August 16, 2021

サマースクール2週目

 1週目で疲れ果ててしまい、土日は課題を少し進めるくらいで休養日になった。土曜日は参加者と一緒にbike tripとハイキング、日曜はfarmers' marketに行った。

月曜日。夕食でサマースクールの内容を教科書にしてみては、という話になったが、2年前の資料がもう古いくらい日進月歩で進んでいる分野なので、教科書にしても数年後には間違ったことを書いてるかもしれないのが懸念と言われる。自分のメンターも、2017年に書いた入門書がすでに古くなっていると言っていた。

社会ゲノミクスの科学的にいいところは社会学にも輸入していきたい(プリレジ、多重検定、レプリケーション、コードの共有、プレプリント)。もうすでにそうなりつつあるけど、社会科学でも徐々に自然科学型の大規模コラボレーションが主流になると思う。

教養主義

 脈絡がないが(twitterで大学一年生に古典を読ませるのが批判されているようなので)駒場の教養主義について思い出した。

個人的には東大駒場の教養主義的な雰囲気は好きだった。正確には、田舎から出てきて大学院で研究するという道を知らなかった自分に、アカデミアに行くというルートを意図せず教えてくれた先輩や同期にはすごく感謝してる。彼らと出会わなかったら、そういう世界があると知らないまま卒業していたと思う。

同じクラスだった開成卒の友達に、当時テレビで話題になってたサンデルの話をしてたら「マッキンタイアどう思います?」と言われて目が点になった。早熟といえばそれまでかもしれないけど、中高一貫校出身者は受験にもどことなく余裕があって、高校の時から専門書を読んでる人が少なくなかった。

多少の見栄もあるので、マッキンタイア知らないけど読まねば…と思った。自分がいた駒場はそんな感じで、確かにそこにあった古典で殴る雰囲気は健全ではない気がする。と同時に、理由はわからないけど読まされる経験がなければ、そもそも自分は研究に興味を持たなかったかもしれない。

August 10, 2021

社会ゲノミクスのためのマニフェスト:社会科学にゲノムゲータが必要なのはなぜか?社会科学はゲノミクスに何ができるのか?

 日曜から社会ゲノミクスのサマースクールに参加しているわけですが、色々な分野の人と萌芽的なトピックについて一緒に学んでいく過程は、知的刺激に満ちていて、コロナ禍で凝り固まった頭がほぐれる瞬間に幾度も会うことができています。

まだまだ学んでいるばかりなので、変なことを言っているかもしれませんが、社会(科)学がなぜゲノムデータと真剣に向き合う必要があるか、数日考えたメモを書いておきます。後日書き足すかもしれません。

社会科学にゲノムデータが必要なのはなぜか?

社会科学者の多くは、おそらく「なぜゲノムデータを自分が扱う必要があるのか?」と思うことでしょう。「社会」を研究する側にとって「遺伝」は対極にあるものと言えるかもしれません。こうした懐疑的な見方に対して一つ回答を提示するとすれば、「我々が関心を持つアウトカムも世代間で遺伝するから」という答えがあげられます。ここでの遺伝は、生物学的に決まっているという意味よりも、あるアウトカム(遺伝研究では形質)が親子間で遺伝したり、きょうだい間で遺伝的に相関していることを指します。心理学者のTurkheimerはかつて「すべては遺伝しうる(everything is heritable)」という有名な言葉を残していますが、人間同士の差を決める特徴で、遺伝しないものをあげる方が難しいです。

たとえ社会科学が関心を持つアウトカム、例えば賃金、教育年数、政治的志向、健康などが遺伝すると認めたとしても、なお以下のような反論が想定されます、つまり「それは切片であって独立変数にはならない」。集団間で注目する形質が遺伝するとしても、それ自体は生物学的なメカニズムであって、社会的な要因によって形質を説明する限り、遺伝は関係ないという考えです。これに対しては、二点反論をあげることができます。

一点目としては、遺伝子と社会的環境は相関する点があげられます。例えば、教育年数を予測する遺伝子を持つ子どもの親は実際に教育年数が高く、所得も高い傾向にあります。したがって、仮に遺伝子を統制しない場合、環境要因(親の学歴や所得で見た家庭環境)が形質(教育年数)に与える影響が、因果的なものなのか、それとも遺伝子を考慮すると無視できるくらい小さくなるのかは、経験的に検証する必要があります。親の学歴といった個人レベルの環境要因じゃなければ遺伝子を見なくてもいいのではないか?という批判も考えられますが、個人を超えたレベルの環境(例:近隣の豊かさ)も遺伝子と相関します(教育年数遺伝スコアが高い子どもの親は豊かな近隣に住む傾向にある)。さらに、周りの人間の遺伝子も形質に影響することがあります。アメリカの研究では、高校の学年に遺伝的にタバコを吸いやすい人が多いと、自分もタバコを吸いやすくなるという研究があります(これをメタゲノム効果と呼びます)。

二点目は、遺伝子と環境が組み合わさって形質に影響を与えることがあります(交互作用)。例えば、現在多くの研究が、豊かな親のもとに生まれた場合、教育年数を予測する遺伝スコアが教育年数に与える影響がより強くなるのではないか、という点が検討されています。この仮説は、具体的には教育年数が高くなるような遺伝的特徴を持った子どもに、資源を多く持つ親はより多くを投資するのではないか、という予測を導きます。実際には、上述したように環境と遺伝子は相関するので、交互作用が因果効果なのかを同定するのは難しいところがあります。しかし、仮に環境が遺伝子とは独立に生じる場合、強力な因果推論が可能にあります。例として、ソビエトの崩壊後に、教育年数遺伝子スコアの予測力が増加した(共産主義体制の崩壊はより能力的な選抜を重視するようになったから)、ベトナム戦争に招集された人のうち、喫煙遺伝子スコアが高い人(遺伝的にタバコを吸いやすい人)において顕著に喫煙行動の開始が見られた、などの知見があります。具体的な介入がなくても、教育年数遺伝子スコアの予測力は男性では時間的に変わらないが、女性では近年になるにつれ上昇している(昔は女性が高等教育に進出する機会が構造的に限られていたため)、あるいは近年ほど喫煙遺伝子の予測力は上がっている(たばこ税の導入や禁煙規範が強くなったことで、タバコを吸う人はますます遺伝的に吸いやすい人に集中しているため)など、社会の変化と遺伝子の予測力は密接に関連していることを示す研究が近年、続々と出てきています。

社会学はゲノミクスに何ができるのか?

社会ゲノミクスのアジェンダは基本的に、既存の社会科学的問いの中にゲノムデータを位置付けて、今までの知見をブラッシュアップしていこう、という姿勢を持っています。例えば、本人の遺伝的な特徴が教育年数を予測するのか、それとも家庭環境の方が重要なのか、いわゆる「生まれか育ちか」の論争では、先天的な能力指標としてIQや知能指数が用いられてきた歴史がありますが、これらの指標が測られる頃には、すでに子どもは家庭環境の影響を受けており、純粋な先天的指標にはなり得ません(実際には、既存のゲノムスコアもこの限界を克服できていません)。

一方で、社会ゲノミクスに、社会科学の視点を使ってゲノミクスをアップデートしようとする姿勢は希薄な気がします。ただゲノムデータを輸入するだけでいいのか、少し考えたところ、社会学が貢献できるのは以下のような点なのかもしれないと考えています。

社会学は、究極的には個人の行為と制度的条件のインタラクションを研究する分野です。そこでは、例えば親の教育年数と子どもの教育年数が相関するだけでは不満が残り、なぜそうなるのかを説明することは求められます。例えば、学歴の高い親は、自分の得た地位を選抜制度を通じて合法的に子どもに継承させるために、子どもの教育に投資をするのではないか、という仮説がありますが、この仮説の主体は親である個人です。なぜ学歴の高い親にとって教育投資をすることが合理的なのかを、社会学は説明しようとします(ここでの合理性は経済合理的な選択に限りません)。

こうした個人の行為と制度の相互作用を研究する社会学的な視点をゲノムデータを見る際に持ち込むと、以下のような不満が生じます。現在の遺伝研究では、遺伝的に親子の教育年数が相関するメカニズムを説明できておらず、なぜその関連が生じるのかを説明する必要性を強く感じます。遺伝子と形質が1対1に対応する場合は因果的な説明が可能です。つまり、ある遺伝子を持っているかどうかによって、病気になったり、血液型が変わったりする事例です。しかし、社会科学が関心を持つようなアウトカムの多くは、complex traitsと言われ、単一遺伝子では説明できないものばかりです。こうした形質に注目する以上、生物学的なメカニズムがファジーになるのは仕方がないところがありますが、社会(科)学的な視点を応用すれば、教育年数の遺伝的相関を行為レベルに分解して、そのレベルに該当する遺伝的アウトカムや制度的な条件を手繰り寄せる気がしています。

日本事例がなぜ必要なのか?

残念ながら、社会ゲノミクスのためのデータ整備という観点では、日本は著しく遅れています。以上で述べた複雑な形質を予測するための遺伝スコアは、100万以上ある遺伝子座の情報をまとめた要約統計を作成する都合で、まずスコアを作成するために大規模なサンプルが必要であり、さらに(機械学習でいう学習データにあたる)遺伝スコアを作成したサンプルとは別のサンプルを使って、実際の分析をする必要があります。幸い日本でも、前者のデータは整備されつつありますが、後者に使われる社会調査では遺伝子データがまだ集められていないのが現状です。前者についても、日本ではまだ健康や疾病といったアウトカムに着目した遺伝スコアが構築されているに過ぎないのが現状であり、教育年数などのアウトカムはまだ遺伝スコアすらできていません(アメリカの遺伝スコアを使えばいいのではないかという指摘が考えられますが、実はこれができない事情があります)。

そもそもの問題として、社会ゲノミクスにとって日本事例は必要なのか、という考えもあるでしょう。アメリカ以外にも、レジストリデータが整備されている北欧やイギリスなどでも遺伝子データの整備は進んでいて、わざわざ日本のデータを用いる必要はないのでは?という疑問は最もなところがあります。

これに対しては、日本事例は社会ゲノミクスに対してユニークな貢献ができると確信しています。社会ゲノミクスは、遺伝子の研究ではなく、遺伝と社会の相互作用の研究分野です。特に、先述したように社会(制度)の側が遺伝とは独立に変わる時が、今までわからなかったことがわかるようになる瞬間です。この点で、日本はその他の高所得国に比べて独自の強みがあります。日本は150年という比較的短い歴史の間に、急速な近代化と戦争による体制の変化、近年では急速な少子高齢化といった大きな制度的変化が連続して起こっています。社会学では欧米と比べて東アジアの急速な近代化の帰結を「圧縮された近代」と呼ぶことがあるのですが、この視点は社会ゲノミクスの研究関心に新しい知見をもたらすことができるはずです。

個人の遺伝子は急激な制度変化にどのように反応し、その結果としてどのようなアウトカムが生じるのか。複数の制度変化が同時に生じた場合にはどうなるのか、わかっていないことが実はたくさんある気がしています。以上のような理由から、日本でもゲノムデータが整備されることを強く望みます。

August 8, 2021

社会ゲノミクスサマースクール

 今日から20日まで社会ゲノミクス(sociogenomics)のサマースクールに参加するため、バーモント州にあるStoweというところに来ています。社会ゲノミクスというのは、名前の通り社会科学とゲノミクスの融合分野なのですが、基本的にはゲノムデータを用いて社会科学的な問いに答えていく新しい領域という理解でいいだろうと思います(残念ながら?社会科学的な視点を用いてゲノムの研究をすることはあまり求められていません)。

このサマースクールは、Russell Sage Foundationという財団がサポートしています(なので、参加費などはありません、ホテル代から飛行機代まで、全てカバーされています、その代わり選抜があります)。アメリカは、アイビーリーグなどの私立大学の予算規模が日本の大学の比較にならないところがありますが、この手の(よくわからない)財団が惜しみなく研究に投資をしてくれるのも、日本にはないアメリカのアカデミアの特徴だと思います(日本の財団でも研究助成や奨学金はありますが、サマースクール支援の類いは聞いたことがありません)。このサマースクールのeligibilityはアメリカの大学に通う人に限らないのですが、やはりプリンストンの先生の推薦があって選抜に通ったところもあると思うので、既に属している豊かな研究環境から、また恩恵を受けていることをありがたく思わねばなりません。

講師陣は、この分野をリードしている先生方ばかりで、非常に豪華です(博論コミティにいる先生も講師として来ており、1年半ぶりに再会しました、感動)。受講生の方はパンデミックの影響でビザが降りなかった人がいるようで(ヨーロッパ方面だと思います)、今回 in personで参加するのは従来の6-7割程度まで減っているようです。そのかわり(おかげで?)ホテルの部屋はみな個室をもらえています。この年になると、そろそろホテルの部屋のシェアも辛くなってくるので、ありがたい限り。。

Stoweはスキーリゾートで、おそらく雰囲気としては夏の軽井沢に近い気がします(白状すると軽井沢には行ったことがないので、自分の記憶で例えるとすれば、乗鞍に近い印象)。ちなみに、空港からのシャトルバスで一緒だったアメリカの参加者の人も、バーモントには来たことがなく「ここはほぼカナダ」だと言っていました。アメリカ人が「ほぼカナダ」という時には、若干ブラックユーモアが入っている気がします(「ほぼカナダ(苦笑)」のニュアンス)。ちなみに、バーモントの人口はアメリカの州で49位、つまり全米50州の下から2番目で、ホテルまでのシャトルに乗っている間も、ほとんど人影を見ませんでした。オフシーズンなのでしょう。

パンデミックが始まってから、研究業界では学会やこうしたin personの集まりは潰えてしまったのですが、いよいよ日常が戻りつつあります。人と握手するなんていつぶり!と今日は挙動不審になってしまいました(自分から人と握手する勇気は、まだ自分にはありません、今日は「え、握手するの?笑」みたいな反応になってしまいました)。コロナ禍で失われてしまった初めて会う人とのコミュニケーションを、文字通り体から思い出す1日で、非常に新鮮でした。

とは言っても、個人的にはデルタ株の流行を前に、本当にin person meetingを再開していいのか?と疑問に思わなくもありません。明日から始まる講義の最中はマスクをつけることがマストですが、食事中は当たり前のようにノーマスクなので(この辺り、黙食を推奨する日本的な価値観が入る余地は全くなく、皆さん潔いです)、正直マスクをしている効果はあまりない気がします。全員ワクチンを打ち終えているわけですが、ブレークスルー感染のリスクも分からないところがあり、無事12日間の日程を消化できるか、期待半分、不安半分というところです。とは言いつつ、アメリカでは国内旅行はほぼコロナ前の水準に戻りつつあり、小規模なin person meetingも再開しているでしょうから、変に負い目を感じる必要もないのかもしれません。

日本から帰って来て、アメリカでマスクをしていない人の多さに驚いているのですが、1ヶ月半の一時帰国の間に、不要不急の行動は自分だけではなく人様にも迷惑をかけるので慎むべきだ(マスクをするのも同様の理由)、という日本的な価値観が刷り込まれているのかもしれません。日本的価値観というより、これは公衆衛生的な正義だと思いますが、アカデミアで大切とされるネットワーキングがこの正義に打ち勝とうとしている、そのせめぎ合いを見させられているところかもしれません。