February 12, 2015

分析社会学についてあれこれ(断片的なメモ)

午前中にマートンの中範囲論文を再読し、それを反映するようレジュメを書き換え、午後1時からの勉強会へ。

中範囲の理論とは,観察されたデータに密着する形で,社会現象の限られた側面に関する,複数の想定から成り立つ仮説を検証し,これを法則として理論化・抽象化するものである,程度の理解をしていたが,この論文を読んでみると意外とメカニズムという言葉を使っていることに気づかされる.例えば,「役割群の理論は,これを中範囲の一理論としてみると,一つの構想とそれに結びつくイメージに始まり,そして,一連の理論的問題を生み出す.…すなわち,理論上は役割群の不判定が想定されているのに,一体どんな社会的メカニズムが働いて,この不安定を防止するのか.次にこれと関連して,どんな事情のもとでこれらのメカニズムが働かなくなり,その結果,非能率と混乱と葛藤が生まれるのか」(Merton 1967=1969: 11).

議論の中で,Causal Laws とCausal Mechanismsの違いとは何なのかという話があった。恐らく、Lawsというからには、それは法則、すなわちAが起こったらBが必ず生じるようなもので、物理法則なんかは数式で表せる。一方で、Mechanismsの場合、生物学で例えられているように、AによってBが生じるにしても、それはまず確実に生じる訳ではない。構造的な制約を受けながら、生じる場合と生じない場合によって原因がどのように作用したのかに対する説明は異なる。さらに、AからBが生じる過程は、よりミクロな、社会ではアクターレベルで説明される。このような説明に重きが置かれるのがメカニズム,くらいの定義でいいのではないだろうかという話だった。

私が思ったのは、結局分析社会学は他の領域と何が差異化されているのかという点だった。

一つにはRelational Sociologyとの違い。これに関しては、本文でも指摘されているが,個人の行為を動機づける目的を観察者が知ることは容易ではないはずにも関わらず,マートンはこの問題を克服できない(insurmountable)とは考えていなかった.

Ultimately the final test is this: does the juxtaposition of the overt action, our general knowledge of the actor(s) and the specific situation and the inferred or avowed purpose ‘make sense’ is there between these, as weber puts it, a 'verstänndliche Sinnzusammenhang?' If the analyst self-consciously subjects these elements to such probing, there is substantial probability that his conclusion in respect to purpose is not too far afield in the majority of instances. (Merton 1936:897)

究極的には,最後に行うテストは以下のようなものだ.すなわち,明らかになった行為,私たちのアクターに対する一般的な知識,具体的な状況,そして推論されるかあからさまに認められた目的が意味を成しているのだろうか,これらの間には,ウェーバーが言うような理解上の意味連関があるのだろうか?分析者が意識的にこれらの要素を以上のような精査にかけるとすれば,相当な確率で目的に関する結論が事例の大多数からあまりに離れていることはなくなるだろう.

構造的制約を受けた行為を採用する視点はRelational Sociologyと似ているように見えるASだが,一つには行為の目的が外から見ても観察できるかどうかという点に関して,前者よりも客観主義的な立場に立っている印象を受ける.

次に、合理的選択理論との違い。Elsterの二つのフィルターモデルは合理的選択理論とASを区別する際に必要な枠組みになってくるだろう.合理的選択理論では,初期条件において望ましいとされる行為の基準が設定されるが,ASでは選択肢に余地を残し,それらのうちからどの行為が選択されるかを,再び社会構造との関係の中から検討していくと考えられる.

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