風立ちぬはマンチェスターの映画館で友達と初めて見てから数えると、4回目だろうか。最初は、何がいいのか分からなかったのだが、そして多くの批判もあるのだろうと察するのだが、私は二郎の人生に「創造的人生の持ち時間は10年」という前提を置くと、あながちこの作品に向けられる批判を真に受けることはできないのではないかと考えている。
二郎の生き方に、美しい飛行機を作るナイーブさだけ見出してしまうと、こいつは何の迷いもなく戦争に加担してるし菜穂子をないがしろにしてるしみたいな評価になってしまうのは人情だろう。しかし、二郎はカプローニに言われた「創造的人生の持ち時間は10年」を信じて愚直に生き続けたことを忘れないでいたい。
例えば仮に、ある人の「創造的人生の持ち時間」が今から10年だったとして、本当に納得がいくものを作れるのは後にも先にもこの10年だとする。その間に、心から愛する人ができてしまったとき、その人はどうするのだろう。風立ちぬは、これに追加で、愛する人の生涯がこの10年で終わることが濃厚な例である。ここでのポイントは、どちらも期限が迫っている、個人のいsはどうにもならない条件が課されているということである。
創造的人生を諦めて愛する人に身を捧げるのも一つだし、反対に愛する人を諦めるのも一つだろう。しかし、いかに前者に傾いているように見えても、この作品で二郎は両方を選んでいることに疑い用はない。これは言ってみれば、矛盾で、本庄の「本腰を据えるために所帯を持つ、これも矛盾だ」とも似ている。
合理的な人間ならどちらかを捨てることができるかも知れないが、少なくとも、風立ちぬで描かれているのは、どちらも捨てられない人間の矛盾した姿であり、なおかつこの作品は矛盾を否定しない形で美しく描いているのではないだろうか。そういう生き方もあるよと、いくら批判されようとも。私には、宮崎駿のメッセージはここにあると思う。
矛盾が否定されない形で描かれているのは、彼の理解の中では、限られた創造的人生の持ち時間をひたすらに生きることと、菜穂子を一途に愛し続けていることは矛盾していないからである(いくら私たちが矛盾さを見出そうとしても、それは彼の中では一貫している)。彼は両方を行おうとしているし、菜穂子もそれを受入れてる。菜穂子も限られた時間を生きようと、サナトリムを抜け出して、短くとはあろうとも二郎と生活をともにすることを選ぶ。二人とも限られた時間を必死に生きたのは同じなのではないか。二人の短い人生の過程を描いたこの映画は、彼らの一途さに暴力や抑圧めいたものを見出した人には批判されるかも知れないし、たしかに矛盾にも満ちているけれど、自分は人生を愚直に進んでいった二人の生き様に感銘を受ける。
恐らく何度も指摘されているとは思うが、風立ちぬを見たとき、二郎の生涯は平和主義者でありながら飛行機好きだった宮崎駿自身の矛盾さを投影しているのではないかと思った。
インタビューを見てみよう。以下は2013年に日経新聞に掲載された本人の発言である。
宮崎駿「時代が僕に追いついた」 「風立ちぬ」公開
http://www.nikkei.com/article/DGXNZO57782960W3A720C1000000/?df=3
「(描くべきことは)その時代に自分の志にまっすぐ生きた人がいたということだった。堀越と堀辰雄の2人はインテリで、とんでもないところに(日本が戦争に)行くということを予感している。分かっていても一切そういうものとかかわらない生き方はできるのだろうか。僕は違うと思う。職業人というのはその職業の中で精いっぱいやるしかないんだ。...確かに僕は矛盾に満ちているかもしれない。でも仕方がない。矛盾のない人間はたぶんつまらない人だ」
インタビューから、宮崎駿が戦争の悲惨や平和の尊さをこの作品で伝えようとしたのではなく、時代に翻弄されながらも、自分の人生を精一杯に、矛盾に満ちて生きた人間の生き方を描き出そうとしたことが分かる。
この作品の中における戦争の位置づけという問題については、以下のように考えている。インタビューを解釈しようとすれば、宮崎駿は職業人としての役割を遂行した結果、戦争に加担してしまうことになっても仕方がないと言っているようにも見える。
しかし風立ちぬは零戦を描いているようで描いてない、戦争を扱っているようで扱っていない。登場人物も飛行機を作ることが戦争に加担することに気づきながら、どこか軍人たちを皮肉目で見ている。決して戦争によって人生を左右された人の姿は描かない。だからこそ、彼らの生き様に共感してしまう気がする。
とはいっても、菜穂子を蔑ろにしている二郎の姿勢はやはり批判されてしかるべきかも知れないし、一部の人は自分が菜穂子だったらこんな男にはついていかないと考えるかも知れない。それは正論で、特に現代のような形式的には自由が十分保障されているような社会では、菜穂子は間違った男性を配偶者として選んでしまったように見えたり、二郎のような人間を夫にしてしまったことへの同情もあるだろう。
私の解釈では、宮崎駿もそうした批判を織り込みずみで、二人の一生を描いている気がする。病床に伏す直子の隣で二郎が煙草を吸うシーンといい、従順な女性と仕事に没頭する夫のコントラストといい、二郎のような生き方は現代的な感覚では相容れないもののように見える。宮崎駿は、二郎のような人間のエゴイスティックさを強調することで、私たち見る側にとって理解できない人間の一生が、その本人の中では一貫していることの差異を強調して描こうとしたのではないだろうか。極端に言えば、道徳的に許されざる人間の「自分の志にまっすぐ生きた」姿を現代の私たちが許せるか・許せないかを問うているのだ。
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