December 8, 2015

丹念な記述とその先

疲れているので手短にといきたいところだが、疲れている時ほど1日が濃密で、その凝縮された厚みの中の一瞬、もしかすると自分の人生にとって大きな意味をもたらすかもしれないなんて片平里菜の歌を聴きながら考える。特に理由はないけれど、記憶が明確なうちに何かを残しておきたい。


1日に入ってくる情報が多すぎて手に負えない。学部の頃と比べても量的にも、質的にも、本当だったら耳の右から左へ流れるような話なんてほとんどない。まともに扱っていたら1日がすぐ終わってしまうので、人に流したり、何か合理化したり、そういう機能を働かせながら取捨選択をして1日が過ぎるのだろう。

久しぶりに早く寝て、7時過ぎに起床。朝食を済ませて韓国語の勉強。前回小テストの存在を忘れていて酷い点数を取ってしまったので、今回は名誉挽回のつもりで真剣にやった。結果、おそらく出来は今までで一番良かったかもしれない。韓国語は一回の授業あたりで得られる進度が他の言語と比べて大きな気がする。日本語と文法が似ているからだろうか。いってみれば、コスパがいいのかもしれない。

終了後、ルヴェソンでミーティング。豚肩肉のソテーのはずが、品切れで鶏肉に変更。パンをふた切れ、小さな豆の入ったサラダ、それとコーヒー。前半は本題には入らず、あっちの大学院の事情などについて聞く。現地の最新の状況について、生の声が聞けるのはとても面白い。州立大学の中の多様性や、西海岸の知的潮流など。目指すならトップスクールに応募しろと一言目にいうのは、自分を評価してくれているのかはわからない。いい大学にはとりあえず出しておけという姿勢は勇気をくれる。いろいろ話して、渋谷まで一緒に出る。

昼ごはんは済ませたので、直で研究室に行き、所用を済ませ、社研で大和論文が言及していたWuのGendered Trajectory (Stanford)を借り、赤門棟へ。先生の発表はいつも通り中身の濃いもので咀嚼するだけで質問が浮かばない。議論を聞いていたが、betweenとwithinのうち、後者を不平等というのはどうなのかという、こういう場でないとなかなか話せない根本的な話も出る。自分は、家族の価値の議論を紹介したいなという思いもありつつも、やはり機会の平等の話だけで階層を議論するのもどうなのかなという煮え切らない部分が残る。最後のコメント、マクロな社会構造が個人のライフコースに影響を与え、それが最終的にマクロに戻っていく過程を追うのが重要だという言明は賛成の気持ちと反対の気持ちが入り混ざる瞬間で荷物を収めたバッグを再び開けメモをとる始末だった。階層研究をpopulation scienceとして推進していくなら、人口学の知見を積極的に取り入れるとともに分析単位を世帯にしていく必要があるだろう。発表で出てきた、家族背景、家族構造、家族環境の区分は役にたつ。これに筒井先生の制度的要因と構造的要因を導入して、4,5層の枠で問いを分節化できるかもしれない。


その流れで、Diversity and Inclusion へ。英語ですでに結構話していたので質問が結構しやすかった。日本の女性の7割は結婚後退職する(そのあと、友人との話で現在は6割程度まで減少していること、また結婚と同時の退職は減り、出産後退職が増えていることを再確認)のはなぜかという質問が上がり、発表者が、そういう慣行なのだが詳しい原因はわかっていないというある種衝撃的な発言をする。この手の議論で原因が指摘されてないわけないのだが、考えてみると、幾つも要因が浮かんできて一言で説明できないなという反省をする。しかし、この70という数字のインパクトは小さくない。それに比して、これという決め手の理由が言えないのはいささか寂しい思いがした。このほかにも、なぜ日本ではキリスト教系の学校が多いのにキリスト教とはいないのかという、素直すぎて正面から答えるのが難しい問いが出てきて留学生と一緒の授業の楽しみを最後に垣間見た。

終了後、同期たちと夕食へ。東大前方面のカレー屋で初めてだったが意外と美味しかった。サービスでラッシーをもらう。カレーライス700円にみんなでシェアしたフライドポテト300円。院生室に戻り、明日の発表の用意。1時間で切り上げるつもりが以外と時間がかかって帰宅は深夜に。

帰りの電車は、切れ目なくメッセージが届く空間から遮断された貴重な瞬間で、自分の研究について一番真剣に考えている時間かもしれない。電車の中で40分、帰りのみちで20分ちょっと、いろいろ考える。先の構造的要因と制度的要因の区別に従うと、現在読んでいるBrintonでは、社会学の1カ国研究ではなかなか見られない制度的な理由が比較の際に検討されている。例えば、GoldinのUカーブ仮説のロジックだったり。日本、韓国、台湾を見ていくことで、厚みのある記述に成功しているように見られる。必ずしもこの本は説明的な研究ではなく、欧米の理論に当てはまらない東アジアの状況を、各国の文脈を汲みながら探索的に考えている。とはいうものの、結論としては説明的な主張をしているところも多く、個人的には結構好きなスタイルに入るし、比較研究の一つの在り方かもしれない。自分は問いの立て方が下手なのだけど、いっその事、説明的なというはひとまず棚に上げ、まず日本と韓国の外れ方がなぜ生じているのか(なぜといっているけれど)を比較しながらつぶさに見ていく。その際には、経済学的な理論によるのではなく、社会学の語彙を使って同じ現象を見ていく。そして、その帰結も(人口学の知見も借りながら、できれば)描いていく。結果として、既存の研究ではあまり見えてこなかった、あるいは明確に言及されてこなかった点がクリアに出てくるというのが理想的なスタイルではある。

いろいろ考えながらこうした東アジア比較の文献を読むと、意外と分析単位が狭いような気もする。Brintonの本にはほとんど「男性」がでてこない。いや、タイトルから女性を扱うのはわかるんだけど、女性の結婚行動や就業行動には配偶者の存在なくして語れない部分も多いのでは?とか、必ずしも制度的な要因だけで終わらせるのもどうなのかなとかを考える。まだ頭の中で整理できていないけれど、比較を通じて、家族形成と不平等という近年ホットになりつつあるトピックについて、丹念に記述していく。その先に何が見えるのかはわからないけれど、一度持った疑問は、特に今日のセミナーや本を読んで思った感想は、重要なはずだという直感を持っている。その上で以上のようなことを考えていたので、きっと無駄にはならないだろう。EAのいうような女性の革命の話と自分がいる社会の文脈のギャップが、ある説得的な形で説明できたらいいなと思う。外れ値だからといって、不平等と無縁というわけではないだろう。まだまだ考え中。

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