May 31, 2015

弁解

ひとまず今週の目処は立つ。休講がいくつかあるので、予習は楽だった。

ここで弁解しておきますが、金曜日の勉強会については、場所の変更を知らせないことに対して違和感があり、体調優れておらず動く気にもなれなかったのもあって参加しなかったという次第です。連絡しなくても分かるだろうという態度はどうかなと思いました。

それと、Twitterをお休みしているのは特に関係ありません。少し一人でものを考える時間が欲しく、金曜日、久しぶりに自分の時間が取れたときに思い立ちました。

とりあえずこれくらいで。

Chan & Goldthorpeによる社会階層と文化研究

GoldthorpeとTak Wing Chan (University of Warwick, 執筆当時はGoldthorpeとともにOxford)の社会階層と文化消費に関する一連のプロジェクト(著作としては、以下を参照.Chan, T. W. (Ed.). (2010). Social status and cultural consumption. Cambridge University Press.
)に関して、断片的にまとめていたメモを一つの記事にしておきます(まだ断片的ですが、誤字脱字を直しておきました)。一度、社会階層と文化の関係については、論考めいたものを書いておきたいです。


Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2005. “The Social Stratification of Theatre, Dance and Cinema Attendance.” Cultural Trends 14(3):193–212.

 この論文で筆者たちは、2001年にイングランド全国を対象とした(Arts council Englandにかわって)ONSが行った調査の二次分析を通じて、イギリスにおける文化と階級・地位(及び教育)の関係について議論している。特に、この論文ではタイトルの通り映画やダンスの消費を対象とする。筆者らは、ブルデューらが主張する階級と文化的嗜好が一致すると考えるHomology thesis及び、文化的嗜好と消費がどんな社会的な基礎を持たないようになるというIndividualization thesis、そしてあらゆる文化を嗜好する層と単独の(ポピュラー文化)を嗜好する層に分化するというunivore-omnivore thesisの三つを紹介する。

 分析に入る前に、筆者らはウェーバーの理論に依拠して、経済的な不平等から構成される階級と間主観的な評価から構成される地位の二つを概念として採用する。分析を通じて、文化はブルデューが主張したような階級に左右されることはなく、地位との関連が見られることが分かった。地位以外にも、教育が文化的嗜好との関連を持つ。潜在クラス分析(latent class analysis)の結果、対象となった文化消費は二つのlatent class に分かれることが分かり、これはPetersonらが主張したunivore-omnivore thesisに対応する。具体的には、地位が高い人ほど文化的に雑食(omnivore)になる。univoreは高級文化ではなくポピュラー文化を嗜好する。階級の効果やlatent classの数などで音楽とは若干結果が異なっているが、基本的には上記の理論を支持する結果となっている。

Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2006. “Social Stratification and Cultural Consumption: Music in England.” European Sociological Review 23(1):1–19.

 この論文では、イギリスにおける文化消費の事例として音楽を対象に分析を試みている。分析の結果は彼らの一連の研究と同じく、omnivore thesisを支持するものであるが、結論部では特にhomogolgy thesisを否定するものとして、文化的エリートが潜在クラス分析から見出されなかったこと、およびunivoreの文化志向を持っているものの、社会的地位が高かったことが述べられている。

Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2007c. “Social Stratification and Cultural Consumption: the Visual Arts in England.” Poetics 35(2-3):168–90.

 (金太郎飴のような気もしないが)、この論文ではイングランドにおける文化消費(今回は芸術消費)と社会階層の関係を検討している。階級や地位の区別などは省略。潜在クラス分析の結果、芸術消費に関しては文化的雑食、非消費、その中間であるpaucivoresの三つが抽出された。このようにunivoreが見つからなかったことは、芸術消費が量的な分布をしていることを示唆する。分析の結果、やはりomnivoreはサービスクラスを中心とする層が、そして非消費は低階層の階級が占めていることが分かる。そして、多変量解析の結果、階級ではなく地位が文化志向の違いを説明することが分かった。ただし、omnivoresとpaucivoresの比較では学歴のみが有意となっている。また、4歳以下の子どもを持つことはinactiveとなる確率を高める。

Chan, T. W., and J. H. Goldthorpe. 2007d. “The Social Stratification of Cultural Consumption: Some Policy Implications of a Research Project.” Cultural Trends 16(4):373–84.

 一連の文化的嗜好と階級・地位の関係の調査を終えて、著者の二人がこの研究の政策的なimplicationについて議論している。(ちなみに、なぜこの調査を二次分析したか、その意義を序盤で書いているのがお手本なのでぜひ詠んでほしい。)論文は三つのパートに分かれている。はじめに、調査の結果文化はエリート対大衆というこれまで考えられてきた構図ではなくunivore-omnivore の対立だということ、次に、階級と地位は分析からは一致したランクの分布を示されず、階級が上層でも多くのunivoreが見られることが分かったことが報告される。最後に、文化的嗜好の分断は階級ではなく地位、及び教育程度によって左右されることが述べられる。最後に、こうした分析結果から二つの知見が紹介される。第一に、文化的嗜好以外にも、家の所有や休日の過ごし方など、より物質的なライフスタイルと地位の関連が考えられることが述べられる。第二に、仮に文化的嗜好を全般的に上昇させようと政府が考えるのあれば、地位との関連が考慮されるべきではないか、及び、地位レベルでの格差を本当に取り除けるのかを問うている。




5月31日

前日からの頭痛が響き、午前は休んでいた。少し吐いたりもしたが、なんとか2時間ばかり眠って、池ノ上へ。レポートを済ませる。用事が終わった後、吉祥寺で、学部時代の同期で学振を提出した人のお疲れ会をした。私はどういうわけかたくさんの動機に恵まれているが、やはりその中でも学部時代に一緒に勉強会をした仲間には、特別な感情を持っているし、同僚というのは彼らをレファレンスにしている。苦楽をともにしたというか、どこかしばらく話していなくても変にぎこちなくなったりしない関係という感じだろうか。

May 30, 2015

5月30日

金曜深夜の地震で目が覚めてしまい、夜の1時からレジュメ等を作成していた。そのまま渋谷にいこうかと考えたが、眠すぎて11時まで寝てしまう。映画の授業は1時から夕食までの9時近くまで。おつかれさまでした。

終了後に先生達と食事をとっていたら、地震があり、多くの人が平気な顔をしているのに、少し面食らってしまった。

May 29, 2015

5月29日

木曜日までの疲れで、朝起きても学校に幾気になれなかった。勉強会があるので、なんとか起き上がって向かうが元気が出ない。挙げ句の当てに、海上変更ということで、移動する元気もなく、途中から入る勇気もなく、その場で留まっていたら変な誤解を与えてしまったようだ。用事があったので、新宿に向かい、済ませた後に帰宅。やたら眠くて、八時過ぎには寝てしまった。

May 23, 2015

Hedström "Dissecting the Social" 第一章要約

Chapter1 "The analytical tradition in sociology" in Hedström, Peter, 2005. Dissecting the Social. On the Principles of Analytical Sociology. Cambridge University Press.


第一章では,分析社会学がとる四つのアプローチについて解説されている.

  説明 explanation
  分解と抽象化 dissection and abstraction
  正確さと明確さ precision and clarity
  行為 action

 具体的には,分析社会学は(1) 記述よりも説明を重視し,特に統計的な連関ではなくメカニズム的な説明を志向する.(2) タイトルのとおり,複雑な社会現象を分解し,構成体(constituent entity)の中から,最も本質的な要素と考えられるものに焦点を当てる.これは,重要性の低い者を抽象化することと同義である.しかし,あくまでも現実に生じているメカニズムに着目するのであり,分析社会学は分析的実在論 analytical realismの立場をとる.(3) 不確かな解釈を導くような曖昧な定義をすることはしない.たとえ小さな違いであっても結果に大きな差をもたらすような場合に関しても,明確さと正確さは重要である.(4) 複雑な現象を分解するとき,社会学的な問いにおいて中心となるのは社会システムにおけるアクターであり,アクターの行為である.説明的な社会学理論には,行為の理論が根本的に必要である.


 加えて,第一章では社会学における分析的な伝統について言及している.登場するのは,初期にはWeberTocqueville, 中期にはParsonsMerton、後期にはElster, Boudon, Shelling, Colemanである.これら現代の社会学者である四人の貢献が述べられる.Elsterは分析社会学の「哲学的な基盤」を用意したとされ,行為に基礎をおいた説明の論理を,合理性、社会規範,感情との関係から探求していった.合理的選択の伝統の上にたつ研究の多くが道具主義instrumentalism的な傾向にある一方で,Elsterはあくまで現実に生じる事象の説明に焦点を当てていたBoudonElsterと同じように,行為に基礎を置く説明の重要性を説いていたが,Elsterが分析哲学や行動経済学に依拠していたのに対して,Boudonは古典的な社会学との対話から理論を発展させていた.彼は,行為から社会的な帰結が生じるgenerative modelの重要性を,ミクロ-マクロリンクの枠組みを用いて説く.自身を「不貞な経済学者 an errant economist 」と称したShellingもミクロ-マクロリンクに関する業績で知られる.彼は,個人の相互作用から社会的な帰結が生じる過程を,居住の分離を例にMicromotives and macrobehaviourで見事に示した.最後に,Colemanもマクロな社会現象を,同じレベルのマクロな要因から説明するのではなく,個人の行為に立ち返って現象の発生を記述するアプローチを採用した.また,彼は理論と計量分析のリンクについても論考を残している.


恐らく,分析社会学の一つのミソは下線部「あくまで現実に生じる事象の説明に焦点を当て」ることにある。Hedströmに与えたElsterの影響は小さくないように思われ,となるとスカンジナビアにおける合理的選択理論の伝統が,分析社会学の誕生においては鍵になってくるかもしれない.

May 22, 2015

この一週間の出来事と倩々考えていること。

この一週間は忙しかった。まとまった暇な時間がほとんどなく、課題をこなし、授業に出席し、議論をして、分析をして、家に帰るの繰り返し。とは言っても、短いとは感じない。5月も、4月と同じくらい長く感じる。これは大学院に入ってから、大きく変わったことだ。

一般に、大学院の一年目はコースワークで忙しいとされるが、自分に関しては、この問題は半分当たり、半分外れている。当っている部分は、確かに社会学の必修やゼミで課される文献は生易しくはない。教育的な配慮を持って選ばれていることには違いないが、研究論文としても価値のある、論争的な論文も選ばれ、議論の展開を理解するのは決して容易ではない。これに対して、外れているとすれば、易しくはないがそれで他のことに手がつかなくなるほどではないということになる。もちろん、レジュメの担当かどうかにかかわらず、文献について先行研究部分を調べ、それをまとめてくることは、姿勢としては望まれていることである。しかし、この作業は飽和することのない作業でもある。多かれ少なかれ、多少の妥協を持って授業に望まなくてはならない。

といったところで、私の抱えている問題は、合計すると三足のわらじになるかもしれないほどの役目を負っている点にある。IHSや寮での役割と並行して、修士の一学期目を過ごし、かつ研究もする。これは容易ではない。

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13日の水曜日は、野暮用のため、5日連続の駒場。駅でhtnさんと会い、久しぶりに説教じみた雑談をうける。用事を済ませ、その足で帰宅。日が沈む前に帰ったのは、いつぶりか分からないくらいだった。私もそれなりには、学問的に誠実になってやっているつもりだが、htnさんみたいな人と話すと、自分の不誠実さを恥じるばかり。こういうのをちゃんと指摘してくれる友人を持てるのは貴重なことだと思った。彼と話して気が高ぶってしまった私は、以下のように呟いている。「博士号とるまでの間は、毎年がとても重要な、勝負の年であることには違いなく、それを細かく刻んでいけば、毎月、毎日が気を抜けない月日になる(理想的には)。論文なんかも、二日くらい離れるともとの感覚取り戻すまで時間かかるし、なるべく常に何かを生産していた方がよい気がする」

木曜日は一限から始まり、二限のゼミ、五限の経済学のあと、研究室にこもって分析を進めていた。翌週に迫った報告のためである。

金曜日は、というかこの日に限らず、最近の自分の境遇を考えながら、一般に通じるかもしれない処世術について考えている。例えば、大学院に入って、指導教官のもと修士論文を書く身分になると、良くも悪くも、常に自分の名前が刻まれるようになる。学部の頃は、テストの解答用紙に名前書くくらいでいいが、院生になると至る所で、自分の名前が刻まれる。学部生というのは、学生という集合の中の一個人だが、院生になると、一つの名前を持った人間として扱われる。そうされることで、享受できるものも増えるが、責任も生じるし、ともすると替えがきかないような形でネットワークの中に埋め込められる。恐らく、社会人になって会社や官庁で働くというのにも、多かれ少なかれ、そういう要素はある。享受できるものも増えるが、責任が生じて、自由が利かない。最近、学部生のときに留学できてよかったなと思えるようになった。院生になると、一年外に出ることのリスクが学部の頃よりとても大きくなる。自分がいなくなっても、特に問題が起こらないような時期、要するに他人と区別されない一個人の時に、好きなことするのが、後々振り返るといいのではないかなと思った。これは、後輩が留学の相談をしてきたことから出てきた感想。

この日は予定がキャンセルになったので、飲み会まで一日自宅でコンディション調整。関係ない本読んだりする時間が息抜きになる。ゼミのコンパで先生の隣に座ったのは、実は初めてかもしれない。二次会も楽しく白糸にて。少しずつ、研究室のメンバーとして認められつつある気がする。

土曜日は駒場で映画の授業。マジックリアリズム系のLaura Esquivel原作の作品であるLike water for chocolateを観る。なかなか遅くまで続き、帰宅して課題を片付ける。研究会のために、分析再現用のログをつくる。卒論の時は結構ひっちらかしていたが、一度分析結果をうまく再現できない時があり、それ以来ログは全て残すようにしている。ただ、今回の反省として、後々振り返ってもすぐ分かるように編集しなおしてこそなのだなと思った。分析で疲れていると、そこまでやる気が起きないけど、粘ったほうがよい。日曜日も分析した後、作業。


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最近の事情から、論文執筆について考える。かつては修士の学生が査読付き雑誌に投稿できるなんて思ってなかったが、最近はそれは分野によるところが大きいし、社会学でも無理ではないんだなと思うようになった。比教社は結構指導教官との共著が多い気がするが、うちの研究室にはそうした慣行はない、現院生だと皆無に等しいのではないだろうか。そういうカルチャーに関して、心なしか他の研究室よりうちの先生方は、学生が自分で研究テーマを決めて、それに向けてじっくり研究するのを重視している気がする。人文社会系の大学院は指導教官との一対一の関係以外に、研究室や講座で学生を育てるというカルチャーがあると思うが、誰のもとで学びたいというのと同じくらい、時にはそれ以上に、どういう雰囲気の研究室が良いかというのが大切なのかもしれない。
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月曜は一度本郷に行った後、駒場で授業。眠かったので、いつもの授業後夕食企画では、ちょっとテンション高めになってしまう。火曜は二限と四限のあと、駒場へ。四限で眠くなってしまい、疲れを感じる。帰宅後、吉川氏が登場したBSを見る。

水曜日は1,2,3と続いた後に研究会。終了後に懇親会→ラーメン。発表を聞くたびに、「多」変量解析に対する恐怖感が生まれる。とはいえ、仲良く付き合っていかなくてはいけない。この辺りの話は、以前にもしたかもしれないが、ダンカンやゴールドソープの議論を思い起こす。最終的に回帰分析に落とし込めざる得ない計量分析を、一つの限界と捉えて、ブレークスルーを志していきたい。

その日は母の誕生日だったのでメール。二限の方法基礎で、留学生の質問からレジュメ談義が始まる。いい書き方のレジュメとは何ですか,と聞かれて,確かに確固としたマニュアルはなく,慣れや先輩の背中を見て学ぶとしか言いようがない代物かもしれない。少し困ったが、この疑問点は自分が学部三年のときにも感じたことでもあった。

日々の作業で、疲れは溜まる。帰りの電車の中でふと、ダグラス有沢法則を検討してみようかと思った。昔、ISAからの帰りの渋谷駅で、大御所U先生と遭遇し、研究関心伝えたらまず始めにそれを言われた。あの世代だとそういう連想するんだなと思った節がある。

この日は疲れてぐっすり眠るつもりが、深夜に突如として落雷。ほとんど寝れずじまいで、木曜日。昼休みに、駒場の時の先輩とお茶をする。出版社で働いているとのことで,色々教えてもらう。

金曜日も報告、前回とは毛色の違ったコメント。今扱っているのは、卒論のテーマの応用だし、初見のコメントにはディフェンスできるようになっているのかもしれない。本当は、今まで思いつかなかったような発想とかにつながればいいのだけれど、もしかすると手法やテーマが論争的ではないのかもしれない。予想だにしないコメントが来ないというのも予想外である。ひとまず。二回報告してこの手応えなので、修論の一章くらいにはしようと思う。論文にしていく作業に入る。
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私の研究室の先生方は、研究テーマをしっかり定めることが出来るまでが、研究の一つの、ただしとても大切なポイントだと考えているような気がする。修士一年目も、そういう時期に当てられている気がする私の場合は、2年ぐらい前から関心は変わらず、テーマも一年以上続けているので、何を研究するかというプロセスをとっぱらってしまっている。幸いなのかはわからないが、博論まではこれで続けるつもりでいられることができている。自分の研究関心を最大公約数的にまとめられ、かつ事例としての日本に固執しなくてよいテーマを選んだのは、イギリスにいる時だった。あの時は、寮に図書室があって、夜まで卒論から博論までどんなテーマで書くか考えてた。今でも迷いはないので、その点はよかったなと思う。
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土曜はいつものとおりライティング。若干、生徒と先生の間で齟齬があり、異文化コミュニケーションと表現される困難に遭遇。昼ご飯は友人と。その後は、一日中図書館で勉強。寮の食事には行かずに、山手でやきにんにく。人に干渉されない時間が、一週間のうち最低限は必要で、今日はその時間だった。


ブログを書いていなかった10日弱は、忙しくも充実した時間であり、研究生活にとっても重要な機関だったかもしれない。ここで得たエッセンスを生かして、研究を進める。




今のところ、ひとまずこの二年はしっかり勉強して、得られるものは全て得られるようにしたいと思う。それが、小さな,けれど重要な第一歩だろうと思う。修論や論文等頑張ろう。







May 17, 2015

IHS第二回のレポート(5/11)




 授業ではまず,組織,経営研究の潮流について紹介があった.生産的行為の拡大の中にいる企業は,グローバル化する中の市場において文化の多様性があるとは認めたがらないのだろうか.この話を聞いた時,トマス・フリードマンの「フラット化する世界」(原題:The World is Flat)を思い出した.この本の中でフリードマンは多くの事例を引用しながら,グローバル化の進行とともに企業や個人の間に全く新しいコミュニケーションが生まれ,これまで組織の中にあったヒエラルキーがフラット化し,市場そのものが空間的,時間的制約を失い均質的なものになっていくことを例証している.確かに,情報技術の発展や自由貿易の拡大によって,市場における効率性を追求する余地が広がっていくとすれば,組織における文化の多様性もフラットなものになっていくか,もしくは生産性に悪影響を及ぼさないといった知見が求められるようになっていくかもしれない.
 こうした「多様性の収斂」とも言うべき現象が,学問の世界にも起こっていることが次に指摘された.1990年代以降のアメリカでは地域研究が衰退したと言及される.批判の理由は開発途上の未開社会に対する強い関心や社会主義という未知の領域の消失といった点などが言及されたが,そうした「供給」側からの説明だけではなく,地域研究にはない社会科学や人文学のディシプリンさえあれば,現地事情に強い人は必要なくなるという「需要」側の批判もあるだろう.この批判は,企業経営においてグローバル化の結果として多様性を考慮する必要がなくなるという議論とパラレルに映る.
 こうした文化の収斂論や,文化の違いはあったとしても違いは重要ではないとする議論の背景には,以下のような経営学的な発想がある.つまり,いいモノであれば売れる,モノが売れれば企業経営は成り立つ,という主張である.ここでも,商品さえよければどこでも売れるという議論は,ディシプリンさえあれば多様性を考慮しなくとも分析はできるという地域研究軽視の主張と重なってみえる.この授業では,企業のグローバル化と学問のグローバル化は,多様性の収斂という点では似ているのではないかという印象を持った.
 授業では,こうした議論に対して,「製品を買う人は同じ価値観を持ってモノを買っているのだろうか?」という視点が提供される.その上で,どのように文化を測定すればいいのかは,そもそも文化は多様性のあるものなのかどうかという点を含めて方法論的な議論になるとされ,課題文献に基づいた討論に入った.
 多文化を測れるのかという議論には,二つの論点がある.まず文化や価値観を測ることが出来るかというトピック自体に関するものである.もう一つが,測定法にその妥当性を問う議論である.議論は後者の方が多かった,つまり,文化を測ることが出来るかどうかではなく,測定手法一般の問題について議論された.社会学を専門として,日々社会調査に基づいたデータを使って分析をしている私にとっては,受講生の調査法へのコメントが興味深かった.

 まず,自分が何度か調査された経験があるという受講生から,「調査された経験があり,企業等で,こういう質問で分かるのは,自分が知らない自分像が出てこない,結果的にはウソを言うこともある」という否定的な評価が出てきた.私は,この発言を,調査を通じて回答者が提出するのは既に用意されているもので,それは時として虚偽にもなりうると解釈した.社会的な規範を踏まえて回答をすることは,社会調査法では社会的望ましさ(Social Desirability)の問題として議論される.社会的に望ましい答えが既に用意されており,調査ではそれが答えられているだけだとする事実自体は否定できないが,調査を行う場合はこれをわきまえつつ,質問方法を工夫するしかない.質問の仕方によって答えが変わるというコメントについても,方策は同様である.
 度々指摘されたものが,数値で表れたものを受け止めると,ステロタイプにもつながる,というものだった.解釈があやういのに,調査結果を与えてしまうと,数値には説得力があり,結果としてある主張のバックアップになってしまうというものである.これが受け取る側の問題であって,調査自体への批判ではないというのは議論でも挙がっていたとおりである.しかし,同時に私は,この種の批判は,一般向けの調査を想定しているのではないかと考えた.社会学の専門家が参加している社会調査では,学問的にもう少し精緻な議論がされているのではないだろうか.同時に,授業では言及されていなかったが,事実に対する誤差という意味での精度の問題はあっても,少なくともそうした調査は,我々の認識の構築にとって必要であると考える.例えば,性的マイノリティがどれだけいるのかという数値は確かに一人歩きすることもあるかもしれない.しかし,だからといって調査をする必要がないのかというと,そうではないだろう.
 次に,文献で用いられた調査が多国籍企業の事例をとっており,これが国民文化として代表しているとは言えないのではないか,とするものがあった.これは,相対的に少なかった文化を測ることへの問題点である.これについて,私は他の様々な条件を統制しており,分析結果が他の職業階層についても言えるかどうかは,別の調査との比較を行えばよいと考えた.この調査のポイントは,IBMを国民性に置き換えるのは,IBM社員という同じ条件を有しているのにもかかわらず,国家によって差があるという点である.
 以上のような議論は大変興味深く,授業ではあえて発言することはなかったが,その一方で自分の中で社会調査が他分野の人から見てどのように思われ得るのかについて考察することができ,得るものは多かった.


May 11, 2015

スカンジナビアの社会学における合理的選択理論の伝統

Edling, C., & Stern, C. (2003). Scandinavian rational choice sociology. Acta Sociologica46(1), 5-16.

この論文では本論に入る前に、個人の効用最大化という関連から数学的なモデルを作る極をhard-core rational choice sociologyとする一方、規範やネットワークといった、社会学的な要素を加味して個人の合理性をモデルに組み込むrational choice inspired sociologyの極、この二つの間に、社会学の合理的選択論は連続的に位置づけられるとする。例えば、グラノベッタ―の論文にも、個人の合理性を仮定する、という文言があるのだが、我々は彼が合理的選択論者だとは思っていない。そういう人は、 inspired の方に入るのだろう。

スカンジナビアの社会学は、当初よりドイツの形而上学的な社会学への批判的精神等から、経験的、政策的な志向が強かったらしい。Rationality and Societyに論文を投稿したスカンジナビアの社会学者は実は少ないとするが、同時にこの雑誌の編集にも携わっていたことから、やはりこの地域における合理的選択論の流れは弱くないとする。とはいいつつ、フィンランドやアイスランド、デンマークにはこの伝統はみられないとしたり、受容したとしても、合理的選択への評価はpro conがいるとするなど、スカンジナビアの合理的選択論の伝統、と一言で言えるほどのシンプルさではないらしい。

この論文によれば、コールマンの「社会理論の基礎」が出版されてからが、この地域における合理的選択論の伝統の、現代の出発点だとする。93年のActa Sociologicaの特集では、主に理論的な見地からこの本への批判が寄せられるが、筆者達にいわせれば、この批判のほとんどはhard coreな合理的選択を想定したものであるという。これらの受容からは、合理的選択論は素直に受入れられた訳ではないことが示唆される。例えば、社会科学における説明の役割をもつものとして合理的選択を評価しても、やはりこれでは規範や信念は合理性には還元できないと結論づける論文等がある。こうした複雑な評価を伴う受容には、Udehnに対する表現 “with a sort of sceptical sympathy”がぴったり来るかもしれない。筆者達は、この地域における合理的選択論を検討しているものは、話してばかりで行動せず(lots of talk but little action)”The talkers are often sceptical of rational choice theory but, at the same time, they see this kind of theorizing as potentially fruitfull if extended with more plausible assumptions”と述べる。最後に、この論文では、コールマンの弟子で、HedströmをHarvardで指導したSørensenの影響が、この地域における合理的選択論の受容に重要だったろうと述べている。結論としては、この地域における合理的選択論の伝統は、知られているほどには強くないというものらしい。

ちなみに、スカンジナビアでは、もう一つの合理的選択をめぐる論争があり、それは合理的選択と大規模データを用いる計量分析の関係についてだったそうだ。これに関しては、Hedströmは96年当時は両者の「結婚」に対して懐疑的になっている。これに関して、この論文の文脈を離れると、例えばGoldthorpeは真逆のことを言っている。計量分析は、因果関係を明らかにするために、合理的選択論を導入しろというのが、彼のもっぱらの主張である。スカンジナビア社会学における合理的選択論の複雑な受容の結果として、Hedströmの分析社会学を位置づけることは出来そうだ。恐らく、Hedströmに合理的選択のエッセンスを伝えたのは、Sørensenの影響が大きいものと考えられる一方で、Goldthorpeの合理的選択論とサーベイの結託という発想を導いたのは、Jan JonssonやEriksonだったのだろうか。

5月11日

今日は授業がなかったが、特に人と会う予定もなかったので、大学へ。前日に購入したコーヒーメーカーと、返却する大量の本を持って午前10時過ぎに登校。学部生室用にと買ったコーヒーメーカーは、これまで何度も遅くまで使わせてもらったことへのお礼。後輩達が使ってくれることを願うばかり。午後一時まで作業して、御殿下へ。年間パスを購入し(8000円)、40分ほど汗を流す。御殿下にはサウナもあって、ちょっと充実しすぎなくらい。終わった後、遅めの昼食。カレーSに納豆ととろろ、あとツナサラダ、しめて460円。

食べ終わった後、少し昼寝して、Constructing Social Theoriesを読み始める。やはり取っ付きにくいという印象で、どう応用されているのかが気になり、google scholarで引っかかった、この文献を引用した論文を漁っていた。どうやら、historicist approachが歴史社会学の経路依存モデルに影響を与えていること、複数の「理論」の中では、註範囲的な理論の先行事例として紹介されていることが分かる。これだけでも、この本がどのような位置づけにあるのかが少し分かり、ひとまず満足した。6限のために、駒場へ。電車の中で、スカンジナビアにおける合理的選択理論のレビュー論文を読む。まとめについては、この後のブログを参照。6限は、先生の授業のうまさに改めて感動。終了後、友人と一緒に菱田屋でご飯(金目鯛1240円)。帰り道で、寮の後輩と出会い、彼と一緒に帰寮。

May 10, 2015

5月10日

朝早く起きて、勉強。新しいタンブラーとコーヒーメーカーを購入(普通に自分の部屋のよりいいやつ)するために、駅へ。自転車も回収。家に帰宅して、着替えた後に駒場へ。駒場博物館にてIHSの展示を見た後、図書館で日曜版の新聞にざっと目を通す。

少し勉強した後、池ノ上で人と会う。終了後、昔の同居人に誘われ、大塚にて飲み。終わった後、同席していた人のシェアハウスにお邪魔。雰囲気良く、こんなところに住みたいなと思いながら帰宅。帰り道で、いくらか考え事をする。よい休日だった。

私の周りには、現代社会への批判意識や実存的な関心から研究をしているように見受けられる人がいる。私も、3年くらい前はそういう感じだった気がするが、今では少し距離をとっているような気がする。どちらがいいか悪いかという話ではなく、自分が仮に昔のままだったらテーマも違ってただろうなと。ただ、いつかAdam Swiftのようなスタイルの研究が出来たらいいなと思う。彼はちょうど、駒場時代の問題関心と今やっていることをつなぐ位置にいるような気がしている。ちなみに、なぜ人がその研究テーマに関心を持ったかは、聞かない。セミナーとかではもちろんだし、飲みの席でも聞かない。

May 9, 2015

2015年3月中旬から5月10日までに出版された結婚関係論文リスト

Abdellaoui, A. et al. 2015. “Educational Attainment Influences Levels of Homozygosity Through Migration and Assortative Mating” edited by Brion Maher. PLoS ONE 10(3):e0118935.
de Miguel Luken, V., M. J. Lubbers, and M. S. Solana. 2015. “Evaluation of the Relational Integration of Immigrants in Mixed Unions Based on an Analysis of Their Personal Networks.” Reis.
Hunt, L. L., and P. W. Eastwick. 2015. “Leveling the Playing Field: Acquaintance Length Predicts Reduced Assortative Mating on Attractiveness.” In press, Psychological Science 1–21.
Jackson, J., J. Halberstadt, and J. Jong. 2015. “Perceived Openness to Experience Accounts for Religious Homogamy.” Social Psychological and Personality Science.
Karpiński, Z., and J. Skvoretz. 2015. “Repulsed by the ‘Other’ Integrating Theory with Method in the Study of Intergroup Association.” Sociological theory.
Keizer, R., and A. Komter. 2015. “Are “Equals” Happier Than “Less Equals?” a Couple Analysis of Similarity and Well‐Being.” Journal of Marriage and Family.
Koelet, S., H. de Valk, I. Glorieux, I. Laurijssen, and D. Willaert. 2015. “The Timing of Family Commitments in the Early Work Career.” Demographic Research 32:657–90.
Krumme, H. B. 2015. “Consanguineous Marriage in Turkish Families in Turkey and in Western Europe.” INTERNATIONAL MIGRATION REVIEW.
Lee, G. R. 2015. The Limits of Marriage. Lexington Books.
Merli, M. G., J. Moody, J. Mendelsohn, and R. Gauthier. 2015. “Sexual Mixing in Shanghai: Are Heterosexual Contact Patterns Compatible with an HIV/AIDS Epidemic?.” Demography.
Siow, A. 2015. “Testing Becker's Theory of Positive Assortative Matching.” JOURNAL OF LABOR ECONOMICS.
Sohn, H. 2015. “Health Insurance and Risk of Divorce: Does Having Your Own Insurance Matter?.” Journal of Marriage and Family.
Thornberry, T. P., M. D. Krohn, and M. B. Augustyn. 2015. “The Impact of Adolescent Risk Behavior on Partner Relationships.” Advances in Life Course Research.
Wen, F., F. Torche, and D. Conley. 2015. “Male Marriageability and Local Marriage Market Outcomes: Exploiting Economic Globalization as a Natural Experiment.” Preliminary Draft, NYU 1–26.
Xie, Y., S. Cheng, and X. Zhou. 2015. “Assortative Mating Without Assortative Preference.” Proceedings of the National Academy of Sciences. 

May 8, 2015

5月8−9日

8日

午前中はハウスマン・大沢の本を読む。授業の準備や事務作業と並行して、積ん読の処理の日々。昼ご飯を食べ、三時から研究会、終了後、急遽青森で働くゼミの同期とお茶。その後、後輩に留学の相談。帰宅後、カレーを食べ、レビュー会について考え、要旨コメントに対して改訂したものを送り,メール処理をすませ,寝る。

今日は人と会って話したり,人をつないだりという、人間関係維持のために使った時間が多かった。明日からは仕切り直しで頑張ろう、まず、一日の始まりは早起き。

9日

10時半から英語の授業、これを途中で抜けて,13時から御殿下で講習会.終了後,少し残ってエアロバイクで汗を流す.理想としては,週に3回ほど通いたいところである.
家に帰ってシャワーを浴び,少し勉強した後,19時より吉祥寺にて京論壇2012の飲み会.街の情報誌で半額セールと分かった火鍋屋へ.この団体の人となら,真面目な話も馬鹿話も,両方することが出来て,本当に楽しい.学部時代にやっていた活動の中では,まだ一番コミットしていると言えるし,自分にとってはかけがえのないメンバー、組織である.二次会はハモニカ横丁にて,飲み散らかして帰宅.電車に乗る必要がないというのが,信じられないくらい心地よかった一日.

May 7, 2015

5月6−7日

6日
午前中は勉強、その後新宿で人と会う、終了後、本郷へ。明日あると思ってた一限のためにレジュメ作って印刷しようとしていたのだが、休講らしい。1週間前にしては上々のレジュメを作り上げてしまった。日付が変わる直前に、帰宅して、疲れたので即就寝。

7日
2限から。基本的にあまり発言しようとは思っていないのだが、ついのつもりで発した一言が尾を引いて、随分と発言してしまう。要するに、Zetterbergのとっている逆時計回りアプローチ(経験的証拠の積み重ねから理論的な命題を導くもの)は、基本的に命題群の経験的な一般化で、そこには、八宝菜論文でいうような、思いつきの要素がない。盛山がthe more the more型研究を批判している際に指摘する、積み上げ主義のポイントはそこであって、かならずしもthe more the more型言明を否定している訳ではない(実際、彼の挙げた例もthe more the more型言明を含んでいるので、不十分だが、理論を構成する個別の言明の一つとしてはそうした命題は必要なのである)。対して、彼はある公理論から下位仮説を導きだす演繹的なアプローチにも言及している(174-)。これは具体的にいうと、仮に公理論A, Bがあったときに、AとBの組み合わせからaが生まれてくるような、そうした発想である。複数の調査結果をまとめあげ、簡潔に要約する点を持って、Zetterbergは「第一の意義」としており、理論志向の調査者(右回りアプローチ、演繹的な命題を思いつき、それを検証する)にとっても、この公理論と下位仮説の組み合わせは、理論から演繹されるような「仮説の中から幾つかを選んで証明するだけでよい」(177)という理由から利点があるという。

しかし、Zetterbergはこうした公理論のメリットは最も重要なものとはみなしていない。彼曰く、理論化の最大のメリットは、「理論によってたくさんの別々な調査結果が互いに支持しあい理論に対して最大の信憑性をもたらすように調査を整理統合することが出来ることにある」(178)からだ。これをひとまず、経験的一般化志向と呼んでも、差し支えはないだろう。つまり、Zetterbergは、既にある命題をまとめあげるものとしての理論化を評価しているのであって、それに較べれば、右回りの演繹アプローチにおける理論化の役割には消極的である。なぜならば、社会学において「使用概念が普通の言葉によって定義されており,日常語に対する演繹法の規則が用いられる限り,余り精密とはいえないからである」(178)ためだ。「日常語に対する演繹法の規則」が何を意味しているのかは議論になったが、ここでは、社会学の使用する概念は、日常語からの借用語であり、その言葉から演繹的に何か命題を定義することは危険だと解釈したい。

このように読むと、なぜZetterbergが経験的な研究から出発するアプローチにおける理論化をより評価していたかが分かる。彼にとっては、演繹的な命題から仮説を導くタイプの研究には、日常語から定義せざるを得ないという弱点があるのだ。

ここで重要なのは、彼の社会学の使用概念は日常語であるという前提である。この前提を彼が強く保持していたとするならば、盛山が積み上げ主義への批判で対案として提出していたような、経験的言明の積み重ねのプロセスで研究者の思いつきによる演繹的な命題を組み込ませる方法を、なぜZetterbergがとらなかったかが見えてくる。彼はあくまでも、使用概念のファジーさを危惧しており、あらかじめ経験的に確かめられた命題から理論化を行うアプローチに、より信頼を置いていたのではないだろうか。



この手の議論は、堂々巡りになるのも、承知しているつもりだし、個人的には安易に昨日と演繹を対立させながら何か論じるのも気が引けるが、今日の議論で上がった、「日常語に対する演繹法の規則」への疑問や、レジュメのコメントにあったthe more the more型言明の位置づけなどを、Zetterbergと盛山の主張を接合するためには、こうした考えは無駄ではないだろう。ただ、喋りすぎたのは反省している。

最後に、先生としては、これをクーンの前に読ませるというところに主眼があったのかもしれない。クーン以前の科学観に基づいた方法論の本という趣旨でこの本を選んだのではないだろうか、後半でそう感じた。

ゼミが終了後に面談、昼休み、先輩等と雑談をしながら昼食を済ませ、三限。終了後、書類を提出し、本郷の方の自転車も後輪がパンクしたので、キリン商会で修理。個人経営とはいえ、1400円は少し高いかもしれない。その後は、三友館で勉強、院生室に移って論文等印刷。帰宅して、事務作業。火鍋会の企画等。




May 5, 2015

5月5日

こどもの日。とはいいつつ、弟に特に何もすることができないまま、午前10時過ぎに水戸を出て、その足で特急に乗る。トータルで3時間かからないうちに自宅についてしまって、軽く感動してしまった。やはり、特急が東京駅までつながったのが大きい。まず、洗濯をすませて、その間に自転車をきれいにする。からっとした青空の下で、なかなか気持ちよかった。終了後、メールの返信などして、買い物と昼食をとりに牟礼の方へ。牟礼までの道は1kmちょっとなので、自転車なら5分程度なのだが、いかんせん曲がり道が多く、google mapなしではたどり着けない。スーパーで夕食の材料を買って帰宅。食堂で、ベラーのレジュメを済ませた後に、夕食。チゲ鍋。9時過ぎから、分析。帰省した2日間も合わせて、3日間夜9時までに夕食を済ませて、4-5時間ぶっ続けで分析やリーディングの消化をしている。結構効率がいい。平日これができるかどうかは,十分な睡眠を取っているかどうかにかかっていると思われる。

分析の結果は、概ね予想通り。ただ、いくつか分からない点があり、そろそろ相談するフェーズかもしれない。正直、え、そんなとこ?で悩んでいる気もしなくもない。ただ、論文ができるまでの過程で、その界隈の人にとって重要な語彙が隠れていて、これを満たす作業が結構大切なのではないかと最近(再び)思うようになった。Mareの作業を改めてなぞってみて、なぜここで彼はこの手続きを踏んだのか、その理由が少し分かるようになる。読んだだけでは分からない点は、実際に分析を再現する過程で出会うことができる。同時に、ああ、ここはぼかして書いているなとか、手続きとしてはそうせざるを得ないけど、これは当初やりたかったこととずれていないのだろうか、という点であったり、文字を追うだけでは吸い取れない、息苦しさみたいなものを感じ取れる。あの論文がまだDPどまりなのも、何となく頷ける。恐らく、この分析手法では、明らかにしたいと意図はダイレクトには結びつかない。Mareも気づいているような気がするのだが、解決策はあるのだろうか。

さて、どういう工夫をすれば、苦し紛れの部分を解消することができるのかは分からない。ここで手を止めて、発表してしまうのも一つの手であるけれど。

introduction

My research interests are social aspects of inequality. I'm especially interested in the relationship between social inequality and family formation. As an individual living in a society, we interact with people from similar or different backgrounds and might finally meet a partner and have a family in the future. The result of these individual choices is a transmission of economic or social resources from parents to children, which is social mobility in my field.
In my master thesis, I would like to examine how family formation such as marriage and having children contributes to (re)constructing inequality not only in Japan, the country where I was born, but also in other developed countries. In recent years, scholars in sociology and demography have shown that one reason for growing inequality in the United State is an increasing number of women going to college, having stable jobs, and being engaged with partners from similar social backgrounds. Through comparative analysis, I would like to show these trends are also (or will be) observed in contemporary Japan.

May 4, 2015

5月1日-4日

1月
4月は長かった。11時半から労働経済学の勉強会。弁当はとり多津390円。味は普通で値段は安いのでOKだが、出てくるまで時間がかかる。揚げたてという訳でもなさそう。終了後、新宿へ。6時に用事が終わった後、再び本郷で、デュルケム読書会。議論は議事録に軽くまとめておいた。この一週間、たまらなく紹興酒が飲みたかったので、わがままで一番餃子へ。いつも通り余ったボトルをお持ち帰り。ほろ酔い気分で、ぐっすり眠る、つもりが、意外と起きてしまう。感傷に付き添って、就寝。

2日
10時半からライティング@駒場。半分英会話の授業だが、個人的にはもう少し生徒の側が話して欲しい。性格も相まって、いつも通り一番発言する指定席。英語でやる授業の時は、常に疑問に思ったら発言する姿勢の方がよいと思う。終了後、Kと昼食420円。図書館で、リーディング等を済ませる。4時頃に、QSの件を調べたくなると、リプライも含めて若干時間を取られた。勉強にはなる。帰宅後すぐ夕食を済ませ、駅の駐輪場においてあった自転車を回収し、サイクルショップでパンクの修理840円。すでに8時を過ぎており、店も開いていないので、ローソンで甘味を買って帰宅。作業をしようと思ったが、1時くらいで途中で寝落ち。

3日
前日は寝落ちしてしまい、9時に電気がついた部屋で起きる、余り気持のよくない朝。twitterで日経書評欄に「連携と離反」が取り上げられていると知り、新聞を買うついでに朝ご飯をコンビニで購入(逆ではない)。新聞を読みながら、おにぎり二個(100円セール)と168円のサラダ、レモンジーナで済ませる。午前中に、ベラーの担当章をまとめる。荷造りをして、吉祥寺駅へ。はやおと昼食@サムタイム。2時からジャズライブということで、チャージ無しでリハーサルがきけてしまった。

その足で、東京駅へ向かい、特急で水戸へ。初の上野東京ライン、昔は東京駅から特急に乗れるなんて信じられなかった。便利な時代、その代わりに特急には自由席がなくなり、一瞬混乱する。特急料金は1550円。16時45分に水戸駅到着。翌日は床屋が閉まっているのではないかと母にいわれ、行きつけの店にいってみると、案の定だった。5時閉店のところを滑り込まさせてもらい、カットのみ1600円。祖母に迎えにきてもらう。

自宅で夕食後、弟とトランプ&野球。疲れた。ただ、食事後の眠気を覚ますにはちょうど良い。弟が寝た9時から作業開始。5時間ぶっ通しで2時まで、デュルケムの担当章、ゼッターバーグ、その他事務手続きの書類を片付ける。申請書は、似通ったことを違う形式できいてくるから厄介。ほんと、こういうのはデータベース作って番号入力したらそれが全て落ちてくるシステムとかにして欲しい。何でいちいち成績計算しなくてはいけないのだろうか、そう思い、経歴や業績、成績や将来のキャリア等はストックできるよう、一つのファイルにまとめた。ネットがつながらないので,集中できる。週に2、3回は帰省してもいいくらいだ。

4日
9時頃起きて、朝ご飯。NHKでエアレース世界選手権に出る室屋義秀さんの特集を夢中で見てしまった。今年は、幕張でエアレースが開催されるようなので、いってみようかな。その後、午前中にデュルケムを読む。午後は、弟と母親と一緒に千波湖へ。少年の森でアスレチック遊びに付き合ったり、GWに合わせて黄門像前で屋台が開いていたので、そこで昼食。弟はほんと元気で、一緒にいるだけでいい運動になるくらい。補助輪付きだけど、自転車をいっぱいに走らせていた。


May 2, 2015

QS World Ranking 2015における東大の躍進のワケについて考える。

世界大学ランキングでTimesと並びポピュラーなQSの2015年ランキングで、Sociology分野の24位にわが東京大学が入ってしまいました。

「しまった」というのは、まずいという訳ではなく、単にランキングを私がフォローして以来、東大はSociology分野においてずっとランク外だったからです(調べてみると科目別ランキングは2011年からということで、そこまで歴史は深くないことが分かります、今回は36分野のランキングについて集計しているようです)。

細かい算定方法については分からないことが多いですが、今回知りたいのは、なぜランク外が急にTop 25に躍進(というと価値観含みですが)したのか、です。通常こうしたランキングの飛躍的な上昇は、今までは最低限の基準を満たしていないために、ランキングに載る研究機関から除外されていた可能性があります。今回は、その仮説に絞って、少し調べてみました。


まず、QS では基準を満たしたInstitution Consideredでないと、ランキングに載る機関として認知されません。加えて、各分野の規模に沿って公表する機関数を、分野ごとに定めています。例えば、医学(medicine)であれば400位までは載せる一方、社会学では上位200位までしか載せません。

基準を満たすためのThresholdについては、以下のように書かれています。


  • Exceed the minimum required score for the academic and/or employer reputation indicators 
  • Exceed the five-year threshold for number of papers published in the given discipline 
  • Offer undergraduate or taught postgraduate programs in the given discipline

Reputationについての基準は分かりませんでしたが、最低出版論文数は以下のように定義できます。QSでは、アーカイブとしてScopusを使用しており、ここに登録されている雑誌に投降された論文数から引用数等も測っていくようです。これも分野別に定められており、社会学では5年間のpaper thresholdが30と定められています(上記リンクより、Research Metricsを参照)。

要するに、東大に所属している研究者が、Sociologyに分類される論文を5年間で30以上書かなければ、ランキングに載る資格を付与されない訳です。Scopusの定義によれば、Sociologyには3312 Sociology and Political Science, 3318 Gender Studies, 3319 Life-span and Life course studiesの三つが含まれるようです(これも上記リンク参照、ちなみに、political scienceと出てきて驚きましたが、Politicsの分類には3320 political science and international relationsが適用されるようです)。

日本の大学でSociology Ranking 2015としてカウントされたのは、7大学とかなり少ない。世界全体でInstitutions consideredとされたのは558大学となっており、当たり前ですがその中の大半はアメリカ(131大学)やイギリス(70大学) が占める訳です。私たちの感覚としては、社会学を研究している機関は7以上あるだろうというのが率直な感想かなと思います。私は日本で社会学を学ぶことの出来る大学がどれだけあるのかは分かりませんが、一つの基準として社会調査士参加校の推移を見てみましょう。設立から10年経ち、おおよそ参加校数=日本で社会調査が体系的に学べるところと考えてよいと思います。田畑(2013)によれば、参加校数は2010年代で190前後で推移していることが分かります。もちろん、全ての大学が研究志向と言った訳ではないでしょう。しかし、それにしても7大学というのは少なすぎかもしれません。恐らく、ほとんどの大学が論文数の基準によって除外されているのではないかと推測しています。

2015年で、日本の大学で200位以内にランクインしているのは以下の5大学です。
24 東京大学
51-100 京都大学
101-150 大阪大学
101-150 東北大学
101-150 早稲田大学

ここで注意したいことは、2013, 2014年では、日本の大学は一つもないということです。そのため、東大だけが躍進したというよりも、日本の大学全体がランキングに載るようになったのです。このように考えると、日本の大学に限らず、非英語圏の国の大学もランクインするようになったのではないかと考えられれます。ということで、Sociology Ranking上位200に入った中国と韓国の大学を経年で見ていきましょう。

2015年
32 SNU 
33 Peking 
51-100 Fudan 
51-100 Korea 
51-100 Tsinghua 
51-100 Yonsei 
101-150 SKKU  

2014年
49 Peking 

2013年
51-100 Peking
51-100 Yonsei

明らかに2015年になって日中韓の大学が躍進しています。三か国合計で2(2013)→1→12大学です。最初は東大がThresholdを満たしたから、急にランク外からきたのかもしれないと思いましたが、恐らく非英語圏の大学が不利を被らない基準が新たに設けられたのかもしれないです。俗流的には、「国際的に競争力のある」社会学系の大学は日本で5前後、ということになるかもしれませんが、前年とのギャップを見るに、この手のランキングは基準の設定如何で随分と変動するものであり,鵜呑みには出来ないなと改めて思いました。


補足
社会学は他のSocial Science分野に比べて、スコアの内訳(Academic Reputation, Employer Reputation, Citation, H index)のうちAcademic Reputation(同業者からの評価)が7割と高い。Academic Reputationにどういう人が回答しているかまでは分からないが、twitterでQSは一昨年くらいから東アジアでのマーケティングに重点をおいており、東アジアにある大学の関係者の回答割合を増やしているという指摘を頂いた。このように、例えば東アジアの大学の人により多く依頼すれば、自然と当該地域の大学のランキングも上昇するだろう。今後東アジアの大学が上位に入り込んでくるかもしれない。