March 13, 2015

グローバルお茶を濁してむず痒さエリート

マン大PRをした後、以下のようなことを呟いた。

まあもちろん特に海外経験のない人が、専門の勉強の延長ですぐ留学しようと思えるかというと、難しいと思う。チャンスがあればしたいけど、0が1になるまでのハードルが大きいと感じてる人も少なくないのではないかと思う。する/しないを個人の意思に帰するのではなく、そういう人をサポートする制度が充実して欲しいなと思う(理想論だけど)。

すると途端にむず痒くなる。理想論を語る自分の偽善を感じる、というよりは、なんだかお茶を濁している感じがした。こういうこと呟くと、何お前はエラそうに言ってんだ的な視線を感じてしまい、つい制度の充実を!みたいな誰でも言えること言ってしまうことに、むず痒さを感じた。

正直いうと私は駒場一年目の友達に色々面倒見てもらい今に至るので、みんな留学してね♪みたいな啓蒙的なこと言うのにはためらいがあるし、いわゆる意識高いとされる人たちを半分皮肉目で見ながら、彼らと一緒にグローバルなんたらと表向き斉唱していたこともあり、要するに簡単に言えない部分が多い。

ただ、その手の申請書から実際のプログラムまで、独特の語彙や話法が求められるので、こればかりは仕方ない。それを使って、さも自分もグローバル何たらになると演技しながら機会をもらってきた節はあるが、周りも割とそういう人いるだろうなと思う(これはうちの大学に多いだけかも知れないが)。(少なくともうちの大学の人で)グローバル何たらにコミットしている学生側の多くは割と冷めてて、自分の将来と照らし合わせて何が必要かを考えながら表向き意識高く振る舞ってるだけだと思ってる…

表向きが大事で、本心どう思っているかなんて重要ではなく、言う必要もないので表にでないだけ。むしろ、普段からこの手のグローバル何たらに皮肉目を向ける人は、当事者の冷めた感覚を知らないか、変なイデオロギーに惑わされてると思っているのだろうか(そんなわけでもないけど、単なるネタとしての消費かな)。

ただ、違う大学の人で本当にグローバル何たらな人はいて、そういう人たちをメインターゲットにして市場は動いているのかも知れない。ただ、私の周りに限ると、何たらエリートと表向き言っている人はひとまず世の中の期待に応えてそういってるだけで、その意味で彼らの存在は表象(representation)に過ぎないと思っている。



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