Campbell, K. E., and B. A. Lee. 1991. “Name Generators in Surveys of Personal Networks.” Social networks 13(3):203–21.
1991年のSocial Networksに投稿された、Name Generatorを使った調査を比較検討した論文。アメリカにおいてパーソナルネットワークを集めた調査は1973年のLaumannのデトロイト調査に始まり、1985年にはアメリカ全土を対象としたGSS(General Social Survey)にこの項目が盛り込まれた。その間には日本でも著名なWellmanやFischerによるコミュニティ調査も実施されている。
Name Generatorは単純化すれば「誰を知っていますか?」という質問を調査対象者に聞く形で、その人物のネットワークを把握しようとする試みである。しかし、個人と関係を持った人間の数は、定義によって様々に変わりうる。調査のコストを考えても、何らかの制限を加えなくてはならない。
例えば、関係の内容や役割(重要なことを議論するのは誰かであったり、サポートの提供者)や親密性、さらには地域(近所に住む人)によって絞り込みが行われる。これとあわせて、時間的な区切り(直近の半年間で~~した人)を用いることで制限だけではなく回答の正確性を担保することもできる。(他によく用いられる方法には、基準に見合う人を○人まで挙げる、というa numerical limitが用いられることも多い)
本論文は、このように同じName Generatorといっても、調査ごとに異なる手法を用いている現状を鑑みて、手法の違いが調査結果にどのような影響を与えるか、四つの調査を比較して分析している。調査に用いられたのはWellmanのイースト・ヨーク調査、Fisherの北カリフォルニアコミュニティ調査、MarsdenらのGSS、そして筆者らが行ったThe Nachville Neiborhood Surveyである。筆者らの調査は、South Nachvilleから81地点を選び出し、1地点ごとに10の隣接する住宅の居住者に、近隣及びそれよりも広い範囲に住む住民との交流について尋ねている。この調査が他の三つの調査との比較の時に用いられる参照カテゴリになっている。
比較の結果から(1)手法によって最も幅が出るのは挙げられた人数(Fischerの調査には名前を挙げるための複数の質問が用意されている、また親密性について尋ねる質問については回答数が少ないなどが要因として挙げられる。)、(2)年齢や学歴、性別の割合などの平均は調査間でほぼ同じだが(3)これらのばらつきは大きい。最後に(4)関係の特徴(期間や連絡の頻度)は調査間のばらつきが大きいことが分かった。
Knox, H., M. Savage, and P. Harvey. 2006. “Social Networks and the Study of Relations: Networks as Method, Metaphor and Form.” Economy and Society 35(1):113–40.
ネットワーク分析の学説史研究とも言うべき論文。筆者たちは、ネットワーク分析ないしネットワーク的な志向性を持った研究が増しているにもかかわらず、相互の関係がネットワークになっていないことに疑問を呈する。筆者たちによれば、ネットワーク思考の研究には二つの潮流があるという。一つは社会ネットワーク分析(SNA)と呼ばれる分野、もう一つが社会人類学の系譜だという。この二つの潮流の発展過程に沿って、筆者たちはネットワーク思考に関する問題点を提示し、解決の糸口を探っている。
はじめに、筆者らはRilesによる人類学的なネットワーク調査の事例を紹介する。Rilesは調査の過程で、調査者の分析と被調査者にとっての現象が同じものになっていくと論じる。「ネットワークの効果は、その記述によって生み出されるのだ」、この言葉を引用しながら、筆者らはネットワークが方法として、メタファーとして、そしてformsとしてどのように展開したかを考察する。
はじめにSNA領域の検討が行われる。Social Networksに代表されるように、SNAの研究者たちは自らの研究者コミュニティを中心にその手法や測定技術を発展させてきた。一見すると、SNAの研究は一枚岩のように見えるが、実はそうではないと筆者たちは論じる。その例として挙げられるのがグラノベッターの弱い紐帯の研究だ。これは一見すると、そして彼自身が主張するように、個人は関係性の中に「埋め込まれている」、つまり個人の力ではどうしようもないところで経済的な有利不利が決まってくることが述べられている点で、経済学的な、そしてそれまでの個人の持つ資源から地位達成を考える社会移動研究の個人主義的なモデルとは対立すると思われる。しかし、「埋め込み」という比喩は、コンテクストに制約される個人について考えるときの方法に等しい。あくまで弱い紐帯は個人によって所有される、そしてこれがName Generatorによって既存の社会調査で集められることは、グラノベッターによる弱い紐帯のモデルは非常に個人主義的であると考えることができるというのだ。すなわち、弱い紐帯の議論は一見構造主義的に見えても、手法としては個人主義的なのだ。
このName Generatorという方法は一般にwhole networkを調べるのに対比してego-centricと呼ばれる。この二つの方法は、SNAの研究者が持つ二つの関心(contactとfield)に対応する。contactはアクター間の交流・接触がネットワークにとって重要だとする見方で、例えば会社の重役兼任に関する研究では、重役同士が互いを知っているかがネットワークの密度を増す際に大きな影響を与えると考える。しかしこれは、紐帯がないことをどのように評価するかについてなにも言明していない。Fieldの関心はグループごとの関係にあり、構造に関心を持つ見方と相性がいいとされる。特に、ホワイトの構造同値やバートの構造の空隙と言った考えは、ネットワークを一つの構造と見なして、そこから各アクターにとっての影響を探る。そのため、全体のネットワークがどうなっているかが分からなくては始まらない。こうした構造に関心を持つ見方がSNAにとっては一般的とされるが、これには二つの問題がある。一つはこの見方が重視するwhole networkは実際に集めることが難しいこと、もう一つはどこを境界にすればwholeと言えるかについては定義ができないことである。このように、ネットワークを分析する「手法」を発展させてきたSNAは内部で対立が見られ、構造主義的な見方も問題を抱えている。
続いて、人類学領域の検討がなされる。筆者たちは、人類学の研究においては、ネットワークはメタファーとして用いられたことを主張する。例えば、初期のラドクリフ=ブラウンは当該社会のkinshipのシステムをより広い社会的な構造として語る際に、ネットワーク(ここでは、relatedness)を両者を結びつけるメタファーとして用いたという。ただし、これは単なる具体から中小への過程としてだけで片付けてはならないという。ネットワークが人類学の研究で用いられたのは、階級やジェンダーといった同じだけ広い射程を持つ社会的カテゴリが現実の生活情況と結びつかないからでもあったのだ。人類学の研究が構造機能主義的な見方から人々の持つ意味に焦点が写るのと平行して、ネットワークの分析方法としての色合いは薄くなり、かわりにメタファーとしての要素が強くなっていったという。しかし、階級やジェンダーが疑われたように、ネットワークも思弁的なカテゴリとして疑いを持たれている。
このように、SNAと人類学双方に期限を持つネットワーク思考は批判に晒されている。しかし、筆者たちは両者を跨ぐ形でこれらの困難を解消できる可能性があることに触れる。そしてそこでは「文化」が重要な役割を持つという。筆者たちはホワイトがネットワークの構造主義的見方を批判し、文化社会学的な観点からネットワークを分析する主張を紹介する。SNAが苦しんだ、境界性の問題について、ホワイトは既存の研究がネットワークをアドホックなものと仮定したことを批判する。ホワイトによれば、領域はそれはもはや構造ではなく、それに付随するストーリーによって認識できるという。そのストーリーはネットワークに属している内部者が構成する言説の形で表現されるという。近代化が様々なネットワークを互いに交差させてきたことに振れ、彼はネットワークはもはや構造ではなく、文化的構築物そのものだと主張する。
(ここで中断。)
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