プリンストンでも、先日のアトランタでの悲しい事件の犠牲者を弔い、声を上げようと集会が企画されました。アジア系アメリカ人(AA)の政治集会に参加するのは初めてです。一緒に参加した政治的なアクティブな同期の学生も、AAの集会に参加するのは初めてだと言っていました。アメリカだとアジア系は政治的に寡黙な優等生(モデル・マイノリティ)扱いなので、なかなか声をあげにくかったかもしれません。
集会は、最初組織者の教会関係者のスピーチから始まり、犠牲者の名前を読み上げたあと1分間の黙祷、その後アジア系諸団体(プリンストンアジア系学生会など)、アジア系の地方議員、近隣の高校生代表、プリンストン大学の研究者、歴史学者などのスピーチが2時間ほど続きました。最初、果たしてアジア系の集会に人が来るのか、という懸念めいたものがあり、人がいなかったらどうしようと思ったのですが、それは杞憂に終わり、プリンストン の街のサイズを考えると、かなり規模の大きな集会になったように思います。春学期からキャンパスに戻ってきた学部生らしき人の姿もたくさんあり、若い人が多かったです。
このモメンタムを活かして、何かしら変化が起こることを期待したいと思います。大学で言えば、例えばアジア系の歴史に関する授業を増やしたりすることは、一つの案でしょう。ただ、アメリカ高等教育の文脈だと、アジア系はマイノリティと単純に言えない事情もあります。まず基本的には、他のマイノリティに比べると人口よりもシェアはかなり多いです。しかし、分野によってシェアはかなり違います。アジア系はSTEM系に多く在籍していますが、人文系では少なく、なかなか一括りに言えないところがあります。また階層的に見ると、学部生にアジア系は多いけど、シニアになる程、少なくなります。さらに、アジア系内部のエスニシティの多様性、あるいはジェンダーも混ざるとさらに複雑です。アジア系はそれ自体としてかなり多様なのです。
もう一つ気になったのは、ナショナリティです。集会でもアジア系はfastest growing populationだ、というロジックが時折使われています。そう言うことで、アジア系は無視してはいけない人口なんだと、主張するわけです。人口学者としては、こういう人口の政治的利用には敏感になります。
この時には「アジア系」という括り、あるいはAsian and Asian Americansという言葉が使われますが。しかし違う文脈だと、Asianを抜かしてAsian Americans だけ使われることがあります。もちろん、これは複雑な部分を除いた簡潔な表現、としてみることもできますが、厳密には我々は(まだ)アメリカ人ではないので、そのニュアンスは大切な気がしました。そもそもアジア系自体が、メインではない、例外として、他のマイノリティの議論から外されることが多かったからです。はたして、アジア系はどこまでまとまることができるのでしょうか。
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