February 28, 2018

東京大学文学部社会学研究室の歴代教員年表

弊研究室には、「社会学研究室の100年」という卒業生向けに作られた書籍があるのですが、そこに年ごとに社会学研究室に在籍したことのある教員のリストがあります。

「100年」は2003年に出版されているため、その後の教員リストについてはこちらで埋めた上で、初代教員のフェノロサ(!)から現在の教員に至るまでの年表をつくりました。ここでの教員とは「教授、准教授(助教授)、専任講師」を指しています。

世界史の教科書とかでみる、世界の文明や王朝が並立して年表になっているアレが作りたかったのですが、エクセルなどでやるのは大変そうだったので、Rパッケージのvistimeを使いました。コードと元のcsvファイルは公開しています(といっても、そんなに大層なものではないですが)。

vistimeは在籍した年月日をすべて記入する必要があるため、「100年」を読んで、特別に移動月が書いていないものについては、一律4月1日着任、3月31日退官(退職)とみなしました。

また、もとの教員リストでは「講師」欄があるのですが、ここには専任講師と非常勤講師の双方が混ざっています。「100年」の別の箇所の記述を参考に、講師の中から専任講師のみを取り出して、研究室のスタッフとしてみなしています。また、常設機関として正式な「社会学研究室」ができたのは2003年から100年遡るので、1903年になりますが、便宜的にそれ以前のスタッフも教員とみなしています。

vistimeを使ってできた年表が以下のようになります。1960ー70年代に在籍期間の短い先生がおられますが、例えば、社会心理学研究室ができて辻村明先生は移動しているので、一見すると在籍期間は短いですが、文学部にはいたりします。あるいは、日高六郎先生は1960年に新聞研究所に移動しています。とはいっても、やはり学生運動期は異動が激しいように見えますね。



February 24, 2018

反実仮想の進路選択

当たり障りのあることを、当たり障りのないようにいうことは、意外と難しいなと思うのですが、朝日新聞記者の三浦さんが書かれた「五色の虹」を読みながら、本当のことを書かなければ、当たり障りのあることを書いてもいいのだと思いました。

というわけで、最近、考えていることを反実仮想的に書いてみます。

最近、様々な事情で、自分の進路について考えることがあるのですが、今振り返ると「こういう選択もあったのではないか」という考えはあります。私自身を、一種の反面教師に見立てて、「反実仮想」的な進路を考えると、何点か思い浮かぶことがあります。

例えば、学部時代にアメリカの研究大学に交換留学する。私は20歳になるまで海外に行ったこともなく、地方出身で親も高卒だったので、学部から海外に行くという考えは、全くなかったです。しかし、様々な過程を省略すると、駒場の語学クラスにKがいたという偶然と、駒場の教養教育を軸とする学風の影響を受けて、学部の時に英語圏に交換留学したいという気持ちが、おぼろげながら、芽生えてきました。

当時、といっても、2010年から2011年というと、もう7-8年前にもなりますが、当時を思い返すと、グローバル人材という言葉が駒場のキャンパスを闊歩し始めた時期でもありました。高校の教科書で「グローバル化」という言葉は習ったわけですが、それは、人と人の移動が盛んになって、国家間の関係がより相互依存的になる、であったり、モノや情報が国境を通じて流通する、そんな社会現象の記述をするための言葉の一つでした。

しかし、大学に入り始めると、どうやら、「グローバルな人」がいるらしいということが、わかってきます。私の世代でいうと、代表的なのは学部からハーバードに進学して、当時すでに様々なメディアから取材を受けていた小林亮介さん、ちょっと上の世代だと、同じく学部から北京大学に留学して、日中関係に関する評論活動を始めていた、加藤嘉一さんなどです。もちろん、若くからメディアに取り上げられる大学生や、いわゆる「若者の代表」に近い人はいるわけですが、彼ら全体と異なる「グローバルな人」の持っている、若くして競争的な環境に身を置きながら自己を研鑽している姿、のようなものが、意図的なのかメディアの誇張なのかはわかりませんが、カッコいいものとして、巷に流布していた時期だったような記憶があります。

そんな時代の空気のようなものもあり、加えて周りの友人にもめぐまれ、留学をしたい、という気持ちが徐々に芽生えてくるのですが、まず考えたのが、先ほども書いた、学部時代に英語圏に交換留学することでした。当時の駒場には(今もギリギリ制度としては残っていますが)、AIKOMという制度があり、学部後期課程の進学先として教養学部を進学した上でこの留学制度を利用して、アメリカのミシガン大学に行きたいと考えていました。現在はプリンストンに移籍しましたが、当時のミシガン大学には階層研究で有名なユー・シー教授がいたので、あわよくば彼のRAなんかができれば。。。と企んでいたんですね。

しかし、残念ながら、私は進振りの点数が足りなかったので、第一希望の相関社会科学専攻に進学できず、文学部の社会学専修に進学することになりました。結果的に文学部の交換留学制度を利用して行ったマンチェスター大学で色々と学ぶことができ、現在の研究テーマの着想を得たので、それはそれで良かったのですが、交換留学は、私が反実仮想的に考える、進路のターニングポイントでした。

次に考えたのが、英語圏の大学院で修士号を取得するというものでした。結果からいうと、この計画は、現実のものとはなりませんでした。というのも、私は周りの先生方の勧めや、今の自分では実力不足だろうという(それはそれで根拠のない)判断から、修士は日本で、というか東大で取ろうと決めたのでした。

今、少し後悔しているのは、結果的に東大に進学するにしても、もっと海外の修士課程進学のための情報収集をするべきだったなあ、ということです。修士課程は、基本自腹なので、授業料や生活費がネックになるのですが、当時は修士号取得に対して奨学金がもらえるという発想がありませんでした。しかし、実際には結構な数の財団が、修士や博士に限らず、大学院留学に対する奨学金を提供しています。修士課程に進学して得られたものも大きかったですが(これについては後日書きたいと思います)、今でも少し、あの時ああしていれば、と考えることはあります。

ただ、このように自分の進路を反実仮想的に考えてみても、私がそもそも海外で勉強してみたいと考えた事の発端が、駒場に進学して、Kに出会い、好きなように授業をとっていいとする駒場の教育方針のおかげで、見聞を広められたことにあるので、正直、学部から海外という選択肢は全く考えられません。というか、東大以外の大学に進学していたら、今は普通に会社員をしていた可能性さえあるのです。

半分、回想じみてますが、大学に行きにくいとされる(典型的には私のような)出身階層の人間にとってみれば、入試を突破すれば比較的低コストでよい教育を受けられ、人的なネットワークも形成できる、東大のような環境がもたらすメリットは大きいのではないかと思います。高校の時点から、海外の大学に進学することが現実的な選択肢として考える事のできる方については、思い切って、多勢に流れず、海外の大学に行ってみるのもありなのだろうと思います。しかしながら、そういう選択肢が現実的ではない層の人もいることも事実です。私はそのあたりの出身なので、東大から得られた恩恵は、相対的に大きかったと思います。


February 23, 2018

平成22年と平成17年国勢調査産業分類の対応関係における不可解な点

平成22年国勢調査と平成17年国勢調査の産業分類は、依拠する標準産業分類が変更されているので、対応関係を作ることが必要なのだが、総務省が出している対応表が2つあり、齟齬があるので困っている。対応表は、以下の2つ。

(1)平成22年国勢調査における対応表 
このページの、以下のpdf
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2010/final/pdf/r08.pdf

(2)平成17年国勢調査を新分類(平成22年国勢調査に用いる産業分類)で遡及集計
このページの、以下のpdf
http://www.stat.go.jp/data/kokusei/2005/shinsan/pdf/shinkyu.pdf

ざっとみた感じ、(1)と(2)は「ほぼ」一致しているのだが、例えば「国家公務」については、(1)だと平成17年と平成22年で、国家公務に従事する人の産業は1対1で対応している。しかし、(2)だと、平成22年の国家公務産業に該当するのは、平成17年では、国家公務のほか、「他に分類されない事業サービス業」の一部、及び「その他のサービス業」の一部から構成されている。

さて、どっちを信頼すればよいものか、困る。仮に平成22年で国家公務とされている人々のうち、平成17年で「他に分類されない事業サービス業」や「その他のサービス業」とされている人々が、本当にごくわずかなのであれば、1対1で対応させるのだが、平成17年で「他に分類されない事業サービス業」とされた人々のうち、一部は平成22年の産業分類では「商品・非破壊検査業」や「その他の技術サービス業」になっており(これは2つの対応表で同一)、こうなると、サービス業と公務が区別できなくなってしまうのである。

2つの対応表は、同じ平成22年と平成17年の産業分類を対応させているはずなので、同一でなければならないのだが、なぜ齟齬が生じているのだろうか。。。

ちなみに、(1)は平成22年国勢調査の最終報告書として提出されているものの一部であり、(2)は平成17年の調査結果を、遡及的に再集計したものである。概要をまとめたpdfをみると、平成22年分類は「本特別集計に用いた産業分類」とあるので、もしかすると、この「本特別集計に用いた産業分類」が、平成22年の産業分類と、完全に一致するわけではないのかもしれない。だとしたら、かなり闇、というか、意地の悪い説明になっているような気がする。。。

一度、見返してみると、(2)の対応表が掲載されているウェブページの「1 集計の目的」では「次回平成22年国勢調査結果との時系列比較を可能とすることを目的として,」と書かれており、この時点では平成22年国勢調査は行われていなかったと思われる。しかし、平成19年度に改定された標準産業分類は利用可能になっているので、その間に集計されたものと考えられる。もしかすると、遡及集計してみた結果、平成17年度で「他に分類されない事業サービス業」のうち、平成22年で「国家公務」とされた人々が本当に一部だったのかもしれない。この辺り、詳しい方がいたら教えてください。

February 21, 2018

幻の東大社会学部構想

現在、私が所属している東京大学文学部社会学研究室(大学院では、人文社会系研究科社会文研究専攻社会学専門分野に相当)には、教授・准教授が7名在籍しています

一つの研究室に教員が7名「も」いるのは、もちろん文学部の中では最大です。しかしながら、同じ社会学分野の中で見てみると、「社会学部」がある私立大学(関西学院、立教、関西、同志社、東洋、法政など)とは、規模の差があることは否めません。

ただし、東大にも「社会学部」を作ろうとする動きがあったことは、これまでに2度あります。残念ながら、その2度とも社会学部構想は構想のままに終わり、現在に至るまで、社会学部ができることはありませんでした。

ここで簡単に、東京大学における社会学系の教育・研究組織の変遷について確認してみましょう。この辺りの詳しい経緯については、「社会学研究室の100年」(東京大学文学部社会学科・大学院人文社会研究科編)において、尾高邦雄氏、福武直氏、および高橋徹氏などが回顧しています。

1953年 大学院規則により社会科学研究科が発足する(法・経・社・国関・農経の5専修課程)。社会科学研究科の社会学専門課程にはAコース(社会学専攻)とBコース(新聞学専攻)の2つのコースが設けられている。
1963年 法と経済の2つがそれぞれ法学政治学研究科と経済学研究科を設立、残された3つのうち、社会学と国際関係論が合わさって社会学研究科に改組する。
1965年 生物系研究科から文化人類学が加わり、文化人類学専門課程ができる。
1966年 研究科内の委員会の審議から「社会学部」建設案が総長に提出される。これは、文学部と社会学研究科の間で学部からの一貫した教育ができない状態を解決するためであった。
1967年 「本学における社会学の研究体制」懇談会が設けられる。

しかしながら、1960年代後半にあった社会学部構想は、東大紛争の混乱の中、立ち消えになりました。

この「社会学部」建設案には、社会学研究科から社会学専修課程(A)と文化人類学が含まれていますが、講座編成の計画案をみると、5つの共通講座に加えて社会学科(12講座)、文化人類学科(11講座)、情報科学科(8講座)、社会政策学科(10講座)の計46講座からなっていて、今このような編成で学部が存在していてもおかしくないと思います。

さて、年表で確認したように、昔は駒場の文化人類学と国際関係論の修士・博士課程は社会学研究科に設置されており、1983年の総合文化研究科設立とともにこの二つは社会学研究科から移ります。

第2の社会学部構想が出てきたのは、1980年代の後半です。1987年に、新聞研究所、社会学・社会心理学専修を合併して「情報社会学部」を作る計画が明らかになります。この計画は日経の一面(日経1987年6/10朝刊)にもあがったくらいで、当時は注目を集めたのでしょう。

しかし、この第2の社会学部構想も諸事情で頓挫し、ご存知のように新聞研究所は社会情報研究所を経て情報学環・学際情報学府に、社会学研究科は1995年に人文科学研究科と合併して人文社会系研究科となります。こうしてみてみると、東大の人文社会系研究科の英語名がGraduate School of Humanities and Sociologyなのがよく分かります。人文学(Humanities)と社会科学の一つである社会学(Sociology)が等置されてるの、おかしいですよね。

情報社会学部の設置計画が大学院重点化の時期に先行しているのは、偶然なのかはよく分かりません。新聞研究所が情報学環になったのは、学部設置計画が頓挫した上の産物かどうかもわかりません。

ただ、日経の記事にもある通り、学部設置の計画が持ち上がった時には既に重点化の話も出てきています。限られたリソースをどこに配分するか、どうすれば一番メリットを享受できるかと考えて、社会学は文学部に残り、人文社会系研究科となっていったのでしょうか。それとも、人文社会系研究科を作ろうとする圧力に屈して(あるいは、大学院重点化の流れの中で新しく学部を作ることに対する反対意見もあったのかもしれません)、学部への移行を断念したのでしょうか。どうにしろ、国際関係と人類学が抜けた社会学研究科がどこかの院と合併するのは時間の問題だったのでしょう。

February 13, 2018

「〜〜に就く人が減っている」ことを人口学的に考える

今回は、未婚率の上昇を人口学的に考える際に用いる視点を、職業に応用して考えてみます。

私は、この4-5年くらい、配偶者選択の研究を中心にしていたのですが、日本に限らず未婚化の議論をする際には、単に(1)結婚のタイミングが遅れている(だけな)のか、それとも、(2)結婚を経験する人が減っているのかを峻別する必要があるというのは、比較的常識です。

前者は、晩婚化(marital delay)とされ、後者は非婚化(marital decline)と便宜的にいいます。仮に、晩婚化が起こっていたとしても、極端な例で言えば48歳まで未婚でも、(生涯未婚率の定義に用いられる)49歳時点で全員が結婚しているような社会は「晩婚」社会ではありますが「非婚」社会ではありません。

「未婚化」を議論する際には、それがどれくらい晩婚化によって説明され、どれくらい非婚化によって説明されるかを峻別することが大切になります。それは、とくに晩婚化と非婚化に関連する要因(correlates)が異なる場合に、より重要になります。

例えば、アメリカでは高学歴女性の「未婚化」が指摘されましたが、それは主として「晩婚化」であるとされます。すなわち、高学歴女性は結婚年齢が遅れることはあっても、結局結婚するのです。これに対して、日本では高学歴女性は結婚タイミングも遅く、最終的な結婚確率も低い傾向にあるとされます。

こういう視点が、階層研究の報告をきくと、意外と共有されていないことに、最近気がつきました。具体的には、近年の日本では「管理職」に就く人の数が減少しているらしいのですが、それが「管理職に就く年齢が遅れている」のか、あるいは「そもそも管理職(に就く人)が減っている」のか、両者が混同されながら議論が進められていることを感じました。

あるいは、近年の日本では「自営業」に就く人が減っているのですが、これも同様にクロスセクショナルなレベルでみた、(見かけ上の)自営業に就く「率」の減少は、「自営業に就く年齢が遅れている」ことと「そもそも自営業に就く人が少なくなっている」ことに分解できます。

自営業に関しては、自営業全体が減少する中で、専門職に就く自営の割合が増えているようですが、専門自営の人は、その他の自営よりも、開業するための資金や知識が必要であると考えられるので、遅い年齢に自営を始める人も一定数いそうです。そのため、自営業が減少していることの一部は、そもそも自営業が少なくなっていることに加え、自営業に就く人の構成比が変化した結果、自営業を始める年齢が遅くなっていることも、寄与している可能性があるのです。

こうした内容は、高度な分析の一歩手前の事実確認のレベルになりますが、非常に基礎的な事実として、トレンドを説明する際には共有されるべき点であるように思います。