17日
あまり寝られず、8時に起床、朝ドラを見て、ご飯を炊き朝食を作る。またしてもスパニッシュオムレツを作ってしまう。その後、ゼミ、こくわで昼食をとりまたゼミ。読書会の部屋をとったり、地熱の関連の仕事をしたり。
18日
ぐっすり寝てしまい遅くに起床。のろのろ朝食を作ってから、待ち合わせの時間に遅れていたことに気づいてしまう。急いで大学に行って、UPの時に会った友人と昼食をとりながら近況について話す。終了後院生室に戻り、作業。社研図書館から某社の社史を借りて来て、しばらく読み込む。残りは論文の改稿など。帰宅する頃に量の仕事が入って、その足で合流。話し合いを済ませ、部屋に戻って結婚式関係の仕事などを済ませる。
19日(金曜日)
前日にしっかり寝てしまい、逆にねれず起床は9時過ぎ。余っていた豚肉を処理するために肉そばを作っていると、いつの間にか10時前になる。急いで準備をして、大塚駅へ。駒場について、保健センターの整形外科の受付に行く。周りはスポーツをしてけがをしたという感じの人が二人、一方自分はといえば3ヶ月前から来る肩の違和感。頚椎が不味くなっているという診断ではなく、場所から重い肩こりということだった。なぜ右と左で痛みが違うんでしょうかと聞くと、目も均一に悪くなるわけではないでしょうと返される。一応薬をもらって、1200円程度で済んだ(相変わらず思うが、保健センターは本当に安い、保険証がないのだから、いくらカバーしてくれてるんだろうか)。
診察が終わった後、書籍部を見て教養学部報をとり、叔母にお土産を買って渋谷へ。ESTで卓球を1時間ちょっと。終了後別れ、自宅に戻ってすぐ帰省の用意を済ませ、上野駅へ。駅ナカの洋菓子店でケーキを買って特急に乗る。
電車の中で一眠りして、水戸駅について歩きで病院へ。今日の祖母は言葉を発することはなかったが、一生懸命痒そうなところを自分でかいていた。帰宅後、母の50歳の誕生日を家族で祝う。いつもより遅くまで起きてたので、父は弟と寝てしまい、最後は母と久しぶりに二人でNHKのドラマを見ていた。
20日
早くに寝られたので7時半に起床。朝ドラを見ながら朝食を済ませ、新聞を見ながら弟の宿題につきそう。10時前に家を出て、弟をサッカーに送る。その後、祖母の家に行き、母と一緒に車を三往復させながら、自宅に仏壇や棚、布団などを車で運んだ。とかくと簡単そうだが、さながら小さな引越しのようなもので、かなり疲れた。
12時半になって弟を迎えに行き、近所のスーパーで昼食をとる。一度帰宅して弟を着替えさせ、母がプールに送りに行く。その間少々昼寝。祖母の家から持って来たものを入れなくてはいけないので、物置にあった自分の荷物を運ぶ。東日本大震災の時の新聞の切り抜きなどが見つかって、懐かしい気分になり、自分の家に持って帰ろうと、いくつか選ぶ。河口に引っ越してから、マンチェスターに行くときに荷物を置いていったのをそのままにしていたらしい。
片付けを済ませた後、プールに行った弟を迎えに行く。その後、病院へ。5時からの面会時間に向かい、祖母を見舞う。途中まで弟はデイルームで遊んでいたのだが、弟がベッドに来て祖母に呼びかけるとハッと眼を開いた。そこから、はいだったり、こちらの呼びかけに対して笑ったりと明らかに反応が改善。子どもの力をすごいと驚くばかりだった。
電車まで時間があったので、自分は一人残り祖母と1時間程度過ごす。弟が刺激になったのか、いつもよりもずいぶん活発的になった祖母に、半分喜び、半分(鼻に入った管を取ろうとするので)苦労しながら、一緒に時間を過ごした。
21日
夕方まで洗濯や部屋の掃除、それとレジュメを済ませて駒場に向かう。1時間ちょっとミーティングを行い、ムスカンで夕食。再び自転車に乗って帰宅。同じユニットの後輩の博士進学に際して抱えている悩みを聞く(風呂で、結果的に長風呂)。その他もろもろ事務作業を済ませる。
May 21, 2017
May 16, 2017
5月16日
正午に起床...一度8時に起きたのだが、目覚ましを見ると8時15分になっていて「あ、ひよっこ終わった、寝よ。。。」となってしまったのが敗因。
起床後、再びスパニッシュオムレツを作り、12時45分からひよっこの再放送を見る。終わってすぐ皿を洗い、1時05分から坂川くんのハートネットTVのドキュメンタリーを見る。30分という短さなのに、坂川くんの介助の1ヶ月、そして介助を通じて母や家族にインタビューし、重度の障害を持つ家族と一緒に過ごすということは一体どういう営みなのかというのを、印象的に描いてくれていた。彼の動機としては相模原事件を受けて「障害者の家族は不幸」という主張に対して意義を建てたいというところから出発したようなのだが、1ヶ月の介助を通じて彼が出した結論は(明示的に示されているわけではないが)、幸福/不幸の軸で考えること自体に対する疑義なのではないかと思った。そういう意味では、お母さんの言っていた障害者の家族は不幸だと考えさせる社会が悪いというのは、障害を持つ子どもを長年解除しているからこそ出てくる言葉なのかもしれない。もちろん、最初の頃はどうやっても泣き止まなかったり、辛い時期はあったのだと思うし、その時期を覆い隠しているわけではないということも、ドキュメンタリーを通じて伝わってきた。
終了後、感想を本人に伝えたら、「身近な問題に(内容を)置き換えて考えてくれるのが製作者として嬉しい」という旨のことを言われなるほどと思った。自分に障害を持った家族がいなくても、放送を見て他人事とは片付けず、自分の身の回りの状況に重ねて考えることも、ああいった番組の意義なのだろう。僕は祖母のことを考えながら、自分の状況についても考える番組でしたと伝えたのだが、まんまと制作者側の企図に応えてしまったらしい。
そのあと、地熱の分析をして、4時から蕎麦屋でミーティング。終了後、知人の雑誌に寄稿する連載の添削して昼寝して共著論文の手直し。帰宅後夕食を食べ、家族社会学研究をざっと見、届いた新書に目を通す。風呂に入って採点を少しして、日記を書いて明日に備える。
起床後、再びスパニッシュオムレツを作り、12時45分からひよっこの再放送を見る。終わってすぐ皿を洗い、1時05分から坂川くんのハートネットTVのドキュメンタリーを見る。30分という短さなのに、坂川くんの介助の1ヶ月、そして介助を通じて母や家族にインタビューし、重度の障害を持つ家族と一緒に過ごすということは一体どういう営みなのかというのを、印象的に描いてくれていた。彼の動機としては相模原事件を受けて「障害者の家族は不幸」という主張に対して意義を建てたいというところから出発したようなのだが、1ヶ月の介助を通じて彼が出した結論は(明示的に示されているわけではないが)、幸福/不幸の軸で考えること自体に対する疑義なのではないかと思った。そういう意味では、お母さんの言っていた障害者の家族は不幸だと考えさせる社会が悪いというのは、障害を持つ子どもを長年解除しているからこそ出てくる言葉なのかもしれない。もちろん、最初の頃はどうやっても泣き止まなかったり、辛い時期はあったのだと思うし、その時期を覆い隠しているわけではないということも、ドキュメンタリーを通じて伝わってきた。
終了後、感想を本人に伝えたら、「身近な問題に(内容を)置き換えて考えてくれるのが製作者として嬉しい」という旨のことを言われなるほどと思った。自分に障害を持った家族がいなくても、放送を見て他人事とは片付けず、自分の身の回りの状況に重ねて考えることも、ああいった番組の意義なのだろう。僕は祖母のことを考えながら、自分の状況についても考える番組でしたと伝えたのだが、まんまと制作者側の企図に応えてしまったらしい。
そのあと、地熱の分析をして、4時から蕎麦屋でミーティング。終了後、知人の雑誌に寄稿する連載の添削して昼寝して共著論文の手直し。帰宅後夕食を食べ、家族社会学研究をざっと見、届いた新書に目を通す。風呂に入って採点を少しして、日記を書いて明日に備える。
May 15, 2017
5月15日
やたらと〆切のあった1日だった。
月曜日!ということで早起きしてみようとするが、風邪の残りで咳が止まらず、寝たのは5時近くになっていただろうか。必死におきて、ひよっこを見て、朝ごはんにスパニッシュオムレツを作ってみた。
初めてなのでコツも何もないが、オリーブオイルでしっかり玉ねぎとじゃがいもを「煮る」のが重要なのかもしれない。玉ねぎが甘く、じゃがいもがホクホクになっていれば、多少焦げても美味しいだろう。
実家から持って来た炊飯器でご飯も炊いたのだが、あいにくしゃもじを忘れたのでスーパーに買いに行く。ポイントカードの加入手続きが意外と面倒だった。採点などをして、少し寝る。11時過ぎに学校について、報告書や共著論文の改稿、論文の購読など。本を返して複写資料を取りに行き、昼はこくわがたのきまぐれ並。複写資料をスキャンして、読む。いくつか論文執筆に有益となる箇所を見つけられたのでよかった。採点を済ませ4限に。終了後、しばらく寝て、再び論文執筆、提出。帰宅後、申請書を書いて、〆切のブツを終わらせる。買い物に行って、ストレス発散。
帰宅してすぐに叔母から電話があった。取れなかったのでかけ直すと、今日の祖母は随分元気だったということ。一言喋ればいい方だったのに、こちらの呼びかけにはいと答えて、暑いねと言ってみたり。叔母は相当嬉しそうだった。自分もその場にいるかのように、祖母の声が反復される。やはり祖母は誰が来て、何を言ってるかくらいはうっすら分かるのだろうと思う、それをうまく言葉にできないだけなのかもしれない。リハビリのしがいがあると思いたい。
明日は午前中に地熱の作業を終わらせたい。あとは申請書と共著論文、あと英語関連。
月曜日!ということで早起きしてみようとするが、風邪の残りで咳が止まらず、寝たのは5時近くになっていただろうか。必死におきて、ひよっこを見て、朝ごはんにスパニッシュオムレツを作ってみた。
初めてなのでコツも何もないが、オリーブオイルでしっかり玉ねぎとじゃがいもを「煮る」のが重要なのかもしれない。玉ねぎが甘く、じゃがいもがホクホクになっていれば、多少焦げても美味しいだろう。
実家から持って来た炊飯器でご飯も炊いたのだが、あいにくしゃもじを忘れたのでスーパーに買いに行く。ポイントカードの加入手続きが意外と面倒だった。採点などをして、少し寝る。11時過ぎに学校について、報告書や共著論文の改稿、論文の購読など。本を返して複写資料を取りに行き、昼はこくわがたのきまぐれ並。複写資料をスキャンして、読む。いくつか論文執筆に有益となる箇所を見つけられたのでよかった。採点を済ませ4限に。終了後、しばらく寝て、再び論文執筆、提出。帰宅後、申請書を書いて、〆切のブツを終わらせる。買い物に行って、ストレス発散。
帰宅してすぐに叔母から電話があった。取れなかったのでかけ直すと、今日の祖母は随分元気だったということ。一言喋ればいい方だったのに、こちらの呼びかけにはいと答えて、暑いねと言ってみたり。叔母は相当嬉しそうだった。自分もその場にいるかのように、祖母の声が反復される。やはり祖母は誰が来て、何を言ってるかくらいはうっすら分かるのだろうと思う、それをうまく言葉にできないだけなのかもしれない。リハビリのしがいがあると思いたい。
明日は午前中に地熱の作業を終わらせたい。あとは申請書と共著論文、あと英語関連。
May 14, 2017
帰省
上京という言葉はもう使わないですね。それも随分前から、おおよそ、大学4年生くらいになってくらいだろうか。もう東京が自分もホームであると意識し始めたのだろう。その頃は、帰省ということもあまりしなくなっていた時期なのだが、留学から帰り始め、家族と徐々に会う頻度を増やすようになり(それはもっぱら弟の成長を見たかったからなのだが)、そして今回祖母が倒れることになり、帰省と帰京が両立する生活を数ヶ月の間、続けている。
15時半過ぎの電車を予約。雨が降るとのことだったので、傘を持って登校。自転車は院生室に置くことにした。祖母の様子は話を聞く限りは日曜から変わらないらしい。熱が出たり出なかったり、それに応じて意識も少し濃淡があるが、一言発するかどうか。最初は目が覚めたのだと感動してしまったが、この状態が長く続くとは、自分の中ではあまり予期していなかった節があり、若干楽観的だったのかもしれないと反省している。それでも、最初のリハビリが肝心なので、母もどこに移るかを知り合いのケアマネの人と相談しながら一生懸命探しているようだし、僕にできることは、病院に行って祖母の手を握ってあげることぐらいだろうと思い、土日だけ水戸に帰ることにした。よく考えれば、金曜日も特段予定はなかったのだが、実家ではできないこともあるので、ひとまず休日のみ。なんだから、単身赴任で帰る父親の気分である。朝にユニットの掃除と自分の部屋の掃除、それと新書を一冊、あとアジア学生調査について少し調べた。
駅に着いてすぐ、雨脚のなか病院へ向かう。連絡が行き違っていたようで、母は駅まで迎えに来たらしい。祖母を見舞って、家で夜ご飯。東京ではなかなか食べられない、カツオの刺身や天ぷらなど。咳がひどくすぐに寝ようとしたら寝られず、途中で起きて申請書を書いていた。
日曜日
4時過ぎまで起きていたので、起きたのは13時ごろ。シチューを母が作ってくれていたので食べて、新聞を読んでいると、サッカーから帰って来た母と弟が戻ってくる。その足で祖母の家に行って、荷物の整理。神棚や仏壇の整理などもして、随分片付いた。そしてそれは、祖母が30年近くこの家に住んだ面影がなくなって行く姿でもある。
片付けが進んだ頃、叔母と夫さんもきて、再び片付け。そして夫さんは去って、母、叔母、弟の四人で祖母の見舞いに。昨日はほとんどこちらの呼びかけにも反応してくれなかったが、今回は手を握ったり、あくびをしたり、はい、といってくれたりした。間違いなく意識はあるのだろうが、自分の意識に対応して言葉をうまく発することができないのかもしれない。母は、早く退院させてリハビリを進めたい気持ちらしい。どれだけうまく行くのかわからないけど、最期は家で祖母を看取りたいという母の気持ちを知り、母の覚悟に息を呑んだ。
帰宅後、採点、親からの頼まれごと、申請書、報告書執筆をこなした。
明日は地熱と報告書、共著、あとは英語関連。
15時半過ぎの電車を予約。雨が降るとのことだったので、傘を持って登校。自転車は院生室に置くことにした。祖母の様子は話を聞く限りは日曜から変わらないらしい。熱が出たり出なかったり、それに応じて意識も少し濃淡があるが、一言発するかどうか。最初は目が覚めたのだと感動してしまったが、この状態が長く続くとは、自分の中ではあまり予期していなかった節があり、若干楽観的だったのかもしれないと反省している。それでも、最初のリハビリが肝心なので、母もどこに移るかを知り合いのケアマネの人と相談しながら一生懸命探しているようだし、僕にできることは、病院に行って祖母の手を握ってあげることぐらいだろうと思い、土日だけ水戸に帰ることにした。よく考えれば、金曜日も特段予定はなかったのだが、実家ではできないこともあるので、ひとまず休日のみ。なんだから、単身赴任で帰る父親の気分である。朝にユニットの掃除と自分の部屋の掃除、それと新書を一冊、あとアジア学生調査について少し調べた。
駅に着いてすぐ、雨脚のなか病院へ向かう。連絡が行き違っていたようで、母は駅まで迎えに来たらしい。祖母を見舞って、家で夜ご飯。東京ではなかなか食べられない、カツオの刺身や天ぷらなど。咳がひどくすぐに寝ようとしたら寝られず、途中で起きて申請書を書いていた。
日曜日
4時過ぎまで起きていたので、起きたのは13時ごろ。シチューを母が作ってくれていたので食べて、新聞を読んでいると、サッカーから帰って来た母と弟が戻ってくる。その足で祖母の家に行って、荷物の整理。神棚や仏壇の整理などもして、随分片付いた。そしてそれは、祖母が30年近くこの家に住んだ面影がなくなって行く姿でもある。
片付けが進んだ頃、叔母と夫さんもきて、再び片付け。そして夫さんは去って、母、叔母、弟の四人で祖母の見舞いに。昨日はほとんどこちらの呼びかけにも反応してくれなかったが、今回は手を握ったり、あくびをしたり、はい、といってくれたりした。間違いなく意識はあるのだろうが、自分の意識に対応して言葉をうまく発することができないのかもしれない。母は、早く退院させてリハビリを進めたい気持ちらしい。どれだけうまく行くのかわからないけど、最期は家で祖母を看取りたいという母の気持ちを知り、母の覚悟に息を呑んだ。
帰宅後、採点、親からの頼まれごと、申請書、報告書執筆をこなした。
明日は地熱と報告書、共著、あとは英語関連。
May 11, 2017
帰京
5月7日
朝起きると、喉が痛い。前日遅くまで作業していたからだろうか。今日も病院に行く予定だったので、祖母に悪いなと思いつつ、車に乗る。昼ごはんは、家族でよく行く回転寿司屋にした。帰省するたび、必ず訪れている。注文したのは
さば、生しらす、霧銀釧、タコつぶ貝、あなご、さくらます、いか、マグロの天身、ボタンエビ、サメカレイ、ほたるいか(ほぼ順番通り)。叔母といとこ、それにいとこの娘(姪)も合流。姪っ子はまだ1歳になったばかりなので、弟の姿を少し重ねつつ、みんなで一緒に寿司をつまんだ。
そのあとに病院。母と父、弟は買い物を済ませてからくるというので、叔母の車に乗った。その日も祖母は38度の熱があり、こちらの声に反応はするが、先日のように手を動かすところまではいかなかった。この1週間で、顔や手の拭き方も少し慣れて来たので、自分でおおよそやっておき、残りは遅れて来た母にお願いした。
午後3時過ぎに病院を出る。家に帰って少し眠り、水戸駅に戻って電車に乗る。やはり喉が痛い。まあ、1週間病院に通い詰めたので、何かもらったのだろうか。電車で寮の自治会関連の仕事を済ませる。
雲行きが怪しくなる中、大塚駅を降り、自宅へ。その足で自転車に乗り、ご飯。やはり調子は良くなかったようで、終わりの方には喉が腫れて喋るのも辛かった。小雨降る中帰宅すると、ものが飲み込めないくらい痛かったので、早々に寝る。
5月8日
12時間近く寝たら随分回復した。大学にTAの申請書類を提出しに行く。sknrゼミ後の友人たちとあって、食堂で昼食。そのあと、授業。終了後に課題を作って夜に送付。
5月9日
午前中に論文を読む。昼食は久しぶりにこくわがたにする。本を返すために図書室に行くと途中で総合図書館の工事が随分進んていることを知る。採点をしたり、残りは資料作ったり論文読んだり、地熱の作業をしたり。夕食は長芋をつかってフライとチンジャオロースを作った。共著論文にコメント。課題の作成など。あと大学で文献の複写もした。
5月10日
遅くまで起きていたのであまり良い目覚めではない。ゼミ終了後、論文についてミーティング。地熱の作業をして、文献の複写とスキャン。昼ごはんはお腹が空いていなかったのでパン二つ。論文のまとめを書いて、採点をして、もう一つの共著論文にてをつける。夜ご飯は先輩・同期と巣鴨の台湾。帰宅して学振の申請書を書いて寝る。
5月11日
今日は休日扱い。朝は残り物のトマトソースでパスタ。途中まで作業をしていたが、結婚式の件で仕事があり、気づくと5時過ぎになっていた。6時に大学へ行き。そこから論文執筆。徐々に他の仕事に手を回そうと考え始める。
5月12日
帰省することにして、まずはチケットの予約をする。チンジャオロースを再び作り、ご飯。しばらく作業して、4時過ぎに学校へ。引き続き共著論文の執筆とAmeliaという代入法のパッケージの勉強。帰宅後も論文執筆。
朝起きると、喉が痛い。前日遅くまで作業していたからだろうか。今日も病院に行く予定だったので、祖母に悪いなと思いつつ、車に乗る。昼ごはんは、家族でよく行く回転寿司屋にした。帰省するたび、必ず訪れている。注文したのは
さば、生しらす、霧銀釧、タコつぶ貝、あなご、さくらます、いか、マグロの天身、ボタンエビ、サメカレイ、ほたるいか(ほぼ順番通り)。叔母といとこ、それにいとこの娘(姪)も合流。姪っ子はまだ1歳になったばかりなので、弟の姿を少し重ねつつ、みんなで一緒に寿司をつまんだ。
そのあとに病院。母と父、弟は買い物を済ませてからくるというので、叔母の車に乗った。その日も祖母は38度の熱があり、こちらの声に反応はするが、先日のように手を動かすところまではいかなかった。この1週間で、顔や手の拭き方も少し慣れて来たので、自分でおおよそやっておき、残りは遅れて来た母にお願いした。
午後3時過ぎに病院を出る。家に帰って少し眠り、水戸駅に戻って電車に乗る。やはり喉が痛い。まあ、1週間病院に通い詰めたので、何かもらったのだろうか。電車で寮の自治会関連の仕事を済ませる。
雲行きが怪しくなる中、大塚駅を降り、自宅へ。その足で自転車に乗り、ご飯。やはり調子は良くなかったようで、終わりの方には喉が腫れて喋るのも辛かった。小雨降る中帰宅すると、ものが飲み込めないくらい痛かったので、早々に寝る。
5月8日
12時間近く寝たら随分回復した。大学にTAの申請書類を提出しに行く。sknrゼミ後の友人たちとあって、食堂で昼食。そのあと、授業。終了後に課題を作って夜に送付。
5月9日
午前中に論文を読む。昼食は久しぶりにこくわがたにする。本を返すために図書室に行くと途中で総合図書館の工事が随分進んていることを知る。採点をしたり、残りは資料作ったり論文読んだり、地熱の作業をしたり。夕食は長芋をつかってフライとチンジャオロースを作った。共著論文にコメント。課題の作成など。あと大学で文献の複写もした。
5月10日
遅くまで起きていたのであまり良い目覚めではない。ゼミ終了後、論文についてミーティング。地熱の作業をして、文献の複写とスキャン。昼ごはんはお腹が空いていなかったのでパン二つ。論文のまとめを書いて、採点をして、もう一つの共著論文にてをつける。夜ご飯は先輩・同期と巣鴨の台湾。帰宅して学振の申請書を書いて寝る。
5月11日
今日は休日扱い。朝は残り物のトマトソースでパスタ。途中まで作業をしていたが、結婚式の件で仕事があり、気づくと5時過ぎになっていた。6時に大学へ行き。そこから論文執筆。徐々に他の仕事に手を回そうと考え始める。
5月12日
帰省することにして、まずはチケットの予約をする。チンジャオロースを再び作り、ご飯。しばらく作業して、4時過ぎに学校へ。引き続き共著論文の執筆とAmeliaという代入法のパッケージの勉強。帰宅後も論文執筆。
May 10, 2017
アメリカにおける人種間の差別的出生力と世代間移動の関係
Mare, R. D. 1997. “Differential Fertility, Intergenerational Educational Mobility, and Racial Inequality.” Social Science Research 26(3):263–91.
近年、社会階層論ではこれまで採用されてきた標準的なアプローチ(親と子どもの地位を1対1対応の関係で考える)に対するオルタナティブとして、親世代の社会経済的地位の分布(distribution)が子ども世代の分布にどのような影響を与えるかという「マクロ」な現象に注目が集まっている。本論文は、それの走りとなったもの。
背景としては、Herrnstein and Murrayが1994年に発表した「ベルカーブ」の議論が下敷きにある。すなわち、アメリカの全体としての知的水準は、知的能力の低い低学歴層の多出生によって減少しているという説を唱えた。
「貧乏人の子沢山」という言葉があるように、基本的に学歴が低く貧しい家庭ほど出生力は高く、子どもの学歴も低い、反対に豊かで学歴の高い家庭ほど低く、子どもの学歴は高い。それでは、仮に学歴間の出生力格差がなかったとしたら、平均的な教育年数はどれくらい変わったか。あるいは、出生率が現在のように低い状態が歴史的に続いていたとしたら、どうなっているのか。これが本研究の問いになっている。
本論文の対象は1925年から1995年までのアメリカ人女性の出生力になっている。これまでの先行研究に比べて、この論文の特徴は三つあるとされている。
第一に、職業達成や所得ではなく、それを規定する学歴に着目している点。ただし、論文では学歴分布は出生力の結果としての需要に対応するべく変化する、つまり何らかの理由で学歴の供給が制限されるとは考えない。
第二に、出生力の水準(level)とタイミング(timing)の二つを峻別している。これは、学歴や人種によって最終的な出生以外にも結婚タイミングが異なるためであり、このタイミングの違いが分布に影響している可能性があるためだ。
第三に、論文では均衡点を見つけるのではなく、70年の歴史の中で出生力が学歴達成に与えるマクロな影響を評価する。
分析では、初期分布を定めたマルコフ連鎖的なシミュレーションを行なっている。すなわち、t時点の5年区切りの年齢グループの人口がt+5時点の人口に影響するというモデルを想定している。具体的には、
MtPt=Pt+5
MtはRAxRAからなる行列で、Rは学歴集団の数、Aは年齢グループになっている。
PtはRAx1からなるベクトルで、t時点の学歴・年齢別の人口を指す。
Mtに対して新たに女性が子どもを持ち、その子どもが次の時点まで生き延びる確率Bと女性自身が生き残る確率Sを設定して、シミュレーションを行なっている。Sを指定しているので、この分析は学歴別の出生力(水準・タイミング)だけではなく死亡格差についても扱っていることになる。
初期値からスタートして
・社会移動
・死亡
・出生水準
・出生タイミング
の四つのパラメータを設定し、これを観察値から仮想的な値に変化させた時に、1995年時点の白人と黒人の平均的な教育年数がどれだけ変化しているかを問う(分布→分布とあったが、実際には分布を平均値で代表させている)。社会移動については完全移動や完全継承など、複数のシナリオを想定して結果の変化を見ている。
はじめに、社会移動(母娘の地位の連関、これ自体は社会調査データから推定値を導いている)が観察値だった場合、死亡、出生水準、タイミングの中でも、出生水準を固定(高卒水準に設定)した場合に、平均的な教育年数が白人で0.18年上昇することがわかった。変化自体は小さいが、その変化の主要因は学歴間の出生水準の違いによって引き起こされていることがわかる。
次に、白人と黒人の出生力が以前から1990年水準だった場合に、分布がどう変化するかが検討されている。1990年時点の出生力格差は人種間で異なる。まず白人については、格差が縮小した(=ブームが到来した)戦後以降、格差は最大になっている(が、恐慌期よりは小さい)。黒人については、負の関連が明確に見られなくなっている。このような違いを反映して、結果も白人の場合には出生力の固定は観察値とほとんど差がない一方で、黒人の場合には0.18年分教育年数を押し上げる効果を持っている。
最後に、社会移動の効果について検討している。完全移動(complete mobility)はどのような学歴の親の元に生まれようと、ランダムに本人の学歴が決まるため、死亡率や出生水準・タイミングを考慮してもしなくても結果は変わらない。反対に、完全継承(complete inheritance, immobility)の場合初期分布に完全に依存するため、学歴はかなり低い水準にとどまっている。より重要なのは、完全継承の場合に学歴間の出生格差の影響は最も強く出る。
そのほか、親子の関連(association)は変わらないがそれぞれの学歴の分布は変わるrelative constatn mobilityと分布も変わらないconstant mobilityも検討されているが、出生力や死亡をどのように変化させても、結果は観察値とさほど変わらない。アメリカの社会移動の程度は安定的であり、この傾向が続けば学歴間の出生力格差が平均的な教育年数に与える効果は限定的だと考えられる。
分析結果から、確かに学歴間の出生格差は学歴の高い子どもの出生を抑制し、学歴の低い子どもの出生を促進させているため、平均的な教育年数の減少に寄与しているが、それは(同時期に生じた教育拡大に比べれば)非常に小さなものであることがわかった。また、出生水準の格差が重要であり、タイミングや死亡率はそこまで格差に寄与していない。
また、社会移動の程度によって、学歴間の出生力格差が平均教育年数に与える影響は異なる。最も出生力格差の影響が「小さい」のは完全移動の場合であり、最も「大きい」のは完全継承の場合になる。実際はその間な訳だが、アメリカの安定的な社会移動によって、親子の地位は比較的開放的なまま推移しているため、完全移動の場合と観察値の結果はそこまで違いが生じていないことが明らかになった。
近年、社会階層論ではこれまで採用されてきた標準的なアプローチ(親と子どもの地位を1対1対応の関係で考える)に対するオルタナティブとして、親世代の社会経済的地位の分布(distribution)が子ども世代の分布にどのような影響を与えるかという「マクロ」な現象に注目が集まっている。本論文は、それの走りとなったもの。
背景としては、Herrnstein and Murrayが1994年に発表した「ベルカーブ」の議論が下敷きにある。すなわち、アメリカの全体としての知的水準は、知的能力の低い低学歴層の多出生によって減少しているという説を唱えた。
「貧乏人の子沢山」という言葉があるように、基本的に学歴が低く貧しい家庭ほど出生力は高く、子どもの学歴も低い、反対に豊かで学歴の高い家庭ほど低く、子どもの学歴は高い。それでは、仮に学歴間の出生力格差がなかったとしたら、平均的な教育年数はどれくらい変わったか。あるいは、出生率が現在のように低い状態が歴史的に続いていたとしたら、どうなっているのか。これが本研究の問いになっている。
本論文の対象は1925年から1995年までのアメリカ人女性の出生力になっている。これまでの先行研究に比べて、この論文の特徴は三つあるとされている。
第一に、職業達成や所得ではなく、それを規定する学歴に着目している点。ただし、論文では学歴分布は出生力の結果としての需要に対応するべく変化する、つまり何らかの理由で学歴の供給が制限されるとは考えない。
第二に、出生力の水準(level)とタイミング(timing)の二つを峻別している。これは、学歴や人種によって最終的な出生以外にも結婚タイミングが異なるためであり、このタイミングの違いが分布に影響している可能性があるためだ。
第三に、論文では均衡点を見つけるのではなく、70年の歴史の中で出生力が学歴達成に与えるマクロな影響を評価する。
分析では、初期分布を定めたマルコフ連鎖的なシミュレーションを行なっている。すなわち、t時点の5年区切りの年齢グループの人口がt+5時点の人口に影響するというモデルを想定している。具体的には、
MtPt=Pt+5
MtはRAxRAからなる行列で、Rは学歴集団の数、Aは年齢グループになっている。
PtはRAx1からなるベクトルで、t時点の学歴・年齢別の人口を指す。
Mtに対して新たに女性が子どもを持ち、その子どもが次の時点まで生き延びる確率Bと女性自身が生き残る確率Sを設定して、シミュレーションを行なっている。Sを指定しているので、この分析は学歴別の出生力(水準・タイミング)だけではなく死亡格差についても扱っていることになる。
初期値からスタートして
・社会移動
・死亡
・出生水準
・出生タイミング
の四つのパラメータを設定し、これを観察値から仮想的な値に変化させた時に、1995年時点の白人と黒人の平均的な教育年数がどれだけ変化しているかを問う(分布→分布とあったが、実際には分布を平均値で代表させている)。社会移動については完全移動や完全継承など、複数のシナリオを想定して結果の変化を見ている。
はじめに、社会移動(母娘の地位の連関、これ自体は社会調査データから推定値を導いている)が観察値だった場合、死亡、出生水準、タイミングの中でも、出生水準を固定(高卒水準に設定)した場合に、平均的な教育年数が白人で0.18年上昇することがわかった。変化自体は小さいが、その変化の主要因は学歴間の出生水準の違いによって引き起こされていることがわかる。
次に、白人と黒人の出生力が以前から1990年水準だった場合に、分布がどう変化するかが検討されている。1990年時点の出生力格差は人種間で異なる。まず白人については、格差が縮小した(=ブームが到来した)戦後以降、格差は最大になっている(が、恐慌期よりは小さい)。黒人については、負の関連が明確に見られなくなっている。このような違いを反映して、結果も白人の場合には出生力の固定は観察値とほとんど差がない一方で、黒人の場合には0.18年分教育年数を押し上げる効果を持っている。
最後に、社会移動の効果について検討している。完全移動(complete mobility)はどのような学歴の親の元に生まれようと、ランダムに本人の学歴が決まるため、死亡率や出生水準・タイミングを考慮してもしなくても結果は変わらない。反対に、完全継承(complete inheritance, immobility)の場合初期分布に完全に依存するため、学歴はかなり低い水準にとどまっている。より重要なのは、完全継承の場合に学歴間の出生格差の影響は最も強く出る。
そのほか、親子の関連(association)は変わらないがそれぞれの学歴の分布は変わるrelative constatn mobilityと分布も変わらないconstant mobilityも検討されているが、出生力や死亡をどのように変化させても、結果は観察値とさほど変わらない。アメリカの社会移動の程度は安定的であり、この傾向が続けば学歴間の出生力格差が平均的な教育年数に与える効果は限定的だと考えられる。
分析結果から、確かに学歴間の出生格差は学歴の高い子どもの出生を抑制し、学歴の低い子どもの出生を促進させているため、平均的な教育年数の減少に寄与しているが、それは(同時期に生じた教育拡大に比べれば)非常に小さなものであることがわかった。また、出生水準の格差が重要であり、タイミングや死亡率はそこまで格差に寄与していない。
また、社会移動の程度によって、学歴間の出生力格差が平均教育年数に与える影響は異なる。最も出生力格差の影響が「小さい」のは完全移動の場合であり、最も「大きい」のは完全継承の場合になる。実際はその間な訳だが、アメリカの安定的な社会移動によって、親子の地位は比較的開放的なまま推移しているため、完全移動の場合と観察値の結果はそこまで違いが生じていないことが明らかになった。
May 6, 2017
回復
5月5日
10時前に起床。10時半過ぎに家を出る。車に乗ろうとすると、弟がキジを見つけたという。ついていくと、確かに向こうの家の雑木林があった草むらに、一羽のキジがちょこんと座っていた。あとで調べてみるとキジはあまり飛ぶことはせず、基本的には地上で移動するらしい。そのため、猫やイタチに襲われないよう、非常に素早く動き、警戒心も強い。春には野生のキジが見られるチャンスは高いそうだが、にしてもあんな警戒心の薄い生地を眺められるのは滅多になかったのかもしれない。
そうこうしているうちに母がきたので、3人で祖母の家へ。弟は外で遊ばせておいて、二人で部屋の整理を始めた。それが終わってから、少年自然の森へ。すでに12時半。13時にはお昼を食べて病院に行こうとしていたのだが、幸いにして(?)サッカー少年団の知り合いの子がいたようで、弟は結構楽しそうだった。おかげで予定よりも長く千波山にいることになり、病院に着いたのは1時半ごろ。
叔母と合流して、はじめに昼食をとることにした。ジャズバーも兼ねるNOVITAというイタリアン。10年ぶりだろうか。久しぶりにパスタランチをいただく。弟もおいしそうに食べていた。
そのあと、祖母の見舞い。脳出血から一週間が経ち、日に日に回復してきていると見られる節があった。まず、間違いなくこちらの声は届いている。昨日は、弟が耳元で声をかけると「うるさいね」といったし、帰り際に僕が「帰るね」といったら「帰るの」と喋ってくれた。新たに左手にはミトンがしてあり、おそらく管などを自分で取らないようにしているのだろう。そのぶん、ミトンの中は蒸れているので、暑くなってきていることもありくるだろうということで外してあげた。それ以外にも、薬局で買ってきた髪を拭くタオルや、祖母の家から持ってきたバスタオルをかけてあげた。僕の手を握る左手は昨日よりも強く、回復の途上にあることを感じさせてくれた。
終わってからスタバに降ろしてもらい作業。6日締め切りだと思っていた報告書が、実は16日だったことに最後の方になって気付いて取り越し苦労をした。
5月6日
9時半ごろに起床。母はスーパーで買い物をしたあと、弟を歯医者に連れていくことでお留守番。その間、昨日叔母からもらったアルバムに目を通した。主にいとこ(叔母の娘)の小さい頃の写真だが、ところどころに祖母や、母、生みの父が出てきていて、懐かしい気分に浸る。自分が生まれた時にはもう、祖母は今の家に住み始めてから随分経っており、僕といとこが幼いころに家の前で撮った写真を見て、25年という月日があっという間に経ったことに対して思いを馳せた。
12時に母と弟が戻ってきたので、その足で病院へ。13時から面会。今日はさらに、はっきりと声が聞こえた。自分の名前を呟いてくれたし、こちらの呼びかけにも、ちゃんと「はい」と答えてくれる。何より、母が「まだお父さんのところにはいってないよ、残念だね」といったら元気な時にしてくれるように笑ってくれた。こちらの冗談がわかるのだろうか。手も、随分動かせるようになり、ミトンを外した後には時々管を取ろうとする様子を見せ少し焦るくらいだった。右手をひたいに持っていって自分で顔を拭こうとする仕草も見せてくれた。母がずっと同じ姿勢で寝ていると苦しいのではないかと考え、寝返りを打とうと母が「腰痛いかい?」と声をかけると、しばらくして「腰痛い」と応答してくれたのだった。看護師さんに手伝ってもらい、まくらをつかって右半身を少し上向かせると少し気持ち良さそうな表情を見せてくれた。
間違いなく意識はあり、僕らが来て話していると、応答もしてくれる。熱がなければ目も開くし、あとはこれからどれだけ回復するのか、期待と不安が混ざりながら、祖母にまた明日来るねと声をかけて病院をさった。
10時前に起床。10時半過ぎに家を出る。車に乗ろうとすると、弟がキジを見つけたという。ついていくと、確かに向こうの家の雑木林があった草むらに、一羽のキジがちょこんと座っていた。あとで調べてみるとキジはあまり飛ぶことはせず、基本的には地上で移動するらしい。そのため、猫やイタチに襲われないよう、非常に素早く動き、警戒心も強い。春には野生のキジが見られるチャンスは高いそうだが、にしてもあんな警戒心の薄い生地を眺められるのは滅多になかったのかもしれない。
そうこうしているうちに母がきたので、3人で祖母の家へ。弟は外で遊ばせておいて、二人で部屋の整理を始めた。それが終わってから、少年自然の森へ。すでに12時半。13時にはお昼を食べて病院に行こうとしていたのだが、幸いにして(?)サッカー少年団の知り合いの子がいたようで、弟は結構楽しそうだった。おかげで予定よりも長く千波山にいることになり、病院に着いたのは1時半ごろ。
叔母と合流して、はじめに昼食をとることにした。ジャズバーも兼ねるNOVITAというイタリアン。10年ぶりだろうか。久しぶりにパスタランチをいただく。弟もおいしそうに食べていた。
そのあと、祖母の見舞い。脳出血から一週間が経ち、日に日に回復してきていると見られる節があった。まず、間違いなくこちらの声は届いている。昨日は、弟が耳元で声をかけると「うるさいね」といったし、帰り際に僕が「帰るね」といったら「帰るの」と喋ってくれた。新たに左手にはミトンがしてあり、おそらく管などを自分で取らないようにしているのだろう。そのぶん、ミトンの中は蒸れているので、暑くなってきていることもありくるだろうということで外してあげた。それ以外にも、薬局で買ってきた髪を拭くタオルや、祖母の家から持ってきたバスタオルをかけてあげた。僕の手を握る左手は昨日よりも強く、回復の途上にあることを感じさせてくれた。
終わってからスタバに降ろしてもらい作業。6日締め切りだと思っていた報告書が、実は16日だったことに最後の方になって気付いて取り越し苦労をした。
5月6日
9時半ごろに起床。母はスーパーで買い物をしたあと、弟を歯医者に連れていくことでお留守番。その間、昨日叔母からもらったアルバムに目を通した。主にいとこ(叔母の娘)の小さい頃の写真だが、ところどころに祖母や、母、生みの父が出てきていて、懐かしい気分に浸る。自分が生まれた時にはもう、祖母は今の家に住み始めてから随分経っており、僕といとこが幼いころに家の前で撮った写真を見て、25年という月日があっという間に経ったことに対して思いを馳せた。
12時に母と弟が戻ってきたので、その足で病院へ。13時から面会。今日はさらに、はっきりと声が聞こえた。自分の名前を呟いてくれたし、こちらの呼びかけにも、ちゃんと「はい」と答えてくれる。何より、母が「まだお父さんのところにはいってないよ、残念だね」といったら元気な時にしてくれるように笑ってくれた。こちらの冗談がわかるのだろうか。手も、随分動かせるようになり、ミトンを外した後には時々管を取ろうとする様子を見せ少し焦るくらいだった。右手をひたいに持っていって自分で顔を拭こうとする仕草も見せてくれた。母がずっと同じ姿勢で寝ていると苦しいのではないかと考え、寝返りを打とうと母が「腰痛いかい?」と声をかけると、しばらくして「腰痛い」と応答してくれたのだった。看護師さんに手伝ってもらい、まくらをつかって右半身を少し上向かせると少し気持ち良さそうな表情を見せてくれた。
間違いなく意識はあり、僕らが来て話していると、応答もしてくれる。熱がなければ目も開くし、あとはこれからどれだけ回復するのか、期待と不安が混ざりながら、祖母にまた明日来るねと声をかけて病院をさった。
May 4, 2017
帰省
5月3日
六本木で式場の下見をしてきた。巣鴨に引っ越してから、電車のアクセスはいくらか悪くなり、大塚駅から代々木、そして都営に乗り換えて六本木というルート。
下見を終えてから、二次会の二次会の場所を探しに出る。結局、最初候補に挙げていた店ではなく、開放的なイタリアンの店にすることに。ランチをしながら、当日の予定について考える。
終了後、新宿から京王線に乗って調布、そして飛田給へ。久保くんのJ1カテゴリの公式戦デビューを見るべく、味スタへ。
試合終了後に東京駅へ。夜8時過ぎに再び水戸に戻って、就寝。
5月4日
本来は、この日に初めて祖母の顔を見る予定だった。朝は弟をサッカーの試合に連れて行く母の車に乗って理容室へ。髪を切る。そのあと、スエヒロでランチ。そのあと、歩きで祖母の家へ。もう少しすると、家財道具やら食器やらを処分するので、記憶に残るよう、祖母のいない部屋を一つ一つ写真に収める。今からでも、祖母が出てきそう。
いくらかもらえるかなと思ったものをあげてから、祖母のベッドで昼寝。自分が大学に受験した時や、母が癌になったときにも寝させてもらったベッド。今は病院にいる祖母に、寝てもいいかなと聞いてみた。
そうこうしているうちに、叔母から電話。どうやらパートが早退できるらしく(店が配慮して叔母がいなくてもいけるようシフトを組んでくれた)、二人で病院に行くことに。と言ってもスムーズには移動できず、祖母の家に来た叔母から、倒れた日のことを逐一聞かされる。自分にとってはもう何度か聞いているのだが、やはり叔母としては悔いるところがあるのだろう。
病院に着くと、サッカーの試合が予定より早めに終わった母と弟もちょうど来ていた。昨日から一般病棟に移った祖母に面会するため、3階の入り口からエレベーターで5階に上がる。
最初は、一昨日のように寝息を立てていた。しかし、こちらが声をかけると口を少し動かして見せた。そして、何度か声をかけると、口を開いて、僕の名前を呟いたのだった。
これには一同、唖然というか、とうとう喋ったことに驚いてしまった。心の中で、もうずっと寝たきりなのではないかということもよぎっていたので、驚きは大きかった。看護師さんに聞くと、今日は問いかけにうなづくこともあったらしい。熱が先日の38度台から36度後半まで下がったことが影響しているのだろうか。麻痺と診断された左手も、親指を中心に力強く、僕の手を握ってくれる。祖母は必死に、僕らが見舞いに来たことに対して、応答を見せているようだった。本当だったら、今日初めて祖母を見舞う予定だったのだが、やはり3日前、そして2日前に顔を見て、そこから回復していることを直接目にすることができて、本当に良かった。
母が口乾いていないかと聞くと、今度はよりはっきり「リップ(クリーム)かい」と喋ってくれた。口の中が乾いているのだろう。もう少しだからという思いで、唇だけリップクリームで濡らしてあげた。
喋ったのはその二言だけだったが、面会の中盤以降は目を開けることもあった。まだ意識が朦朧としているのかもしれない。それでも、肩からいびきをかいていた先日に比べると、本当に回復していることを思わせる時間だった。
帰り際、もう帰るねと手を振ると、祖母も右手を挙げて頭の上に持って言ったのだった。それはバイバイというサインに最初見えたのだが、頭の上に右手を持って行ったので、どうやら頭が痒いのではないだろうかと気づいた。確かに、ひたいには汗があったし、28日から一週間近く風呂に入っていないわけなので、頭も痒いだろう。眉間にしわを寄せたり、口をモゴモゴさせながら、きっと気持ちがっているのだろうと思い、祖母の顔を見ながら一生懸命、かいてあげた。
再び帰るねと言おうとすると、今度は左手を挙げて見せようとする。あの麻痺している左手を使って。祖母の、僕らの来訪に応えようとする姿勢が見えて、本当に嬉しかった。
六本木で式場の下見をしてきた。巣鴨に引っ越してから、電車のアクセスはいくらか悪くなり、大塚駅から代々木、そして都営に乗り換えて六本木というルート。
下見を終えてから、二次会の二次会の場所を探しに出る。結局、最初候補に挙げていた店ではなく、開放的なイタリアンの店にすることに。ランチをしながら、当日の予定について考える。
終了後、新宿から京王線に乗って調布、そして飛田給へ。久保くんのJ1カテゴリの公式戦デビューを見るべく、味スタへ。
試合終了後に東京駅へ。夜8時過ぎに再び水戸に戻って、就寝。
5月4日
本来は、この日に初めて祖母の顔を見る予定だった。朝は弟をサッカーの試合に連れて行く母の車に乗って理容室へ。髪を切る。そのあと、スエヒロでランチ。そのあと、歩きで祖母の家へ。もう少しすると、家財道具やら食器やらを処分するので、記憶に残るよう、祖母のいない部屋を一つ一つ写真に収める。今からでも、祖母が出てきそう。
いくらかもらえるかなと思ったものをあげてから、祖母のベッドで昼寝。自分が大学に受験した時や、母が癌になったときにも寝させてもらったベッド。今は病院にいる祖母に、寝てもいいかなと聞いてみた。
そうこうしているうちに、叔母から電話。どうやらパートが早退できるらしく(店が配慮して叔母がいなくてもいけるようシフトを組んでくれた)、二人で病院に行くことに。と言ってもスムーズには移動できず、祖母の家に来た叔母から、倒れた日のことを逐一聞かされる。自分にとってはもう何度か聞いているのだが、やはり叔母としては悔いるところがあるのだろう。
病院に着くと、サッカーの試合が予定より早めに終わった母と弟もちょうど来ていた。昨日から一般病棟に移った祖母に面会するため、3階の入り口からエレベーターで5階に上がる。
最初は、一昨日のように寝息を立てていた。しかし、こちらが声をかけると口を少し動かして見せた。そして、何度か声をかけると、口を開いて、僕の名前を呟いたのだった。
これには一同、唖然というか、とうとう喋ったことに驚いてしまった。心の中で、もうずっと寝たきりなのではないかということもよぎっていたので、驚きは大きかった。看護師さんに聞くと、今日は問いかけにうなづくこともあったらしい。熱が先日の38度台から36度後半まで下がったことが影響しているのだろうか。麻痺と診断された左手も、親指を中心に力強く、僕の手を握ってくれる。祖母は必死に、僕らが見舞いに来たことに対して、応答を見せているようだった。本当だったら、今日初めて祖母を見舞う予定だったのだが、やはり3日前、そして2日前に顔を見て、そこから回復していることを直接目にすることができて、本当に良かった。
母が口乾いていないかと聞くと、今度はよりはっきり「リップ(クリーム)かい」と喋ってくれた。口の中が乾いているのだろう。もう少しだからという思いで、唇だけリップクリームで濡らしてあげた。
喋ったのはその二言だけだったが、面会の中盤以降は目を開けることもあった。まだ意識が朦朧としているのかもしれない。それでも、肩からいびきをかいていた先日に比べると、本当に回復していることを思わせる時間だった。
帰り際、もう帰るねと手を振ると、祖母も右手を挙げて頭の上に持って言ったのだった。それはバイバイというサインに最初見えたのだが、頭の上に右手を持って行ったので、どうやら頭が痒いのではないだろうかと気づいた。確かに、ひたいには汗があったし、28日から一週間近く風呂に入っていないわけなので、頭も痒いだろう。眉間にしわを寄せたり、口をモゴモゴさせながら、きっと気持ちがっているのだろうと思い、祖母の顔を見ながら一生懸命、かいてあげた。
再び帰るねと言おうとすると、今度は左手を挙げて見せようとする。あの麻痺している左手を使って。祖母の、僕らの来訪に応えようとする姿勢が見えて、本当に嬉しかった。
May 2, 2017
病院
5月1日
前日の午後10時半から午前3時過ぎまで寮の自治会に関心がある人で集まったため、朝は遅く起床。残り物の手羽元の甘酢煮を食べて、作業。雲行きが怪しくなって来たが、前日風呂に入るのを忘れていたため、シャワー浴びたりしているうちに降り出してしまう。幸いにして雨量は少なく、自転車でも無理なく登校。
4限少し前に教室に到着したので、叔母に電話をしてみると、いきなり泣き出してしまった。こちらもつられてしまう。
授業終了後、院生室で申請書類などの作業。それなりのところで終わらせて、ハナマサでもも肉を買って帰ろうとしている時に、火曜日はどうせ特に予定もないのだし、祖母の見舞いで親戚が来るというので、二度手間にはなるが水戸に戻ろうと母に電話をかける。
呼吸が怪しくなっている。
一瞬、何を言っているのかわからなかった。すぐさま、水戸にすぐ帰る必要性を感じた。母にすぐ特急に乗ると言って帰宅。着替えてタクシーを捕まえて大塚駅へ。既のところで22時15分発のときわに乗り込み、23時40分に水戸駅に到着。再びタクシーに乗って、協同病院まで。
幸い、呼吸は来ている時には幾分か安定していた。それでも、かた呼吸というか、痰が絡みながらいびきをかいているのがよくわかった。
祖母が脳出血で倒れてから3日間、叔母と母は二人で頑張って祖母を車に乗せ、病院に連れて行き、夜遅くまで待合室に待機していた。その間、麻痺になった左手が使えない中、右手を使いながら何かをしようとした形跡が残る祖母の家に向かい、血を拭いたり、食べ物を片したり、洗濯物を戻したりもしたらしい。
突然の帰省だったため、自分の寝床が用意できず、父が普段母と弟と寝ているところに入らせてもらった。寝始めたのは1時半ごろだが、やはり展開の早さに眠ることができない。おきたのは7時で、とても寝た気がしなかった。
9時過ぎに再び病院に向かうと、だいぶ呼吸は安定していた。脳出血後に意識障害が起こることはあっても、直接なぜ寝たきりなのかはわからないらしい。幸い、11時から担当の医師の方の説明を受けられることになっていた。
10時50分ごろ、日立から親戚のおじさん、おばさんが来てくれた。抑えていた涙が零れ落ちる。本当に来てくれて嬉しかった。当日祖母とあっていなかった叔母と親戚でICUに向かっている間、気が抜けたように空を見つめていた。これからどうなるのだろうか。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか。これは自分よりも祖母の近くにいた母と叔母が強く悔いていることだろうと思う。すでに認知症が分かって、普段より多めに会いにいっていたのだから、まだ発見が早かっただろうということは容易いのだろうが、それでももう少し発見が早ければと思ってしまう心情に、僕は何もいうことができない。
一旦病院を後にして、千波湖近くのレストランで8人で昼食。大学1年生くらいになるまでは、祖母の兄弟の末っ子のおじさんの家に親戚一同集まっていたのだが、20年近く続いた元旦の風物詩も、自然と消えていた。5年ぶりに、親戚一同集まって話す場が、まさか祖母の病によって生じるとは、とても予想はつかなかった。
親戚のおじさん、おばさんたちは昼食後に水戸を後にした。母と叔母と自分の3人で、13時に終わったMRIの結果を医師の方から告げられる。
原因は、アミロイド血管症。アミロイドというタンパク質の一種が脳の血管に貯まることによって脳出血が引き起こされるらしい。よく見られる合併症なのだろうか、アミロイドの蓄積は認知症の要因ともなるらしい。これで説明がつく。祖母の脳には、出血の黒い塊だけではなく、医師の方も驚くほどの無数の血管の破裂が確認された。
こうなって来ると、手術は難しいらしい。熱も出ているので、容体が安静になるのを待つことも必要だった。最悪の場合には、痰が絡むことで肺炎を起こす感覚がだんだんと短くなり、そのまま衰弱。最高でも車椅子生活で介助が必要になるらしい。意識がないので、まだ左での麻痺の程度もわからない。
おおよその話が分かった段階で、東京に戻ることにした。15時半前に出た電車の途中で、ぐっすりと寝てしまい、目覚めた時には上野駅だった。
もう今までのような生活は望めないだろう。祖母が一人で住んでいた家も引き払うことになるだろう。祖母の容体を鑑みながら、淡々と進めざるを得ない作業を思い浮かべると、母と叔母の助けになんとかなってやりたいと、どれだけできるのかわからないが、そう思う。
前日の午後10時半から午前3時過ぎまで寮の自治会に関心がある人で集まったため、朝は遅く起床。残り物の手羽元の甘酢煮を食べて、作業。雲行きが怪しくなって来たが、前日風呂に入るのを忘れていたため、シャワー浴びたりしているうちに降り出してしまう。幸いにして雨量は少なく、自転車でも無理なく登校。
4限少し前に教室に到着したので、叔母に電話をしてみると、いきなり泣き出してしまった。こちらもつられてしまう。
授業終了後、院生室で申請書類などの作業。それなりのところで終わらせて、ハナマサでもも肉を買って帰ろうとしている時に、火曜日はどうせ特に予定もないのだし、祖母の見舞いで親戚が来るというので、二度手間にはなるが水戸に戻ろうと母に電話をかける。
呼吸が怪しくなっている。
一瞬、何を言っているのかわからなかった。すぐさま、水戸にすぐ帰る必要性を感じた。母にすぐ特急に乗ると言って帰宅。着替えてタクシーを捕まえて大塚駅へ。既のところで22時15分発のときわに乗り込み、23時40分に水戸駅に到着。再びタクシーに乗って、協同病院まで。
幸い、呼吸は来ている時には幾分か安定していた。それでも、かた呼吸というか、痰が絡みながらいびきをかいているのがよくわかった。
祖母が脳出血で倒れてから3日間、叔母と母は二人で頑張って祖母を車に乗せ、病院に連れて行き、夜遅くまで待合室に待機していた。その間、麻痺になった左手が使えない中、右手を使いながら何かをしようとした形跡が残る祖母の家に向かい、血を拭いたり、食べ物を片したり、洗濯物を戻したりもしたらしい。
突然の帰省だったため、自分の寝床が用意できず、父が普段母と弟と寝ているところに入らせてもらった。寝始めたのは1時半ごろだが、やはり展開の早さに眠ることができない。おきたのは7時で、とても寝た気がしなかった。
9時過ぎに再び病院に向かうと、だいぶ呼吸は安定していた。脳出血後に意識障害が起こることはあっても、直接なぜ寝たきりなのかはわからないらしい。幸い、11時から担当の医師の方の説明を受けられることになっていた。
10時50分ごろ、日立から親戚のおじさん、おばさんが来てくれた。抑えていた涙が零れ落ちる。本当に来てくれて嬉しかった。当日祖母とあっていなかった叔母と親戚でICUに向かっている間、気が抜けたように空を見つめていた。これからどうなるのだろうか。なぜもっと早く気づいてあげられなかったのか。これは自分よりも祖母の近くにいた母と叔母が強く悔いていることだろうと思う。すでに認知症が分かって、普段より多めに会いにいっていたのだから、まだ発見が早かっただろうということは容易いのだろうが、それでももう少し発見が早ければと思ってしまう心情に、僕は何もいうことができない。
一旦病院を後にして、千波湖近くのレストランで8人で昼食。大学1年生くらいになるまでは、祖母の兄弟の末っ子のおじさんの家に親戚一同集まっていたのだが、20年近く続いた元旦の風物詩も、自然と消えていた。5年ぶりに、親戚一同集まって話す場が、まさか祖母の病によって生じるとは、とても予想はつかなかった。
親戚のおじさん、おばさんたちは昼食後に水戸を後にした。母と叔母と自分の3人で、13時に終わったMRIの結果を医師の方から告げられる。
原因は、アミロイド血管症。アミロイドというタンパク質の一種が脳の血管に貯まることによって脳出血が引き起こされるらしい。よく見られる合併症なのだろうか、アミロイドの蓄積は認知症の要因ともなるらしい。これで説明がつく。祖母の脳には、出血の黒い塊だけではなく、医師の方も驚くほどの無数の血管の破裂が確認された。
こうなって来ると、手術は難しいらしい。熱も出ているので、容体が安静になるのを待つことも必要だった。最悪の場合には、痰が絡むことで肺炎を起こす感覚がだんだんと短くなり、そのまま衰弱。最高でも車椅子生活で介助が必要になるらしい。意識がないので、まだ左での麻痺の程度もわからない。
おおよその話が分かった段階で、東京に戻ることにした。15時半前に出た電車の途中で、ぐっすりと寝てしまい、目覚めた時には上野駅だった。
もう今までのような生活は望めないだろう。祖母が一人で住んでいた家も引き払うことになるだろう。祖母の容体を鑑みながら、淡々と進めざるを得ない作業を思い浮かべると、母と叔母の助けになんとかなってやりたいと、どれだけできるのかわからないが、そう思う。