February 3, 2015

格差と不平等の用例について

今回は,あまり区別されずに用いられている格差と不平等の違いについて考えたい.結論から言えば,私は特段の必要がない限り格差という言葉を用いる必要はないと考える.(不)平等で事足りるからだ.

格差と不平等の違いについて,ある望ましさを内包する基準値からの乖離を格差、そこにより規範的な不条理さがあると不平等、という区別をしたのは白波瀬(2005)である.


諸個人の業績を正当に評価したならば、その結果としての所得の差は公平な結果であるといえる.しかし,不平等ということになると,結果を正当に評価せず個人の能力如何を超えた不条理な要因が評価に介入する。所得が正当に評価された結果ではなく不条理な要因が介在すると、所得の差は不当となって不平等ということになる。この正当でない評価こそが,格差を超えた不平等の概念に大きく関わってくる.格差そのものも格付けされたさである時点で規範が介入し,一定の序列が価値判断のもとで設定されている.その意味で格差も不平等もかなり似通った概念であるが,不平等の方が格差よりも価値判断が介入し,氷河の概念が関与する.つまり所得の差がないことが望ましいのではなく,所得がどの程度個人の業績,力量を正当に評価したものであるかが,所得の差を不平等なものとするかどうかの分かれ目となる.(白波瀬, 2005. p.6-7.)



不平等という言葉に格差にはない規範性が含まれているというのは確かだろう.例えば,帰属的地位(ascribed status*1)によって序列づけられた秩序に対して私たちは平等でないものを感じるが,学力試験の選抜の結果としての序列には,これが不平等とは言わないはずだ.ここでの格差と不平等の区別の要点は,そこに「正当な評価があるかどうか」と「結果に対して個人の努力・能力が介入する余地があるかどうか」だ.

ところで,そもそもの問題として,(不)平等には,格差が指し示すものとは違う次元も含まれている.格差というのは,端的にいってgapである.すなわち,ある二者関係における,持つものと持たざるものとの差だ.だが,平等・不平等という言葉には,社会のより広い,秩序を指す時がある.例えば,義務教育の拡大はマクロで見た時の教育機会の平等化であると言える.もちろん,個々に見ていけば,これは階層間,地域間の格差が縮小したことを指すだろう.しかし,教育機会の拡充は,機会が差別無く提供されるという「分配」の問題である.階層論でも,資源が平等に「分配」されていない状態(秩序)を不平等と定義したりするが,これも個々の階層間の差の議論ではなく,ある社会の秩序の評価である.格差と不平等の違いについて,先の不条理性があるかどうかという二項対立以外に,社会全体の分配の話をしているのか個々の差の話をしているかの例としては,以下のような文章も引用できる.

教育機会の拡大はどの階層にも生じたのであるが,高等教育に関しては,それは階層間格差を維持したままで進行した.(原・盛山, 1999.p.17.

実は,格差という言葉が頻繁に用いられるようになったのは最近の現象であると考えられる.戦後直後は,いわゆる「格差」的な議論があったが,そこで用いられた言葉は「貧困」だった.昔の教科書には「貧困」は議論されているが,「格差」という文字は管見の限り確認できない(例えば,塩原ら編「社会学の基礎知識」(1969,有斐閣)を参照.).後の研究者(橋本,2010などは,高度経済成長が始まるまでの日本では格差が拡大していたと振り返っているが,当時の文脈では,それは貧しい人が貧しいままで復興の恩恵を受けていないという語りによって問題化されている.当時の状況を「格差」と表現しているのは私たちの側の読み込みに過ぎない.そして,格差は何かと何かの「間」をとらない限り語ることができない.

しかし経済の復興とともに,経済格差は拡大を始める.経済の復興によって豊かになった人々と依然として貧しい人々の間の格差が明確になっていくのである.(橋本健二,2010, p.24)(下線は引用者による)


格差という言葉が長い間,一般的にも学術的にも用いられなかったのは,高度成長の中で,中意識の議論が盛んに行われたように,日本が平等化していく過程を社会全体で共有(という前提には議論の余地があるが)できていたのではないかと推測している.もちろん,先ほどの引用のように階層間格差は維持されたままだったのは確かだが,人々の注目は分配秩序としての平等化の方に向っていたのではないか.

格差が段々と用いられるようになって来た背景には,平等化がある程度達成される中で,それまで注目されてこなかった集団間の差異がクローズアップされたからではないかと考えられる(豊かさの中の不平等).代表的なのは男女格差だ.「賃金の男女格差のように個別の不平等を焦点として問題が論じられ」(岡本・直井 1990)などは,格差が「個別の不平等」として認識されていたことの証左にもなると同時に,このような個別的な差異が注目される中で,格差という言葉が登場して来たことを示唆しているように思える.

一般的に格差という言葉が盛んに用いられるようになったきっかけは橘木「格差社会」などの影響が考えられるが詳しい議論はフォローできていない.少なくとも,それとともに,経済不況の中で平等化(近代化)の夢が途絶え,次第に個別のグループ間の際に敏感になっていった社会情勢があるのではないかと推測している.

まとめると,確かに格差と不平等に不条理性の有無という次元がある.しかし,どちらかというと,その区分は後付け的で,日本ではなぜか格差という言葉が,近年になって集団間の差異を表現する言葉として頻繁に用いられるようになったという背景をふまえなくてはならない.

さらに言えば,具体的な事例を見ていくと,格差と不平等の差異は曖昧だ.例えば,男女格差と言われるもののほとんどは何らかの不条理を伴っているはずである.親と子どもの地位に連関が無い完全移動 *2が経験的に存在しないように,厳密に考えていくと,不条理を伴わない格差は存在しない.

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以下から余談.

だから英語のInequalityには不条理性があるかどうかで対立する格差と不平等の両方が含まれている訳だ(仮に不条理性のない格差があるとすればだが).別に,格差という言葉を使わずとも,不平等とそのまま訳せばいいと思うのだが,格差(社会)という,なぜか集団間の差異を強調するような言説が登場してしまった.そのことで,格差という言葉は巷では不平等よりも頻繁に使われる語になってきている.

ピケティの21世紀の資本を読み始めて,格差という単語が頻出していることに驚いている.辞書に格差の訳として出てくるgapは,学術論文ではほとんど出てこないことをふまえると,恐らくinequalityを格差と訳しているのだろう.それくらい,現代の日本では格差という言葉が人口に膾炙しているのだろうと推測している.


個人的には,格差という言葉を言説として用いるならまだしも,学術的な用語として使用することには以下の二点から反対している.まず,あまりに多くの人が色んな関係を指すために使用するために,何が格差で何がそうでないのかの収拾がつかないからである.一般読者を想定する場合にはなおさら格差ではなく不平等と訳すべきだと思っていたのだが,残念ながらピケティ訳本は格差が頻出しているので,今後ますます格差の用例が増えるように思う.

次に,「格差社会」には対義語が存在しないからだ.百歩譲って,個々の二者関係の間の格差という意味を認めた上で(これはおかしくない),さらに個々の格差が拡大している社会を格差社会と定義するとする.ここで重要なのは,「格差社会」とは「格差拡大社会」という意味であるという点だ.すなわち,格差社会とはあくまで,ある時点と比べて個々の格差が拡大している社会のことしか指せない.単に格差が維持されている社会を格差社会とすれば,どの社会もすべからく格差社会となってしまう.そして,現在の日本では,「格差縮小社会」を「格差」という言葉を用いて表現する方法はない.ところが,これまでの日本の歴史を振り返ると,個々の格差が縮小していく過程は「平等化」と表現されており,さしずめ「平等化する社会」とでも表現できる.そして「格差拡大社会」は「不平等化する社会」だ.仮に不条理性のない格差があるとそこに不条理性があるかどうかは問題になるのだろうか?

私は「社会」を単位として語る時には平等・不平等の二つで事足りると考えている.そして,平等・不平等は「個人」を単位にする時にも使用可能である.英語のInequalityにも社会レベルと個人レベル双方の意味が含まれる.ではなぜ,Inequalityをわざわざ格差と訳す必要があるのだろうか.仮に不条理性のない格差が存在しないとすると,格差という言葉は二者関係における差を強調する言説にしか過ぎなくなる.不条理性のない格差があるとしても,英語のInequalityには不条理性があるかどうかで対立する格差と不平等の両方が含まれている.以上より,私は学術系の論文で安易に格差という言葉を使用するのには反対の立場をとっている.

*1 本人が生まれたときないし,人生のある時期に非自発的な形で付与された地位のこと.代表的なのは身分.
*2 社会学で,親の職業や地位と子どもの関連性を見て,世代間で地位の移り変わりがどの程度生じているのかを分析する分野・ないし現象自体を社会移動と呼ぶ.完全移動とは,親と子どもの間に地位の関連が全くないことを意味する.例えば,ホワイトカラーの親のもとに生まれた子どもとブルーカラー出身の家庭の子どもとの間に,ホワイトカラー/ブルーカラーになる確率に差がなければ,完全移動が達成されているといえる.

文献

岡本英雄・直井道子編,1990.「序論」,岡本英雄・直井道子編,『現代日本の階層構造4 女性と社会階層』,1-12.
白波瀬佐和子,2005.「序 少子高齢化にひそむ格差」,白波瀬佐和子編,『変化する社会の不平等』,東京大学出版会.1-15.
橋本健二,2010.「一九六五年の日本」,橋本健二編,『家族と格差の戦後史』.青弓社.17-48.
原純輔・盛山和夫,1999.『社会階層』,東京大学出版会.

追記:格差という言葉は結局のところ出版社主導で多用されるようになったとの指摘を頂いたので、ここまで深く考え込む必要はないかも知れない。 同年2月17日

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