April 25, 2020

在宅だと変化に乏しいので今日唯一の発見は「ネギは水につけるとかなりの勢いで伸びる」だけだった

本当にネギは伸びるのが早い。ネギは月曜日も火曜日も、水曜日も木曜日も、そして金曜日も同じように伸びていく、雨が降っても、雷が鳴っていても気にせず伸びていく、私もネギを見習って、ネギのような進捗を産みたい。

起床してコロナの死亡例のデータを作り、11時から理論の授業。今日はポストコロニアル社会学。前半は先生のレクチャーで、社会学が度々対象とするフランス革命と産業革命に端を発する「近代化の起こり」がコロニアリズムと密接な関係にあったこと、それにもかかわらず初期の社会学者たちは植民地のことを全く考慮せず、資本主義に対して批判的だったマルクスでさえも植民地主義を肯定的に見ていたことなどがレクチャーされる。

それを踏まえてJulian Goによるポストコロニアル社会学のチャプターを読んだが、フーコー以降のポスト構造主義シリーズでは毎回「シンパシーは感じるけど私はこの視点を生かしてどうやって人口学的な研究をすればええねん」という感想が繰り返されており、今日もその例にもれなかった。先生曰くhistorical contextが大事なんだと、繰り返し言われたが、それはポストコロニアルな文献を読まなくても実証主義的な研究伝統に立つ社会階層の研究者でさえ近代化論を信じてる人なんで今は誰もいませんよ、と心の中でつぶやくこと、数知れず。正直言ってポストモダンな視点と私の研究は非常に相性が悪いわけだが、どのようにこれらの視点をreconcileしていくかは今後の課題である。

コロニアリズム関連でいうと、私は気持ちアカデミック・ナショナリストなところがあり、アメリカの社会学で東アジアや日本の研究がないがしろにされていることに対して素朴に何糞と思っているところがある。この政治的な感情自体は前々から認識していたわけだが、今日の文献を読むと、そういう私は、コロニアルな視点をそのまま持ち込んでると言われても否定し難い気になってしまった。アカデミックな場における自分の政治性からコロニアルな視点を除くのは、なかなか難しい。

自分の本分は日本研究なわけだが、「東アジア」でグループを作ることは多々あり、それはもちろんアカデミックに東アジアで比較することの大切さが第一にはあるが、同時にアメリカ中心主義のアメリカ社会学において、東アジアの研究を盛り立てるという政治性もある。その二つは分かち難く存在している。

政治性があることはしょうがない、というよりもどのような社会的行為にも政治性は伴うわけだが、私の場合、アメリカの社会学に対して抱いている何糞魂も、オリエンタリズムへの抵抗と言われてしまえば、それまでな気もしている。コロニアルな視点を内面化しているんじゃないんですかと言われると、なんかそれも悔しいわけですね。

そんなことを考えつつ、疫学の先生とのCOVID-19プロジェクトの書類作成、そのほか疫学の課題を進め、雑務を済ませ、家族に電話し、COVID-19関連の分析をし、ご飯を食べながら多喜さんの博論本を読み、メールを書き、みたいなことをしていたら1日が終わった。6時間半後にはedrinkである。疫学の課題を済ませられたのは思いの外良い進捗だった。

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