方が学歴の高い下降婚カップルでも夫の家事ないし育児時間は増えるのではないかと予想している。

アメリカのCPSからサブサンプルをとってきたATUSを使って分析をした結果、学歴下降婚カップルの男性の方が同類婚カップルよりも育児時間が多い傾向にあり、それは主として大卒女性と高卒男性のような女性の学歴が比較的高い場合に確認されることがわかった。

結果は記述的だが、高学歴の男性ほど育児をするという主張がある一方で、この論文の主張は学歴が高くない男性でも妻の地位が高い場合には育児をするのではないかという示唆を提示した点で興味深いと思った。

疑問だったのは、最終的にこの論文では全てのサンプルを用いた予測確率を用いているが、最初の分析は高卒ないしsome college(大学に通ったことがあるけど卒業はしていない)に限定している、根拠は彼らが唯一上昇婚も下降婚もできるからというもので、逆にいうと大卒は上昇婚ができないので反実仮想の状況が同じではないという理屈だった。

わからなくもない、条件付きロジットの発想に似ているが、個人は大卒を選択した時点で上昇婚の選択肢を失っている。ただし、この大卒グループでは同類婚か下降婚かが選択肢であり、その意味では最初の分析を高卒に限定するだけではなく、学歴別に分けた推定した結果を示せばよかったのではないかと思う。それ以外は(多分スティーブ・モーガンがコミティにいるからか)変に因果的な話に拘っていた点を除き、個人的には興味深い研究だと思った。

September 11, 2020

9月11日

 あっという間に金曜日。今日は休養ができた先生の代わりに、セクションを代わりに行った。1週間に2つセクションがあると、やはり多少疲れも出てくる。その前にはポッドキャスト。お昼を食べて寝て、コロナの検査、買い物、帰宅して自分のセクションの学生に対してフィードバック。

September 10, 2020

博論輪読セミナー第1回

人口学プログラムに在籍していると、三年生の必修として博論プロポーザルを仕上げるためのセミナーを履修する。以前書いた説明をそのまま持ってくると。

この水曜の授業は、人口学プログラムに所属している院生は必修の授業で主に博論プロポーザル(prospectus)を提出する人向けの授業になっている。目的はシンプルに過去に人口学プログラムを卒業した先輩の博論、および博論を基にした投稿論文でのレビュアー、エディターとのやりとりを読み、博論までの過程を脱神話化することが狙い。博論を書く作業は長く、孤独で悩むことも多いので、取り組み始める前に必要以上にハードルを上げないようにする試みと言えるだろう。

今週から実際に博論を読んで議論する回だった。運がいいのか、悪いのか、初回は私が指名した博論が担当だった。(余談:ティーチングもそうだが、いつの間にか授業で議論をリードする役目を自然に押し付けられる()学年になってしまった。渡米前ではとても考えられない、もっとも進行は拙いのでまだまだ勉強中)。

オーソドックスな家族人口学と社会階層論のミックスがきいた博論で、シンプルに「富」が結婚に与える影響を検討している。それだけだと当たり前のことを検討しているように聞こえるかもしれないが、単なる収入や学歴が結婚に与える影響と異なって、ストックである富自体が人口学的なアウトカムに与える影響は、最近の流行の一つである。富の蓄積過程は社会階層論におけるライフコースアプローチの古典とも言えるが(Spilerman 2000)、富の「効果」については、この10年くらいでいくつかの家族社会学の研究が「富の象徴的側面」の重要性を示唆する研究を出している(Edin and Kefalas 2005; Cherlin 2005)。

この背景にあるのは結婚と出生の関連が弱くなり、同棲パートナーシップを歩む人が増えたというアメリカ的な事情が背景にある。必ずしもする必要のなくなった結婚をなぜ人々はするのか、そしてなぜ結婚に至る割合に階層差があるのか(高学歴の人ほど結婚しやすく、SESが低い人ほど不安定な家族形成を歩みやすいというdiversing destiniesの話)、家族社会学者のCherlinによれば、それは結婚におけるシンボリックな価値が相対的に強まっており、結婚は人生における集大成(capstone)イベントになっているからであるという。結婚してから相手を見極めるのではなく、ある程度連れ添った相手と達成の意味を込めて結婚をする。そうした結果としての結婚、という意味合いが強くなると、結婚に至るまでに成し遂げておかねばならない事項があり、その一つが富の形成(資産や住宅の保有)であるというのだ。日本でいうと、ある程度会社で地位を築いてからプロポーズする感じだろうか。

前振りが長くなったが、こうした結婚における象徴的価値の重要性を指摘した研究は質的研究が最初で、量的なデータでより広い人口を対象に検討した研究は限られていた。私が指名した博論は、この問いを検討した初期の研究であると言えるだろう。

構成はアメリカでよくある、独立した経験的な問いを検証したチャプター3つ+イントロと結論。最初の章は博論提出時にすでにトップジャーナルであるAJSに掲載されていた。そうしたことが先入観に影響し、この博論を指名した時は、他のチャプターもきっと水準が高いのだろうと思っていたのだが、読んでいくうちに色々疑問も生まれていた。よく書かれているけど、笑かない部分もちらほら、と。

そうはいっても、アメリカの人ならとりあえずナイス、グレート、アメージング、ファビュラスなどと言って済ませるんだろうなと思ってセミナーに臨んでみたのだが、博論は予想以上にコテンパンにされた。アメリカでここまで人の論文がこき下ろされる機会は初めてで、日本にいた時を懐かしく思い出す、不思議な3時間だった。授業の最初で、主観的にこの博論が十点満点中何点かと先生が冗談めかして匿名のアンケートを取ったら、参加者はみな6-7点をつけて、まあ中の上くらいかなと(今思うと最初から結構厳しめだったと思うが)判断していたのだが、授業を受けた後に点数をつけ直すとすると、多分4-5点くらいになっていただろう。

もちろん、批判されて然るべき点があるから批判されるのだが、一応、プリンストン大学ってとっぷすくーると言われているし、博論を書いた本人も初職からトップ校に就職したりしてるので、間違いなく評価の高い博論であるはずなのだが(確かに、問いは非常に大切だと思った)、外面から予想される以上に論文は不完全なのだなと思った。特に、査読されていない後半の2章は、もう、すったもんだ、書くのが憚られるくらいのホラーだった。開けたての査読コメントを間違って開いてしまった気分。

日本だと、本人がいる前で焼畑農業が行われるので、コメントされる本人にとっては本当に辛いこともあるのだが、幸い(?)アメリカの焼畑農業は本人がいない場で行われるので、多少気配りが効いているのかもしれない。

いくつか、詳細に入らない範囲で、他の論文にも通じそうな論点をメモしておく。

・検討したい仮説のレビューがアンバランス

この博論では、上記のように富の象徴的側面をメインに検証したかったのだが、富が結婚み与える経路、メカニズムはそうした文化的なものに限られない。そこは当人も気づいており、レビューの上で他の仮説も検討しているのだが、その一部はメインに検証している仮説に比べると、レビューが弱く、何を根拠にして言っているのか、自明ではないところもあった。

・サンプル、変数の定義が不明瞭、結果の再現ができない

イベントヒストリーを行なっているのでリスクセットに入る人口の定義が重要になるが、どのような人は入って、入らないのか、必ずしも明瞭ではない。富などの変数の定義も、満足ではない。例えば、ミッシングは全体として何%あったとされているが、どのような特徴を持つ人に多かったのか、そうした記述統計はなかった。ミッシングがどれだけ深刻な問題を引き起こすのかも議論が薄かった。

・ある章では検討される仮説が別の章では検討されない

データの限界などでそうしたことは生じうるが、最初の章では2つの仮説のみが検討され、後半では3つ検討される理由が明確に書かれていなかった。

・変数操作化の議論が薄い

この博論では、上記で挙げた研究を念頭に車の保有や、預金額、家の所有が富の指標とされたのだが、博論はその定義をそのまま使っており、他にありうる富の指標は何なのか、この操作化に問題点はないのか(例えば車の保有は車が必要ではない富の指標なのか)、そうした議論はほとんどなく、ある意味で先行研究の定義を踏襲している。質→量の流れはクリアだが、本当にその操作化で良かったのか、もっと丹念に検討されるべきだった。

・因果ではないのに筆が走る/因果ではないと書きすぎると奇妙

これはバランスが難しいが、サーベイデータを使って共変量の調整などシンプルな回帰分析をしているので、因果(富が結婚を引き起こす)に言及するのは難しい、これは誰でもわかることである(ただし、富の象徴性仮説は、結婚しようと思った時に資産が必要だと思ったのである程度貯蓄して車を購入した、みたいな経路も含んだ理論だと思うので、内生的でも問題ない気はした、著者は気づいているような気もしたが、明確には書いていなかった)。ところが、因果ではない、ひたすら壮観ですよと言って書きすぎると、文章が非常にawkwardになる(富がない場合に比べてある場合の方が結婚タイミングが早い傾向にあることが示唆される…みたいな)。しかしクリアに書こうとして「富が結婚に正の効果を持つ」みたいに書いてしまうとイエローカードが出る。塩梅が難しい。

・モデリングの説明が間違っている

・なぜ分析に使用したデータがベストなのかの説明がない

・帰無仮説を対立仮説にしている。

・有意水準のみで議論していて、サイズに関する議論が少ない(まあ2012年の博論だが)

・仮説の少なくない部分が交互作用の結果に依拠していて、標準誤差が大きいために支持できていない可能性があるものが散見される、その議論もない。

その他、色々こき下ろされた。まさか自分が尊敬する研究者の博論がここまで批判されるとは思っていなかったので、本人ではない自分も冷や汗をかいてしまった。

先生は当初、この授業を受けると高めに設定していた博論へのハードルが下がるからとあっけらかんとしながら、言っていた。たしかに、トップ校に就職する人の博論もこれだけ弱点があると考えれば、ハードルは下がった気もする。その一方で、どんなに頑張っても将来授業でこれだけ叩かれると思うと、今設定しているハードルがさらに高くなった気もしている。

と、色々と新鮮な経験をさせてもらった3時間だった。こういう授業を受けられるのは幸運だと思うので、次からは外面に騙されずにもっとクリティカルに読んでいこうと思う。

September 9, 2020

9月9日

 午前中にセミナー、その後コロナ、および兄弟論文。洗濯、お昼はなめろう。野球を見る。その後現代日本社会論の用意。

September 8, 2020

9月8日

 寝過ぎてしまい予定が狂う。午前中は水曜の授業の用意をして、セミナー中にコロナの分析。その後テスティング、郵便、グロサリーで買い物、本の回収。帰宅して課題を提出。4時。夕食はなめろう。readi終了後シラバス作り。

September 7, 2020

teaching第1回反省

第1回目のティーチングが終わった、現代日本の授業。生徒は6人(次回から7人)。予想していたよりも何を言ってるのかわからないみたいなことはなかったと思う。自分の答えが相手の意図に沿ったものなのかわからないときはいくつかあった。これは普段の授業でもそうなので、起こりうることだと思って気にしない。3時間の大学院セミナーに慣れていると、50分のセクションは本当に短く感じる。

ちょっと話しすぎたかもしれないと、隣の部屋にいたルームメイトに言付けされる。たしかに、いわれてみると、こちらが質問しても基本一人の学生が答えて、他の学生が乗ってくる、みたいな状況がほとんどなかったので、会話が一方通行になりがちだった。反省。オンラインだと、なかなか3人以上になって議論するということが起こりにくい。

学生の中には日本に詳しい人もいるし、そうでない人もいる。どこにラインを設定するのかは少し難しい。今日はちょっと説明に重きを置きすぎたかもしれない。ルームメイトから、最初の1分でわかったところ、わからなかったところをチャットボックスに書いてもらうというテクニックを紹介してもらったので、それを実践しようと思う。レスポンスは提出されているので、二度手間なのかもしれないが、受講生も自分が提出したレスポンスを完全に覚えているわけではないと思うので、その場で気になったことを改めて上げてもらう方がいいのかもしれない。

10秒でも沈黙は結構辛い。この沈黙が、考えているために生じてる沈黙なのか、私の英語が分からなくて困ってることで生じてる沈黙なのか、両方の可能性があると考えると、ついつい口を挟んでしまう。次からは、10秒までの沈黙ならガマンした方がいいかもしれない。

内容面:現代日本の授業はバブル後の30年が舞台で、初回は全体の概観と、戦後からバブルまでの大まかな歴史のフォロー(朝鮮戦争、高度経済成長、都市化、オイルショック、バブルなど)。 第1週2回目は、人口問題。結婚の減少、それに伴う少子化、余命の伸長も相まった高齢化、独居老人の増加、社会保障、年金の問題、移民(これはのちに扱う)。教科書はKingstonのContemporary Japan、本当に悲観的な論調で日本社会を論じている本である。

NYTの孤独死の記事がアサインされた。常盤平団地の孤独死の問題。受講生はレクチャーや他のリーディングよりも、孤独死がかなり印象に残ったようだ(もう一つは、日本でよく見る、1人の老人を何人で支えているかの図)。もしレクチャーでわからないことがあったらと一応想定問答を用意していたのだが、プリンストンの学生はスマートなのか、内容は分かった上で質問していたので気苦労だった。教える側としては、同じことを繰り返さなくていいので、手がかからずありがたいと言えるかもしれない。

素朴かつクリティカルな質問、孤独死する人に家族はいないのか?

記事では夫と子どもに先立たれた女性が取り上げられているが、受講生の一人はそれは珍しいだろうと(確かに子どもに先立たれるのは珍しいかもしれない、ただ女性が夫に先立たれる例はままあるだろう)、しかし記事にあげられた団地に住む人の多くは一人暮らしで、似たような状況のように描写されている。何故そんなことが起こっているのか?

本当に家族が「いない」場合もあるだろう。記事では会社が倒産して家族と縁を切られた男性も紹介されていた。日本的な文脈だと、一度失敗した人が家族と縁を切られるというのは、確かにあることだと、悲しいことだが、理解できるだろうが、失業が珍しくないアメリカでは、これもストレートには入ってこなかったかもしれない。

家族はいるが、疎遠になる場合も珍しくない。孤独死に関する文献を調べていると、社人研の調査で独居の65歳以上の男性の2割近くが2週間以上誰とも話していないとする結果が引用されていた。2割を多いと見るか、少ないと見るか。いずれにしても、私はこういう独居の高齢者、特に男性は珍しくないと思う。特に都市部においては。今思い返すと、「孤独」の定義はなんなのか、議論してみても面白かったかもしれない。一人暮らしの人は孤独のリスクは高そうだが、独居だからと言って孤独であるとは限らない。何が孤独を構成するのか、社会学的には面白いだろう。

何故そこまで疎遠なのかと聞かれる、難しい。子どもの側が親世代を忌避しているのか?それはあるだろう、意識を見ても親に対するケアを当然視する考えは後退していて、自分の子どもの面倒を見てもらうために同居すると言ったような戦略的な家族も増えている。ただ、親の側で「子どもの面倒にはなりたくない」と考えている人が増えているのも、事実だろう。その意味では、日本で増えている孤独死の一部は、過剰だった親戚付き合いを自分で忌避した人々の選択の結果なのかもしれない。孤独死する人に家族はいるとも言えるし、いないとも言える、なかなか物事はすっぱりまとめることができない。

アメリカの社会学部で現代日本の授業が開講されるのは、実は意外と珍しいのではないかと思う。単純に需要がないとも言えるし、教えられる教員も(中韓に比べれば)少ない。ただ、なんだかんだ興味を持ってくれる人はいるので、この機会を自分も楽しみたい。日本から来た留学生が、アメリカの大学に在籍する学生に対して日本社会の授業をするというのは、ユニークな機会である(日本から社会学を学びに来る留学生が圧倒的に少ないし、日本に関する授業も少ない、レアオブレアである)。人口学の授業を教えるのとは、また違った難しさがあり、楽しみたい。

September 5, 2020

9月4日

 きょうだい論文、コロナ、博論購読など。きょうだい論文は本当は夏に終わらせるはずだったけど色々あってまた遅れ、正直モチベーションを失っている。本当は階層論のシラバスを作らないといけないのだが、他にやらなきゃいけないことに囚われてできていない。readiの調整など。昼にカレー、夜にナポリタン。

September 4, 2020

9月3日

ここ数日、ドラマ「愛の不時着」にハマってしまって、暇さえあればドラマを見てしまっていた。既に見た方はお分かりのように、絶対あり得ないストーリーなのだが、本当に起こっている、あるいは起こりうることのように見せてしまう俳優の生き生きとした演技がよかった。一人ひとりのキャラが濃いだけではなく、本当に彼らは時間と場所を共にして生きていたんだなと想像できるくらい、関係性が作り込まれていた。北朝鮮編のピクニックや、ソウル編の誕生日サプライズの下りなんかは、本当に心が暖かくなった。北朝鮮の村の様子がどれだけ事実に基づいているのかは分からないけど、日本の昔を見ている錯覚もあり、南北の分断という朝鮮半島独自のコンテクストもあり、いろいろな感情が交錯したいいドラマだった。

そんなこんなで今日はやや目覚めは良くない。朝にコロナのテストを受けに行き、その足で水曜の授業で読まなくてはいけない博論を4本、オフィスのプリンターで印刷した、600ページ程になる(そのことをzoomで先生に話したらやや飽きれられた…)。

この水曜の授業は、人口学プログラムに所属している院生は必修の授業で主に博論プロポーザル(prospectus)を提出する人向けの授業になっている。目的はシンプルに過去に人口学プログラムを卒業した先輩の博論、および博論を基にした投稿論文でのレビュアー、エディターとのやりとりを読み、博論までの過程を脱神話化することが狙い。博論を書く作業は長く、孤独で悩むことも多いので、取り組み始める前に必要以上にハードルを上げないようにする試みと言えるだろう。

履修者は4人と少人数(社会学から人口学プログラムに参加している私含めた2人+人口学博士課程の2人)。各自が一つ自分が担当したい博論を選ぶ。どの博論もその分野で一流の人によるものなので、多分博論の時点で既に完成されてるんだろうなと思っていたのだが(それはもちろん事実で、例えば私が担当する博論は、3章のうち1章が提出時点でAJSに掲載されていた)、いざ来週の私が担当する博論を読むと、イントロの部分は意外とlit reviewが弱い気がしたし、3章書いた後に軽くまとめました感があってやや拍子抜けした。もちろん問いに至るまでの流れはシャープなのだが、もっと時間をかければ厚くできただろうところを、あえて手を抜いている気がした。それはおそらく、この博論を出版するつもりもなく、論文に掲載されるのは分析をした3章分(典型的な3 chapter dissertation)なので、イントロの重要性は相対的に低いからかもしれない。来週以降、ジャーナルの査読プロセスについても実際のやりとりを共有してもらえるので、かなり実践的な側面もある。

日本でも、各自の研究室を卒業した人の博論はすぐに手に入るので、こういった授業が必修であってもいいかもしれない。ただ、日本の場合、大学間であまり競争がないので、私の母校みたいに学生に任せたスタイルが今後も続く気がする。競争があると、自分のところの学生をいいポジションの大学に就職させようというモチベーションが働くので、こうした学生目線で有益なコースも増えるのだろう。

その後コロナのミーティング、夜ご飯にたこ焼きを作った。だんだんコツをつかめてきたみたいで、うまく焼けると楽しい。鉄板の前でずっと作業してるので、1日でかく以上の汗をかいてしまう。

政治。安倍さんの8年間は、派閥単位で政治が決まるのを忘れられたという意味ではよかったかもしれない。実際には派閥は無くなったわけではなく、安倍一強だったので見えにくくなってただけだった。8年ぶり、あるいは民主党政権を入れれば10数年ぶりに旧弊を見せられると、見てる側の落胆も大きそう。