***後悔、先に立たず?***
すでに、一昨年来の出願について、いくつかの論点に分けて述べてきました。お分かりいただけるように、私は2017年から2018年にかけて、大学院浪人のようなことをしていました。英語の試験の成績も奮わない方だったので、正直、アメリカの社会学PhDに出願される方に(そういう考えを持つ、日本の方がそもそもどれだけいるのか、という問題はありますが)、何か積極的な、助言めいたものを示すことはできません。
ただし、今振り返ると「こういう選択もあったのではないか(そうすれば、今よりも「苦労」せずに留学できるようになったのではないか)」という考えはあります。私自身を、一種の反面教師に見立てて、「反実仮想」的な留学プランを考えると、何点か思い浮かぶことがあります。
***後悔ではなく、反省!***
学部から直接海外の大学院に進学しようと考えたこともありましたが、日本で2年間、修士課程に在籍したことで、得られたものは少なくありませんでした(同時に、失った機会があることも事実ですが、それ自体が既に反実仮想の世界の話です)。あるいは、何もストレートに進学するばかりが、ベストな選択では無いと考えています。
とはいえ、繰り返しになりますが「こういう道もあったのではないかなあ」と考えることも稀ではなく、今回の記事は自分の進路を回顧的に振り返ってみたときの、反省に基づくものです。
(1)学部時代にアメリカの研究大学に交換留学する。
私は、大学に来るまで海外に行ったこともなく、地方出身で、親も高卒同士だったものですから、学部入学時点で留学しようという気持ちは微塵もなかったです。しかしながら、幼い頃から英語教育をインテンシブに受けてきた人が、偶然、語学の同じクラス(文三ドイツ語16組)だったことや、友人の紹介で入った「意識の高い」とされる駒場のゼミ、あるいは負けず劣らず「意識の高い」とされる学生団体に、様々な縁で入る機会に恵まれ、自然と海外で学ぶ、英語圏に留学することが現実的な選択肢として浮上してきました。
結果的に、私は学部4年時(2013年)にイギリスのマンチェスター大学に文学部の協定で交換留学するわけですが、当初はアメリカの学部に交換留学をしに行きたいと考えていました。
具体的には、ミシガン大学アナーバー校という、計量社会学のメッカみたいなところに行きたかったのです。しかし、ミシガン大学に留学するためには、当時は学部後期課程の進学先として教養学部を進学した上で駒場の留学制度(Abroad in Komaba, AIKOM)を利用する必要がありました。残念ながら、私は進振りの点数が足りなかったので、第一希望の相関社会科学専攻に進学できず、文学部の社会学専修に進学することになったのです(*1)。
マンチェスター大学は、ネットワーク分析や文化社会学、あるいは階級分析で有名な先生がおられ、私自身勉強になることも多かったですし、そこで思いついた研究テーマが、今でも研究関心の基礎にあります。したがって、イギリスを選択したことを後悔していることは全くありません。
その一方で、ミシガン大学に交換留学して、当時社会学部に在籍していたユー・シー教授(現在はプリンストン大学に在籍)のRAなんかができていれば、ストレートにアメリカ社会学PhDに進学できたのではないだろうか。そう考えることはまだ、あります。
なぜ、このような妄想と仮想の区別が難しいようなことを思うかというと、若干の根拠があります。というのも、アメリカの大学院入試では、推薦状が重要とされることがあり、できればその分野の、著名な先生から、優秀な学生だと認められれば、トップスクールに合格する見込みが上がるとされているからです。
それ以外にも、アメリカのPhDに進むのであれば、アメリカの学部に交換留学する方が、様々な意味で「素直な」選択だったと思います。私はその一方で、どうせアメリカに行くのであれば、学部ではヨーロッパを見ておきたいと思い、マンチェスターを選択することになりました。
(*1)なお現在、AIKOMの制度は全額の交換留学に吸収されることになっており、その前後でミシガン大学への交換留学も無くなっています。昔は、AIKOMのページをみて留学を考えたことが何度もありましたが、そのページも無くなっているようで、寂しいです。
(2)修士課程はアメリカの大学院に進学する。
この点に関しては、修士課程に進学して以降、特に修論を書き上げる前後に、出願を始めた時期から考え始めました。
すでに述べたように、学部生の時には、学部から直接、アメリカのPhDに出願しようと考えていたこともあったのですが、周りの先生方の勧めや、今の自分では実力不足だろうという(それはそれで根拠のない)判断から、修士は日本で、というか東大で取ろうと決めたのでした。
しかし、徐々に、同じ修士号でも、日本よりも、アメリカ、あるいは英語圏でとった修士号の方が、アメリカ社会学PhDの進学のためには有用なのではないかと考えることが出てきました。これも、先の理由と似ていますが、近年では、コロンビア大学のQMSSやニューヨーク大学のAQRで、1年で計量社会(科)学の修士号を取ることのできるプログラムができています。そして、その卒業生の一部は、アメリカ社会学のPhDに進学しています。
また伝統的には、シカゴ大学のMAPSS(MA Program in Social Sciences)や、LSEの修士からアメリカのPhDに進学する人というのは、少なくありませんでした。あるいは、中国人の学生の中には、英語圏として香港大や香港科技大(*2)のマスターをとってからアメリカ社会学PhDに進学する人もいます。人口学が学べるMPAやMPPの学位を取る人もいます(例えば、プリンストン大学のMPAプログラムでは、人口学研究所(OPR)との連携でCertificate in Demographyを取得することができます)。
いずれの大学も、アメリカでPhDをとり、現役の社会学部のファカルティ、あるいは近年までファカルティにいた人が指導してくれるので、日本にいるよりも、比較的、推薦状は強いのではないかと思います。英語の業績もつけることができるかもしれません。
詳しい統計は知りませんが、留学生のステータスでアメリカ社会学のPhDに進学する人の中で、北京大学や中国人民大学で非常に優れた成績をとってストレートで進む人もいますが、少なくない人は英語圏の大学院で修士号をとってから、アメリカPhDに進学しており、そのルートは確立していると思います。それに比べると、国内の学部・修士を経ることの、メリットは一体なんだろうか、、、と考えることはありました。
もちろん、この手の話は「隣の家の芝は青い」ということわざ(?)を引っ張ってくるまでもなく、自分が享受できていない環境を羨望しているものです。私なりに、東大で修士号をとった、積極的な点を考えてみると、二つあります。
一つは、学部以来、お世話になっている先生の指導のもと、研究ができたり、あるいは科研のプロジェクトに関わらせてもらったりしたことがあると思います。
もう一つは、私は英語の成績が低く、その不利を奨学金(フルブライト)への選抜で挽回できたのではないかと考えることがあるため、国内の教育機関に在籍しているからこそ得られる奨学金へのアクセス可能性は、実は日本に残ることのメリットなのではないかと考えることはあります。
このように「たられば」は尽きないわけですが、私から一つだけ、あげることができるとすれば、学部を日本で出た後に(*3)、日本で修士を取るのか、英語圏で修士を取るのか、あるいはストレートでPhDに進学するのか、それらの(実力的、財源的な)実現可能性と、得られるメリット、あるいはデメリットを真剣に考えた上で、後悔しない選択をすることだと思います(といっても、多くの人は後悔するのかもしれませんが)。
比較をしなかった後の後悔と、比較をした上でとった選択肢の後悔だと、どっちが納得できるものでしょうか。みみっちい話かもしれませんが、ひとの悩みというのは、そういうもので尽きないのではないかと思うこともあります(反省と言いつつ、やはり後悔しているような気がしてきました)。
(*2)香港科技大(HKUST)のウェブページを見ると、MPhil in Social Scienceを終えた学生のPhDの進路(PhD Obtained From / Currently Underway At)と、現在のポジション(Current Position and Organization)がわかります。後者は、Placementということでアメリカの社会学部のページにも書かれてたりしますが、前者の「どこのPhDに進んだのか」というのは、HKUSTの修士号が海外PhD進学のための踏み石(stepping stone)として機能していることを示唆しているでしょう。
(*3)私は、日本の学部教育の水準は、コスパ的にはよいと思いますし、そもそも駒場の教養教育を根幹とする学風がなければ、留学をしようとは考えていなかったと思います。
(3)国際学会で報告する。
最後はごく簡単に、日本でも、海外にいても、できることです。ずばり、国際学会で報告しましょう。メリットはいくつもある一方、デメリットはほとんどないので、積極的に報告するべきです。
同じ社会科学でも、経済学、あるいは心理学は比較的ボーダーレスなのではないかと思うのですが、他の社会科学、こと社会学においては「誰に発表するか」が「何を発表するか」に強く影響すると思います。日本の学会は、基本的に日本の社会を研究されている人の集まりです。そうでなくても、基本的に日本の大学でトレーニングを受け、教育研究をしている人の集まりなので、日本の学術コミュニティで暗黙裡のうちに前提とされているプロトコルのようなものがあります。
それ自体は、研究を円滑にする意味では、よいのですが、社会学の面白さは、当該社会の常識を、常識とせずに考えていくところにあります。海外で日本の事例を報告すると、「なんで日本はそうなの」と、そもそもの前提が共有されないことが、ままあります。
そのギャップ自体が研究の出発点になることはありますし、そのギャップを多少なりとも説明できないと、海外の研究者にとって、日本の事例を研究する意義を理解してもらえません。
文脈の違い、と言ってしまえば簡単ですが、これを日常的に意識しながら研究することは、容易ではありません。自分が日本人(あるいは主に日本で育った経験を持つから)であり、オーディエンスは日本人であることが仮定されているからです。
試しに、国際学会に行ってみましょう。オーディエンスが誰なのか、想定できません。逆にいうと、誰がオーディエンスであっても、わかってくれるような報告に仕立てるインセンティブが働きます。私は、この点を非常にポジティブに捉えています。自分の研究を相対的に捉え直すチャンスだからです。
国際学会で報告することは、「なぜ日本を対象とするのか」「なぜ日本人ではないオーディエンスに向けて、報告をする必要があるのか」を否応無く考えさせてくれる、格好の機会です。そしてこれらは、ほぼそのまま海外の大学院に出願する際に書くステートメントにおいて重要になる論点(「なぜ日本を対象とするのか」「なぜ日本ではない国で研究するのか」)も応用できます。
以上より私は、海外の、特にアメリカのPhDに出願される方には、少なくとも一回、できれば二回以上、当該分野で知名度のある学会(階層論であればISA RC28、人口学でいえばPAA, IUSSP)やアメリカで開催される社会学会で報告することを強く勧めたいと思います。海外の学会は、ほぼフルペーパーが要求されることが常なので、ライティングサンプルを書くためのステップにもなると考えられます。また、海外の学会に報告がアクセプトされること自体が、ある程度の選抜を経ているので、自分の実力をCVに書き込めるチャンスでもあります。
唯一、ネックになるのは、国際学会に行くための費用かもしれません。これについては、報告予定の学会でトラベルグラントを用意している場合もありますし、私は所属している日本人口学会が加盟するコンソーシアム的組織から渡航補助をいただけました。海外学会での報告に助成を出している学会は、ないようで実は割とあるので、チェックしてみてください。
私の実質的に初めての国際学会参加といえるものが、2017年に南アフリカで開催されたIUSSP(国際人口学会)でした。その時の所感は別のブログにまとめています。
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