May 14, 2021

ブルシットアメリカ社会学

先週の金曜日に、学内の研究会で報告した。テーマは日本の学歴同類婚と所得格差の関係、4年くらい前にスタートして2018年の学会で報告したまでは良かったが、その後私がウィスコンシンでコースワークに忙殺されたり、プリンストン への転学をしたりでなかなか再開する機会を見失っていた。この研究会のおかげで1ヶ月半程度集中して取り組めたのは良かった。

実を言うと、昔はアメリカの大学にいる人の前で、日本の研究発表をするのにためらいがあった。アメリカがベースラインの社会として想定されているアメリカの社会学では、せめて北米+メキシコくらいの事例までじゃないと、Why XX(XXには任意の国が入る)?と言われる。

私は日本研究をしているので、潜在的・顕在的にWhy Japan?問題と常に戦っているわけだが、アメリカの研究をしている人は、Why US?とは言われないので、この質問はブルシットである。しかし最近は「ホワィジャパーン?」と言われても(実際にはそんなダイレクトなブルシット質問をする人はおらず、多くの人は自分がブルシットアメリカ社会学の一員であることを認めつつ、なぜ日本なのか?と聞いてくる、結局ブルシットなのだが)、真っ当なコメントだなと思えるようになり、少しだけメンタルが太くなったかもしれない。

なぜ真っ当なコメントに思えるのだろうか?繰り返すように、Why US?と言われないのは不平等だ。しかし、社会学は多かれ少なかれ、拠点とする社会を前提にした側面は否定できない。日本に帰ればWhy Japan?問題は存在しなくなるのだ。そういう意味では、日本の社会学もアメリカの社会学並みにはブルシットである。

少し回り道をしたが、私の言いたいところはWhy Japan?という質問自体はまともであるし、同様にアメリカの社会を研究しているアメリカの社会学者も、個々の研究でアメリカを事例として選択しているのはなぜか、肝に命じて言及するべきなのだ。Whyと問うことがブルシットなのではなく、Whyを自らに問わない姿勢がブルシットなのだ。

そういったブルシットなアメリカ社会学の恩恵を受けて、自分は毎回、なぜ日本事例を選択することがリサーチクエスチョンに対してcompellingなのか、考える癖がついているので、それ自体は感謝することが多い。以前別のところで話したように、事例選択の適切性について考えるのは、メリットも多いのだ。ただ、そういった議論をすっぽ抜かした論文がトップジャーナルに掲載されているのをみると、やはりアメリカの社会学はブルシットだなという思いを強くする。大学院教育などで、こういった事例選択における不均衡さについてきちんと教え、アメリカの研究においてもなぜ事例選択が適切なのかを考えさせるトレーニングが必要だと思う。

No comments:

Post a Comment