December 1, 2015

潜在変数アプローチと構造主義

昨日の夜は修論のことを考え出して全然眠れなくなっていた。理論基礎で構造主義の紹介をしていた文献を読んで、構造主義のいう構造と社会学でいわれる構造の違いについて帰りながら少し考えていた。基本的に、(コンテンポラリーな)社会学の理論では、最初から強めの分析枠組みを定義して、そこから演繹的にこうなる、こうなるとはせずに、そういう概念みたいなものは最低限に抑えて、つぶさに現実を記述していってから言えることを考えていく傾向にある傾向が強いのではないかと考えている。そこで必要とされるような理論は、何かを説明しようとするような枠組みというよりも、物事を記述するために最低限必要な道具という位置付け。階級にしろ、行為の四類型にしろ(作った当人たちの中ではどう使われるかなんて念頭になかったろうが)社会学の知的伝統の中で培われたもろもろの概念は、社会的な現実を理解する際に有用なものが多い。

ブルデューの理論を継承して新しい階級枠組みを提示しているSavageの研究もそういう傾向の中に位置付けられるかなと思った。彼はブルデューに習って、経済資本、社会関係資本、文化資本と階級を構成するような要素を上げていき、潜在クラスをもちいて階級を提示している。

この潜在性というのは、構造主義のいう構造に近いのではないかと考えていたのが昨日。Savageの研究は、階級を僕たちが明示的に意識できるものとして捉えるのではなく、諸要素を組み合わせることによって見えてくる潜在的なものとして定義したのではないだろうか。潜在変数アプローチは、どちらかといえば構造主義的な発想に近いのかもしれない。


自分は、学歴という変数に注目して同質性の強さを考えているが、そこでいう学歴が何を表しているのかについては、一致した見解が見られないような気がしている。ある人からすればそれは人的資本だが、「学歴」というからには、それは一種の(境界線を作り出すような)ステータスだと考える人もいる。一方で、学歴を、それに代表されるようなライフスタイルを象徴するものとして捉える人もいる。こうした比較検討がされないまま、なんとなく学歴を使用した分析は同じ土俵の中に立っているのではないだろうか、それじゃ自分の修論はどう考えよう、そういうことを考えていたら夜が明けていた。実は、同じ学歴のペアという同質性が何によって引き起こされているのかを考えるときに、学歴と関連する機会構造ではなく、人々が学歴に対して何らかの選好を持って行動すると仮定するときには、上記いずれの三つでもそれなりに真っ当な説明が(学歴の背後にある変数を考慮しないと)鼎立してしまう。要するに、学歴や職業といった変数を顕在的なものとして捉えたときに、複数候補があるうちで何がその背後にあるのかについて考察していないということだ。


2限が韓国語の授業で小テストがあることをすっかり忘れており散々な出来、一方で会話の暗記は完璧にできた。授業後延滞していた本を返し、こくわがたで冷大HG生玉、途中文献の複写依頼をしていたものをとりにいったり、自転車に空気入れたり。院生室で校正と四谷ゼミの文献購読。及び木曜のゼミのまとめ。5限にDiversity and Inclusionで学生のプレゼンを聞く。夕食はキャンパスにて。帰宅後、届いていた眼鏡の新しい鼻当てを取り付けようとするが、ネジを床に落とす失態。結局代替物で処理。その後温泉ワーク。


追記:例えば、学歴を人的資本が顕在化したものとして捉えるのならば、学歴間の同類結合の分断の少なくない部分は、その学歴によって予測される生涯賃金によって説明できるはずだ。仮に生涯賃金と学歴結合の間に関連がないとすれば、異なる学歴の間には地位集団に相当する境界があると想定するか、学歴に代表されるような価値観や文化的嗜好が分断を説明する要素として存在するという仮説が候補として浮かび上がるだろう。

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