November 26, 2017

公的統計に関するセミナー

土曜日に、一橋大学経済研究所にて開催された公的統計に関する研究会に参加して来ました。
https://hrs.ad.hit-u.ac.jp/v33/entries/add/81

毎年行われている公的統計に関する研究セミナーということで、今年は国勢調査がメイン。とくに社人研の釜野さんの同性カップルに関する報告と中川さんの外国人集住地区に関する分析は勉強になりました。

国勢調査などはできるだけ「真実」に近い分布を捉えることができれば理想ですが、出てきた分布が「真実」だと判断することには慎重になった方がいいでしょう。これが研究会後の感想でした。特にマイノリティとされる集団については。

昔はアメリカなどでも同性配偶者を「誤記入」とみなして異性カップルにしていたこともあったよう。ただ「実際に」誤記入の場合もあり、今後はウェブ回答が発達して名前から性別がどちらの可能性が高いか判断もできるようなので、男性回答者に例えば「ジョンを配偶者と回答してますがいいですか」みたいに確認できるようになるらしいです。面白いですね。

外国人についても、国勢調査はアクチュアル方式(1週間前の仕事)なので、外国人「就業者」と外国人雇用状況でわかる外国人「労働者」はそもそも一致しません。技能実習制度でくる外国人も「研修生」は労働者ではない一方で「実習生」は労働者になるが、それが当人の(意味世界の)中でどう理解されているかは別の話ということになります。最後の伊藤先生の報告では、国勢調査で捉えられる外国人「就業者」と外国人雇用状況による外国人「労働者」が、2010年では後者の方が多かったのに対して、2015年では前者の方が多くなっているという、ズレの非一貫性も指摘されていて、同性カップルと合わせて人口を推定することの難しさを感じました。

November 21, 2017

デュルケム自殺論のメモ

TAセミナーで「自殺論」を読んでいるのですが、この本におけるいくつかの論点についてメモしておきます。綺麗にしたものはresearchmapの資料として公開しています。

1. 統計の使い方について

自殺論において、デュルケムは統計データを無批判に使用していたことが批判されるようです。どのようにして当該のデータが集められたのかを軽視し、それを客観的な事実としてみなしていた、くらいの意味でしょうか。

Durkheim et les statistiques, petite note
http://coulmont.com/blog/2016/01/17/durkheim-et-les-statistiques/

Pistes de recherche pour une sociologie des statistiques du suicide. Note sur « Anti- ou anté-durkheimisme »
http://ress.revues.org/417

ただ、上記のブログによると、自殺論においてデュルケムは一部の統計データに対して懐疑的だったことが指摘されています。(グーグル翻訳したものを)まとめると、
  • 自殺の同期に関する統計に関しては役人の主観的な判断が入り込む余地があるため信頼性に欠ける(第2編第1章2節)。
  • 職業や階級別の自殺統計は正確ではない(第2編第2章、邦訳p190)
  • スペインの統計データの信頼性は低いという言明(第2編第2章注20)。
  • 危機の際に自殺が減るのは、行政当局の活動が麻痺して、自殺の検証が正確に行われない可能性がある(第2編第3章、邦訳p244)
  • 一方で、第3編の2章注53において、今後、統計的調査はますます正確になると指摘する。
2. 男女の本質主義的区別について(Lehmann 1995より)

デュルケムは、女性は本質的に非社会的で、そうであるがゆえに他者との関係や支持が必要ないと言い放っています(自殺論第二編第3章最後)。その一方で、より社会性が複雑な男性は、より多くの支持が必要となり、結果的に結婚の有無の自殺率との関連が、男性において顕著に見られることの説明としています。本質主義的とは言いましたが、デュルケムは性別分業(sexual division of labor)を機能的に分化した形と「社会分業論」において捉えており、社会が複雑化するにつれて、社会的な男性と非社会的な女性の分化が進んだ形として性別分業があると考えています。
デュルケムは社会の複雑化に伴って個人の分業の度合いを強めていくと考えるのですが、女性は個人ではなくあくまで均質的な集団として描かれています。

デュルケムは、男女間の自殺率について以下のような指摘をします。

  1. 男性よりも女性の方が自殺率が低い。
  2. 未婚者よりも既婚者の方が自殺率が低いが、それは女性よりも男性で顕著である。
  3. 既婚者よりも離別者の方が自殺率が高いが、それは男性のみに見られる。

1については、女性は男性に比べて非社会的であるならば、「社会性が足りないために」自己本位的な自殺を選択するのではないかと考えられるのですが、統計の結果はこれを支持しません。
これに対して、デュルケムは2-3の事実から、以下のように考えます。すなわち、本質的に知的で社会的な男性にとっては、社会的な統制が必要である。結婚は社会統制として機能する。したがって、男性においては結婚がもたらす正の効果が大きく、この統制を欠くと、アノミー状態になると。しかし、本質的に非社会的な女性は、社会性よりも性的な欲望という生物学的な動機によって行動するため、女性にとっては結婚は社会統制として機能せず、過度な統制になります。したがって、離婚が厳格に禁止されている地域ほど、女性の自殺率が高いことも説明できます。

3. 実証主義者からの応答(Haralambos and Hoborn 2008より)

  • Halbwachs(1978):相関係数などの手法を使用。宗教よりも都市と地方の差が自殺率の説明に有効。
  • Gibbs and Martin(1964):実証的な姿勢に立ってデュルケムの方法を批判。自殺率が高い地域において統合の欠如を観察することは難しく、別の手法を提案。

4. 解釈主義的アプローチによる批判(Haralambos and Hoborn 2008より)

4.1 自殺の社会的な意味(相互作用論)

  • Douglas(1967):デュルケムが依拠した自殺統計に対する疑問点を提示。統計自体が社会的な構築物であると指摘。社会的に統合されている集団であるほど、当人の自殺を隠す傾向にある。したがって、集団の特徴によって自殺の有無が規定されるのではなく、集団の特徴によって特定の死が自殺かどうか判断される。
  • デュルケムは自殺の意味づけとは関係のない分析をしているが、解釈の際には最終的に意味づけをしている。それらはケーススタディを通じてしかわからない。

4.2 常識的な推論の実践(エスノメソドロジー)

  • Atkinson(1978):検死官(coroner)がある死を自殺と断定するまでのプロセスを分析。検死官達は典型的な自殺像(common sense theory)を持っており、複数の証拠(遺書の存在、死に方(路上での死は自殺とみなされにくいが溺死や首吊り、ガス死、薬物投与などは自殺と見なされやすい)、場所(同じ銃殺でも荒廃した道路脇であれば自殺と見なされやすい。ガス死も窓を閉めていれば自殺と見なされやすい)、これまでの精神疾患の有無と生活状況)から総合的に自殺かどうかを判断する。
  • こうした「自殺らしきもの」に関する理論は社会学者にも見出される。デュルケムが実践しようとした社会学的な客観知は可能なのだろうか。

5. 経済成長は自殺を招くのか?創造的個人主義との関係(Baudelot and Establet 2006)

  • 一般に、経済成長(GDP)に伴って自殺率が高まるとされている。これは本当だろうか?
  • 経済成長著しいインドや中国に関してこれは当てはまりそうだが(第2章)。実際のところ、20世紀のフランスの自殺率は線形的ではない(デュルケムの自殺論の範囲外)。
  • ピケティが作成した長期間のトレンドに耐えられる購買力指標を用いたところ、戦後の急激な購買力の上昇に比べて、自殺率はほとんど変化していない(第3章)。
  • デュルケムが自殺の原因としたような要素(宗教からの離脱、離婚、出生)は経済成長の結果であるが、これらは戦後の経済成長の時期は19世紀ほどの効果を持たなかった。
  • この30年間は個人の能力や資質に基づいて集団を構成しようとする「創造的個人主義」(イングルハート)の価値観が伸長した時代であり、人間は新たな社会性を身につけるようになったため、伝統からの離脱による自殺の効果は低減したのではないか(第4章)。
  • Heliwell (2004)の研究から、社交性、他者への信頼、神への信仰は自殺率を減少させることがわかっている。

6. なぜ共産圏では自殺率が高いのか?(Baudelot and Establet 2006)

  • 旧ソ連圏の自殺率が高いことは知られているが、ソ連の自殺率は記録が残る1925年以前までは世界的に見ても高くなかった。
  • 1960年代までの記録はないが、1965年以降、アメリカやフランス、日本の平均余命が増長したのに対し、ソ連では余命が5歳縮まるという現象が見られた。
  • この背景は、経済の変化に伴って生じやすくなった心臓血管病やがん、アルコール中毒が生じたが、西側諸国ではこれらに対する医療技術が発展していった一方で、ソ連では発展しなかったことが指摘される。
  • 結果として、ソ連では1965年以降死亡リスクの高まりが見られた。これが自殺率の急激な増加と関連している可能性がある。

***自殺論文献***
Atkinson J. M., 1978. Discovering suicide. Studies in the social organization of Sudden death, Londres, Macmillan.
Baudelot, Christian and Roger Establet 2006. Suicide, l'envers de notre monde,Seuil. (=2012, 山下雅之・都村聞人・石井素子訳 『豊かさのなかの自殺』,藤原書店)
(Baudelot, Christian and Roger Establet, Suicide: The hidden side of modernity, Polity Press 2008.)
Douglas J.,1967. The social meanings of suicide, Princeton, Princeton University Press.
Gibbs, J. P., Martin, W. T. 1964. Status integration and suicide. Eugene, OR: University of Oregon.
Giddens, Anthony (ed.), 1971. The sociology of suicide. A selection of readings, Londres, Frank Cass.
Halbwachs, M. 1978. The causes of suicide. (H. Goldblatt, Trans.). New York: The Free Press. (Original work published 1930)
Haralambos, Mike, and Holborn, Martin, 2008, Sociology, 7th edition, Collins. (pp.795-893 Sociology of Suicide)
Helliwell, J. F. 2004. Well-being and social capital: does suicide pose a puzzle?. National Bureau of Economic Research.
Lehmann, J. M. 1995. Durkheim's theories of deviance and suicide: a feminist reconsideration. American Journal of Sociology, 100(4), 904-930.
Lester, D. 1993. The influences of society on suicide. Quality & Quantity, 27(2), 195-200.
Maris, R. W. 1969. Social forces in urban suicide. Dorsey Press.
Maris, W. M., Alan L. Berman, and Morton M. Silverman, 2000. Comprehensive Textbook of Suicidology, Guilford Press.
Pickering, W.S.F. and Geoffrey Walford, 2000. Durkheim's Suicide : a century of research and debate.
Taylor S., 1982. Durkheim and the study of suicide, Londres, Macmillan.
Wray, M., Colen, C., & Pescosolido, B. 2011. The sociology of suicide. Annual Review of Sociology, 37, 505-528.

藤原信行,2012,「自殺動機付与/帰属活動の社会学・序説――デュルケムの拒絶,ダグラスの挫折,アトキンソンの達成を中心に」『現代社会学理論研究』6: 63-75.
宮本孝二,2015「ギデンズのデュルケム研究」『桃山学院大学社会学論集』49(1), 1-26.
中河伸俊,1986,「自殺の社会的意味」仲村祥一編『社会病理学を学ぶ人のために』世界思想社,125-46.
杉尾浩規, 2012,「自殺の人類学に向けて」『年報人類学研究』第 2 号
杉尾浩規, 2013,「自殺と集団本位主義」Annual Papers of the Anthropological Institute Vol.3.
杉尾浩規, 2014, 「デュルケムの自殺定義に関する一考察」Annual Papers of the Anthropological Institute Vol.4
杉尾浩規, 2015, 「アトキンソンの「自殺の社会プロセスモデル」再考」『年報人類学研究』第 5 号
杉尾浩規, 2016, 「資料としての自殺」, 『人類学研究所 研究論集』第 3 号





November 19, 2017

Dataverseプロジェクト

King, G. (2007). An Introduction to the Dataverse Network as an Infrastructure for Data Sharing. Sociological Methods & Research, 36(2), 173-199.

・オリジナルデータから分析結果を再現することは無理
・第三者機関を通じて再現用データを共有するのが合理的
・再現性ポリシーを持ってる雑誌の論文は3倍引用される。
・公的に認知される形で共有データをciteできるのが重要、著者の許可なくデータを利用できるようにするべし。
・ただしある程度の認証は必要
・認証がなくともデータの存在を確かめられることが重要
・データが論文で使用されたものと同じか検証できるようにすること
・以上を将来的に継続すること
・手続きは簡便にすること
・データに法的な保護を与えること

らしいです。

Freese, J. (2007). Replication standards for quantitative social science: Why not sociology?. Sociological Methods & Research, 36(2), 153-172.

アメリカ経済学会は掲載と同時に再現用データとコードを提供することをポリシーとして義務付けているのに対して、アメリカ社会学会はあくまでCode of Ethics(CoE)に規定している倫理的な事項で個人の努力義務。社会学は「個人的な」ポリシーから経済学のような「社会的な」ポリシーに移行するべき。

Freeseは想定されうる反論を6つあげていますが、基本的にどれも再現用データを公開することのデメリットは少なく、むしろメリットの方が大きいことを指摘しています。ただ、2017年時点でアメリカ社会学会はいまだにCoEに調査終了後データを何らかの方法で利用可能にすることが望まれるという点しか書いておらず、再現性については何も言っていないに等しい状況です。

November 15, 2017

博論セミナー

14時50分からゼミで博論セミナーの予行演習。ボスが予想以上にsupportiveで(いつもながらsuggestiveではあるが)逆に拍子抜けしてしまった。使用したいデータの話の中で「〜〜は海外では使えない」と言われて、もしかすると先生の中では私は旅立つ枠として認識されているのではないかとお思ったが特に何も言わなかった。さすがに5年間も指導されていると、何を言わんとしているのかは繰り返し聞かずとも察せられるようになる。 ゼミテンからのコメント。私は「高階層では安定的なライフコース。。。」と安易に使っていて、質問でひとり親を継続している人も「安定」しているのでは、といわれて確かに、と思った。ここでいう安定とは、自分の力では抗しがく、個人の人生に悪影響を及ぼすようなイベントに遭遇するかしないか。では、そういうイベントで調査でわかるモノは何だろう。アメリカではそういうイベントが多そうだなという雑感(evictionとか貧困とか)。 自分が社会学と家族人口学の間の研究をしているのだと理解してから、初めて関心を伝える。私の理解では、家族社会学というのは、結局のところ家族を制度として見たときに、その制度的な様相が変わっているのか、変わっていないのか、変わっているとすればそれはなぜなのかを研究しているのだと理解している。例えば、家族の個人化とは、家族がその制度的な要件としていた現象(成員間のインタラクションや情緒的な繋がり)が脱制度化する過程なのではないだろうか。 そこで、未婚者が増えるというのは、人口学的な側面の話である。例えば、結婚していても、家族的な紐帯が何かに代替されていたら、それは脱家族化なのではないだろうか。 昔は、子どもに対する規範や、イエの話にも関心はあったが、それはあくまで関心というレベルで、端的に何が見たいのかと言われたが、ライフコース上のイベントによって個人がどのような格差に直面するのか、それは言い換えれば人口学的な現象のアウトカムである。ところどころに階層論的な(あくまで「的な」であって、私は社会階層自体を理論化したり、階層構造自体を特定することを生業としているわけではない。あくまでユーザーである。)視点はあるが、それはアメリカの家族人口学の中ではよくあることだろう。少しずつ家族社会学に対する距離感を言語化できているので、もう少し頑張りたい。

November 13, 2017

TAセミナー

今学期から弊研究室の開講する社会学概論のTAをしていまして、といっても概論自体ではなく別の日にTAセミナーという(これまた教員が自分の研究を紹介する概論と全く異なり)社会学の古典を読む(読まされる?)ゼミ形式の授業を担当しているのですが、これが意外と楽しいのです。

内定生向けの授業で、50人ちょっとの内定生+αが4つの班に分かれ、各班にTAがついて一緒に文献を読むのですが、目的は主として(1)社会学の古典(デュルケム、ウェーバー)に触れる(2)ゼミ形式の授業に慣れる、に加えて(3)博士課程の学生に教える機会を提供する、の三つなのかなと思います。受講生にとっては、なぜ博士課程の学生と一緒に分厚い古典を読まされなきゃいけないのか、という意に介せない部分もあろう授業なのですが、みなさん真面目で出席してくれます。

僕自身、学部生の時にTAセミナーを経験しているので、実際に教える側になってみると変な気分だったことはいうまでもありません。不思議と面白いのは、役割を与えられると、人間それっぽく話そうとするところです。受講生は先生だと思って自分を見てくるので、教室入った途端「先生-生徒」図式の状況に投げ込まれてしまい、最初は挙動不審になります。それでも、社会学はウェーバーとデュルケムを祖先とする人の集まりくらいにしか定義できないので、、、とか冗談にもならないことを言いながら文献の担当者を決めて、レジュメはおおよそこんな感じでまとめて、報告15分議論15分目安でいきましょう、などと進めて、最後に「ではまた来週」という頃には本人も先生気取りになっているから怖いものです。

最初は新しい古典から読もうということで、巨人二人の前にマートンの「社会理論と社会構造」から2-3章選んで読んだのですが、マートンそんなこと言ってたなあと思い出しながら、学生さんたちも面白いことを指摘してくれます。予言の自己成就は銀行取り付け騒ぎの例で知られますが、マートンは予言の自己成就の章の後半で、アメリカの人種差別の話をこの理論で説明しようとしています。ただ、取り付け騒ぎが発生するという「イベント」と、差別が持続的に維持される「状態」を同じ理論で説明するにはやはり無理があるわけで、学生たちからも後半の箇所については色々と批判がありました。特に内集団/外集団の境界や何が「よろしき」行為なのかを「誰が」決めるのかについてマートンは特に何も言っておらず、社会の外側に立ちながらエレガントな説明をしていることに気づかされます。マートンは様々な社会現象をシンプルな理論で説明しようとする志向性がとびきり強いと思いますが、それが彼の魅力であると同時に、社会の外側に立って物事観察してるのって本当に社会学者なの?という疑問符がつくわけです。

もう一つ、ゼミで読んだのは「社会学理論の経験的調査に対する意義」という章で、事後解釈の問題点や、一般的な社会学的方針など、個人的には現在の経験的な論文においてもマートンの説教はありがたいなというところがツボだったのですが、先の章にも見られるマートンの「中範囲の理論」的な立場が、学生には科学主義的な立場と思われたらしく、社会学にもそういう考えで研究する人って多いんですかという質問が来て、少し立ち止まりました。書店にいくとO澤真幸やハーバーマスの本が並んでいるのですが、彼らのような人たちがグランド・セオリーなのですか?と聞かれ、んー、と考え込んでしまう笑

書店に並んでいるかどうかはともかく、学生さんにとっての「面白い」社会学は見田宗介のまなざしの地獄であったり、いわゆる「常識を疑う」系の本だったりらしく、それはそれとして良いとは思うのですが、そういうイメージを社会学に持たれると、確かにマートンは少し意外に映るのかなと思いました。分析社会学の話も最後にちらっとしたのですが、ほぼ無反応...

とはいえ、何が面白かったかというと、普段の私が当たり前だと思っているマートン観の影で棚上げにされている部分を学生さんたちがきちんと批判的に読んでっきてくれて、それを聞かされて、ゼミでこういう議論するのずいぶん久しぶりだなという感慨を持った点でした。批判的に読む、と言うことは簡単ですが、大学院のゼミにもなると比較的理論的,方法的に近い人同士で固まるので、そういうのをカッコに入れた上で本を読んで議論してみよう、という状況にはもしかするとなりにくいのかなと思いました。

November 5, 2017

国際学会に参加すること、参加し続けることの大切さ

2017年11月に、南アフリカで開催されたIUSSP(国際人口学会)に参加してきました。以下は、その時の記録です。

---
今まで、日本で開催された国際学会(ISAやAAS)の見たことはあったが、海外で開かれる国際学会に参加するのは初めてだった。先輩の話も交えながら、国際学会に行くことは必要なのか、少し考えてみた。

・普通に楽しい
今回参加した国際人口学会(IUSSP)サイズになると、アブストの数で数千になり、その中に必ず自分と関心の近い研究者の研究があるはず。普段、国内でマイノリティだと思っている研究領域の人こそ、国際学会に行ってみると、自分だけではないという安心感(逆にライバル意識も芽生えるかも?)と、こういうアプローチもあるのかと、学べることができる。興味関心が近い研究をたくさん目にすることで、だいぶ気分転換になる。

・研究者と直接あって話せる
これは国内の学会でも同じなことだが、国際学会でしか会うことのできない類の人はいる。今回、自分は論文でよく引用しているvan Bavelのグループの研究者とたくさん会うことができた。そこで、Agent Based Modelingの方法について質問したり、似たような関心で論文を書いたと告げるとフルペーパーを読んでみるよ、となる。
後の点にも繋がるが、いくら良い研究をしたからといって、その論文が読まれなければ引用もされない。学会は自分の研究を売る場でもある。だからこそ、Abstractだけではなく、学会時にフルペーパーを持って行くことが必要なのだろう。

・継続的に参加することでメリットは増す
以上のような分野の近い人同士による密なコミュニケーションを続けるためには学会に参加し続けなくてはいけない。IPCも2回以上参加する人はだいぶ少ないと伺った。地理的に近いならまだしも、普段はメールベースでやり取りすることになる人とは、こうした学会やセミナーを通じて継続的に顔を合わせて、自分の研究を忘れないでもらう。そういうプロセスが研究を海外の人に読んでもらうためには必要だろうと思った。僕はヨーロッパの人口学研究の人に読んでもらいたい研究があるので、IUSSPは適切な場だと思う。これからも参加し続けたい。

IUSSPにて報告

11月2日から3日まで南アフリカ・ケープタウンで開催されたIUSSP-IPC2017に参加してきた。本来は大会初日から参加したかったのだが、11月1日に日本で外せない予定が入ってしまい、結果的に1泊4日の弾丸日程となってしまった。

短い日程だったが、初めての人口学の国際学会参加となり、得られるものは少なくなかった。以下に大まかな出張の記録を残したい。

11月1日
午後6時25分に成田空港を出発、まず香港へ。トランジットまでの時間がわずかだったこともあり、到着後すぐに係りの人が案内してくれた。次にヨハネスブルクまでの飛行機に乗る。13時間かけてのフライトは久しぶりでだいぶ疲れた。到着時には現地時間午前6時となっており、それまで映画をみたり、スライドの用意を進めたり。

到着後、最後に南アフリカ航空の飛行機でケープタウンへ。幸運なことに全てが予定通り進み、予定通り(?)報告4時間前の11時に到着。30分間隔のシャトルバスのタイミングが悪かったので、タクシーを呼ぶ。若干不安だったが、240ランドで無事到着。Registrationを済ませ(この日に登録する人は珍しいので若干怪しまれた)、まず開催中だったポスターセッションへ。van Bavelの研究グループの人と少し話して、会場を移そうかと思った時にまっぴーさんとすれ違う。お時間取っていただいて、留学などについて色々と相談。

そのあと、Perspectives on fertility transitionsのセッションに参加。いきなりPeter McDonald が登場して驚く。ギデンズの構造化理論を応用しながら、出生率低下の側面におけるagencyとしての女性の役割の重要性を指摘していた。3番目の報告者は、ラテンアメリカを対象にブルデュー階級論を踏まえた階級分類を試みた上で、それらの階級が出生力格差に影響するかを検討していた。人口学の研究にも以上のような社会学の理論が生かされているのが印象的だった。 ひょんなことからポスターセッションでコンゴ人とすれ違う。

中座して、報告スライドをアップロードし、会場へ。部会はEducational expansion, conjugal dynamics and fertilityで、比較的問題意識が近い人の集まりでよかった。

一人目のAlessandra Trimarchiはイタリアで学位を取ったあと、van Bavelのチームで研究をしている。学歴結合のほか、稼得能力あるいは失業が出生に与える影響をヨーロッパ諸国を対象に検討しており、妻下降婚カップルの出生率が低いことが報告された。

二人目のAlbert Esteve Palosはラテンアメリカにおける安定性パラドックス(女性の高学歴化の一方で結婚や出産年齢に変化がない現象)の背景を検討しており、特に教育拡大の役割に焦点を当てていた。

三人目はChristine Schnorの報告で、フィンランドにおける非婚カップルの増加要因を分解していた。結果としては、非婚カップルになりやすい低学歴層が減少しており、要因としては中学歴層の効果が大きいことがわかった。

四人目は私の報告。あまり英語報告の練習もできず、ほぼぶっつけ本番、かつ初めての国際学会だったプレッシャーもあり、拙い英語だったのが反省。ひとまず言ってることはわかってもらった。ただ、やはりヨーロッパの人が多い中で報告すると、質問されにくいのかなと思ってしまう。別に外の目を気にして報告する必要もないが、今度はオーディエンスの性格も(わかれば)踏まえながら報告の用意をしたい。報告自体に対してもらったコメントはあとで反省する。

終了後、Debateセッションへ。このセッションはホールで行われ、ある特定のテーマに沿ってパネリストが賛成・反対の意見を述べるというもの。この日のテーマはIs low fertility bad? というもので、私であれば「子どもが減って何が悪いか!?」を思い浮かべてしまうところだが、意外とBadと考える人がいるのが興味深かった。中でもLow fertilityとSuper low fertilityは異なるとした上で、後者はやはり社会の持続性の観点から問題だろうという話には納得した。問題は、結局のところ何が低出生なのかを定義すること自体が政治的なマターであり、社会的に構築されるものだという点なのだろう(without thinking what makes good or bad we tend to come up with indicator to say which is good or bad and high or low)。「科学的な」人口研究を謳う本学会で個人的な事情も混ぜながら会場から意見が集められたのは印象的だった。



Debate終了後、事前に登録が必要なDinnerというイベントがあり参加してみた。ホールを貸し切って、下の写真のようにテーブルに座る形式だった。今回のIPCの運営しているStats SA(南アフリカ統計局)やIUSSPの会長の講演のあと、Yvonne Chaka Chakaさんによるリサイタルがあった。この辺りはさすがに豪華といった感じ。途中で抜けて、雨の中、滞在先のホテルに向かう。


11月2日
7時前に起床して、ホテルをチェックアウト、朝食を食べようと思ったがホテルの朝食が高すぎたのでひとまず会場のカフェに。まっぴーさんがおり、また話を伺う、しまいには朝食までご馳走になってしまい頭が上がらない。

午前は一つセッションに参加。Life course trajectories in formation and dissolution of families and householdsというもので、昨日知り合ったAndre Growと報告者だったSchnorの二人がチェアだった。基本的には系列分析や生命表を使ってライフコースの軌跡(trajectory)を検討するというもの。特に面白かったのは写真に撮ったSergi VidalのPartnership and parenthood patterns after divorceという報告。離婚後のライフコースは多様化している。例えばシングルを継続する場合もあれば、再婚する場合もある。子供がいる場合もあればいない場合もある。共同親権をとることもある。そういう多様な離婚後のライフコースを系列分析によって分類したあと、いくつかのライフコースをクラスターにまとめ、規定要因を検討していた。子どもの存在はどのタイプの軌跡にもなりにくい(結婚にとどまりやすい)などが知見としてあがっていた。



セッションはここまで。ポスターセッションの会場にいき、Growと人口学におけるABMのモデリングについてアドバイスを受けた。これはかなりpracticalなもので、実際に学会で知り合って突っ込んだ話ができる類のものだった。途中で引用していたNomesと会うこともでき、van Bavelに会うことは叶わなかったが、おおよそ会いたい人と話したいことが話せた2日間だった。

午後2時の飛行機でヨハネスブルクに向かい、そのあと香港、成田と向かい帰国。1泊4日のハードスケジュールだったが、なんとか出張を終えることができた。今回の出張は、日本人口学会の推薦を受けて、日本経済学会連合の国際学会渡航支援によって実現したものであった。支援がなければ報告することは叶わなかったので、本当に感謝している。