6時半にホテルの朝食を済ませ、数理のスライドなどを作成していました。チェックアウトをして、Sewell buildingへ。今日は貧困研究所(IRP)のセミナーで、社会学部にいるCarlsonさんが報告。開始間際に入って驚いたのですが、学生、教員と50人はいるんじゃないかという数でした。公共政策やソーシャルワークの人もいるとは思いますが、人口学者の報告に50人集まるとは驚きます。通常のセミナーシリーズの一つのはずなのですが。
報告内容は、私の関心に近いものだったので非常に面白かったです。アメリカでは、家族形成パターンの格差が階層間で拡大しているという、分岐する運命(diverging destinies)と呼ばれる、ある種の命題が流行っています。イントロで、アメリカを含めて、先進国で家族形成が変化していること(結婚年齢の上昇や、非婚出生の増加、離婚の増加など)、及びその家族形成が階層間の格差を伴っているものであることが、一応の事実として、確認されます。
その上で、分岐する運命の話を挟み、彼女の関心である父なり(fatherhood)の話に入ってきました。父なりというよりは、父親としてどのように子どもや家庭に関与するか、というところでしょうか。回帰表が一切ない、国際比較とアメリカの時系列比較に基づいたものでしたが(であるがゆえに)、議論は白熱しました。
報告全体が、日本ではなかなか見ないタイプのもの、自分がやりたいものに近かったので、少し感動すら覚えました。
あまりうまく言葉にすることができないのですが、例えばアメリカでは父親が子どもに関与する頻度や質の格差が広がっているという話がありました。低学歴の親は子どもに関与しなくなっている一方で、高学歴層の父親はそこまで変わらないという話ですね。
その時に、Smeeding先生が「それは学歴の低い男性の所得や雇用が不安定化しているからだ(子どもの面倒を見ている余裕はないのだ)」といえば、別の先生らしき人が「それは配偶者の属性が変化しているからだ(アメリカで私の研究関心である学歴の同質性が強まっているという指摘があります)」と言います。
あるいは、また別の先生が「低学歴の男性と結婚する女性が高学歴の場合、家族形成が不安定になるのが問題なのではないか」と言ったりします。そこで、Carlsonさんは、同僚のSchwartzさんの論文に言及しながら、低学歴の男性と高学歴の女性の妻下降婚は解消しやすかったが、現在ではその不利は低減しているとリプライします(ASRに何年か前に載った論文ですね)。
こういった議論は、すでにいくつかの先行研究が蓄積された上で展開されているわけですが、参加している人の中では、家族形成が変化しており、その背景として社会階層でみた格差が関係しているのではないか、という問題意識が共有されています。
そして、個々の経験的研究が有機的に結びついています。人口と不平等の問題について、問題意識が共有されながら分業が進んでいる、という感じでしょうか。このセミナーに参加して、あらためて、なぜ階層結合が重要なのかが、再確認できて安心しました。
マディソンのCDE/CDHA/IRPや社会学、人口学者からなるコミュニティが大木だとすれば、個々の論文になるような研究は枝葉に例えられるとしましょう。自分の研究がどのような研究の流れの中で派生してきたものなのかを、はっきりと示してくれる環境が、自分が求めていたものかもしれないなあ、と報告と議論を聴きながら思いました。
日本だと、私のような研究は、枝から落ちる葉っぱのように浮遊している印象を受けるのですが、マディソンでは問題意識を共有してくれる人がこんなにいて、互いに研究をアップデートしあえるのだなと思いました。
私も、留学を考え始めた時期は、アメリカのPhDが一番競争的で最強(とまでは思ってないですが)に類する考えに、シンパシーを感じていた節は否めないところがあります。まあそれはそれで、出願までに必要な関門を突破するためには、有用なイデオロギーだったりします。
ただ、今の私の基本的な考えとしては、留学せずに学位を取ることができ、かつ就職できるのであれば、それでいいんじゃないかと思っています。お隣の韓国のように、アメリカの学位がないとそもそも就職することすら難しいという世界は、研究者を自分の国で再生産することができていないという意味で、機能不全に陥っているのではないかと思うからです。
人の移動が激しくなっている現代ではありますが、自分が国籍を持っている国で、望んだキャリアに到達できる資源が提供されているのであれば、それは良いことだろうと思います(そもそも、米国PhDがないと就職できないという信念めいたものが、本当かどうかわかりません。ただし、ある意味では預言として信じられていること自体が重要です。その信念が、人の行動を左右するわけですから)。
しかしながら、学びたい環境が十分に提供されていない、あるいはより自分の関心にフィットする環境があるならば、その道は開かれているべきだとも思います。その意味で、自分にとって理想的な環境かもしれないマディソンは、留学という言葉に形容される必要は全くなく、私がこれから向かうべきところなのだと思いました。
さて、夜にはメモリアルユニオンにて、大学院生主催の歓迎会のような催しがありました。詳しくは聞かなかったですが、普通にPhDの途中で移ってくる人がちらほらいました。さすがに旅費がかさむのか、ほとんど参加している新しいコーホートの人はアメリカ在住。イギリスの交換留学で散々経験したのですが、飲み会らしきイベントの後に静かな環境に戻ると、英語が非常に明瞭に聞こえるのは不思議です。やたら2nd yearの学生が多いと思ったら、その年の入学者は33人だそうで驚きました。いろいろ配慮してもらって、助かります。
語彙力が不足しているというのは、日常会話でもそうなのですが、例えばprospectiveの人と挨拶して、相手が市民社会論だったり、歴史社会学に興味があると言われても、んー、そうなんだ、と私には聞くことしかできません。
その一方で、人口学や教育の話であれば、こちらもどんなデータを使うのかだったり、研究のことを聞けるのですが。昨日確認した、CDEのメンバーになるのか、ならないのかで、進路がだいぶ変わってくる仮説が立証されつつあります。
ひとしきり話した後、ホストの学生と一緒に移動。明日は早いので、寝たいのですが、ご自宅に大型犬がいて、ちょっとこわい思いをしたので、ぐっすり眠れるか、若干の不安です。
ぎりぎりのラインを狙っていきます |
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