この1週間は色々あった。日曜はなぜか日本の自治体におけるincome segregationの話について考えていたのだが、月曜に疫学の授業で乳がんのスクリーニングに関する報告をし(この報告を経て私は乳がんのスクリーニングの効果に対して懐疑的になった)、火曜に家族社会学の大学院セミナーで家族とジェンダーについて議論し、水曜の疫学の授業でマラリアとジカウイルスに関する講義、そのあとに2nd year paperの授業でゲノムと同類婚の論文の報告、木曜に疫学の先生から共同研究の提案があり夏に向けてcovid-19をめぐる社会的格差に関する研究のレビュー論文を書く約束をし、並行してマックスプランク人口学研究所のcovid-19データベース作成のために毎朝ツイッターで「埼玉 コロナ 死亡」みたいな検索をしたり自治体のホームページで報道発表が記事になっていないことに苛立ちながらデータベースを作り、Rのコードで整形したcsvを吐き、datavizをして年齢別のCFRをツイッターやFBに上げて考察してみたり、金曜は社会学理論の授業でバトラーなどのポスト構造主義フェミニズムを議論し、そのあと手作りマスクで外出してコーヒー豆のピックアップをし、社会学部で組織されたcovid-19リサーチグループの会合に出席し、夜には日本の共同研究者と職域分離とスキルの関係に関する論文のアイデア出しを行った。その間にピザの作り方を学び、意外とオーブンで簡単に作れることに感動しつつ、57度90分の低温調理で大量に生成したローストビーフを食べきるのに苦労してしまって冷蔵庫はこの文章のように煩雑になっている。朝に起きてランニングをして、シャワーを浴びてコーヒーを入れ、クリームチーズを塗ったベーグルを食べながら、twitterでコロナの死亡例を逐一メモしている稀有なアカウントに感謝しつつ、データベースをアップデートするのが日課になりつつあるが、こういう作業で朝から荒んだ心を癒すために、グロサリでイースター明けで安くなったテッポウユリを買ったので、土が乾いたら水をやっている(関係ないがテッポウユリは台湾、琉球原産らしくキリストと何も関係はなかった)、もうとにかくそんなことをしていたらいつの間にか金曜が終わろうとしている(というか既に終わっている)。明日はこの1週間がここまで忙しくなることは意図せずに日本の人とedrinkの予定を入れており(こちらは朝なのでワインの代わりにコーヒーを飲むことになる)、そのあとにハーバードの学生に日本語指導のボランティア、翌週の授業の課題文献のフォローと引き続き研究(学歴同類婚、income segregation, occuoational segregation, ゲノムと同類婚、婚姻上の地位別の健康格差、その他諸々)しながらコロナのデータベースを作り、日曜には最近考えているポッドキャストのミーティングの予定。キムチがなくなりそうなのでアジアスーパーに買い出しに行きたいが、これらの作業で時間が潰れそうなのでまた今後にするかもしれない。おわかりいただけると思うが、以上述べた出来事のほぼ全てが、家の中で生じているというコロナ時代の奇異。
社会学の計量的な分析は個人をindividualとして捉えがちだが、フーコーやバトラーなどのポスト構造主義の議論を踏まえると、我々がみているのは安定的なアイデンティティを持つ個人ではなく、常に揺れ動くアイデンティティを付されているsubjectであると考えたほうがいいだろうという示唆を得た。実際に行う研究に対して何か影響があるわけではないが、物事を批判的に見る際にはこのような視点は非常に大切だと思う。もちろん、日常的な感覚でもそういう視点は持てることは持てるわけだが(常識を疑え的な視点)、ポストモダン以前の時代にはその「当たり前を疑うという当たり前」がいうほど簡単ではなかったわけだし、そうした考えに知的な妥当性を与えた議論はきちんとフォローすべきだろう。人口学的なデータを扱っている限り、西洋主義的な自律的個人みたいな話は遠く棚の上に置いてひたすら「記述」しているわけだが(記述とはこうした哲学的な議論を避けられるので便利といえば便利である)、こうした作業は例外なく現れたデータを表面的に解釈する危険性とも隣り合わせなので、どのタイミングでもポストモダンの議論を思い出すことにデメリットはない。そうそう、ポッドキャストとアイデアは似ていますが、先日のUS soc PhD from Japan edrinkである先輩がオンラインセミナーの案を出してくれたので、inequality and demography in East Asiaという私の趣向を前面に出しすぎて私自身若干引いているbiweeklyのセミナーをやろうと思っていますので、興味がある人はご連絡ください。国際学会はこの一年すべからくキャンセルされると思うので、その代替ではありませんが、大学ベースではない研究会の機会を考えています。
社会学の計量的な分析は個人をindividualとして捉えがちだが、フーコーやバトラーなどのポスト構造主義の議論を踏まえると、我々がみているのは安定的なアイデンティティを持つ個人ではなく、常に揺れ動くアイデンティティを付されているsubjectであると考えたほうがいいだろうという示唆を得た。実際に行う研究に対して何か影響があるわけではないが、物事を批判的に見る際にはこのような視点は非常に大切だと思う。もちろん、日常的な感覚でもそういう視点は持てることは持てるわけだが(常識を疑え的な視点)、ポストモダン以前の時代にはその「当たり前を疑うという当たり前」がいうほど簡単ではなかったわけだし、そうした考えに知的な妥当性を与えた議論はきちんとフォローすべきだろう。人口学的なデータを扱っている限り、西洋主義的な自律的個人みたいな話は遠く棚の上に置いてひたすら「記述」しているわけだが(記述とはこうした哲学的な議論を避けられるので便利といえば便利である)、こうした作業は例外なく現れたデータを表面的に解釈する危険性とも隣り合わせなので、どのタイミングでもポストモダンの議論を思い出すことにデメリットはない。そうそう、ポッドキャストとアイデアは似ていますが、先日のUS soc PhD from Japan edrinkである先輩がオンラインセミナーの案を出してくれたので、inequality and demography in East Asiaという私の趣向を前面に出しすぎて私自身若干引いているbiweeklyのセミナーをやろうと思っていますので、興味がある人はご連絡ください。国際学会はこの一年すべからくキャンセルされると思うので、その代替ではありませんが、大学ベースではない研究会の機会を考えています。
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